龍神村の幼馴染と僕

栗金団(くりきんとん)

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【第7話】 シロツメクサ

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 翌日の昼休み、僕は転校して初めて男子のクラスメートに話しかけられた。
 丁度、紅葉が席を外したタイミングだった。
「おい、お前」
「え?何?」
「ちょっと面貸せよ」
 紅葉が僕の友達候補に挙げていた、村長の息子億人だ。
 小太りの身体にうだつが上がらない地味な顔立ち、坊主頭で印象は薄かったけど、取り巻きに囲まれているからすぐに顔は覚えた。それから、生意気そうな三白眼も。
 遊びの誘いだったら嬉しかったのだが、億人は不快さを隠そうともせず僕を憎々し気に睨んでいた。
 従えている子分たちが僕に話しかけられたときの反応と、重なるものがある。
「聞いたぜ。
 昨日、紅葉とデートしたんだってな」
「デートじゃないよ、川で遊んでただけ」
 肌がひりつくような嫌な予感しかしない。でも、断れる雰囲気じゃなかった。
 男子トイレの小便器前で男が5人駄弁っているのは、平時なら笑えるものだ。だが出入り口を塞がれてから、僕の心臓は痛いくらい鳴っている。
「一昨日は、展望台に行ったんだって?」
「それは先生が頼んだんだから…、ぐぁっ!?」
 億人が一気に距離を詰めて僕に迫り、腸が引きちぎられるような痛みが走った。
 殴られたと理解したころには、膝をついてトイレの床に蹲っていた。
 こいつら、はなから僕を殴る気でここに来たな?
「お前、調子乗ってるだろ」
「げほっ…うぅ…」
 呼吸ができないので声も出せない。
 芋虫みたいに地面を這いずり回っていたら、彼は怒気を帯びた言葉で僕を追及し始めた。ただの嫉妬にしては、随分やり方が乱暴だ。
 目の前でリーダーが暴走しているのに、取り巻きたちの目は据わっている。どうして誰も止めないんだ。
「都会から来たからって、ませてんじゃねぇよ。
 あいつは、俺が先に狙っていたんだ」
「…うっ!?」
 そんなの知ったこっちゃない。
 どうにかそう伝えたいのに、億人の蹴りがみぞおちにヒットして動けもしない。
 同じ中学生なのが不思議なくらい、体重差による力の差は大きかった。
 しかもデートといっても紅葉が僕に好意は抱くことはないのはわかっているだろうに、とんだ八つ当たりだ。
「お前らも、一発ずつ入れていけ」
「…っ!?」
 紅葉が人気者なのはわかっていた。
 人当たりも面倒見も良い学年一の美少女が転校生に良くしていて、それが気に喰わないのもわかる。彼らは幼少期から中学校まで同じ面子で過ごしていたから、外から来た人間を警戒する気持ちも……体験したことはないけど想像はつく。
 でも、彼らの強烈な連帯感と排他的な心理までは想像もできなかった。
「チクったら、ただじゃおかねぇからな。
 また村八分にされたくなきゃ、金輪際紅葉には関わるな」
「…ぅあ」
「行こうぜ。
 あ、お前ら放課後空いてるだろ?今日は街で遊ぼうぜ」
 億人は悠々と小便を済ませると、もちろん僕を介抱することなくトイレを出ていった。ちゃんと本来の使い方をした上で僕を痛めつけていくなんて、変なところで律儀なものだ。
 扉を閉めるときの勝ち誇ったような顔を見て、僕の脳裏には何故か、昔学校の校庭で一緒に遊んだ男の子の顔が浮かんだ。

「…ただいま」
「……」
 放課後、やっぱり一人で家に帰ってきた僕に北斗は何も言わなかった。
 多分、北斗だけはわかっていたのだ。狭い村で異性と遊んだら次の日にはクラス中に知れ渡っていて、守ってくれる友達もいない僕は疎まれることを。
 それも相手はあの紅葉だ。
 あのガキ大将のように恋心を拗らせた人間からすれば、面白くないのはわかりきっている。今では北斗が彼女の行動を「お節介」だと言ったのが正しく感じる。
 ちゃんと北斗の話を聞いて助言に従っていたら、こうはならなかったかもしれない。そう考えたら、初日に僕と村を回らないと言ったのは彼女なりの善意だったのだろう。
 紅葉に罪はないけど、生まれた家柄や容姿に恵まれた彼女のことを僕は良く思えなくなっていた。まるで全てわかっていて、愚かな男たちが自分を巡って争うのを楽しんでいたのではないかとまで思ってしまう。
「いってきます」
 家にいても、気分が落ち込むだけだ。
 果物籠に残っていた林檎を紙袋に入れて、自転車のカゴに放り投げた。向かう先は一つしかない。
 紅葉との約束がなければ昨日行こうと思っていた龍神神社だ。

 昨夜の騒動と雨の影響で、川で遊んでいる人はいなかった。それでもクラスメートがどこかにいるのかもと思ったら、自然とペダルを漕ぐスピードも速まる。
 僕が救いを求めて神社に行ったのは、これが最初で最後だった。そしてもしも行った先で最初に出会うのがタツミではなく紅葉だったら、僕はすぐに帰るつもりだった。
「いっくん!」
「…タツミ」
「このバカ!来るのが遅いよ!」
 幸い、その必要はなかった。
 タツミはすぐに僕を見つけると、全速力で駆け寄ってきた。舌足らずな口調で自分の感情を吐露して、流れる涙をその手で拭いながら僕の私情に首を突っ込んでくる。
「寂しかった!!何で来ないのさ!どこにいたのさ!」
 両手を広げたらタツミは迷わず胸に飛び込んで来たので、僕は痛みも忘れて笑ってしまった。
 身体に走った衝撃は予想よりずっと強くて、それだけタツミが急いで来てくれたのがわかった。
「ははは!
 ごめん、これお詫びの林檎」
「わぁ!?食べていい!?」
「もちろん!」
 両手に林檎を持って一口ずつ交互に食べるタツミを見ていたら、僕が抱えている悩みなどちっぽけなものなんじゃないかと思えてくる。
 どんなに会えない日が続いても、タツミは僕のことを親友として扱ってくれる。それがどれだけありがたいことか、そのことに僕がどれだけ救われているか、口いっぱいに林檎を頬張った彼女は知らないだろう。
「…僕、タツミが友達で良かった」
「ん?
 私もだよ!いっくんが友達で良かった!」
「あ、こら。
 ポイ捨てしちゃダメだろ」
 タツミは林檎の芯を放り投げると、疑う必要もない心からの笑みを見せた。
 しかし神社で食事をしていたことがバレたら、紅葉が柳眉を逆立てて怒る。神社は村の公共物なのだから、これまでのように勝手に汚すのは止めなきゃいけない。
 芯を拾いあげようと地面に伸ばした手がヘタに触れる前に、タツミがその手を掴んだ。その服の下には、まだこの間の手形が残っている。

「だから、ずっと一緒にいようよ」

「え?あ、待ってタツミ!」
 掴んだ手がぐいっと引っ張られて思わずよろめいた。参道を横切って最短ルートでタツミが目指すのは、言わずもがな神域と呼ばれる場所だ。相変わらず、その小さな身体の動力があるのか不思議になる凄まじい握力だ。
 けれど禁足地だと知らなかった頃ならまだしも、わかっていてルールを破るのはさすがの僕でも出来ない。
「そっちは行っちゃダメなんだって、今日はこっちで遊ぼうよ」
「やだ。
 だって、そしたらまたあの女が邪魔して来るでしょ?」
「あの女…って」
 紅葉のことか。
 邪魔されたって、あの日はタツミが勝手にいなくなったんじゃないか。しかも、逃げながらちゃんと紅葉のことを覚えていたらしい。
 だったら一緒に落ち葉掃除をしてくれたら良かったのにと思っていたら、階段までたったの数十歩で到達した。狭い歩幅で、タツミは怖いくらいのスピードでグングンと歩いていく。
「いっくんも、私と遊んでいるのが何より楽しいでしょ?」
 転びそうになりながら何を言っても、タツミは足を止めなかった。
 何で忘れていたのだろう。タツミは、一度ウケたネタを何十回も擦って何年も門の影から僕を脅かすような奴だ。食べ物で気を逸らしても、怒りを忘れたわけじゃない。
 食べ終わったら、ちゃんと怒って気が済むまで遊びに付き合わせる。
 他の誰よりもしつこくて、誰より怒らせたら怖い。
 それがタツミだ。
「そ、それはそうだけど…でも禁足地なんでしょ?」
「いっくんはいいの」
「それ、タツミが決めるんじゃないって」
「あはは!もう逃がさないからね」
 子供染みた明朗快闊な笑い声だけれど、目が笑ってない。
 これ以上怪我を重ねたくなくて、階段でも女郎花の花トンネルでも無抵抗でついて行くしかなかった。だが、門をくぐったらいよいよ戻れなくなる。
 僕の体感時間がおかしいのかと思ったこともあったけど、この空間はいつも昼間みたいに明るく時の流れが異常に速い。
「止まれって!僕の話を聞け!」
「えー?聞いてるよー?」
「聞いてないだろうが!
 …ふんっ!」
 土塀沿いの道で、覚悟を決める。
 腰を落として、力の限り足を踏ん張ってタツミの歩みを止めにかかった。つま先が浮いて地面がえぐれ、轍のような跡がつく。
 だが、僕の体重を持ってしてもタツミのピッチもストライドも変わらなかった。
「お前、この馬鹿力…!うわぁっ!?」
 小石に躓いて転んで、引っ張られた腕を軸に回転する。
 身体を伏せて倒れても、タツミは僕の身体を引きずって歩き続けた。
 背中に、陽光で温かくなった地面を感じる。制服が汚れると抗議しようか考えたけど、どうせ数日で新しい制服に変わるんだからと諦めた。
 蒼穹を見上げていたら、唐突にタツミが年上かもしれないというのを思い出して、自分が情けなくなってきた。
「僕、そんなに非力かなぁ…」
「非力じゃ嫌なの?」
「…だって、かっこ悪いだろ」
 もう身体がピクリとも動かない。
 タツミは寝殿造りの母屋の一室に来ると、だだっ広い部屋の真ん中に僕を転がした。漆で反射した床には、紅葉しかけで雌黄色と青緑色でまだら模様の染井吉野が映っている。
 部屋の隅に、前に持ってきた紙袋が倒れていた。周りに、チョコレートの包装紙が転がっていた。でも、それはタツミに渡せなくて紅葉にお供え物として渡したはずのものだ。
 紅葉の言葉を思い出す。

『ねぇ、その子本当にこの神社の巫女なの?』

「いっくんは、いっくんだよ。
 今度こそ、私が助けてあげるからね」
 タツミはしゃがみ込むと、上半身を起こした僕の顔を覗き込んだ。
 血色のいい童顔に浮かぶ表情に悪びれる様子はなく、一仕事終えた達成感まで見える。
 タツミは僕をここに軟禁する気だ。以前からその気があるのはわかっていたけど、今回はそれらとは比べようもないくらいタツミは本気だった。
 そして彼女に火を点けたのは、僕自身だ。これは、タツミの気持ちに向き合わず目を逸らしてきた罰なんだ。
「今度こそ?
 ねぇ、タツミは巫女じゃないの?」
「違うよ」
 腹の傷が疼く。薄々感づいていたとはいえ、自分の鈍感さに驚いた。
 紅葉は先祖代々神職についていると言っていたから、巫女でありながら彼女に知られていないのはおかしいと思っていた。それにこんなに幼い少女を働かせるわけないし、僕はタツミが巫女として働いているところを見たこともない。
「でも、ここに住んでるんでしょ?」
「そうだよ」
 隠しているつもりはないんだろうけど、僕はタツミがどこに住んでいるのかすら確かめたことがなかった。
 だって、僕自身が家庭の事情を色々聞かれたくなかったから。早くに父親を亡くした片親の家庭であることを知られて、他の子供や大人みたいに可愛そうだと距離を置かれたくなかった。
 タツミとは無邪気で純粋な親友でいたい。
 知らなくてもいいことまで知って、僕自身もタツミと距離を置きたくなかった。けれど、それも今日で終わりにしよう。見たくないものを見ないふりして、触れたくないことから逃げていたら痛い目にあう。
 そう知ったばかりだ。
 僕は村のこともタツミのことも何も知らない、それを自覚しよう。

「…じゃあ、タツミは何なの?」

「私?私はタツミだよ」
「タツミは人間、だよね?」
「ううん、違うよ。
 私は神様だもん」
「…カミサマ」
 そんなはずないとは、言い切れなかった。
 だってそうでもなければ、彼女が鳥居をくぐったら姿を現すことや突然消えること、異様な怪力を持つこと、それにこの場所の説明がつかない。だがただの人間の少女でないならば、全て説明がつく。
 僕は魂が抜け出るような深いため息をついて、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「…そっか、そうだったんだね」
 良かった、真実を知っても僕の心は何も変わらなかった。ほっとしたら緊張がゆるんで、僕は四肢を投げ出して床に寝転がった。
「びっくりした?」
「いや?タツミはタツミだよ」
「ねー、寝ないで―!」
 いつもの悪ふざけのつもりで、タツミは僕の腹上に跨って腰を落とした。
 大した重みでもないから座られても構わない、そう僕はすっかり気が緩んでいた。重力をもろに鳩尾に受けて、電撃が身体中に走った。それで、僕は昼間に受けた傷がまだ癒えていないことを思い出した。
「いっ…たあっ!?いででで!」
「きゃっ!?」
「あぁ…!」
 あれだけ力で敵わなかった相手を怪我させたくなくて、僕は腰の上に乗るタツミを振り落とさないように耐えた。代わりに歯を食いしばって、無様に脚をばたつかせて悶える。
 自分より小さな女の子に引きずられていたことを、上書きするダサさだ。タツミがすぐに退いてくれた後も、しばらくは腹を抱えて蹲っていた。まるで腹の中で大魚が暴れているみたいだ。
「いっくん、怪我してるの?」
「はぁ、はぁ、はぁ…だ、大丈夫。
 ちょっとお腹が痛くなっただけ…」
「…見せて」
「え?タツミ!?
 いやいや!それはさすがに!?」
「…これ、どうやって外すの?」
「外すな!やめろ!恥ずかしいから!」
 僕が痛みで動けないのを良いことに、タツミは制服を引っ張って脱がせにかかった。
 恥ずかしさに身をよじるもジャケットのボタンが飛んで、細い指がシャツのボタンに触れる。けれど、不器用だからかなかなかボタンが外れずに苦戦していた。
 そうか、タツミは巫女服しか着ないから、ボタンそのものに慣れていないのだ。
 この間に逃げようとしたら、タツミは何もボタンを外さなくても裾ごとまくり上げれば簡単に脱がせることに気づいた。
「えい!」
「うわああ!?」
 スラックスに入れていた白シャツを無造作に握り、タツミは無理矢理僕の上半身の服を脱がせた。何なら、下着も見えていたかもしれない。
 いじめっ子たちは陰湿で、僕をトイレという密室を呼び出しただけではなく、制服を着ていれば見えない箇所に限って殴る蹴るの暴行を加えた。そして僕もまた、これだけ醜態を晒しておいて他の男に負けた証拠を見せたくも見たくもなくて、服を人前で脱ぐことも自分で見ることもしなかった。
 だから、僕も直接見るのは初めてだった。
 僕の腹には、時間が経ってどす黒く変色した痣がいくつも出来ていた。怪我は男の勲章と言う人がいるが、こんなのただのイジメだ。
「うわぁ、我ながら痛々しい」
「……」
「だから見ない方が言ったのに…タツミ?」
 ポタリと、僕の腹に水滴が垂れた。
 タツミの大きな瞳から、大粒の涙が溢れて零れた。次から次へと、涙が雨のように落ちていく。
 遊びに負けて悔しくて泣くことはあっても、タツミが悲痛に顔を歪めて泣くのは初めてだった。それも、僕の痛みよりずっと辛そうに声を上げて。
「あっ、うわっ、はうっ…」
「何でお前が泣くんだよ…」
「うえぇ…えぇん…!うわーん!
 いっくんが!いっくんが!」
「へ、平気だよ。別にこんなの何てことないって」
 どうしたらいいのかわからない。
 身体を起こして腕を動かしてみたり頭を撫でたり声をかけてみる。でも、一向に泣き止んでくれない。
 彼女は自由奔放で自分勝手な性格で、子供のような純粋さを持ち合わせている。だから、自分のことのように僕の痛みを悲しんだ。
「うわああ!いっくんが死んじゃう…!」
「これくらいじゃ死なないって」
 タツミは僕のシャツを握りしめて、ハグを求めるように手を広げた。
 僕はそれで少しでも彼女が泣き止んでくれればと思って、僕らは正面から抱き合った。元気なのを証明しようと力強く抱きしめたから、タツミの高い体温が直に伝わってポカポカする。
「タツミは温かいなぁ…」
「うぅ…あぅ、えぐっ、ひっく…」
「なぁ、僕は平気だから泣き止んでくれよ…」
 タツミは僕の胸に耳をあてて、鼓動を確かめていた。
 髪は乱れているし顔をくしゃくしゃにしているのに、僕は自分のために泣いてくれる彼女が可愛くてたまらなかった。柔らかな髪に顔を埋めたら、雨上がりに顔を出した猫の腹みたいな香りがする。
 タツミは充血して赤くなった兎目で訴えた。
「ねっ、いっくん!ずっとここにいようよ!
 そしたら、山登ったり川で遊んだりして神社に来るの忘れたりしないよ!」
「な、何で知ってるの…?」
「何で?何でって?」
 タツミはやっぱり昨日と一昨日に来なかった事を、根に持っていた。だが、どこに行ったかまでは言っていないし知っているはずがないのに。
 これが神様……龍神様の力なのだろうか。

『村の畑に降る雨や川の水に村民の健康、龍神様はそれらを司る神様なんだよ』

 紅葉は、龍神様のことをそう説明していた。
 村を守っているというのは、村を見守って下さっているのだとわかる。じゃあ水を司っているというのは、空から降る雨も川に流れる水も自由にできるということなのだろうか。あるいは、そこを通して見たり聞いたりできるということだろうか。
 そういえば、水と言えば身近にも水回りと言ってトイレやお風呂がそれにあたる。
「わかるよ、トイレでいっくんが何かされてたのも見てたよ」
「こわっ!」
「もう戻らなくていいよ!そしたらもう…」
「でも、家には帰らなきゃ」
「…何で?何で駄目なの?私のこと嫌い?」
「そんなわけないだろ、でも僕はまだ学生だし」
 この場所でタツミと2人で暮らせたら、どれだけ幸せだろうか。
 でも、それだけじゃいけないんだ。
 残念ながら友達には恵まれなかったけど、それでも僕は幸運にも多くの人に愛されている。帰りが遅くなったら叱ってくれるおばさんや、厳しく忠告してくれる従兄妹に、僕の生活のために身体を壊すまで働いちゃうような母さんもいる。
 それに、
「北斗…従兄妹と喧嘩したままだから仲直りしたいんだ。
 家族を置いて僕だけ残るだなんて、できないよ」
「…そっか、やっぱりいっくんはそう言うんだね」
 もっと駄々をこねて嫌がると思っていたのに、あるいはまた泣き出すと思っていたのに、僕がそう言って断ることをわかっていたいみたいにタツミは微笑した。
 代わりに僕の背中に回していた腕を前に持ってくると、痣を大切にそうに撫でる。
 その小さな指の腹が滑らかで冷たいのがわかった途端、僕は腰の当たりがムズムズした。素直に諦めたのは意外だったけれど、その理由はすぐに明らかになった。
「私に力があったら、この傷も治せるのにな…」
「神様でも出来ない事があるの?」
「…複雑だからできないの。人間の医者ならできるんでしょ?」
「病院の事?別にこれくらい…」
「治ったら、また誘うからね」
「いや、諦めてなかったのか…」
 細かい作業が苦手なのは、僕の千切れかけているボタンを見たらわかる。帰ったら、おばさんに見つかる前に付け直さないと。土がついたジャケットは、クローゼットの奥に隠して置こう。
 ついでに、帰る途中で誰かに見つからないように帰らないといけない。もちろん、神社の巫女である紅葉にもだ。今度はおばさんに知らされるどころか、通報されかねない。
「ちゃんと治る?死んじゃわない?」
「大丈夫だよ、帰って良く寝たらこんなのすぐ直るから」
「本当に?ほんとに大丈夫なの?」
「大丈夫だって」
「…ねぇ、明日はここに来てくれる?」
「もちろん!僕、これからは毎日ここに来るよ。
 家族のことも大事だけど、タツミのことも大事にしたいんだ」
「…うん!待ってるね」
 一日空けたとはいえ、この場所は僕にとって第三の家のようなものだ。
 一つ目は母さんと僕の家、二つ目は矢倉家、そして三つめがこの秘密基地。だが、そろそろ帰らないと日が暮れる頃だ。この場所で半日も過ごしたら、村では日付が変わっている。
 俯いてまた落ち込みそうなタツミを残していくのは、心苦しかった。タツミと神社から出て遊んだことはないから、彼女はきっとここから出られないのだろう。
 金風に尾花の穂先が揺れる千川沿いの畔道を走っていると、河原からノスリが飛び立って空中で旋回し出した。チィチィチィとしつこいくらい反復して鳴いている鳥がいるから、それを狙っているのだろう。
 あぜ道では、小学生が虫取り網を手に赤トンボを追いかけて遊んでいた。僕らもよく指の先に止めて、透明な羽や尻尾の先まで続く朱色を眺めたものだ。
「それにしても、あのタツミが神様かぁ…」
 村を離れてしばらくすると神社の記憶が無くなるのも、川遊びの怪現象も、タツミの仕業なのだろうか。
 かつて夏休みにこの庭を訪れた後、僕は記憶として残らなくても道端に咲く花や雑草に強く惹かれるようになった。植物園に行ったり図書館で植物図鑑を借りたりして身に付けた知識のお陰で、大抵の花や植生、花言葉なんかはわかるようになった。
 例えば、あの日川から流れて来たシロツメクサ。
「シロツメクサの花言葉は約束だから、約束通り早く神社に来いって意味だったのかな」
 タツミは神様、でも僕の友達だ。
 だから、僕は神様が本質的に人間と違うことをまだ知らない。鉄砲水は人為的ならぬ神がかった力によるもので、タツミの嫉妬と気まぐれが引き起こしたものだというものも。
 そして、タツミが送ったメッセージが、花ではなくその葉であることも。シロツメクサの葉である四つ葉のクローバーの花言葉は、「約束」ではない。
 花言葉は、「私のものになって」だ。
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