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【第19話】少年の願いと、犯罪者の願い
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「……どうして」
「他の仲間はどうした?あと一人いるだろう」
「ここが……ここがどこだか、わかってんのか?」
「留置場だろう?警察署の中の」
蛭田は身体を起こすと、一つしかない出入口を確認する。
扉は締まっている。鍵も閉まっているように見える。
監視廊下に接する扉と檻は合成樹脂板か鉄格子で囲われており、その格子の間も細かい金網に覆われている。
差し入れ口も最低限の大きさで、人間が通れる隙間なんてこの空間にはない。反対側の採光用の窓ですら、内側には鉄格子が設けられていて、他の壁は鉄筋コンクリートの壁だ。
どこからも逃げ出すことはできない、故にどこからも侵入することはできない……はずだった。
「拘留場に行く前で良かった、あそこは遠すぎる」
「人間の事情なんて、怪物には関係ねぇってか。
ヤスデなら別の部屋だ。蟻山と蜂彦は……死んだと聞いている」
「そうか」
「あんたの仕業か?」
「だろうなぁ。それに奴らは頭が悪い、契約を破ったのだろう」
二人の訃報を聞いても、彼女は驚きも喜びもしない。
蛭田ですら、それを聞いたときは思わずポーカーフェイスが崩れたというのに。
まさに生かすも殺すも彼女の自由。契約を破ったら、助けた命は自ら失うことになる。
それくらい彼女の中では常識であり、盗人の命はそれだけ軽い。
蛭田は彼女がここに来た理由に薄々気づいていた。
壁に背中をつけて片膝で座り込む。
「それで、わざわざ何の用だ」
「うん、お前を殺そうと思って」
「……だと思ったぜ」
失ったばかりの両手を見つめる。
あの家を標的に決めたときから、何かが狂い出した。
元より蟻山と蜂彦は寄せ集めの道具のつもりだったが、彼らは壮絶な死に方をしたと聞いた。
それが普通に生きていたら味わうはずがない苦痛と恐怖だったというのは、廊下を通る警察官のため息や声を聞けばわかった。
蛭田は両腕も金も人生も信頼すら失った。
餌箱と思っていた場所は虎の巣穴で、自分は怪物の尾を踏みつけてしまった。堅気の人間なら知らなくていいことを知り、関わってはいけないものに関わってしまった。
「お前たちが禅にしようとしたことだ。後悔はないだろう?」
「……禅?誰の話だ?」
「お前が殺そうとした人間だ」
「あぁ、あの家にいたガキか。
ってことは、あんた……まさか人間と暮らしているのか?」
「そうだが?」
「そうだがって……は?何で、そんな当たり前みたいな顔して……」
「そんなに驚くことか?
最も、私の同居人はお前が死ぬことを望んでいないらしいがな」
実行犯が死ねば、捜査の手間が省けた警察は大助かりだろう。
計画犯も模倣犯も、命の危険を冒してまで金銭を得ようとは思わない。しばらくは迂闊にこの家に手を出せないはずだ。
まさに一石三鳥、マトンは本気でそう思っていた。
「そうだ、禅。あいつらを殺してしまおう」
「あいつらって……強盗団の人たちのこと?」
「そうだ。そうしたら、禅も私も安心できるし心もスッキリする」
復讐は心を晴らすもの、そう本にも書いてあった。
けれど、どうやら全ての人間がそうではないらしいと知ったのは、禅の顔から笑顔が消えてからだった。
人は心の底から驚いたときには顔から表情や感情というものが抜け落ちるらしい。
それはマトンが思い描いていた反応とは真逆のものだった。
既に実行犯が捕まっているのに、さらに復讐をしようなんて考えは、禅にはなかった。
ましてや死んでほしいなんて、思いもしなかった。
だが、禅だって生まれてから一度も復讐を考えたことがないわけではない。
「……気持ちはわかるけど、この国ではそれは許されていないんだよ。
法律があるからだけじゃない。
誰かを殺したり傷つけたりしたら、その人の家族や友達は僕たちと同じように苦しむんだ。その人たちのことを考えてごらん?」
「考えた、だから?
なぜ、見ず知らずの人間のことを気にする必要がある。
禅はあいつらを恨んでいるのだろう?余計な負の感情はさっさと取り払った方がいい」
「恨んでない……わけじゃないよ。とても怖い思いをしたわけだし。
でも怒りや悲しみに任せて動いたら後悔する。それは、きっと取り返せない後悔だから。
僕は復讐なんてしたくないし、マトンがそうするなら止めるよ」
「私はそうは思わない」
「うん、うん、わかるよ。きっとそれも間違っていないよ」
「禅だって、あいつらが嫌いだろう?嫌いな人間はいなくなった方がいいだろう?」
「違うよ、僕はそう思わないよ」
「でも、でもそんなこと……そんなこと、あるはずが……」
禅の言葉に偽りはない。
生活の傍らに常に魔法が存在し、戦争によってさらに魔法が栄えていた世界では、瞬きをする間に戦いの決着がつく。たった一言の詠唱で首が落ち、二言あれば軍隊が全滅する。
生き残るには、こちらも魔法を使えることが大前提だ。
しかし、ただ魔法が使えて視覚や聴覚といった五感が優れているだけでは足りない。魔法を使うことを前提にした戦闘に対応できない。
何故、魔族が他種族を抑えて元の世界を支配することができたのか。
魔族は魔力と魂で構成されている。そして魂の動きすらも知覚することができる。
魂とは魔力を操る器官。魂が発する感情や敵意、害意すらも彼らは本能的に察知する。
そして敵が己の安全を脅かすと判断したとき、即ち不快を感じた瞬間に反撃する。
故に、魔族はどの種族よりも魔法での戦闘に長けている。
故に、魔族に嘘は通じない。
禅の言葉に偽りはない。それがわかるからこそ、マトンは受け入れられなかった。
「危ないんだぞ?危険なんだぞ?あいつらがいなくなった方が安全なんだぞ」
「……マトン、人から奪ったもので得られる安全なんてまやかしだよ」
「まやかし?」
ほとんどの生物が魔法を使える代わりに、元の世界は乱世だった。
それは人間も魔族も変わらない。どこに行ってもどの種族も争いをしている世界。水も食べ物も圧倒的に足りない。奪わなければ生きていけない。
いつ襲われても、誰に裏切られてもおかしくない世界では、簡単に魂が穢れていく。
生命の危機に怯え、簡単に他者を傷つけ罪を犯す。未来を信じられないから、一時の欲望に身を落とす。
彼らに信念はない。己以外は信じないし、信じられない。
利己的な魂の、様々な感情が混じった薄汚い色は見飽きている。
「この人たちを殺して、それでマトンの人生は豊かになるの?」
「豊か?人生?何を言っているんだ」
「難しい話じゃないよ。僕はマトンに幸せになって欲しいんだ」
禅の魂は朝露のように透き通っていて、見たことのない輝きを放っている。
どんな人生を送り、何を感じて育ったらそんな色になるのか。
それはどんな鉱石や宝石よりも珍しく価値がある色だった。
おそらく、これを美しいというのだ。
「私は、禅の言っている意味がわからない」
「……そっか、いつかマトンもわかる日が来るよ」
けれど、マトンは禅の言葉に共感することができない。
白桃は自分に向かって「何かズレている」と言っていた。
彼女も憶病だが素直な善人だった。
北海道が海に囲まれていること、桃を育てるには時間がかかることは、彼女との会話で学んだことだ。
本から得られる知識には限界がある。
文字として表現するまでもない常識、文字として表現することができないことは山ほどある。字間と行間に隠れた何かを知らなければ、この世界のことを知らなければ、禅の気持ちはわからない。
人間に直接触れて経験を積まなければ、このズレは修正できない。
「私は、あの家の安全を脅かす存在を決して許さない。
お前も、お前を操っている人間にも、必ず罰を与える」
「俺が喋ったら、今度はそいつらのところに行くわけか」
「そうだ、お前と同じ地獄に行ってもらおう」
「同じ組織に所属してはいるが、あいつらがどうなろうが俺は痛くも痒くもない。
ただ一つ、さっきから気になっていることがあるんだが……いいか?」
「気になっていること?」
「あんたの服装、あの夜とは違うな」
「むぅ?当たり前だろう。風呂に入ったら清潔な服に着替えるのだから」
「はっ、当たり前か。あんたまさか、怪物のくせに人間として生活しているのか?」
「なぜ私が、お前のような下等種族として生活をしなくてはならないんだ?
そんなわけがないだろう。逆なら理解できるが」
「下等種族……まぁ、反論はできないわな」
己が中心に世界が回っているという顔をしておきながら、毎日風呂に入って清潔な服に着替えて一丁前に人間の生活をしている。
容疑者の蛭田がまず留置場で捜査の供述をするという社会構造を理解していながら、躊躇なく留置場に侵入をしてくる。
一歩間違えれば、警察どころか国そのものを敵に回していてもおかしくない。
これだけ常識から外れていて、まさか人間社会の中で生まれ育ったわけではあるまい。
つまり、誰かがこの怪物に教養と知識を与えている。
下等種族と思われながら、この怪物と同じ屋根の下で無傷で共存している。
蛭田は自分たちが殺そうとした禅という少年に興味が湧いた。
「……まぁ、残念ながらもう会うこともないだろうが」
「何だ?もう少し大きな声で喋ってくれ」
「ただの独り言だよ。
じゃあ、あんたは下等種族の人間と生活して人間社会を理解しようとしているのか」
「うーん、そんなところかもしれない」
「ははっ、そいつは最高のニュースだな」
これは希望か絶望か、人間の道理を理解する怪物など聞いたことが無い。
蛭田薊は、この世界で最初にその脅威に気づいた人間だった。
「もういいか?そろそろ私の質問に答えてもらおう。
協力するなら、お前を殺すのは最後にしてやる。断るなら両の脚も切り取る」
「答える、答えるが、その前に俺の話を聞いてくれないか」
「お前は聞き分けの良い人間だと思ったんだがな。お前の話など知ったことか」
「だろうな、だからこれはお願いだ。
聞くも聞かないもあんたの自由だが、願いを聞いてくれるなら、俺は何でもする」
「ほぉ?私にその言葉は重いぞ」
「わかっている、でもどうせ俺はもうまともに生きられない。
組織だって、失敗して戻ってきた人間を歓迎しちゃくれないだろう」
「ふーむ、時間稼ぎのつもりか?
言っておくが、お前が死ぬまで契約は有効だぞ。
その命も私の気分次第で簡単に消えて無くなると思え」
「俺は神様なんて信じちゃいないが、神に誓って本心だ。
あんたの力はよく知っている。契約の証も見た。頼むから話だけでも聞いてくれ。
その上で願いを叶えるかは、あんたが決めればいい」
蛭田の身体は微かに震えていた。マトンには彼の言葉が本心なのもわかる。
廃工場ではあれだけ粋がっていた男が、ここまで神妙になっている。
警察に捕まっても、人外を頼ることになっても、叶えたい願いとは何なのか。
「ふーん、困ったな。そこまで聞いてしまうと興味が湧いてしまう。
だが、私は聞くだけだ。それと、つまらない願いだったら足を貰うからな」
「……好きにしてくれ。さっきも言ったが、どうせもう他に誰も頼れないんだ」
だが、彼女が人間の言葉を理解していることは蛭田にとって間違いなく希望だった。
もしもう一度出会えるなら、彼はマトンに伝えたいことがあった。
いや、神も仏も信仰していない蛭田の前に現れた悪魔に叶えて欲しい願いがあった。
例えそれが怪物でも人類の敵だとしても、彼にとってはどうでもよかった。
「廃工場であんたが言っていた、山で見かけた死体についてだ」
「死体?さぁ、言ったかな。お前たちとの会話なんていちいち覚えていないぞ」
「いや、確かに言っていた」
「そうかもな。だが、それで?それがお前とどう関係する?」
「関係はある。
俺の母は十五年前の秋、自宅を出たきり行方不明になった」
「他の仲間はどうした?あと一人いるだろう」
「ここが……ここがどこだか、わかってんのか?」
「留置場だろう?警察署の中の」
蛭田は身体を起こすと、一つしかない出入口を確認する。
扉は締まっている。鍵も閉まっているように見える。
監視廊下に接する扉と檻は合成樹脂板か鉄格子で囲われており、その格子の間も細かい金網に覆われている。
差し入れ口も最低限の大きさで、人間が通れる隙間なんてこの空間にはない。反対側の採光用の窓ですら、内側には鉄格子が設けられていて、他の壁は鉄筋コンクリートの壁だ。
どこからも逃げ出すことはできない、故にどこからも侵入することはできない……はずだった。
「拘留場に行く前で良かった、あそこは遠すぎる」
「人間の事情なんて、怪物には関係ねぇってか。
ヤスデなら別の部屋だ。蟻山と蜂彦は……死んだと聞いている」
「そうか」
「あんたの仕業か?」
「だろうなぁ。それに奴らは頭が悪い、契約を破ったのだろう」
二人の訃報を聞いても、彼女は驚きも喜びもしない。
蛭田ですら、それを聞いたときは思わずポーカーフェイスが崩れたというのに。
まさに生かすも殺すも彼女の自由。契約を破ったら、助けた命は自ら失うことになる。
それくらい彼女の中では常識であり、盗人の命はそれだけ軽い。
蛭田は彼女がここに来た理由に薄々気づいていた。
壁に背中をつけて片膝で座り込む。
「それで、わざわざ何の用だ」
「うん、お前を殺そうと思って」
「……だと思ったぜ」
失ったばかりの両手を見つめる。
あの家を標的に決めたときから、何かが狂い出した。
元より蟻山と蜂彦は寄せ集めの道具のつもりだったが、彼らは壮絶な死に方をしたと聞いた。
それが普通に生きていたら味わうはずがない苦痛と恐怖だったというのは、廊下を通る警察官のため息や声を聞けばわかった。
蛭田は両腕も金も人生も信頼すら失った。
餌箱と思っていた場所は虎の巣穴で、自分は怪物の尾を踏みつけてしまった。堅気の人間なら知らなくていいことを知り、関わってはいけないものに関わってしまった。
「お前たちが禅にしようとしたことだ。後悔はないだろう?」
「……禅?誰の話だ?」
「お前が殺そうとした人間だ」
「あぁ、あの家にいたガキか。
ってことは、あんた……まさか人間と暮らしているのか?」
「そうだが?」
「そうだがって……は?何で、そんな当たり前みたいな顔して……」
「そんなに驚くことか?
最も、私の同居人はお前が死ぬことを望んでいないらしいがな」
実行犯が死ねば、捜査の手間が省けた警察は大助かりだろう。
計画犯も模倣犯も、命の危険を冒してまで金銭を得ようとは思わない。しばらくは迂闊にこの家に手を出せないはずだ。
まさに一石三鳥、マトンは本気でそう思っていた。
「そうだ、禅。あいつらを殺してしまおう」
「あいつらって……強盗団の人たちのこと?」
「そうだ。そうしたら、禅も私も安心できるし心もスッキリする」
復讐は心を晴らすもの、そう本にも書いてあった。
けれど、どうやら全ての人間がそうではないらしいと知ったのは、禅の顔から笑顔が消えてからだった。
人は心の底から驚いたときには顔から表情や感情というものが抜け落ちるらしい。
それはマトンが思い描いていた反応とは真逆のものだった。
既に実行犯が捕まっているのに、さらに復讐をしようなんて考えは、禅にはなかった。
ましてや死んでほしいなんて、思いもしなかった。
だが、禅だって生まれてから一度も復讐を考えたことがないわけではない。
「……気持ちはわかるけど、この国ではそれは許されていないんだよ。
法律があるからだけじゃない。
誰かを殺したり傷つけたりしたら、その人の家族や友達は僕たちと同じように苦しむんだ。その人たちのことを考えてごらん?」
「考えた、だから?
なぜ、見ず知らずの人間のことを気にする必要がある。
禅はあいつらを恨んでいるのだろう?余計な負の感情はさっさと取り払った方がいい」
「恨んでない……わけじゃないよ。とても怖い思いをしたわけだし。
でも怒りや悲しみに任せて動いたら後悔する。それは、きっと取り返せない後悔だから。
僕は復讐なんてしたくないし、マトンがそうするなら止めるよ」
「私はそうは思わない」
「うん、うん、わかるよ。きっとそれも間違っていないよ」
「禅だって、あいつらが嫌いだろう?嫌いな人間はいなくなった方がいいだろう?」
「違うよ、僕はそう思わないよ」
「でも、でもそんなこと……そんなこと、あるはずが……」
禅の言葉に偽りはない。
生活の傍らに常に魔法が存在し、戦争によってさらに魔法が栄えていた世界では、瞬きをする間に戦いの決着がつく。たった一言の詠唱で首が落ち、二言あれば軍隊が全滅する。
生き残るには、こちらも魔法を使えることが大前提だ。
しかし、ただ魔法が使えて視覚や聴覚といった五感が優れているだけでは足りない。魔法を使うことを前提にした戦闘に対応できない。
何故、魔族が他種族を抑えて元の世界を支配することができたのか。
魔族は魔力と魂で構成されている。そして魂の動きすらも知覚することができる。
魂とは魔力を操る器官。魂が発する感情や敵意、害意すらも彼らは本能的に察知する。
そして敵が己の安全を脅かすと判断したとき、即ち不快を感じた瞬間に反撃する。
故に、魔族はどの種族よりも魔法での戦闘に長けている。
故に、魔族に嘘は通じない。
禅の言葉に偽りはない。それがわかるからこそ、マトンは受け入れられなかった。
「危ないんだぞ?危険なんだぞ?あいつらがいなくなった方が安全なんだぞ」
「……マトン、人から奪ったもので得られる安全なんてまやかしだよ」
「まやかし?」
ほとんどの生物が魔法を使える代わりに、元の世界は乱世だった。
それは人間も魔族も変わらない。どこに行ってもどの種族も争いをしている世界。水も食べ物も圧倒的に足りない。奪わなければ生きていけない。
いつ襲われても、誰に裏切られてもおかしくない世界では、簡単に魂が穢れていく。
生命の危機に怯え、簡単に他者を傷つけ罪を犯す。未来を信じられないから、一時の欲望に身を落とす。
彼らに信念はない。己以外は信じないし、信じられない。
利己的な魂の、様々な感情が混じった薄汚い色は見飽きている。
「この人たちを殺して、それでマトンの人生は豊かになるの?」
「豊か?人生?何を言っているんだ」
「難しい話じゃないよ。僕はマトンに幸せになって欲しいんだ」
禅の魂は朝露のように透き通っていて、見たことのない輝きを放っている。
どんな人生を送り、何を感じて育ったらそんな色になるのか。
それはどんな鉱石や宝石よりも珍しく価値がある色だった。
おそらく、これを美しいというのだ。
「私は、禅の言っている意味がわからない」
「……そっか、いつかマトンもわかる日が来るよ」
けれど、マトンは禅の言葉に共感することができない。
白桃は自分に向かって「何かズレている」と言っていた。
彼女も憶病だが素直な善人だった。
北海道が海に囲まれていること、桃を育てるには時間がかかることは、彼女との会話で学んだことだ。
本から得られる知識には限界がある。
文字として表現するまでもない常識、文字として表現することができないことは山ほどある。字間と行間に隠れた何かを知らなければ、この世界のことを知らなければ、禅の気持ちはわからない。
人間に直接触れて経験を積まなければ、このズレは修正できない。
「私は、あの家の安全を脅かす存在を決して許さない。
お前も、お前を操っている人間にも、必ず罰を与える」
「俺が喋ったら、今度はそいつらのところに行くわけか」
「そうだ、お前と同じ地獄に行ってもらおう」
「同じ組織に所属してはいるが、あいつらがどうなろうが俺は痛くも痒くもない。
ただ一つ、さっきから気になっていることがあるんだが……いいか?」
「気になっていること?」
「あんたの服装、あの夜とは違うな」
「むぅ?当たり前だろう。風呂に入ったら清潔な服に着替えるのだから」
「はっ、当たり前か。あんたまさか、怪物のくせに人間として生活しているのか?」
「なぜ私が、お前のような下等種族として生活をしなくてはならないんだ?
そんなわけがないだろう。逆なら理解できるが」
「下等種族……まぁ、反論はできないわな」
己が中心に世界が回っているという顔をしておきながら、毎日風呂に入って清潔な服に着替えて一丁前に人間の生活をしている。
容疑者の蛭田がまず留置場で捜査の供述をするという社会構造を理解していながら、躊躇なく留置場に侵入をしてくる。
一歩間違えれば、警察どころか国そのものを敵に回していてもおかしくない。
これだけ常識から外れていて、まさか人間社会の中で生まれ育ったわけではあるまい。
つまり、誰かがこの怪物に教養と知識を与えている。
下等種族と思われながら、この怪物と同じ屋根の下で無傷で共存している。
蛭田は自分たちが殺そうとした禅という少年に興味が湧いた。
「……まぁ、残念ながらもう会うこともないだろうが」
「何だ?もう少し大きな声で喋ってくれ」
「ただの独り言だよ。
じゃあ、あんたは下等種族の人間と生活して人間社会を理解しようとしているのか」
「うーん、そんなところかもしれない」
「ははっ、そいつは最高のニュースだな」
これは希望か絶望か、人間の道理を理解する怪物など聞いたことが無い。
蛭田薊は、この世界で最初にその脅威に気づいた人間だった。
「もういいか?そろそろ私の質問に答えてもらおう。
協力するなら、お前を殺すのは最後にしてやる。断るなら両の脚も切り取る」
「答える、答えるが、その前に俺の話を聞いてくれないか」
「お前は聞き分けの良い人間だと思ったんだがな。お前の話など知ったことか」
「だろうな、だからこれはお願いだ。
聞くも聞かないもあんたの自由だが、願いを聞いてくれるなら、俺は何でもする」
「ほぉ?私にその言葉は重いぞ」
「わかっている、でもどうせ俺はもうまともに生きられない。
組織だって、失敗して戻ってきた人間を歓迎しちゃくれないだろう」
「ふーむ、時間稼ぎのつもりか?
言っておくが、お前が死ぬまで契約は有効だぞ。
その命も私の気分次第で簡単に消えて無くなると思え」
「俺は神様なんて信じちゃいないが、神に誓って本心だ。
あんたの力はよく知っている。契約の証も見た。頼むから話だけでも聞いてくれ。
その上で願いを叶えるかは、あんたが決めればいい」
蛭田の身体は微かに震えていた。マトンには彼の言葉が本心なのもわかる。
廃工場ではあれだけ粋がっていた男が、ここまで神妙になっている。
警察に捕まっても、人外を頼ることになっても、叶えたい願いとは何なのか。
「ふーん、困ったな。そこまで聞いてしまうと興味が湧いてしまう。
だが、私は聞くだけだ。それと、つまらない願いだったら足を貰うからな」
「……好きにしてくれ。さっきも言ったが、どうせもう他に誰も頼れないんだ」
だが、彼女が人間の言葉を理解していることは蛭田にとって間違いなく希望だった。
もしもう一度出会えるなら、彼はマトンに伝えたいことがあった。
いや、神も仏も信仰していない蛭田の前に現れた悪魔に叶えて欲しい願いがあった。
例えそれが怪物でも人類の敵だとしても、彼にとってはどうでもよかった。
「廃工場であんたが言っていた、山で見かけた死体についてだ」
「死体?さぁ、言ったかな。お前たちとの会話なんていちいち覚えていないぞ」
「いや、確かに言っていた」
「そうかもな。だが、それで?それがお前とどう関係する?」
「関係はある。
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