勇者から逃亡した魔王は、北海道の片田舎から人生をやり直す

栗金団(くりきんとん)

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【第16話】少年の夢と、ささやかな幸せ

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禅は、目が覚めると柔らかい陽光に包まれていた。
人の気配がして顔を傾けると、くりくりと動く丸い大きな瞳が弧を描く。
「お兄ちゃん起きてぇ!朝だよぉー」
八歳になったばかりの妹の麦が、ベッドのすぐ横に立っていた。母親譲りの目元は禅とよく似ている。
髪色は父親譲りの栗毛で、母に結んでもらった二つ結びの髪には彼女が好きな桃のアクセサリーが付いている。
麦は小さな手で禅の腹の上に乗ったブランケットを握ると、左右に揺らす。
「うるさいなぁ、麦。もう少し寝かせてよ」
「おはよっ、おはようっ。ねぇ、お兄ちゃんってばー?」
「うっ……重いっ、上に乗るなよな」
「あははっ、はははっ」
背中を向けて目を瞑ると、麦が身体の上に乗ってくる。日に日に成長する妹は、体重も昔よりずっと増えて重くなった。
身体を捩っても揺らしても麦は楽しそうに乗ってくる。
妹はしつこい、起きてくるまでこうしているつもりだろう。
すっかり眠気が覚めた禅は、耐えきれなくなって目を開ける。
「あぁ、もう!わかったよ、起きるよ」
「お兄ちゃん起きたぁ!早く早く、ご飯だよぉ」
「もー、休みの日くらいゆっくり寝かせてよ」
階段を下りてリビングに入る。
食卓の上には炊き立てのご飯と焼き魚、卵焼きに味噌汁が並んでいる。
休みの日の朝食は決まってこのメニューだった。玄関ではタロウが自分の腕を枕にして涼んでいる。
席には祖母と、母と父が座っていた。麦がまだ高い椅子によじ登って座る。
「やっと起きたかぁ、禅。遅いぞぉ」
「おはよう、禅。夏休みだからって、少しばかり寝すぎじゃないか?」
「麦、お兄ちゃんを起こしてくれてありがとう。
全く、禅ったら昨日夜更かしでもしてたんでしょ?」
「……」
「こら、禅。みんなに朝の挨拶をしなさい」
「……おはよう」
「はい、おはよう」
テレビでは、今日も最高気温を更新した話をしていた。夏休みも終わりが近づいているのに、外は相変わらず暑くてたまらない。
そういえば、宿題もまだ全然進んでいない。
箸で鮭の身を解して骨を端に寄せる。身だけつまんで口にして違和感を覚えた。
「味がしない?匂いも……」
「今日の夕飯だけど、久々に焼肉にしようかしら。
嵐山さんからおすそ分けで頂いたお肉、せっかくだから今日食べちゃいましょう?」
「やったぁ!焼肉焼肉!」
「おっ、いいねぇ。麦はお肉が大好きだもんな」
「えぇ?僕は魚がいいよ。先週も生姜焼きだったじゃん」
「じゃあ、明日は禅の好きな魚料理にしようね。何がいい?」
「うーん、じゃあ鮭のムニエルがいいな。もしくはお刺身とか!
タマも食べられるし、マトンもマグロのお刺身は好きって言ってたから」
「わかった、じゃあ今日の買い出しで買おうな」
「うん!」
「お兄ちゃんお兄ちゃん、おすそ分けってなぁに?」
「……おすそ分けって言うのは、お隣さんとかに食べ物を分けたりすることだよ」
テレビを見ていた麦が禅に振り返る。
小学校に上がってから、妹は目に入るもの耳にするもの全てが新鮮なようだ。
本好きの父親譲りの好奇心で、何でもかんでも兄に質問をするようになった。
だが、質問をされる方はたまったものではない。
禅は兄だからといって妹の世話をやらされることを、前々から面倒に思っていた。おまけに、祖母も両親もその様子を微笑ましそうに見るだけで助けてはくれない。
「何でそんなことするの?」
「何でって、余った作物とか……色々もったいないだろ」
「何で?」
「いやだから……あぁ、もういい。自分で調べろよ」
「何でなんで何で!」
「あーうるさいうるさいうるさい!お父さん、笑ってないで助けてよ!」
「はいはい、麦は知的好奇心旺盛だなぁ。後でお父さんと一緒に調べような?」
「そうねぇ、麦の将来は研究者かしら」
「もう、二人揃って親馬鹿だなぁ……」
「おいおい、禅もだぞ。将来は先生かな?何になるのか楽しみだ」
「そうよ?お父さんみたいに農家になってもいいし、大学に進んでもいいし。
二人とも才能があるんだから、何だって出来るわよ」
「お母さんまで……あれ?そう言えば、タマとマトンのご飯は?」
「ん?なぁに?」
「だから、タマとマトンが……あ」
夫婦仲の良い両親と、元気いっぱいな妹、孫たちが大好きな祖母。
五人家族と犬一匹の生活は平凡だが穏やかで幸せだった。
だが、禅は唐突に気づいてしまう。
口に入れた鮭の味がしない理由、この幸せな空間にタマとマトンがいない理由、そして誰もそのことに疑問を抱かない理由を。
「お兄ちゃん?ご飯食べないの?」
「禅?どうしたんだ?」
「あら、食欲ないの?どこか悪いのかしら」
「……ねぇ、何で?何で、麦がタマとマトンのことを知っているの?」
タマは去年の冬、身ごもったまま他の猫から追い回されていて、それを禅が助けたことをきっかけに家猫になった。
マトンは、今年の夏に禅が畑で怪我しているのを見つけて居候になった。
どちらも禅が拾ってきて禅が介抱した。放っておけなかったから、だけではない。
もしも両親と妹が生きていたら、同じように拾って助けると思ったからだ。
タロウは、子犬のときに山で捨てられているのを父が拾ってきて家族みんなで育てた。
この空間にタマとマトンがいないのは、彼らと出会ったのが両親と妹が亡くなった後だからだ。
両親と麦が、タマとマトンのことを知っているはずがない。
「あぁ、そうか。これは……夢だ」
そこで目が覚めた。
上半身を起こすと、隣でタロウが「キューキュー」と鼻を鳴らしていた。
生温かい涙が頬を伝っていた。ブランケットで拭っても拭っても、次々に溢れて止まらない。
お座りをして顔を覗き込むタロウの耳も下がっている。尾が心配そうに揺れている。
その小さな身体に両手を回して抱きしめると、人間よりも高い体温が胸に伝わってきた。
「だめだなぁ、もうすぐ一年が経つのに……」
「キューン、キューン」
「寂しいね、タロウ」
「キュー、キュー、キュー」
階段を下りてリビングに入る。
キッチンで朝食の準備をする祖母と、畳に寝転ぶマトン。マトンの視線の先には、子猫を連れながらウェットフードを頬張るタマがいる。タロウも腹を空かせているのだろう、タマの朝ご飯を見て口の端から涎がのびている。
「おはよぉ、禅」
「おはよう、おばあちゃん。マトンとタマも」
「おはよう。今日はお寝坊さんだな、禅。
そして見てくれ!子猫が大きくなっているぞ!」
「本当だ、それにみんな元気そうだ。良かったね」
「あぁ、良かった。見て見ろ!このゴボウみたいな尾を!」
孫思いの祖母と不思議な居候、元野良猫のタマと子猫たちに、元猟犬のタロウ。
二人と二匹から三人と七匹に増えた生活は、平凡ではないが穏やかで幸せではあった。
「ふふふ、嬉しそうだねぇ。
……そうだ、子猫の体重を測ってみようか」
「体重?子猫の?」
「そう、どのくらい成長したのか記録をつけておこうよ。
おばあちゃん、キッチンスケール借りるね」
「あいよぉ、ちゃんと消毒するんだぞぉ」
「はーい」
子猫の軽い体重を測るには、グラム単位で表示ができる測定器が必要になる。畳の上にキッチンスケールを置き、タオルを敷いた底の深いボウルを用意する。
準備を終えた禅は、食事を終えたタマの身体を撫でる。
出産で消耗した体力は不思議なことに一夜でほとんど回復したらしく、毛艶も母乳の出も良さそうだ。子猫たちも活発に動き回っている。
「タマ、ちょっと子猫を借りるよ」
「ンゴロゴロゴロ……ニャー」
「体重で成長がわかるのか。どのくらいが正常なんだ?」
「基準はないけど、前日より増えていたら健康ってところかな。
この白毛の子なんて、他の子よりもちょっと身体が大きいでしょ?」
「同じ日に生まれたのに不思議だ、早く生まれたからか?」
「多分そうだと思うけど、成長も個体差があるから一概には言えないんだよ。
よーし、少しだけじっとしていてねぇ……ごめんねぇ、移動するよ」
「ミャウ、ミャウ、ミャウ」
まだ目が開いていない、白毛の子猫をボウルに入れる。
兄弟から離れされた子猫は、ジタバタと手足を這わせてボウルから出ようとする。なかなか数字が定まらない。
禅は子猫が落ちないように両手を構える。畳の上には筆記用具が用意されている。
マトンは畳に寝そべってボウルを下から覗き込み、子猫の体重測定を見学していた。
「八十五グラムっと」
「……」
「はい、次はサバ柄ちゃんだね。
動かないでよぉ……よし、九十三グラムか」
「……」
「マトン?そんなに見つめてどうしたの?」
「禅が文字を書いているのを初めて見た。ペンはそうやって握るのだな」
余っていたノートに子猫の体重を書き記していく。
何てことの無い動作に見えるが、禅はいつも自室で勉強をしていた。今時、祖母も彼も手書きで手紙を書くこともない。
マトンは、禅がボールペンを握って文字を書いていく様子を黙って見つめていた。
「そうだっけ?気になるなら、マトンも書いてみる?」
「うん、やってみる」
ボールペンを受け取り、禅の真似をして指を絡ませる。ペンはまだ温かい。
しばらくペンの先とお尻の間で持ち手を行ったり来たりして、ようやく真ん中あたりで落ち着く場所を見つけた。
ペンを回して指の感覚を確かめたり、ノートに適当な文字を書いたりする。
「じゃあ、次は黒猫ちゃん」
「ピャァー!ミャーー!」
残った末っ子を下ろす。相変わらず兄弟と比べて小さく軽く、けれど声だけは大きい。
昨夜もマトンに向かって懸命に生を叫んだ子猫だ。測定中も元気に鳴き続けるので、他の兄弟よりも時間がかかった。
口を開くと、まだ牙も生えていないのに舌だけは猫らしい棘があるのがわかる。
体重を確認した禅の声には、安堵が含まれていた。
「八十グラム……良かった、これなら大丈夫そうだ」
「はちじゅうグラムっと……よし、記録したぞ」
「わぁ、マトンは字が綺麗だね。まるで印刷した字みたいだ」
「そうか?変だろうか?」
「すごいねぇ、字は性格が出るからマトンは几帳面なんだろうね」
「……なぁ、禅。猫たちがくっついている。何でだろう」
「あぁ、温かいんだよ。子猫は体温が高いから」
ケージに戻った子猫たちは、腹が膨れて眠くなったのだろう。折り重なってお互いの体温で温まりながら眠りにつく。
母乳を飲んで寝て、起きたらまた飲んで寝て、たまに排泄をしたり毛づくろいをされたりもする。それが子猫の一日であり仕事だ。
タマはやっと自身の毛並みを整える時間を得る。
マトンは子猫の団子の中に人差し指を突っ込んだ。まだ毛が生えそろっていない子猫たちの柔らかい肌や背中の感触が、指先から伝わる。
「確かに、温かい」
「猫は人間より体温が高いんだ。
この子たちはまだ自分で体温を調節できないから、こうやってくっ付いているんだよ」
「人間よりも?確かめさせてくれ」
「んっ……ま、マトン?えっ、あのっ、んんっ」
「こら、動いたら体温を測れないぞ」
夏でも一日中冷房をつけているこの家で、今日の禅は長袖長ズボンを着用していた。
マトンは、そんな中でも唯一素肌が露出していて、神経が密集している禅の首に手をのばす。
タロウを可愛がるときと同じように、禅の首に手を沿わせて撫でる。
禅は、唐突に急所を抑えられたことに困惑の表情を浮かべる。
不意を突かれたまま、マトンの親指の腹で喉仏の隆起した部分を上下に撫でられる。まるで愛撫されているようだ。
マトンは真剣な顔で禅と子猫の体温を比べている。
動揺しているのが自分だけという状況に、禅はさらに困惑して変な汗をかく。
マトンの指は滑らかでひんやりとしていた。
「く、くすぐったいよ……?」
「本当だ、子猫の方が温かい」
「うっ……マトン、急に触ったらびっくりしちゃうって」
「禅だって、タロウとタマに触れるときは急だろう」
「そうなんだけど、そうじゃないというか……。
うーん、人間同士は言葉でコミュニケーションも取らないと」
「そうか、びっくりさせてすまない」
「……いいけどさ。次からは気を付けて欲しい、かな」
禅は襟を掴んでパタパタと仰ぐ。マトンはもう禅への興味を失くしたようだ。
最初は目に映る全てに新鮮な反応を見せてはしゃいでばかりいたこの居候は、ここ数日は祈生家の生活に慣れたからか、禅の模倣ではなく自分の頭で考えて動くことが増えた。
それに伴って、彼女本来の個性が垣間見えるようになってきた。
禅はそんなマトンにどう接したらいいか、わからなくなっていた。
「……調子狂うなぁ」
「禅!タマの体重も測ろう」
「タマも?」
「よいしょっ」
「にゃっ、うにゃぁー!?」
「あぁ、こらこら!タマに乱暴しないの!」
束の間の休息を楽しんでいたタマが、この家で最も長く生きている子供の手によって引っ張り出される。
手加減を覚えたマトンの手は優しくもう痛みはないが、タマは気分を害して顔を歪める。子猫が名残惜しそうに鳴く声も禅が止める声も子供の耳には入らない。
マトンは数キロ分のタマを軽々と持ち上げて、子猫と同じようにボウルに入れようとする。
だが、足先が入る前にタマにボウルを蹴っ飛ばされた。
「むぅ、タマ?タマの体重も測らせて欲しいんだが?」
「……ニャアゴ」
「わかったわかった、僕も協力するからタマを下ろしてあげて。
お風呂場から体重計持ってくるから、大人しく待っててね」
「……はぁーい」
マトンは一度言い出したら聞かない。
目を話した隙にこっそり再挑戦されるくらいなら、禅が見守っているうちにやる方がまだましだ。
風呂場から人間用の体重計を持ってくる頃には、タマは渋々といった表情で人間の赤ん坊のようにマトンに抱かれていた。
禅が体重計を置いて用意を済ませると、マトンが放した瞬間に「やれやれ」とケージに向かって歩き出す。
「タマ、こっちおいで。すぐ終わるから」
「ニャ、ニャ、ニャ」
禅が呼びとめるが、猫にとっては体重など些細なことである。協力する気はなさそうだ。
「タマ、やっぱり嫌そうだなぁ。
マトン、意地悪しちゃだめだよ」
「意地悪?意地悪ではない。だが、どうしたらいい?」
「仕方がない、僕が抱っこして乗るよ。
タマ、ごめんね。後でオヤツあげるからね」
「ニャーォ」
タマを抱えて体重計に乗る。すぐにタマを解放して、禅はもう一度体重計に乗り直す。
「僕の体重が五十五キロだから、タマは三キロだね」
「禅が五十五キロ、タマが三キロ」
「僕の体重まで書かなくてもいいよ。……ちょっとは戻って来たかな」
ノートを覗き込んだ禅は苦笑いを浮かべる。
「禅も体重が増えていくのか?」
「そりゃあ、太ったりすれば増えるけど。一応成長期だから、毎年背ものびてるよ」
「背も?ここまでのびるのにどのくらいかかったんだ?」
「どのくらい?僕は十六歳だから、十六年……かな?」
「じゃあ、十六年でここまで成長したのか」
「うん、そうだね。といっても、まだしばらくはのびて欲しいかな」
禅の視線が部屋の隅へ向かう。
ノートに視線を落としていたマトンは、禅が何かを言おうと口を開いて、それから閉じたことに気づきもしなかった。そして、注意をされても禅の体重を消したりはしなかった。
「そうか、わかった」
「あと、猫たちの体重を測るときは僕と一緒にやろうね」
「操作は覚えた。私だけでも出来る」
「うーん、できれば子猫たちが楽しく体重を測れるようにしたいんだ。
マトンのやり方はまだ危なっかしくて乱暴だから、任せるには早いかなぁ。
子猫が嫌がるとタマも不安がるし、一緒にやろうよ」
「タマと子猫は喋らないのに、どうして禅は彼らの気持ちがわかるんだ?
私はタマの気持ちが全くわからない。猫語は抽象的すぎる」
「ふふっ、猫語かぁ。僕も最初はわからなかったよ。
タマが野良から家猫になったばかりの頃は、今よりもっと尖っていて狂暴だったし。
一緒に暮らしながら表情とか動きを観察して、少しずつわかるようになったんだ」
「観察?それなら得意だ」
「おっ、その意気だよ。
あとはねぇ、相手の生態について知っておくといいよ。
例えば、動物が尾を振っているときは興奮しているときなんだ。
でもタロウは嬉しいときによく尾を振るけど、タマは嫌な気持ちのときによく尾を振っているんだ」
「へぇ、そうだったのか。
じゃあタマが私に抱かれているときによく尾を振るのは、私の抱っこが嫌だからなのか」
「そ、そうかもね……でも、そうやって少しずつ学んでわかるようになっていくんだよ。
そうしたらタマに信用してもらえるし、信用されたら、抱っこも嫌がられなくなるよ」
「わかった、観察する。知識も蓄える」
「うん、その調子だよ」
「楽しみだな」
「……楽しみ?」
「禅と子猫の成長を間近で見られる。この家にいると飽きない」
「それって、マトンはこの先もうちに……」
「おーい、ご飯できたよぉー」
「あ、はーい!マトン、お手伝いに行こう」
「やったぁ、今日の朝食は何だ?」
食卓の上には禅が好きな焼き魚とご飯、味噌汁に、禅が山から採ってきた山菜が並んでいた。
今度は、ちゃんと炊き立てのご飯の良い匂いがした。
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