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第二章
2023年 東京
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4月のある日曜日の午後、葵は下北沢の古着屋での買い物を終え、満足そうに街を歩いていた。春の夕暮れ、古い商店街の狭い路地は薄暗くなり始め、その独特のノスタルジックな雰囲気が、葵の心を穏やかに包んでいた。手に入れたお気に入りのバンドTシャツを手に、彼は気分良く足を進めた。
小学校から続けていたサッカーを高校に入ってからやめたことで、土日の予定がぽっかりと空いてしまった葵は、最近はよく下北沢に足を運んでいた。
下北沢の街は、東京の喧騒から少し離れた場所にありながら、独特の活気と創造性に満ちた場所だった。古びたビルの一階には、ヴィンテージショップが所狭しと並び、その向かいには、手作り感溢れるカフェや、壁一面にレコードが並ぶ音楽ショップが佇んでいる。
そんな中、葵の目に一軒の寂れたライブハウスが映り込んだ。看板には「ライブハウス ドラゴン」と書かれていたが、その文字は色褪せ、かすれて読みにくくなっていた。
「ドラゴンか…」
葵は足を止め、そのライブハウスをじっと見つめた。地下に降りる階段への入り口には手書きの貼り紙があり、雑に書かれた「急募!バイト募集」の文字が目に留まった。その手作り感が、葵の興味をさらに引き立てた。
「この場所、何か面白そうだな…」
そう思い、彼は迷うことなく古びた階段を降りていった。地下へと続く階段を下り、重い防音ドアの前に立つ。深呼吸を一つしてから、硬いノブを押し下げると、ドアがぎしぎしと音を立てて開いた。中に入ると、薄暗い照明とタバコの煙が漂い、古びたステージには年代物の楽器が静かに佇んでいた。椅子やテーブルも年季が入っており、まるで時間が止まったかのような、懐かしい雰囲気が漂っていた。
「いらっしゃい」
奥から低く心地よい声が響いた。その声にハッとした葵が振り向くと、そこには冴えない中年の男性が立っていた。彼はジョン・レノン風の丸メガネをかけ、無精ひげを生やした長髪の男だった。
「すみません、外のバイト募集の貼り紙を見たんですけど…」
葵は少し緊張しながら話しかけた。彼の顔を見ると、その男性は驚いたように目を見開いた。
「あの…俺の顔、変ですか?」
葵が怪訝な顔で問いかけると、男性はハッとして笑った。
「あー、いやいや、キミがあまりにもイケメンだから、見とれてしまったよ。ハハッ! そうそう、バイトね!いやぁ~助かるよ。実は先週バイトの子が急に来なくなって、人手が足りなくてすごく困ってたんだ。君、名前は?」
「橘 葵です。」
「橘 葵くんね。俺はこのライブハウスの店長、岩田龍二だ。よろしく!このライブハウス…ボロいだろー?あまりお客も入らなくて、バイト代も安いんだけど…本当にこんなとこでバイトしたいのかい?それに君、随分若く見えるけど…何歳なんだ?」
「俺…16歳です。まだ高校一年生で…」
「えっ、高校生かい⁈ そっか、高校生ねぇ…」
「高校生じゃダメですか?」
「んー…ダメってことはないけど、保護者の許可が必要だからね。」
龍二はカウンターの下から書類を取り出して、葵に手渡した。
「これは履歴書。簡単でいいよ。それから、保護者のサインと印鑑が必要な書類もある。給与振込用の銀行口座のコピーも今度持ってきてくれ。ここはライブハウスだけど、ライブがないときはカフェやバーをやっているからね。」
書類を受け取った葵は、嬉しそうに笑顔を見せた。
「ありがとうございます!バイト代が安くても…全然構わないです!俺、音楽が大好きで…ライブハウスでバイトするのが夢だったんです。俺の母親がジャズシンガーなので、よくライブハウスで歌ってて…。俺は正直…ジャズよりもロックの方が好きなんですけど…」
「へぇ、母親がジャズシンガーか!それはすごいな。俺も実は長いことバンドをやっててさ、たまにここでライブもやるんだ。」
龍二は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで葵の前に置いた。
「あ、ありがとうございます。」
葵は麦茶を飲みながら、龍二の姿をじっと見つめた。
(この人も音楽をやってるんだ…なんだかジョン・レノンみたいだけど…ビートルズのコピーバンドとかやってるのかな。)
「音楽で食べていくってのは、なかなか難しいもんだよ。若い頃は夢を追ってただけだったけど、この歳になるといろいろ考えちゃうけどな。あ、タバコ吸っても大丈夫?」
龍二はすでにポケットからタバコを取り出し、口にくわえていたが、葵に気を使って尋ねた。
「あ、全然大丈夫です。」
龍二はタバコに火をつけ、一息つくと、煙をゆっくりと吐き出した。
「オッサンの愚痴を聞いてくれてありがとな。なんだか、キミの顔を見たら昔のことを思い出しちゃって…。それで、いつから来れそうだ?土曜日の16時くらいに来てもらえると助かるんだが。」
「はいっ!大丈夫です!ぜひ、よろしくお願いします!」
葵は勢いよく頭を下げた。これが、葵がライブハウス『ドラゴン』でバイトを始めるきっかけとなった出来事だった。
(あの時は、あの優しそうな店長があんな激しいライブをするなんて思ってもなかったんだよなぁ…)
葵はカウンターでコップを拭きながら、隣でレジのお金を数えている龍二をチラリと見た。
「よし、そろそろ開店だな。葵くん、入り口の行灯を出してきてくれ。」
「はい!」
葵は古い階段を上がり、『ライブハウス ドラゴン』と書かれた行灯にコンセントを差し込んだ。
「うぃーっす。」
後ろから声をかけられて振り返ると、そこには龍二のバンドメンバー、光輝、タツヤ、雄介の3人が立っていた。ギターの光輝は、肩までの長髪で、190cm近いモデルのような体型のイケメン。ドラムのタツヤは、キャップを常に被っている少し太り気味の笑顔が絶えない男。ベースの雄介は、ぼさぼさの黒髪にメガネをかけ、無口でどこかもっさりとした印象の男だ。だが、このバラバラな組み合わせが、ライブとなると驚くほどに調和するから不思議である。
「光輝さん、タツヤさん、雄介さん、いらっしゃい!」
葵は笑顔で挨拶した。すっかり顔馴染みの仲間だ。タツヤは葵の肩に腕をかけ、冗談めかして言った。
「相変わらずイケメンだね~、葵ちゃん。君のおかげで店に来る客が倍増したって、龍二が喜んでたよ。」
「お店に貢献できて何よりです。」
「バイト代、上げてもらえよ。」
ガヤガヤと皆で階段を降りていくと、龍二が迎えの言葉を発した。
「いらっしゃ…って、お前らかよ!」
営業スマイルを浮かべていた龍二が、メンバーたちだと分かると、急にぞんざいな口調になった。
「お客になんて態度だ、この店は!」
光輝が悪態をつきながらカウンターの椅子に座った。
(皆、本当に仲が良くていいなぁ…)
龍二が出した酒を飲みながら、賑やかに冗談を飛ばす4人を、葵は微笑ましく見つめた。
今日はまた、龍二たちのライブがあるので、バンドメンバーが早めに入ってリハーサルをする日だった。空と海もあとでライブを観に来ると言っていた。
「あの…俺も友達とバンドを始めるんですけど、よかったらギターを教えてください!ピアノは小さい頃からやってるんですが、ギターは初心者で…。」
葵は今がチャンスとばかりに龍二に切り出した。
「おおっ!いいじゃないか!高校生バンド!」
タツヤが横から口を挟んだ。
「全然いいよ。開店前の時間にちょっと教えてあげるよ。使わないギターもここにあるし、あげるよ。」
「えっ、いいんですか!?ありがとうございます!」
「俺も高校生くらいの頃、友達とバンドをやってたな。あの頃はまさに青春だったよ。」
「もしかして、光輝さんやタツヤさん、雄介さんは龍二さんと高校生の頃からの仲間なんですか?」
葵がタツヤたち3人に目を向けると、タツヤが答えた。
「いやいや、俺たちは雄介以外はみんな地方出身だからさ、東京に出てきてから知り合ったんだよ。下北で出会った頃には、龍二はもう結婚してて、子供もいたし…10年前くらいかな。」
「龍二さん、お子さんがいるんですね…。」
龍二はスマホの待受画像を葵に見せて、ニコニコしなかまら答えた。
「ああ。小学5年生の男の子。アキラっていうんだ。そうそう、アキラはサッカーやっててさ。葵くん、良かったらギターを教える代わりにアキラにサッカーを教えてやってよ。」
「え…はいっ、喜んで!」
(店長、奥さんと子供がいるんだ…そりゃそうだよな。この歳ならいてもおかしくない…。)
葵は龍二が結婚していて子供がいることを知り、胸がざわついた。ニコニコと皆の話に頷いている龍二の優しい横顔を見つめながら、葵は心の中でそっとつぶやいた。
(それでも、俺はやっぱりこの人が好きだ。)
「海、急げよ!ライブが始まっちまう!」
「空~、待って~!」
田中 海は兄の空に連れられて、ライブハウス『ドラゴン』へ向かって下北沢の街を走っていた。
一昨日、兄の空から突然バンドをやろうと誘われた挙句、下北沢にライブを観に行こうと言われて驚いた。
(これは間違いなく〝葵案件〟だな。)
海は小学生の頃からドラムを習っており、中学三年生の今となってはなかなかの腕前である。それに対して、兄の空と幼馴染みの葵は、小学生の頃からサッカー一筋で、楽器にはほとんど触れたことがなかった。そんな兄が突然バンドをやろうと言い出すなんて、葵の影響に違いない。
兄は昔から葵に心酔しており、葵の言うことなら何でも聞いてしまうのだ。兄は背が高くて切れ長の目をしており、寡黙で男らしい。弟から見てもなかなかいい男だと思うのだが、自分では自信がないのか、いつも葵の後ろを追いかけている。それが海にはもどかしかった。
そして最近、兄は明らかに元気がなく、ため息ばかりついていた。
(絶対、葵と何かあったな…)
乗り気ではなかったが、海は兄の憂鬱の原因を突き止めるために、ライブに同行することにした。だが、中学三年生の海は下北沢のライブハウスに行くのは初めてで、着る服にさんざん迷った挙句、家を出るのが遅くなってしまった。
「ライブハウス『ドラゴン』…ここだな。」
空は看板を見上げながら、古い階段を降りていった。ドアを開けると、ものすごい轟音が耳に飛び込んできた。ライブはすでに始まっていた。受付の女の子に葵からもらったチケットを渡して奥に進むと、バーカウンターに葵の姿があった。葵は軽く手を振り、こちらに気づいた様子だった。
しかし、空も海も目はステージに釘付けだった。こんな迫力のあるライブを間近で見るのは初めてだった。身体が熱くなる。周囲の空気も熱を帯びている。叫びに近いボーカルの声が、何を叫んでいるのか分からなくても、魂を揺さぶるように響いてきた。
(これが、葵が好きになった人なのか…。)
空はただただ圧倒され、敗北感に打ちのめされた。
(俺には、とても敵わない…。)
ライブが終わり、お客さんが大方帰ると、葵が海と空のいる場所にやってきた。
「どうだった?すごかっただろ?」
葵は期待に満ちた瞳で、まるで褒めてもらうのを待っている子犬のように尋ねてきた。
「うん、本当にすごかった。ドラムも一台とは思えないくらいの迫力で、めちゃくちゃ上手かった。」
「ああ…とにかくすごかったな。葵の言ってた意味がやっと分かったよ。」
「だろだろ~!こっち来いよ!龍二さん達に紹介するよ!」
葵は2人を誘い、ステージで片付けをしている龍二たちに声をかけた。
「龍二さん、こいつら俺の幼馴染で、一緒にバンドを始める海と空です!海は小学生の頃からドラムをやってて、結構上手いんですよ!」
(あれ…俺、まだバンドやるって決めてないけど…。)
海はそう思いつつも、すでに決定事項になりつつあることを受け入れた。龍二は、さっきのステージでの気迫溢れる姿とは違い、柔和な笑顔を浮かべながら挨拶をした。
「今日はライブ見に来てくれてありがとう、空くんと…海くん。」
「龍二さん。葵から話聞いてます…よろしく…。」
言葉とは裏腹に、空はギラっと鋭い目つきで龍二を睨んだ。
(えっ?…俺、睨まれてる?なんで?…なんで?)
龍二は空の不穏な空気を感じ取り、内心で焦った。
「空も海も、俺の小学校からの大切な友達なんです!だから龍二さんともみんな仲良くなれたら嬉しいなぁ!楽器も教えてもらいたいし!」
葵が全く空気を読まずに「みんなトモダチ」理論を持ち出すが、その言葉はどこか空虚に響いた。場の空気が凍りついたその時、
「今日は本当に会えて良かったです!俺たち、また絶対来ますね!あ、俺、中学生なんで門限22時なんですよ。もう帰らなきゃ、さよならー。」
中学生なのに一番空気の読める海が、空の背中を押してその場を立ち去った。
ライブハウスから出て階段を登ったところで、海は空に詰め寄った。
「おい空っ!なんなんだよアレは!そもそも葵と何があったんだよ?」
「何って…何もないよ…。」
「いや、絶対何かあった!毎日一緒に暮らしてたら分かるって!あと、あの龍二さんへのガン飛ばし、喧嘩売ってんの?」
「……。」
海は言葉を発さない兄の顔を見つめながら、静かに言った。
「…お前が葵にずっと片思いしてるの、俺は知ってるよ。」
空はビクッと肩を震わせ、狼狽した様子で海を見た。
「なっ…!し、知ってるって…ほんとに…?!」
「うん。バレバレだよ。」
空は大きくため息をついて、顔を手で覆ったまま、その場にへたり込んだ。
「そうか…俺、バレバレだったのか…。」
「うん。」
「頼む…葵には絶対言わないでくれ。」
「大丈夫だよ。葵は鈍感だから絶対気づかないよ。」
「…ありがとう。実は…一昨日、葵から好きな人ができたって告白されたんだ。その好きな人は、バイト先のライブハウスの店長で…さっきの龍二ってオッサンなんだよ…。俺、絶対どんなやつか確かめてやろうって思って…葵にふさわしくないやつだったら、絶対妨害してやろうって決めたんだ。」
海は口を挟まず、無言で頷いた。
「でも、今日のライブを観て、俺にはとても敵わないって思ったんだ…。妨害するなんておこがましいことだ。葵の恋を応援するしかないのかなって思ったんだ…。」
「はぁっ?!」
海の突然の大声に、空は驚いて弟を見つめた。
「兄ちゃん、バカじゃないのっ?!好きなら何がなんでも振り向かせてみせろよ!俺から見たら、兄ちゃんの方が全然かっこいいし!もっと自分に自信を持てよ!」
「海…。」
「俺だったら…俺だったら絶対好きなヤツに振り向いてもらうまで、努力してかっこよくなって、向こうから告白させる!簡単に諦めるなんて、それだけの思いだったのかよ!」
海は目に涙を浮かべながら、叫んだ。
(こいつは本当に真っ直ぐでいい奴だな。)
「海…ありがとうな。」
空は弟の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「さ、家に帰ろう。」
小学校から続けていたサッカーを高校に入ってからやめたことで、土日の予定がぽっかりと空いてしまった葵は、最近はよく下北沢に足を運んでいた。
下北沢の街は、東京の喧騒から少し離れた場所にありながら、独特の活気と創造性に満ちた場所だった。古びたビルの一階には、ヴィンテージショップが所狭しと並び、その向かいには、手作り感溢れるカフェや、壁一面にレコードが並ぶ音楽ショップが佇んでいる。
そんな中、葵の目に一軒の寂れたライブハウスが映り込んだ。看板には「ライブハウス ドラゴン」と書かれていたが、その文字は色褪せ、かすれて読みにくくなっていた。
「ドラゴンか…」
葵は足を止め、そのライブハウスをじっと見つめた。地下に降りる階段への入り口には手書きの貼り紙があり、雑に書かれた「急募!バイト募集」の文字が目に留まった。その手作り感が、葵の興味をさらに引き立てた。
「この場所、何か面白そうだな…」
そう思い、彼は迷うことなく古びた階段を降りていった。地下へと続く階段を下り、重い防音ドアの前に立つ。深呼吸を一つしてから、硬いノブを押し下げると、ドアがぎしぎしと音を立てて開いた。中に入ると、薄暗い照明とタバコの煙が漂い、古びたステージには年代物の楽器が静かに佇んでいた。椅子やテーブルも年季が入っており、まるで時間が止まったかのような、懐かしい雰囲気が漂っていた。
「いらっしゃい」
奥から低く心地よい声が響いた。その声にハッとした葵が振り向くと、そこには冴えない中年の男性が立っていた。彼はジョン・レノン風の丸メガネをかけ、無精ひげを生やした長髪の男だった。
「すみません、外のバイト募集の貼り紙を見たんですけど…」
葵は少し緊張しながら話しかけた。彼の顔を見ると、その男性は驚いたように目を見開いた。
「あの…俺の顔、変ですか?」
葵が怪訝な顔で問いかけると、男性はハッとして笑った。
「あー、いやいや、キミがあまりにもイケメンだから、見とれてしまったよ。ハハッ! そうそう、バイトね!いやぁ~助かるよ。実は先週バイトの子が急に来なくなって、人手が足りなくてすごく困ってたんだ。君、名前は?」
「橘 葵です。」
「橘 葵くんね。俺はこのライブハウスの店長、岩田龍二だ。よろしく!このライブハウス…ボロいだろー?あまりお客も入らなくて、バイト代も安いんだけど…本当にこんなとこでバイトしたいのかい?それに君、随分若く見えるけど…何歳なんだ?」
「俺…16歳です。まだ高校一年生で…」
「えっ、高校生かい⁈ そっか、高校生ねぇ…」
「高校生じゃダメですか?」
「んー…ダメってことはないけど、保護者の許可が必要だからね。」
龍二はカウンターの下から書類を取り出して、葵に手渡した。
「これは履歴書。簡単でいいよ。それから、保護者のサインと印鑑が必要な書類もある。給与振込用の銀行口座のコピーも今度持ってきてくれ。ここはライブハウスだけど、ライブがないときはカフェやバーをやっているからね。」
書類を受け取った葵は、嬉しそうに笑顔を見せた。
「ありがとうございます!バイト代が安くても…全然構わないです!俺、音楽が大好きで…ライブハウスでバイトするのが夢だったんです。俺の母親がジャズシンガーなので、よくライブハウスで歌ってて…。俺は正直…ジャズよりもロックの方が好きなんですけど…」
「へぇ、母親がジャズシンガーか!それはすごいな。俺も実は長いことバンドをやっててさ、たまにここでライブもやるんだ。」
龍二は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで葵の前に置いた。
「あ、ありがとうございます。」
葵は麦茶を飲みながら、龍二の姿をじっと見つめた。
(この人も音楽をやってるんだ…なんだかジョン・レノンみたいだけど…ビートルズのコピーバンドとかやってるのかな。)
「音楽で食べていくってのは、なかなか難しいもんだよ。若い頃は夢を追ってただけだったけど、この歳になるといろいろ考えちゃうけどな。あ、タバコ吸っても大丈夫?」
龍二はすでにポケットからタバコを取り出し、口にくわえていたが、葵に気を使って尋ねた。
「あ、全然大丈夫です。」
龍二はタバコに火をつけ、一息つくと、煙をゆっくりと吐き出した。
「オッサンの愚痴を聞いてくれてありがとな。なんだか、キミの顔を見たら昔のことを思い出しちゃって…。それで、いつから来れそうだ?土曜日の16時くらいに来てもらえると助かるんだが。」
「はいっ!大丈夫です!ぜひ、よろしくお願いします!」
葵は勢いよく頭を下げた。これが、葵がライブハウス『ドラゴン』でバイトを始めるきっかけとなった出来事だった。
(あの時は、あの優しそうな店長があんな激しいライブをするなんて思ってもなかったんだよなぁ…)
葵はカウンターでコップを拭きながら、隣でレジのお金を数えている龍二をチラリと見た。
「よし、そろそろ開店だな。葵くん、入り口の行灯を出してきてくれ。」
「はい!」
葵は古い階段を上がり、『ライブハウス ドラゴン』と書かれた行灯にコンセントを差し込んだ。
「うぃーっす。」
後ろから声をかけられて振り返ると、そこには龍二のバンドメンバー、光輝、タツヤ、雄介の3人が立っていた。ギターの光輝は、肩までの長髪で、190cm近いモデルのような体型のイケメン。ドラムのタツヤは、キャップを常に被っている少し太り気味の笑顔が絶えない男。ベースの雄介は、ぼさぼさの黒髪にメガネをかけ、無口でどこかもっさりとした印象の男だ。だが、このバラバラな組み合わせが、ライブとなると驚くほどに調和するから不思議である。
「光輝さん、タツヤさん、雄介さん、いらっしゃい!」
葵は笑顔で挨拶した。すっかり顔馴染みの仲間だ。タツヤは葵の肩に腕をかけ、冗談めかして言った。
「相変わらずイケメンだね~、葵ちゃん。君のおかげで店に来る客が倍増したって、龍二が喜んでたよ。」
「お店に貢献できて何よりです。」
「バイト代、上げてもらえよ。」
ガヤガヤと皆で階段を降りていくと、龍二が迎えの言葉を発した。
「いらっしゃ…って、お前らかよ!」
営業スマイルを浮かべていた龍二が、メンバーたちだと分かると、急にぞんざいな口調になった。
「お客になんて態度だ、この店は!」
光輝が悪態をつきながらカウンターの椅子に座った。
(皆、本当に仲が良くていいなぁ…)
龍二が出した酒を飲みながら、賑やかに冗談を飛ばす4人を、葵は微笑ましく見つめた。
今日はまた、龍二たちのライブがあるので、バンドメンバーが早めに入ってリハーサルをする日だった。空と海もあとでライブを観に来ると言っていた。
「あの…俺も友達とバンドを始めるんですけど、よかったらギターを教えてください!ピアノは小さい頃からやってるんですが、ギターは初心者で…。」
葵は今がチャンスとばかりに龍二に切り出した。
「おおっ!いいじゃないか!高校生バンド!」
タツヤが横から口を挟んだ。
「全然いいよ。開店前の時間にちょっと教えてあげるよ。使わないギターもここにあるし、あげるよ。」
「えっ、いいんですか!?ありがとうございます!」
「俺も高校生くらいの頃、友達とバンドをやってたな。あの頃はまさに青春だったよ。」
「もしかして、光輝さんやタツヤさん、雄介さんは龍二さんと高校生の頃からの仲間なんですか?」
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「いやいや、俺たちは雄介以外はみんな地方出身だからさ、東京に出てきてから知り合ったんだよ。下北で出会った頃には、龍二はもう結婚してて、子供もいたし…10年前くらいかな。」
「龍二さん、お子さんがいるんですね…。」
龍二はスマホの待受画像を葵に見せて、ニコニコしなかまら答えた。
「ああ。小学5年生の男の子。アキラっていうんだ。そうそう、アキラはサッカーやっててさ。葵くん、良かったらギターを教える代わりにアキラにサッカーを教えてやってよ。」
「え…はいっ、喜んで!」
(店長、奥さんと子供がいるんだ…そりゃそうだよな。この歳ならいてもおかしくない…。)
葵は龍二が結婚していて子供がいることを知り、胸がざわついた。ニコニコと皆の話に頷いている龍二の優しい横顔を見つめながら、葵は心の中でそっとつぶやいた。
(それでも、俺はやっぱりこの人が好きだ。)
「海、急げよ!ライブが始まっちまう!」
「空~、待って~!」
田中 海は兄の空に連れられて、ライブハウス『ドラゴン』へ向かって下北沢の街を走っていた。
一昨日、兄の空から突然バンドをやろうと誘われた挙句、下北沢にライブを観に行こうと言われて驚いた。
(これは間違いなく〝葵案件〟だな。)
海は小学生の頃からドラムを習っており、中学三年生の今となってはなかなかの腕前である。それに対して、兄の空と幼馴染みの葵は、小学生の頃からサッカー一筋で、楽器にはほとんど触れたことがなかった。そんな兄が突然バンドをやろうと言い出すなんて、葵の影響に違いない。
兄は昔から葵に心酔しており、葵の言うことなら何でも聞いてしまうのだ。兄は背が高くて切れ長の目をしており、寡黙で男らしい。弟から見てもなかなかいい男だと思うのだが、自分では自信がないのか、いつも葵の後ろを追いかけている。それが海にはもどかしかった。
そして最近、兄は明らかに元気がなく、ため息ばかりついていた。
(絶対、葵と何かあったな…)
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「ライブハウス『ドラゴン』…ここだな。」
空は看板を見上げながら、古い階段を降りていった。ドアを開けると、ものすごい轟音が耳に飛び込んできた。ライブはすでに始まっていた。受付の女の子に葵からもらったチケットを渡して奥に進むと、バーカウンターに葵の姿があった。葵は軽く手を振り、こちらに気づいた様子だった。
しかし、空も海も目はステージに釘付けだった。こんな迫力のあるライブを間近で見るのは初めてだった。身体が熱くなる。周囲の空気も熱を帯びている。叫びに近いボーカルの声が、何を叫んでいるのか分からなくても、魂を揺さぶるように響いてきた。
(これが、葵が好きになった人なのか…。)
空はただただ圧倒され、敗北感に打ちのめされた。
(俺には、とても敵わない…。)
ライブが終わり、お客さんが大方帰ると、葵が海と空のいる場所にやってきた。
「どうだった?すごかっただろ?」
葵は期待に満ちた瞳で、まるで褒めてもらうのを待っている子犬のように尋ねてきた。
「うん、本当にすごかった。ドラムも一台とは思えないくらいの迫力で、めちゃくちゃ上手かった。」
「ああ…とにかくすごかったな。葵の言ってた意味がやっと分かったよ。」
「だろだろ~!こっち来いよ!龍二さん達に紹介するよ!」
葵は2人を誘い、ステージで片付けをしている龍二たちに声をかけた。
「龍二さん、こいつら俺の幼馴染で、一緒にバンドを始める海と空です!海は小学生の頃からドラムをやってて、結構上手いんですよ!」
(あれ…俺、まだバンドやるって決めてないけど…。)
海はそう思いつつも、すでに決定事項になりつつあることを受け入れた。龍二は、さっきのステージでの気迫溢れる姿とは違い、柔和な笑顔を浮かべながら挨拶をした。
「今日はライブ見に来てくれてありがとう、空くんと…海くん。」
「龍二さん。葵から話聞いてます…よろしく…。」
言葉とは裏腹に、空はギラっと鋭い目つきで龍二を睨んだ。
(えっ?…俺、睨まれてる?なんで?…なんで?)
龍二は空の不穏な空気を感じ取り、内心で焦った。
「空も海も、俺の小学校からの大切な友達なんです!だから龍二さんともみんな仲良くなれたら嬉しいなぁ!楽器も教えてもらいたいし!」
葵が全く空気を読まずに「みんなトモダチ」理論を持ち出すが、その言葉はどこか空虚に響いた。場の空気が凍りついたその時、
「今日は本当に会えて良かったです!俺たち、また絶対来ますね!あ、俺、中学生なんで門限22時なんですよ。もう帰らなきゃ、さよならー。」
中学生なのに一番空気の読める海が、空の背中を押してその場を立ち去った。
ライブハウスから出て階段を登ったところで、海は空に詰め寄った。
「おい空っ!なんなんだよアレは!そもそも葵と何があったんだよ?」
「何って…何もないよ…。」
「いや、絶対何かあった!毎日一緒に暮らしてたら分かるって!あと、あの龍二さんへのガン飛ばし、喧嘩売ってんの?」
「……。」
海は言葉を発さない兄の顔を見つめながら、静かに言った。
「…お前が葵にずっと片思いしてるの、俺は知ってるよ。」
空はビクッと肩を震わせ、狼狽した様子で海を見た。
「なっ…!し、知ってるって…ほんとに…?!」
「うん。バレバレだよ。」
空は大きくため息をついて、顔を手で覆ったまま、その場にへたり込んだ。
「そうか…俺、バレバレだったのか…。」
「うん。」
「頼む…葵には絶対言わないでくれ。」
「大丈夫だよ。葵は鈍感だから絶対気づかないよ。」
「…ありがとう。実は…一昨日、葵から好きな人ができたって告白されたんだ。その好きな人は、バイト先のライブハウスの店長で…さっきの龍二ってオッサンなんだよ…。俺、絶対どんなやつか確かめてやろうって思って…葵にふさわしくないやつだったら、絶対妨害してやろうって決めたんだ。」
海は口を挟まず、無言で頷いた。
「でも、今日のライブを観て、俺にはとても敵わないって思ったんだ…。妨害するなんておこがましいことだ。葵の恋を応援するしかないのかなって思ったんだ…。」
「はぁっ?!」
海の突然の大声に、空は驚いて弟を見つめた。
「兄ちゃん、バカじゃないのっ?!好きなら何がなんでも振り向かせてみせろよ!俺から見たら、兄ちゃんの方が全然かっこいいし!もっと自分に自信を持てよ!」
「海…。」
「俺だったら…俺だったら絶対好きなヤツに振り向いてもらうまで、努力してかっこよくなって、向こうから告白させる!簡単に諦めるなんて、それだけの思いだったのかよ!」
海は目に涙を浮かべながら、叫んだ。
(こいつは本当に真っ直ぐでいい奴だな。)
「海…ありがとうな。」
空は弟の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「さ、家に帰ろう。」
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「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
俺の好きな男は、幸せを運ぶ天使でした
たっこ
BL
【加筆修正済】
7話完結の短編です。
中学からの親友で、半年だけ恋人だった琢磨。
二度と合わないつもりで別れたのに、突然六年ぶりに会いに来た。
「優、迎えに来たぞ」
でも俺は、お前の手を取ることは出来ないんだ。絶対に。
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