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【第20話】魔王の戯れと、人生最大の賭け
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蛭田薊が七歳のときだった。
女手一つで彼を育ててくれた母は、土曜日の早朝に家を出て、それきり戻らなかった。
家庭内暴力で父親と別れてから、昼は街の建設会社で事務職として、夜は警備員や清掃の仕事で昼夜問わず働いていた人だった。最低限の貴重品と鞄が無くなっていたことから、どこかへ出かけるつもりだったことはわかっている。
前日に息子を祖父母の元に預けてどこへ行く気だったのか。何をするつもりだったのか。
最後に一緒に夕飯を食べた時も、母はいつも通り疲れを感じさせない笑顔で自分の頭を撫でた。
自分も腹を空かせているだろうに、自分の皿から栗やカツオを分け与えて、育ち盛りの息子に腹いっぱい食べさせてくれた。
「薊は何でも食べてくれるから、助かるわぁ」
「うん!僕、母さんの料理は何でも食べるよ!全部大好き!」
「嬉しいねぇ、いっぱい食べてたくさん大きくなってね」
「うん!すぐに母さんより大きくなるよ」
「ふふふ、学校はどう?楽しかった?」
「うん!今日ね、僕ね、僕ね、学童で工作したんだ。
これね、プラ板って言うんだよ」
放課後は学童で時間を潰して帰るのが習慣だった。
学童は親が仕事の都合などで家にいない低学年の小学生の居場所であり、預かり場所でもある。
大抵はボードゲームをしたり漫画を読んだりして過ごすのだが、この日はプラスチックの板に油性ペンで好きな絵を描くという工作の時間があった。
母の仕事が遅くなる時は七時までいることもあったが、同学年の友人がいるので寂しく感じたことはなかった。
その時間でプラ板をトースターで焼いて組紐をつけ、キーホルダーにしたものを渡すと、母は目尻に皴を作って笑顔になる。
「まぁ、すごい!とっても綺麗だねぇ。もしかして、この絵って……」
「うん、母さんだよ。これはねっ、お仕事してるお母さん」
「ありがとう、母さんとっても嬉しい。薊は優しい子だねぇ」
「そ、そんなことないよ。僕、あんまり絵は上手じゃないし……」
「何言っているの、上手じゃないの。あんたは自慢の息子だよ」
「えへへ……」
「ありがとうね、大事にするよ。
薊が頑張っているんだもん、母さんも頑張って働かなきゃ」
あの笑顔は間違いなく心からのものだった。
母は学校の行事には必ず来てくれたし、一か月後にはママ友と会う約束もしていた。
母は、息子を置いてどこかに行くような人ではない。
しかし、一人で子供を育てることがどれだけ大変か。二人分の生活費を稼ぐことが、どれだけ困難か。
成長すればするほど、子供から大人になればより実感する。
当時も、母の疲労や苦労がわからない年齢ではなかった。何か月も美容院に行けず、手入れもされていない髪には、白髪が混じっていたのを覚えている。
ひょっとしたら、母は息子から開放されたかったのかもしれない。
一度思い浮かべただけで、その考えは頭の片隅に住み着いた。
毎朝、目覚めたときに隣に母がいるのではないかと期待した。期待が裏切られる度に、疑いは強くなっていく。
自分は母から捨てられたのではないか、と。
「きっと、新しい男のところへ行ったんだろうねぇ」
「かわいそうに、子育てに疲れちゃったのかしら」
「あいつは昔から奔放なところがあるから」
「どうするのよ、私たちの年金だって少ないのに」
「仕方ないだろう、一番可哀そうなのは薊なんだから」
祖父母は、娘が自分たちの反対した男と結婚したことを最後まで根に持っていた。
古い木造建築の家屋では、彼らが毎晩同じやり取りをする声が隣の寝室にまで聞こえて来た。子供の意見など誰も聞き入れてはくれなかった。
当然だ、子供は一人で生きる金も力もないのだから。
母のことを悪く人間は信用できない。すぐに彼らとは距離を置くようになった。
自分以外の人間を信用しないと決心するまで、長くはかからなかった。
暴力と金の力を信じるようになるまでは、もっと早かった。
行方不明届を出した七年後、母は戸籍上死んだ人間となった。
未だに、手がかりは何一つ見つかっていない。
あの夜、怪物の口から『山で人間の遺体を複数見た』という言葉を聞くまでは。
両腕から流れる血の海に浸りながら、蛭田はその言葉に希望を持った。
何気ない一言だからこそ、下等種族の死に感情一つ動かされない怪物だからこそ信用できる。
「ふぅん、それで?」
「頼む、骨の一欠けらでいい。遺品を警察に提供してくれ。
俺のDNAと照合すれば、遺体が母かどうか判明する。
布の一切れでも、何か、母の手がかりが得られるかもしれない」
「で?私は対価に何を得る?
私はまだお前に拷問を試していないわけだが、情報を持っているのは何もお前だけではない。
私に何を提供できる?お前にはどんな価値がある?」
「対価は、俺の持っている情報の全てと」
「と?」
問題は、相手が同情や善意といった人情で動くこともない点だ。
遺体を見つけた時点で警察に通報するような存在なら、とっくにそうしているだろう。
泣き落としも脅しも効かない。
留置場に侵入できる能力があるなら、金も権力も力もとっくに持っているか、価値を感じていないかだ。
彼女は、強盗や窃盗で人から奪って生活してきた蛭田の上位互換だ。
だが、蛭間よりも無力な嵐山は猟師になって肉を分け与えることを条件に開放された。
何か、何かないかと己の人生を思い起こす。
物心ついたころには父親はおらず、小学生でシングルマザーだった母親が行方不明になった。祖父母や学校の教師といった大人とは相いれず、中学校に上がる頃にはグレていて、一日中市内を暴走して非行に走った。
高校なんてまともに通っていない。義務教育ですら頭に入っているか怪しいくらいだ。
警察に捕まっても、差し入れしてくれる友人もいない。
相手が望むものも、自分が提供できる価値も思い浮かばない。交渉にならない。
「……何もない、俺はクソみたいな人生を送ってきた。
他に積み重ねてきたことも、人よりできることもない。
だから、あんたに全てを捧げる」
「質問がある」
「あぁ、何でも聞いてくれ」
「なぜ、死んだ人間が誰なのかを気にする?死んだ人間の所持品を欲しがる?
そんなものに全てを掛ける価値があるのか?」
「価値……?」
そんなものに価値などないのに、と言われた気がした。
尊厳が傷つけられても、彼はマトンに言い返すこともやり返すこともできない。
例え自分の命より大切なものを踏みにじられるという辱めを受けても、自分の気持ちを偽ろうとも、人生最大の屈辱を味わおうとも。
静寂が流れる室内に、彼は天啓のように悟った。
これが、己を人でなしと罵倒した人間たちの気持ちなのだと。
「……悪魔っていうのは、あんたみたいな奴のことを言うんだろうな」
「答えになっていない」
「他人にとって価値が無くても、俺にとっては命より大事なもんだ」
「わけがわからない。死者の所有物に命を賭ける理由もわからない」
「……多分、あんたは本気でそう思っているんだろうな」
これは賭けだ。
怪物が何かの拍子に気まぐれを起こして蛭田の願いを聞き、何らかの奇跡が起きてその願いを叶えるかどうかの賭けだ。
徳を積んでこなかった蛭田に残されたカードは、彼の人生という一枚だけ。出せるものは全て場に出している。
もうチェックもコールドも、フォールドだって出来ない。
だが、蛭田は一つ目の賭けに勝った。
「それでも、俺の願いはそれだけだ」
「もういい、次は私の番だ。お前の仕えている主人について教えてもらおうか」
「わかった」
これが針の穴より細い光明だとしても、手をのばさない選択肢はない。
「虻蜂連合会、それが俺の所属していた組織の名前だ。
元々は道内で夏の間だけ活動をしていた暴走族だったが、今や違法行為を生業とする犯罪集団だ。
下っ端のほとんどは地方の不良や、法外の利子で借りた金が返せなくなった債務者。
法律も絆も道理も関係ない、どれだけ仕事をこなして金を稼いだかで地位が決まる。
まさに実力主義の組織だ。使われる側から使う側へ、そうなれば報酬も上がっていく。
俺は今回の計画が成功していれば、幹部となることが約束されていた」
「待て。つまり、お前は上から指示を受けたのではなく、組織で成り上がるために自発的に事件を起こしたと?
お前が幹部になることを約束したのは誰だ?」
「総長は数年前に廃止されていない。
年間の上納金額が高かった人間のうち、上から五人が幹部になる。
上納金は地位と働きによって平等に構成員に再分配される。そういう決まりなんだ」
「その決まりを作った人間は?」
「数年前、連合会にとある男がやってきた。
そいつは総長と幹部たちに取り入り、大金を得るノウハウを教えると言ってきたらしい。
特殊詐欺に闇金、違法薬物を売買する方法、客の見つけ方、警察から逃れる方まで、そいつの情報は正しかった。
だが、金の力で組織も組織の人間も変わっちまった」
「その男はどこにいる?目的は?」
「さぁ?教えるだけ教えていなくなったと聞いた。
そもそも、俺たちはやり取りのほとんどを記録が残らない手段で行っている。だから」
「あぁ、そうか。
だから、組織はお前に罪を押し付けて何食わぬ顔をすることができる。
そしてノウハウが健在なら同じ組織の別の人間でも、別の組織だって同じことをすることができる。
お前もお前で、出所した後の地位と罪の重さを考えれば、短絡的な犯罪と名乗った方が得だな。
よくできたシステムだ、人間にしては」
「お、おう……その通りだ」
凄まじい速度の理解力に、蛭田は背筋が冷えていく。
メモも取らず、会話をしているだけで組織の実態を的確に掴んでいく。
一を教えて十を知るというが、既に組織の構造から弱点まで気づいているようだ。
そして、裏の世界は表の世界や法律の穴をつくことで成り立っている。
このまま全てを話していいのか、この怪物に学びを与えていいのか。
「よし、決まったな」
「決まった?何がだ」
「虻蜂連合会は解体する。幹部も部下もまとめて皆殺しにする。
とある男、という人間も見つけ次第同じように処する」
「……本気か?連合会の構成員は三百人近くいるんだぞ」
「私は本気だ、火種は全て潰さなくてはな」
「だ、だからってよ……何も殺さなくたって」
「なぜ?それが一番手っ取り早いだろう」
「それは、そうかもしれないが……そんなのできるわけ」
できるのか、いや、できるからこその発言だった。
思えばこの怪物が見栄や脅しのために嘘をついたことがあっただろうか。
単純な暴力で全てを解決できる彼女には、見栄を張る必要も言葉で惑わす必要もないのだ。
皆殺しという言葉に嘘はない。その後で蛭田を殺すというのも。
蛭田の呼吸が荒くなる。後悔してもしきれない。あの家を襲わなければ、幹部になろうなんて思わなければ、そもそも虻蜂連合会に入らなければ、母がいなくならなければ。
全ては過ぎたことだ。仮に生きのびても、最後は獄中か死刑台で死ぬことが決まっている。
それに、もしもこの怪物がいなかったら母の手がかりに出会うこともなかった。
ならば、この場で己がなすべきことは。
「わかった、協力させてくれ。
虻蜂連合会の拠点、幹部の顔と名前、俺の知りうる全てを話そう」
「ふっ、殊勝な心掛けだな」
「言っておくが、幹部は用心深く慎重だ。財力も権力も俺たちとは比べ物にならない。
幹部を命がけで守る屈強なボディーガードや、頭のネジが外れた鉄砲玉もいる。
警察や売人から仕入れた銃器だってある。
あんたも強いが、奴らは質も数も全てにおいて格が違う。手段はよく考えた方がいい。
単身で乗り込んで来たくらいだから、仲間はいないんだろ?」
「単身?何を言っている。前回も今回も、私は一人で来たわけではないぞ」
「は?けど、あのときは確かに……あんた一人で来ただろう?」
「そうか、お前は見ていなかったな。もう一人の男からは何も聞いてないのか?」
「もう一人って、ヤスデのことか?奴からは何も……」
何も聞いていない。
そもそもヤスデは最初の一撃で重症を負い、心に深い傷を負ってしまった。お陰でまともに取調べができる状態ではないと、他でもない警察の人間から聞いた。
だが、蛭田はそれを聞いて違和感を覚えた。
負傷した直後のヤスデは泣き言こそ漏らしていたものの、心まで折れているようには見えなかった。
彼は怪我を負っていたため、マトンの襲撃時も車中にいて、幸運にも難を逃れたはずなのだ。
トラウマになるようなことなんて何もなかったはずだ。
ヤスデが最初に通報したというのもそうだ。
なぜ、彼は救急車ではなく警察を呼んだのか。
「首切り馬、人間の姿になってココまで来い」
女手一つで彼を育ててくれた母は、土曜日の早朝に家を出て、それきり戻らなかった。
家庭内暴力で父親と別れてから、昼は街の建設会社で事務職として、夜は警備員や清掃の仕事で昼夜問わず働いていた人だった。最低限の貴重品と鞄が無くなっていたことから、どこかへ出かけるつもりだったことはわかっている。
前日に息子を祖父母の元に預けてどこへ行く気だったのか。何をするつもりだったのか。
最後に一緒に夕飯を食べた時も、母はいつも通り疲れを感じさせない笑顔で自分の頭を撫でた。
自分も腹を空かせているだろうに、自分の皿から栗やカツオを分け与えて、育ち盛りの息子に腹いっぱい食べさせてくれた。
「薊は何でも食べてくれるから、助かるわぁ」
「うん!僕、母さんの料理は何でも食べるよ!全部大好き!」
「嬉しいねぇ、いっぱい食べてたくさん大きくなってね」
「うん!すぐに母さんより大きくなるよ」
「ふふふ、学校はどう?楽しかった?」
「うん!今日ね、僕ね、僕ね、学童で工作したんだ。
これね、プラ板って言うんだよ」
放課後は学童で時間を潰して帰るのが習慣だった。
学童は親が仕事の都合などで家にいない低学年の小学生の居場所であり、預かり場所でもある。
大抵はボードゲームをしたり漫画を読んだりして過ごすのだが、この日はプラスチックの板に油性ペンで好きな絵を描くという工作の時間があった。
母の仕事が遅くなる時は七時までいることもあったが、同学年の友人がいるので寂しく感じたことはなかった。
その時間でプラ板をトースターで焼いて組紐をつけ、キーホルダーにしたものを渡すと、母は目尻に皴を作って笑顔になる。
「まぁ、すごい!とっても綺麗だねぇ。もしかして、この絵って……」
「うん、母さんだよ。これはねっ、お仕事してるお母さん」
「ありがとう、母さんとっても嬉しい。薊は優しい子だねぇ」
「そ、そんなことないよ。僕、あんまり絵は上手じゃないし……」
「何言っているの、上手じゃないの。あんたは自慢の息子だよ」
「えへへ……」
「ありがとうね、大事にするよ。
薊が頑張っているんだもん、母さんも頑張って働かなきゃ」
あの笑顔は間違いなく心からのものだった。
母は学校の行事には必ず来てくれたし、一か月後にはママ友と会う約束もしていた。
母は、息子を置いてどこかに行くような人ではない。
しかし、一人で子供を育てることがどれだけ大変か。二人分の生活費を稼ぐことが、どれだけ困難か。
成長すればするほど、子供から大人になればより実感する。
当時も、母の疲労や苦労がわからない年齢ではなかった。何か月も美容院に行けず、手入れもされていない髪には、白髪が混じっていたのを覚えている。
ひょっとしたら、母は息子から開放されたかったのかもしれない。
一度思い浮かべただけで、その考えは頭の片隅に住み着いた。
毎朝、目覚めたときに隣に母がいるのではないかと期待した。期待が裏切られる度に、疑いは強くなっていく。
自分は母から捨てられたのではないか、と。
「きっと、新しい男のところへ行ったんだろうねぇ」
「かわいそうに、子育てに疲れちゃったのかしら」
「あいつは昔から奔放なところがあるから」
「どうするのよ、私たちの年金だって少ないのに」
「仕方ないだろう、一番可哀そうなのは薊なんだから」
祖父母は、娘が自分たちの反対した男と結婚したことを最後まで根に持っていた。
古い木造建築の家屋では、彼らが毎晩同じやり取りをする声が隣の寝室にまで聞こえて来た。子供の意見など誰も聞き入れてはくれなかった。
当然だ、子供は一人で生きる金も力もないのだから。
母のことを悪く人間は信用できない。すぐに彼らとは距離を置くようになった。
自分以外の人間を信用しないと決心するまで、長くはかからなかった。
暴力と金の力を信じるようになるまでは、もっと早かった。
行方不明届を出した七年後、母は戸籍上死んだ人間となった。
未だに、手がかりは何一つ見つかっていない。
あの夜、怪物の口から『山で人間の遺体を複数見た』という言葉を聞くまでは。
両腕から流れる血の海に浸りながら、蛭田はその言葉に希望を持った。
何気ない一言だからこそ、下等種族の死に感情一つ動かされない怪物だからこそ信用できる。
「ふぅん、それで?」
「頼む、骨の一欠けらでいい。遺品を警察に提供してくれ。
俺のDNAと照合すれば、遺体が母かどうか判明する。
布の一切れでも、何か、母の手がかりが得られるかもしれない」
「で?私は対価に何を得る?
私はまだお前に拷問を試していないわけだが、情報を持っているのは何もお前だけではない。
私に何を提供できる?お前にはどんな価値がある?」
「対価は、俺の持っている情報の全てと」
「と?」
問題は、相手が同情や善意といった人情で動くこともない点だ。
遺体を見つけた時点で警察に通報するような存在なら、とっくにそうしているだろう。
泣き落としも脅しも効かない。
留置場に侵入できる能力があるなら、金も権力も力もとっくに持っているか、価値を感じていないかだ。
彼女は、強盗や窃盗で人から奪って生活してきた蛭田の上位互換だ。
だが、蛭間よりも無力な嵐山は猟師になって肉を分け与えることを条件に開放された。
何か、何かないかと己の人生を思い起こす。
物心ついたころには父親はおらず、小学生でシングルマザーだった母親が行方不明になった。祖父母や学校の教師といった大人とは相いれず、中学校に上がる頃にはグレていて、一日中市内を暴走して非行に走った。
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警察に捕まっても、差し入れしてくれる友人もいない。
相手が望むものも、自分が提供できる価値も思い浮かばない。交渉にならない。
「……何もない、俺はクソみたいな人生を送ってきた。
他に積み重ねてきたことも、人よりできることもない。
だから、あんたに全てを捧げる」
「質問がある」
「あぁ、何でも聞いてくれ」
「なぜ、死んだ人間が誰なのかを気にする?死んだ人間の所持品を欲しがる?
そんなものに全てを掛ける価値があるのか?」
「価値……?」
そんなものに価値などないのに、と言われた気がした。
尊厳が傷つけられても、彼はマトンに言い返すこともやり返すこともできない。
例え自分の命より大切なものを踏みにじられるという辱めを受けても、自分の気持ちを偽ろうとも、人生最大の屈辱を味わおうとも。
静寂が流れる室内に、彼は天啓のように悟った。
これが、己を人でなしと罵倒した人間たちの気持ちなのだと。
「……悪魔っていうのは、あんたみたいな奴のことを言うんだろうな」
「答えになっていない」
「他人にとって価値が無くても、俺にとっては命より大事なもんだ」
「わけがわからない。死者の所有物に命を賭ける理由もわからない」
「……多分、あんたは本気でそう思っているんだろうな」
これは賭けだ。
怪物が何かの拍子に気まぐれを起こして蛭田の願いを聞き、何らかの奇跡が起きてその願いを叶えるかどうかの賭けだ。
徳を積んでこなかった蛭田に残されたカードは、彼の人生という一枚だけ。出せるものは全て場に出している。
もうチェックもコールドも、フォールドだって出来ない。
だが、蛭田は一つ目の賭けに勝った。
「それでも、俺の願いはそれだけだ」
「もういい、次は私の番だ。お前の仕えている主人について教えてもらおうか」
「わかった」
これが針の穴より細い光明だとしても、手をのばさない選択肢はない。
「虻蜂連合会、それが俺の所属していた組織の名前だ。
元々は道内で夏の間だけ活動をしていた暴走族だったが、今や違法行為を生業とする犯罪集団だ。
下っ端のほとんどは地方の不良や、法外の利子で借りた金が返せなくなった債務者。
法律も絆も道理も関係ない、どれだけ仕事をこなして金を稼いだかで地位が決まる。
まさに実力主義の組織だ。使われる側から使う側へ、そうなれば報酬も上がっていく。
俺は今回の計画が成功していれば、幹部となることが約束されていた」
「待て。つまり、お前は上から指示を受けたのではなく、組織で成り上がるために自発的に事件を起こしたと?
お前が幹部になることを約束したのは誰だ?」
「総長は数年前に廃止されていない。
年間の上納金額が高かった人間のうち、上から五人が幹部になる。
上納金は地位と働きによって平等に構成員に再分配される。そういう決まりなんだ」
「その決まりを作った人間は?」
「数年前、連合会にとある男がやってきた。
そいつは総長と幹部たちに取り入り、大金を得るノウハウを教えると言ってきたらしい。
特殊詐欺に闇金、違法薬物を売買する方法、客の見つけ方、警察から逃れる方まで、そいつの情報は正しかった。
だが、金の力で組織も組織の人間も変わっちまった」
「その男はどこにいる?目的は?」
「さぁ?教えるだけ教えていなくなったと聞いた。
そもそも、俺たちはやり取りのほとんどを記録が残らない手段で行っている。だから」
「あぁ、そうか。
だから、組織はお前に罪を押し付けて何食わぬ顔をすることができる。
そしてノウハウが健在なら同じ組織の別の人間でも、別の組織だって同じことをすることができる。
お前もお前で、出所した後の地位と罪の重さを考えれば、短絡的な犯罪と名乗った方が得だな。
よくできたシステムだ、人間にしては」
「お、おう……その通りだ」
凄まじい速度の理解力に、蛭田は背筋が冷えていく。
メモも取らず、会話をしているだけで組織の実態を的確に掴んでいく。
一を教えて十を知るというが、既に組織の構造から弱点まで気づいているようだ。
そして、裏の世界は表の世界や法律の穴をつくことで成り立っている。
このまま全てを話していいのか、この怪物に学びを与えていいのか。
「よし、決まったな」
「決まった?何がだ」
「虻蜂連合会は解体する。幹部も部下もまとめて皆殺しにする。
とある男、という人間も見つけ次第同じように処する」
「……本気か?連合会の構成員は三百人近くいるんだぞ」
「私は本気だ、火種は全て潰さなくてはな」
「だ、だからってよ……何も殺さなくたって」
「なぜ?それが一番手っ取り早いだろう」
「それは、そうかもしれないが……そんなのできるわけ」
できるのか、いや、できるからこその発言だった。
思えばこの怪物が見栄や脅しのために嘘をついたことがあっただろうか。
単純な暴力で全てを解決できる彼女には、見栄を張る必要も言葉で惑わす必要もないのだ。
皆殺しという言葉に嘘はない。その後で蛭田を殺すというのも。
蛭田の呼吸が荒くなる。後悔してもしきれない。あの家を襲わなければ、幹部になろうなんて思わなければ、そもそも虻蜂連合会に入らなければ、母がいなくならなければ。
全ては過ぎたことだ。仮に生きのびても、最後は獄中か死刑台で死ぬことが決まっている。
それに、もしもこの怪物がいなかったら母の手がかりに出会うこともなかった。
ならば、この場で己がなすべきことは。
「わかった、協力させてくれ。
虻蜂連合会の拠点、幹部の顔と名前、俺の知りうる全てを話そう」
「ふっ、殊勝な心掛けだな」
「言っておくが、幹部は用心深く慎重だ。財力も権力も俺たちとは比べ物にならない。
幹部を命がけで守る屈強なボディーガードや、頭のネジが外れた鉄砲玉もいる。
警察や売人から仕入れた銃器だってある。
あんたも強いが、奴らは質も数も全てにおいて格が違う。手段はよく考えた方がいい。
単身で乗り込んで来たくらいだから、仲間はいないんだろ?」
「単身?何を言っている。前回も今回も、私は一人で来たわけではないぞ」
「は?けど、あのときは確かに……あんた一人で来ただろう?」
「そうか、お前は見ていなかったな。もう一人の男からは何も聞いてないのか?」
「もう一人って、ヤスデのことか?奴からは何も……」
何も聞いていない。
そもそもヤスデは最初の一撃で重症を負い、心に深い傷を負ってしまった。お陰でまともに取調べができる状態ではないと、他でもない警察の人間から聞いた。
だが、蛭田はそれを聞いて違和感を覚えた。
負傷した直後のヤスデは泣き言こそ漏らしていたものの、心まで折れているようには見えなかった。
彼は怪我を負っていたため、マトンの襲撃時も車中にいて、幸運にも難を逃れたはずなのだ。
トラウマになるようなことなんて何もなかったはずだ。
ヤスデが最初に通報したというのもそうだ。
なぜ、彼は救急車ではなく警察を呼んだのか。
「首切り馬、人間の姿になってココまで来い」
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