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第九章

2023年 東京

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一週間後、タツヤから連絡が入った。マーティンと話せることになったというのだ。彼は、アメリカの人気歌手ハーヴェイ・カイリーのバックバンドとして来日しており、東京公演のリハーサル前の10分程度なら時間を作れるという。

その当日、葵と空、海の3人は、新宿のヒルトン東京のロビーにいた。広々としたロビーには、観光客やビジネスマンが行き交い、静かなピアノの音色が心地よく響いていた。アキラはまだ小学生なので、今日は留守番だ。

「ようやくここまで来た…。いよいよ『ドラゴンタトゥーズ』の男の過去を知ることができるんだな…」
「俺、めちゃくちゃ緊張してきた…」
海は、落ち着かない様子で足を揺らしていた。葵は腕時計をちらりと見た。約束の午後3時を少し過ぎた頃、ホテルのエントランスからタツヤとベージュのジャケットを着た中年の男性が近づいてきた。

「どうも、『ドラムマガジン』の編集長、高橋です。タツヤさんから話は聞いています。『ドラゴンタトゥーズ』のことを知りたいんですよね?」
高橋と名乗った男性は、葵に名刺を差し出した。

「実は、私も昔のファンでしてね。解散は本当に残念でした。いつか彼らの軌跡を記事にしたいと思ってるんです。しかし、今日は時間が限られています。マーティンの部屋へ行きましょう。」

4人はエレベーターに乗り、高橋が38階のボタンを押した。

「3801…ここですね。」
高橋がブザーを押すと、中から筋骨隆々のアメリカ人が現れた。マーティンだ。彼は顎をしゃくって「入れ」と無言で合図を送り、皆を部屋の中へ導いた。

(なんて広い部屋だ…)
葵と空は、その豪華さに思わず息を呑んだ。大きなガラス窓からは、新宿の高層ビル群が一望できた。最後に部屋に入ってきた葵に気づいたマーティンは、驚いたように目を見張った。そして、英語でこう呟いた。

「なるほど…『アレンの息子』か。最初、高橋サンから『アレンの息子』が話したいって聞いたときはてっきりイタズラかと思ったけど、どうやら本当みたいだな」

4人は自己紹介をし、マーティンと握手を交わした。感激した海は、「もう手を洗えないな…」と小声で呟いた。

高橋が英語で伝える。
「彼らは、ドラゴンタトゥーズの元メンバー、ディーン坂本の行方を追っています。彼は現在、殺人容疑がかけられています。何でもいいので、マーティンさんが知っていることを教えてもらえませんか?」

マーティンは少し考えながら、バカラのグラスにスコッチを注ぎ、一口飲んだ。そして、静かに語り始めた。

「そうだな…どこから話そうか。ディーンやアレンとはバンドが解散してから15年近く会ってないんだが…まず、俺がこのバンドに入るきっかけから話すよ」

マーティンはバカラのグラスにスコッチウイスキーを注ぎ、一口飲んだ。そして、静かに語り始めた。

「あの頃…俺はまだ高校生だったが、本気で音楽をやりたいと考えていて、大学に進学する気はなかった。その頃の俺は何の根拠もない希望に満ちていた。
当時同じハイスクールで一緒にバンドをやっていた奴らは大学進学が決まっていて、これからは音楽を続けられないと言っていたから、俺は新しい仲間を探しているところだった。
そんなある日、ハイスクールの友人が「知り合いのバンドがドラムを探している」と教えてくれた。友人に案内されて訪れたのは、ブルックリンのウィリアムズバーグにある古いアパートの一室だった。ベルを押すと、出てきたのはアレンだった。
初めて彼を見た瞬間、俺は息を呑んだ。ギリシャ神話の神が現実に存在するなら、まさにこんな感じだろう。流れるような金髪に、宝石のような水色の目、彫刻のような顔立ち…。彼の存在感は圧倒的だった。俺はしばし見惚れてしまった」
マーティンは一息つき、葵を見つめた。
「そう、まさしく今の君とそっくりだったよ」
葵は緊張してごくりと唾を飲み込んだ。

「アレンの案内で部屋に入ると、ソファがテーブルを囲むように配置され、その上に楽器が無造作に転がっていた。ソファには2人の男が少し間を空けて座っていた。どちらもアジア系の顔立ちだった。
『俺はディーンだ。ギターを弾いてる。よろしくな』ディーンと名乗った男は、丸メガネをかけ、ウェーブがかった黒髪の、背の高い男だった。
もう一人の男もゆっくりと立ち上がり、俺に握手を求めた。『俺はチャン・ウェン。チャンでいい。キーボードを担当してる。曲はだいたい俺が書いてるんだ』チャンは豊かな黒髪を肩まで伸ばし、それを後ろで一つに束ねていた。彼もまた、東洋風の魅力を持つイケメンだった。
『さて…まずは俺たちの曲を聞いてもらって…それでマーティンに一緒にやるか決めてもらおうか!』
アレンが言うと、チャンはソファの後ろに置いてあるアップライトピアノに向かい、ディーンは床に転がっていたアコースティックギターを無造作に拾い上げた。そしてアレンがアカペラで切ないメロディーを歌い始め、チャンのピアノがそれに加わった。
アレンのかすれた高音ボーカルと、切なさに満ちたメロディーに俺は心を揺さぶられ、気がつけば涙を流していた。
『これは『keep it real』って曲なんだ。どんなときでも、自分らしく生きるっていうメッセージを込めてるんだ。貧しかった俺らには、音楽が…音楽だけが明日への希望だった。俺たちは絶対に音楽で有名になって成功する!一緒に夢を叶えないか、マーティン』
アレンがそう言った瞬間、俺はこのバンドと共に歩むことを決意した。ハイスクールを卒業した俺は、彼らのフラットに転がり込んだ。ブルックリンのフラットは、古くて狭いが、共同生活にはもってこいだった。

『マーティンさえ良ければ、一緒に住まないか?生活を共にすることが、いい音楽作りにも繋がると思うんだ』とアレンが提案してきた。ニューヨークの家賃は高かったので、ルームシェアはまさに渡りに船だった。
俺たちは、ソファに囲まれたリビングを中心に、各自の部屋を寝室として使い、曲作りに没頭した。チャンが新しい曲を書いたら、まずピアノで弾いて皆でアイディアを出し合い、曲を完成させていった。

それから俺たちは『ドラゴンタトゥーズ』として活動を始め、ニューヨークのライブハウスでじわじわと人気を集めていった。

同居を始めてしばらくすると、このバンドがどんな風に機能しているかが次第にわかってきた。アレンのわがままで天然な性格に、ディーンとチャン、それに俺の3人が振り回される構図が自然と出来上がっていたのだ。

ディーンは酒好きで冗談をよく言う明るい男だが、チャンはその対極にある。彼は寡黙で落ち着いており、いつもニコニコと微笑んでいる。その笑顔に、俺はしばしば心が安らぐのを感じた。

ある日、チャンと二人だけでじっくり話す機会があった。それは、俺たちがまだ音楽だけでは生活できず、日々の暮らしを支えるためにその場しのぎの仕事をこなしていた頃のことだった。チャンはピアノの腕が抜群で、他のアーティストのレコーディングにも参加していたようだった。

その日、アレンとディーンが朝から二人で仕事に出かけ、フラットには俺とチャンだけが残っていた。俺は部屋でしばらくドラムの練習をしていたが、休憩を取ろうとリビングに出ると、チャンが一人でレコードを聴いていた。彼はソファに腰掛け、レコードジャケットを眺めながら音楽に没頭していた。

『何を聴いてるんだ?』俺はチャンの隣に座り、初めて耳にする曲に耳を傾けた。

チャンはレコードジャケットを俺に差し出した。それには、握手を交わす二人の男が描かれていたが、右側の男の体からは炎が上がっていた。不気味な印象を与える写真だった。

「これはピンク・フロイドの『Wish You Were Here(あなたにここにいてほしい)』さ。俺が一番好きなアルバムなんだ。」
チャンは静かに答えた。

「ああ、ピンク・フロイドか。俺は『狂気(The Dark Side of the Moon)』しか聴いたことがないな。」

「そうか。俺はシド・バレットが好きでね…彼はドラッグ中毒で精神を病んで、『狂気』がヒットする前にバンドを脱退しちゃったんだ。この『Wish You Were Here』のタイトルは、ピンク・フロイドの他のメンバーがシドに向けたメッセージだったんじゃないかって思ってる。彼らがどんな気持ちでこの曲を作ったのか…その思いを考えると、胸が締めつけられるよ。」

俺はシド・バレットについてあまり知らなかったし、70年代のプログレッシブ・ロックやサイケデリック・ロックにも馴染みがなかった。チャンは音楽に対して非常に深い知識を持っていて、特に60年代から70年代の音楽に強く影響を受けているようだった。

「俺とアレンとディーンは、子供の頃からの友人なんだ。俺たちはすごく貧しくて、日々の生活もままならなかった。それでも、音楽で成功するという夢があったから、ここまでやって来られたんだ。もう少しでその夢に手が届きそうなんだよ。これからもずっと一緒にやっていけたらいいな。」
チャンは穏やかな笑顔を浮かべて言った。

彼の声とその穏やかな雰囲気は、じんわりと心に平穏をもたらしてくれた。表向きには『ドラゴンタトゥーズ』はアレンのバンドに見えるかもしれないが、実際のところ、このバンドの核となっているのはチャンだと俺は感じていた。もしチャンがいなければ、このバンドはきっと続かないだろう。

半年ほど経った頃、俺はアレンの部屋から聞こえてくる話し声に気づき、少し開いていた扉の隙間から何気なく中を覗いてしまった。そこには、チャンの首に手を回して激しくキスをしているアレンの姿があった。状況を理解するのに少し時間がかかったが、俺はその場からそっと離れ、キッチンで冷たい水を一杯飲んだ。

(落ち着け…冷静になれ…)

どう見てもあれは恋人同士のアレだった。アレンとチャンは…そういう関係だったのか?ニューヨークでは男同士のカップルは珍しくない。だが、同じバンドメンバーなら、いずれは知るべきことだった。ディーンはこのことを知っているのだろうか?あとでディーンと二人きりになった時に聞いてみよう。

その夜、ディーンにさりげなく尋ねてみた。
「ああ、アレンとチャンは恋人同士だよ。」
ディーンはあっさりと答えた。

「そう…だったのか。」

「まあ、だが二人ともバイセクシャルだと思う。アレンは女の子にもモテるし、チャンは…あんまり女の子と話してるところは見たことがないな…。うん、でも二人はただの恋人というよりも、もっと深いところでつながっているんだと思う。お互いがお互いの半身で、どちらが欠けてもダメなんだ。俺はあいつらと幼馴染だけど、あの二人の間には俺が入り込めない特別な絆があるんだよな…」
ディーンは寂しそうに笑った。

その時、俺はもしかしたらディーンもアレンのことが好きだったのかもしれないと思った。

『ドラゴンタトゥーズ』が本格的に活動を始めてから3年が経ち、俺たちはニューヨークでかなりの人気を得ていた。特にアレンの熱狂的なファンは、ライブハウスで出待ちをしたり、追っかけをしたりすることも増えてきた。

そしてついに、俺たちのファーストアルバムがリリースされ、その発表記念ライブを老舗ライブハウス、CBGBで行うことが決まったんだ。俺たちはまさにスターダムにのし上がろうとしていた。

CBGBでの最高のライブを終えた後、俺たちは興奮冷めやらぬままクラブに行き、飲み直した。アレンはかなり酔っていて、もしかしたら少しキマっていたのかもしれない。チャンはそんなアレンの様子に呆れつつも、心配していた。

「飲みすぎるなよ。」
チャンがアレンに注意した。

「うん…ちょっとトイレに行ってくる。」
アレンはそう言って立ち上がったが、そのまま戻ってこなかった。俺もその夜、クラブで出会ったかわいい女の子と朝まで一緒だったので、アレンのことはそれで忘れてしまった。

次の日、全員が死んだように眠り込んでいた。俺が目を覚ましたのは夕方近くだったが、誰かの携帯電話の音が耳に入った。

「…もしもし…はい…ドラゴンタトゥーズです…えっ?本当ですか?!」
アレンが寝起きの声で対応していたが、次第にその声が高まっていった。

電話を切ったアレンは、全員に向かって大声で叫んだ。「俺たちの曲が全米チャートでNo.1になったぞ!」

俺たちは飛び起き、歓声を上げた。そう、それが俺の人生で最高の瞬間だった。

それからは怒涛の日々が始まった。テレビの取材、雑誌のインタビュー、CM、プロモーション…。しかし、チャンはそういったメディア露出を好まず、バンドとしての取材には応じたが、個人としての仕事はほとんど断っていた。

2006年12月のあの日…俺たち全員が取材などで忙しくしている中、チャンは「セントラルパークに散歩に行く」と言ってフラットを出た。
それがチャンを見た最後の姿だった。
夕方、ラジオの仕事を終えた俺がタクシーで帰宅していると、ディーンから着信があった。

「…大変なことが起きた。チャンが何者かに刺された。今、病院で手術中だが、かなり厳しい状況らしい。アレンはもう取り乱して話ができる状態じゃないんだ。とにかくすぐ病院に来てくれ。」

俺はすぐにタクシーの運転手に、ディーンが伝えた病院に向かうよう指示をした。

(頼む…助かってくれ。)俺は神に祈った。

病院に到着した時、すでに手術室の扉は開いていた。白い布を被せられた男が横たわっている。その横には、茫然自失で床に座り込んでいるアレンと、彼の肩に手を置いて寄り添っているディーンの姿があった…。

チャンは、セントラルパークで一人でいるところを刺されたんだ。しかも、皮肉なことにジョン・レノンの記念碑『ストロベリー・フィールズ』の真上でさ。犯人は、まるで彼の心臓を狙い澄ましたように、正面からナイフを深々と突き立てた。これは計画的な犯行だったに違いない。

目撃者の話では、犯人は黒いフードを深く被った小柄な男だったが、いまだに捕まっていない。噂では、ドラゴンタトゥーズの成功を妬んだ若いミュージシャンが犯人かもしれないって言われていたけど、警察は結局、今まで何の手がかりも掴めていないんだ。

それからの俺たちは、まさに『転落』の一言に尽きる。ジェットコースターが急降下するように、俺たちの人生は真っ逆さまに落ちていった。特にアレンは完全に壊れてしまった。彼にとって、チャンの犯人を見つけ出し復讐することだけが生きる目的になってしまったんだ。

アレンはその過程でドラッグに溺れ、まだ20歳そこそこだったのに、破滅的な道を突き進んでいった。ディーンはそんなアレンを必死に支えようとしたが、いつしか彼自身もアレンと共にドラッグをやるようになり、ついにはアレンのためにヤクの売人にまで手を染めるようになってしまった。

もう、俺たちには音楽なんて作れなかった。バンドは自然と解散した。俺が予測した通り、このバンドはチャンなしでは存在し続けることができなかったんだ。

もう、アレンとディーンと一緒にいることはできなかった。俺には俺の人生があったからな。だから、自分の荷物をまとめて、彼らのフラットを去った。それから、俺はドラマーとして今の地位を築いてきた。でも、正直に言うと、『ドラゴンタトゥーズ』で活動していた頃が、ミュージシャンとして一番楽しかった時期だよ。本当に最高の日々だった。チャンの死があまりにも悔やまれるけどな。

それ以来、アレンやディーンとは全然連絡を取っていない。だから俺は、彼らのその後のことはほとんど知らないんだ。アレンがドラッグで逮捕されたという噂は聞いたけど、ディーンがそれからどうなったかはわからなかった。まさか日本で別人になってるとはな…」

マーティンは話を一旦区切ると、タバコを取り出し、深く息を吸い込んで紫煙を燻らせた。
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