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why do it?
第六話「スカート」
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「そう、執事は土産を入れていた紙袋に絵画を入れて同じように持ち帰ったんだ。
メイドは皆そこの女嫌いのせいで追い出されていたから、執事がメイドに土産を渡したのは部屋の外だ。
伊呂波が紅茶を淹れている間に土産袋の中身に何かを入れたとしても、誰もわからない。
だが、土産袋を持っていた執事はわかるな?堂満」
「…えぇ、まぁ」
「そしてこの時間に絵を渡せるということは来客が来るまでに絵画を盗む時間があり、来客対応中に執事に2人きりで絵を渡すことができるメイドだ。
ねぇ、堀川さん?」
3人のメイドには、2日前皆一様に自由な時間があり、お互いにお互いの行動を見ていないと述べていた。
だがもし共犯者が2人いるなら、残った1人に罪を押し付けるかアリバイを保障しあうはず。
共犯者が3人なら、そもそも罪を告白して雲隠さんに依頼をするはずがない。
そのことから、雲隠さんはメイドの中にいる犯人は1人だと仮定した。
そして、犯人にとって最も目障りな人間が伊呂波さんだと仮定する。彼女の誠実さと勤勉さは、事実真っ先に絵画が盗まれたことに気付かせた。
となると、2人のメイドが疑わしくなる。
しかし、匂宮さんは朝方防犯カメラにその姿が映っていた。
そこで雲隠さんは、邸宅から正門まで歩いた時間を密かに計っていたという。それによると、朝食後すぐに正門に向かわないと間に合わない。
なおかつ、絵画を盗んだ時に額縁を倉に入れるには堀川さんの担当区域を横切る必要がある。仮にその時間があって、もしくは防犯カメラに写り警備員に姿を見せてから邸宅に戻ったとしても。
「少年に雑草取りを実践してもらったがね。
それでは正門からあの距離まで雑草を抜くことは出来ない」
「はぁ?事前にその分雑草を抜いておいた可能性は?」
「雑草は1週間で伸びきるのだよ?
タイミングがずれていたのだとすれば、成長具合に差が出るはずだ。
ストップウォッチを測りながら地面も見てみたがね、正門に近づけば近づくほど雑草は成長していた」
このことから、匂宮さんは完全に容疑者から外れた。
そうなれば、絵画を盗んだのは邸内で働いていた伊呂波さんか堀川さんだ。
けれど、伊呂波さんが犯行を行うとしたら匂宮さんと同じように堀川さんの担当区域を横切ることになる。堀川さんもまた伊呂波さんと鉢合わせをする可能性があるわけだが、
「彼女の仕事、天井掃除だけれどね。
あれはよく考えられているよ。あの棒状の…何と言うのか、長い奴だ、少年」
「クイックルワイパーです」
「そうそれ。クイックルワイパーを天井にあてることで、その上の2階からの振動が伝わってくる。
だから、彼女は伊呂波がどこにいるのか手に取るようにわかる。匂宮さんが出ていき伊呂波が業務を開始したことがわかったら、あとは玄関に行って絵画を取り、倉庫に額縁だけを置く。
絵はスカートの下にでも保管しておき、来客が来たらお土産袋の中に入っていた絵画と交換する。
「あとは、機を見て外商を呼ぶだけだ」
空気がひりつくような、嫌な視線を感じた。
雨上がりの夏の日のようなジメジメした空気、鋭利な氷柱の先端で皮膚を切り裂かれているような感覚だ。
咄嗟に振り向いて堀川さんの姿を探すと、扉の前で立ちすくむ彼女の小さな体から異様な気配を感じた。まるで獲物に飛びかかる前の猫だ。
犯行がバレて自暴自棄になっているのだろうか、あるいは謎を解いた雲隠さんを憎んでいるとか。
いや、それでは説明できないような怒りと思いが伝わってくる。
「少年?」
雲隠さんは、気づいていないようだった。
堀川さんは華奢で身軽な女性だから、そこまで危険視していないのかもしれない。
彼女のすぐ後ろには扉があるから、逃げ出すことくらいは想定しているはずだけれど、逆に追い込まれて爆発する可能性を失念しているのかもしれない。
堀川さんの手は後ろに回っていた。まるで、警備員の人たちが威圧目的のためにやるように。
メイドや執事のように武器を持たない者は、雇い主に安心感を与えるため通常手を前に組む。それが、武器を持っていない事の証になるからだ。
彼女のスカートの形は、妙な崩れ方をしていた。
うなじの辺りにビリビリと電撃が走る。気づいたら、僕は訳の分からないことを口走っていた。
「あのっ、堂満さん。
執事の方はどうされたんですか?」
「……はい?」
「絵を盗んだ執事の方です、今は一緒じゃないんですよね?」
「……」
「もしかして、もう警察に?」
「いいえ、管理職の者が尋ねたところ素直に全て話していただけましたので。
売り払った分は返していただくにしても、解雇ですかね」
「ほっ…なら、堀川さんの恋人が路頭に迷うことはないんですね」
「といっても、うちのグループ企業と取引先ではもう働けないでしょうが」
堀川さんが何にそんなに怒っているのか、犯罪に手を染めたことのない僕には、皆目見当もつかない。
犯行が妨害された怒り?犯行を大勢の前で明かされた恥ずかしさ?
あるいは、もう一人の共犯者の心配だろうか。
でも、もし仮に彼女が姿の見えない共犯者を心配しているのならこれである程度怒りを収めてくれるだろう。
間違っても何かの間違いを起こさないだろう、と僕は思っていた。
またしても、楽観視してしまった。
そのことに気付いたのは、扉の方から走り出した堀川さんの一歩目が聞こえたときだ。彼女の手には、キッチンで盗んだのであろう三徳包丁が握られていた。
伊呂波さんが彼女の名前を呼ぶ。
「雛子!?何をしているの!」
「ひうっ…!」
そこで初めて雲隠さんたちは、彼女の凶行に気付いたようだった。
そして僕はと言えば、情けない声が出た。何で、と問いたくなる前に彼女の持つ包丁の切っ先は僕の方を向いていることに気付く。
それが僕の腹か胸に到達するまで、数秒もない。
これが何らかの格闘術を嗜んだ武道家だったら、軽々彼女を取り押さえられたかもしれない。あるいは躱すくらいのことはできたかもしれない。
でも生憎僕にそんな技術はなく、また躱したらすぐそこにいる雲隠さんたちに危害が及ぶ。
止めなきゃ、ここで止めなきゃ。
でもどうやって?
僕が、それも飛びつこうにも両手に絵画を持った状態で。
…絵画を?
気付いたら、身体が動いていた。
「ごめんなさい!」
僕は、両腕を上げてから絵画を彼女に向かって投げた。
額縁は神崎さんのもので、絵画は堂満さんのものだ。
それを本人の前で乱暴にするなんて、僕の行為も中々に反社会的だ。投げた絵画はまっすぐ堀川さんの顔に当たり、悲鳴を上げて彼女の前進は止まる。
「きゃぁっ!?」
額縁は伊呂波さんの足元に転がった。
彼女は同じ屋根の下で暮らしていた部下が主人らを傷つけようとしたことにショックを受けたようで、震えた手を口に当てて硬直していた。
距離を詰めて包丁の柄を掴む。けれど、まだ完全に彼女の戦意が喪失したわけじゃない。
せめて、あの包丁を取り上げないと。
「放してくださいっ!」
「邪魔を…するな!」
「いったい!痛いですって!」
だが、彼女も自分と他人の命綱を握る包丁を易々と放してはくれなかった。
そのまま僕に包丁を刺そうとしてくるのを、押し合う形で争う。
握力は僕の方が上のはずだけど、体格差はさしてない。興奮した堀川さん相手では、互角か僕が押し負けている。
おまけに、彼女はなりふり構わず無慈悲に僕を蹴ってきた。
靴の先が脛に当たった時は、痛みで力が抜けそうになった。
「放せクソガキ!お前らが来なければ!お前らがいなきゃ!」
「そんな…ことは……」
メイド姿の堀川さんに汚い言葉遣いで罵られたこともそうだが、彼女の発言が的を射ていたことに僕は思いのほか動揺してしまった。
だって、雲隠さんでなければこの謎は解けなかったことは違いない。彼女と同じ情報を得ながら謎を解けなかった僕にはよくわかる。
伊呂波さんがかつての主人に依頼をしなければ、あるいはそれを受けて僕らがここに来なければ。でも、伊呂波さんに見つかった時点でどちらにせよ堀川さんは解雇寸前だった。
だから彼女が今憤怒に支配されて包丁を握っているのは、やっぱりもう一人の共犯者の安否を気にかけてなのだ。恐らく、秘密を共有することができるほどの関係にある人。
彼女の交友関係を洗えば相手の存在は芋づる式に判明するだろうが、誰が犯人かわからず一斉解雇されるだけなら、共犯者まで被害は及ばない。
だとしても、
「バレなきゃ何してもいいなんて、そんなの間違ってるじゃないですか!」
「…箱崎、」
「はっ」
背後で、堂満さんが地を這うような低い声で指示を出した。
数秒もせずに、執事服の男性が右から回ってくる。同時に、堀川さんの腕を蹴り上げた。
「パキッ」と軽い音を立てて、堀川さんがうめき声を上げて包丁から手を放す。
手を引いたところで箱崎と呼ばれた執事は彼女のもう片方の腕を掴んで後ろに回すと、床に押し付ける形で膝をつかせ、数秒で制圧をしてしまった。
僕は包丁を持ったまま、その場にへたりこんでしまった。
「少年、怪我は?」
「……」
「少年?」
「…あっ、えっと、大丈夫です」
包丁は、堀川さんを取り押さえたのとは別の老齢の執事が持って行ってしまった。
座り込んだまま呆けていた僕に、雲隠さんは淡々といつもと変わらない口調で説明をした。
どのくらい時間が経っていたのか、神崎さんと堂満さんが何か話している。
腰は抜けていなかったものの、立ち上がると膝に力が入らず少しふらついた。
「堀川は堂満の執事が別室に拘束している。直に警察が来て傷害罪で捕まるだろう。
伊呂波、少年の服を持ってきて貰えるか?」
「はい、ただいま」
「着替えておいで、あとは私達に任せるといい」
雲隠さんに言われるがまま空き室で伊呂波さんから制服を受け取ると、急いで乾かしてくれたのかまだ服は温かかった。
僕が投げてしまった額縁と絵は、匂宮さんが持って片しに行った。
一応現場証拠になりそうだけど、それぞれの持ち主に帰すのだろう。
そうだ、神崎さんと堂満さんには絵画を投げたことを謝らないと。
学ランに着替えて部屋に戻ろうとすると、外に出てきた堂満さんと鉢合わせした。
既に堀川さんは警察に引き渡したのだろうか。事情聴取やら現場検証でまだしばらく滞在するのだと思っていたが、忙しい身だろうし、早々に帰宅するようだ。
目が合うと、堂満さんは足を止めて少し目を見張った。
「おや、君は…高校生だったのですか」
「あのっ、先ほどは失礼しました!
大事な絵画を投げてしまってしまい…本当にどうお詫びしたらいいか…」
神崎さんの持っていた絵画とあの日本画が交換されたものだというなら、その価値は同じくらい高いはずだ。
値段にして200万円ほど、僕の貯金や収入ではとても弁償ができない。
だから謝罪をするわけではないが、自分が所有しているものを知らない人間に投げられるのは気分のいいものではないだろう。
腰を折り曲げて深くお辞儀をすると、堂満さんは何故か部屋にいた時より朗らかに声をかけた。
「あぁ、別に構いませんよ。
絵の一枚くらい大した損害でもありません。君に怪我がなくて良かった。
ところで、君は雲隠日景とどういう関係なので?」
「申し遅れました。
雲隠さんの家のハウスキーパーをさせていただいております、比良直流と申します」
一度雲隠さんから紹介を受けてはいるが、ハウスキーパーの名前なんて覚えられなくて当然だ。
再度挨拶をすると、堂満さんは煤竹色の瞳で僕を見下ろして何か考えてこんでいるようだった。
顎に手を当てたまま見定めしているような観察しているような表情で、しばらく沈黙をする。
何か話した方がいいのだろうか、奥に立つ執事の方を見ると素っ気なく視線を逸らされてしまった。
「嘘をついてはいなさそうですね」
「……?」
「いえ、こちらの話です。
それと、今回の件は私にも責任があります。もし何かあれば、連絡してください。
大したものではありませんが、お役に立てるかと」
「頂戴します…ごめんなさい、名刺がなくて」
「あぁ、お気になさらず。では、また」
堂満さんが名刺ケースから取り出した名刺を、反射的に両手で受け取る。
交換する名刺もなく一方的に受け取る形になるが、あたふたしているうちに堂満さんは背を向けて歩き出していた。
上質なコロンの香りが鼻腔を刺激する。
はっとして、そのまま扉が閉められるまで深くお辞儀をした。
「お気をつけて」
応接間に戻って扉を閉めると、神崎さんと雲隠さんは変わらず同じ場所に座って、まだ湯気が立ち上る紅茶を啜っていた。
犯人が捕まり盗品が返ってきたことで事件は一段落したにしても、神崎さんの顔にはどこか疲れが見えた。
突然自分の絵が盗まれた上にメイドが盗難どころか殺人未遂犯になったのだから、主人として気疲れを起こしているのだろう。
一方の雲隠さんは、顔色一つ変えずに僕をチラリと見るとティーカップを机に置いた。
「少年、それは?」
「堂満さんから頂きました。
名刺を貰うなんて初めてです」
「それ、奴の私用携帯の番号が乗っているじゃないか」
「え?あぁ、本当ですね」
名刺の裏を見ると、手書きで番号が書かれていた。
いまいち理解が出来ていない僕に、雲隠さんはそれが会社用の番号とは別のもので、かければ秘書を通さずに堂満さんに電話が繋がると教えてくれた。
そして説明を終えると、体を捻ってソファの背中に腕を置いた。
今までになく真面目な表情に、これから何か大切な話が始まる予感がする。
「それだけ奴も本気ということか。
少年、話があるんだけれどね…」
「待て日景、その前にお前に聞きたいことがある」
だが、先に神崎さんが切り出した。
「…またかね」
顔を上げると、茶菓子のマカロンを口に放り込む神崎さんと目が入った。
今回事件の渦中にいながら、メイドからも雲隠さんからも蚊帳の外に放り出されていた彼は、僕以上の被害者だろう。
しかも、僕と同じでこの場所で話を聞くまで犯人が誰かすら知らなかったそうだ。ただ呼び出されただけで、盗まれた絵画がどれかもピンと来ていなかったという。
いたずら好きな雲隠さんの表情を見ると、安易に嫌がらせの類なのではないかと疑ってしまう。出禁にしたはずの雲隠さんが家で好き勝手するだけで、神崎さんには見た目以上の心労がかかるはずだ。
それをこの人は、恐らくわかっていておちょくっている。
「ふん、お前のために話すつもりは無い」
「蹴り出されてぇのか?」
「あの、雲隠さん。
失礼ながら、神崎さんに少しあたりが強いような気が…」
初めは雲隠さんと神崎さんはお互いに不仲なのだと思っていたけれど、どちらかというと雲隠さんが一方的に神崎さんを毛嫌いしているような気がする。
過去に何かあったのか、それとも性格が決定的に合わないのか。
雲隠さんの思考はどこまでも冷静なのに、その性格は時々ひどく子供っぽくなる。
「少年、こいつを甘やかすな」
「どうやら日景と違って、そこの坊主は話が通じるようだ。
俺には質問をする権利があるはずだ」
メイドは皆そこの女嫌いのせいで追い出されていたから、執事がメイドに土産を渡したのは部屋の外だ。
伊呂波が紅茶を淹れている間に土産袋の中身に何かを入れたとしても、誰もわからない。
だが、土産袋を持っていた執事はわかるな?堂満」
「…えぇ、まぁ」
「そしてこの時間に絵を渡せるということは来客が来るまでに絵画を盗む時間があり、来客対応中に執事に2人きりで絵を渡すことができるメイドだ。
ねぇ、堀川さん?」
3人のメイドには、2日前皆一様に自由な時間があり、お互いにお互いの行動を見ていないと述べていた。
だがもし共犯者が2人いるなら、残った1人に罪を押し付けるかアリバイを保障しあうはず。
共犯者が3人なら、そもそも罪を告白して雲隠さんに依頼をするはずがない。
そのことから、雲隠さんはメイドの中にいる犯人は1人だと仮定した。
そして、犯人にとって最も目障りな人間が伊呂波さんだと仮定する。彼女の誠実さと勤勉さは、事実真っ先に絵画が盗まれたことに気付かせた。
となると、2人のメイドが疑わしくなる。
しかし、匂宮さんは朝方防犯カメラにその姿が映っていた。
そこで雲隠さんは、邸宅から正門まで歩いた時間を密かに計っていたという。それによると、朝食後すぐに正門に向かわないと間に合わない。
なおかつ、絵画を盗んだ時に額縁を倉に入れるには堀川さんの担当区域を横切る必要がある。仮にその時間があって、もしくは防犯カメラに写り警備員に姿を見せてから邸宅に戻ったとしても。
「少年に雑草取りを実践してもらったがね。
それでは正門からあの距離まで雑草を抜くことは出来ない」
「はぁ?事前にその分雑草を抜いておいた可能性は?」
「雑草は1週間で伸びきるのだよ?
タイミングがずれていたのだとすれば、成長具合に差が出るはずだ。
ストップウォッチを測りながら地面も見てみたがね、正門に近づけば近づくほど雑草は成長していた」
このことから、匂宮さんは完全に容疑者から外れた。
そうなれば、絵画を盗んだのは邸内で働いていた伊呂波さんか堀川さんだ。
けれど、伊呂波さんが犯行を行うとしたら匂宮さんと同じように堀川さんの担当区域を横切ることになる。堀川さんもまた伊呂波さんと鉢合わせをする可能性があるわけだが、
「彼女の仕事、天井掃除だけれどね。
あれはよく考えられているよ。あの棒状の…何と言うのか、長い奴だ、少年」
「クイックルワイパーです」
「そうそれ。クイックルワイパーを天井にあてることで、その上の2階からの振動が伝わってくる。
だから、彼女は伊呂波がどこにいるのか手に取るようにわかる。匂宮さんが出ていき伊呂波が業務を開始したことがわかったら、あとは玄関に行って絵画を取り、倉庫に額縁だけを置く。
絵はスカートの下にでも保管しておき、来客が来たらお土産袋の中に入っていた絵画と交換する。
「あとは、機を見て外商を呼ぶだけだ」
空気がひりつくような、嫌な視線を感じた。
雨上がりの夏の日のようなジメジメした空気、鋭利な氷柱の先端で皮膚を切り裂かれているような感覚だ。
咄嗟に振り向いて堀川さんの姿を探すと、扉の前で立ちすくむ彼女の小さな体から異様な気配を感じた。まるで獲物に飛びかかる前の猫だ。
犯行がバレて自暴自棄になっているのだろうか、あるいは謎を解いた雲隠さんを憎んでいるとか。
いや、それでは説明できないような怒りと思いが伝わってくる。
「少年?」
雲隠さんは、気づいていないようだった。
堀川さんは華奢で身軽な女性だから、そこまで危険視していないのかもしれない。
彼女のすぐ後ろには扉があるから、逃げ出すことくらいは想定しているはずだけれど、逆に追い込まれて爆発する可能性を失念しているのかもしれない。
堀川さんの手は後ろに回っていた。まるで、警備員の人たちが威圧目的のためにやるように。
メイドや執事のように武器を持たない者は、雇い主に安心感を与えるため通常手を前に組む。それが、武器を持っていない事の証になるからだ。
彼女のスカートの形は、妙な崩れ方をしていた。
うなじの辺りにビリビリと電撃が走る。気づいたら、僕は訳の分からないことを口走っていた。
「あのっ、堂満さん。
執事の方はどうされたんですか?」
「……はい?」
「絵を盗んだ執事の方です、今は一緒じゃないんですよね?」
「……」
「もしかして、もう警察に?」
「いいえ、管理職の者が尋ねたところ素直に全て話していただけましたので。
売り払った分は返していただくにしても、解雇ですかね」
「ほっ…なら、堀川さんの恋人が路頭に迷うことはないんですね」
「といっても、うちのグループ企業と取引先ではもう働けないでしょうが」
堀川さんが何にそんなに怒っているのか、犯罪に手を染めたことのない僕には、皆目見当もつかない。
犯行が妨害された怒り?犯行を大勢の前で明かされた恥ずかしさ?
あるいは、もう一人の共犯者の心配だろうか。
でも、もし仮に彼女が姿の見えない共犯者を心配しているのならこれである程度怒りを収めてくれるだろう。
間違っても何かの間違いを起こさないだろう、と僕は思っていた。
またしても、楽観視してしまった。
そのことに気付いたのは、扉の方から走り出した堀川さんの一歩目が聞こえたときだ。彼女の手には、キッチンで盗んだのであろう三徳包丁が握られていた。
伊呂波さんが彼女の名前を呼ぶ。
「雛子!?何をしているの!」
「ひうっ…!」
そこで初めて雲隠さんたちは、彼女の凶行に気付いたようだった。
そして僕はと言えば、情けない声が出た。何で、と問いたくなる前に彼女の持つ包丁の切っ先は僕の方を向いていることに気付く。
それが僕の腹か胸に到達するまで、数秒もない。
これが何らかの格闘術を嗜んだ武道家だったら、軽々彼女を取り押さえられたかもしれない。あるいは躱すくらいのことはできたかもしれない。
でも生憎僕にそんな技術はなく、また躱したらすぐそこにいる雲隠さんたちに危害が及ぶ。
止めなきゃ、ここで止めなきゃ。
でもどうやって?
僕が、それも飛びつこうにも両手に絵画を持った状態で。
…絵画を?
気付いたら、身体が動いていた。
「ごめんなさい!」
僕は、両腕を上げてから絵画を彼女に向かって投げた。
額縁は神崎さんのもので、絵画は堂満さんのものだ。
それを本人の前で乱暴にするなんて、僕の行為も中々に反社会的だ。投げた絵画はまっすぐ堀川さんの顔に当たり、悲鳴を上げて彼女の前進は止まる。
「きゃぁっ!?」
額縁は伊呂波さんの足元に転がった。
彼女は同じ屋根の下で暮らしていた部下が主人らを傷つけようとしたことにショックを受けたようで、震えた手を口に当てて硬直していた。
距離を詰めて包丁の柄を掴む。けれど、まだ完全に彼女の戦意が喪失したわけじゃない。
せめて、あの包丁を取り上げないと。
「放してくださいっ!」
「邪魔を…するな!」
「いったい!痛いですって!」
だが、彼女も自分と他人の命綱を握る包丁を易々と放してはくれなかった。
そのまま僕に包丁を刺そうとしてくるのを、押し合う形で争う。
握力は僕の方が上のはずだけど、体格差はさしてない。興奮した堀川さん相手では、互角か僕が押し負けている。
おまけに、彼女はなりふり構わず無慈悲に僕を蹴ってきた。
靴の先が脛に当たった時は、痛みで力が抜けそうになった。
「放せクソガキ!お前らが来なければ!お前らがいなきゃ!」
「そんな…ことは……」
メイド姿の堀川さんに汚い言葉遣いで罵られたこともそうだが、彼女の発言が的を射ていたことに僕は思いのほか動揺してしまった。
だって、雲隠さんでなければこの謎は解けなかったことは違いない。彼女と同じ情報を得ながら謎を解けなかった僕にはよくわかる。
伊呂波さんがかつての主人に依頼をしなければ、あるいはそれを受けて僕らがここに来なければ。でも、伊呂波さんに見つかった時点でどちらにせよ堀川さんは解雇寸前だった。
だから彼女が今憤怒に支配されて包丁を握っているのは、やっぱりもう一人の共犯者の安否を気にかけてなのだ。恐らく、秘密を共有することができるほどの関係にある人。
彼女の交友関係を洗えば相手の存在は芋づる式に判明するだろうが、誰が犯人かわからず一斉解雇されるだけなら、共犯者まで被害は及ばない。
だとしても、
「バレなきゃ何してもいいなんて、そんなの間違ってるじゃないですか!」
「…箱崎、」
「はっ」
背後で、堂満さんが地を這うような低い声で指示を出した。
数秒もせずに、執事服の男性が右から回ってくる。同時に、堀川さんの腕を蹴り上げた。
「パキッ」と軽い音を立てて、堀川さんがうめき声を上げて包丁から手を放す。
手を引いたところで箱崎と呼ばれた執事は彼女のもう片方の腕を掴んで後ろに回すと、床に押し付ける形で膝をつかせ、数秒で制圧をしてしまった。
僕は包丁を持ったまま、その場にへたりこんでしまった。
「少年、怪我は?」
「……」
「少年?」
「…あっ、えっと、大丈夫です」
包丁は、堀川さんを取り押さえたのとは別の老齢の執事が持って行ってしまった。
座り込んだまま呆けていた僕に、雲隠さんは淡々といつもと変わらない口調で説明をした。
どのくらい時間が経っていたのか、神崎さんと堂満さんが何か話している。
腰は抜けていなかったものの、立ち上がると膝に力が入らず少しふらついた。
「堀川は堂満の執事が別室に拘束している。直に警察が来て傷害罪で捕まるだろう。
伊呂波、少年の服を持ってきて貰えるか?」
「はい、ただいま」
「着替えておいで、あとは私達に任せるといい」
雲隠さんに言われるがまま空き室で伊呂波さんから制服を受け取ると、急いで乾かしてくれたのかまだ服は温かかった。
僕が投げてしまった額縁と絵は、匂宮さんが持って片しに行った。
一応現場証拠になりそうだけど、それぞれの持ち主に帰すのだろう。
そうだ、神崎さんと堂満さんには絵画を投げたことを謝らないと。
学ランに着替えて部屋に戻ろうとすると、外に出てきた堂満さんと鉢合わせした。
既に堀川さんは警察に引き渡したのだろうか。事情聴取やら現場検証でまだしばらく滞在するのだと思っていたが、忙しい身だろうし、早々に帰宅するようだ。
目が合うと、堂満さんは足を止めて少し目を見張った。
「おや、君は…高校生だったのですか」
「あのっ、先ほどは失礼しました!
大事な絵画を投げてしまってしまい…本当にどうお詫びしたらいいか…」
神崎さんの持っていた絵画とあの日本画が交換されたものだというなら、その価値は同じくらい高いはずだ。
値段にして200万円ほど、僕の貯金や収入ではとても弁償ができない。
だから謝罪をするわけではないが、自分が所有しているものを知らない人間に投げられるのは気分のいいものではないだろう。
腰を折り曲げて深くお辞儀をすると、堂満さんは何故か部屋にいた時より朗らかに声をかけた。
「あぁ、別に構いませんよ。
絵の一枚くらい大した損害でもありません。君に怪我がなくて良かった。
ところで、君は雲隠日景とどういう関係なので?」
「申し遅れました。
雲隠さんの家のハウスキーパーをさせていただいております、比良直流と申します」
一度雲隠さんから紹介を受けてはいるが、ハウスキーパーの名前なんて覚えられなくて当然だ。
再度挨拶をすると、堂満さんは煤竹色の瞳で僕を見下ろして何か考えてこんでいるようだった。
顎に手を当てたまま見定めしているような観察しているような表情で、しばらく沈黙をする。
何か話した方がいいのだろうか、奥に立つ執事の方を見ると素っ気なく視線を逸らされてしまった。
「嘘をついてはいなさそうですね」
「……?」
「いえ、こちらの話です。
それと、今回の件は私にも責任があります。もし何かあれば、連絡してください。
大したものではありませんが、お役に立てるかと」
「頂戴します…ごめんなさい、名刺がなくて」
「あぁ、お気になさらず。では、また」
堂満さんが名刺ケースから取り出した名刺を、反射的に両手で受け取る。
交換する名刺もなく一方的に受け取る形になるが、あたふたしているうちに堂満さんは背を向けて歩き出していた。
上質なコロンの香りが鼻腔を刺激する。
はっとして、そのまま扉が閉められるまで深くお辞儀をした。
「お気をつけて」
応接間に戻って扉を閉めると、神崎さんと雲隠さんは変わらず同じ場所に座って、まだ湯気が立ち上る紅茶を啜っていた。
犯人が捕まり盗品が返ってきたことで事件は一段落したにしても、神崎さんの顔にはどこか疲れが見えた。
突然自分の絵が盗まれた上にメイドが盗難どころか殺人未遂犯になったのだから、主人として気疲れを起こしているのだろう。
一方の雲隠さんは、顔色一つ変えずに僕をチラリと見るとティーカップを机に置いた。
「少年、それは?」
「堂満さんから頂きました。
名刺を貰うなんて初めてです」
「それ、奴の私用携帯の番号が乗っているじゃないか」
「え?あぁ、本当ですね」
名刺の裏を見ると、手書きで番号が書かれていた。
いまいち理解が出来ていない僕に、雲隠さんはそれが会社用の番号とは別のもので、かければ秘書を通さずに堂満さんに電話が繋がると教えてくれた。
そして説明を終えると、体を捻ってソファの背中に腕を置いた。
今までになく真面目な表情に、これから何か大切な話が始まる予感がする。
「それだけ奴も本気ということか。
少年、話があるんだけれどね…」
「待て日景、その前にお前に聞きたいことがある」
だが、先に神崎さんが切り出した。
「…またかね」
顔を上げると、茶菓子のマカロンを口に放り込む神崎さんと目が入った。
今回事件の渦中にいながら、メイドからも雲隠さんからも蚊帳の外に放り出されていた彼は、僕以上の被害者だろう。
しかも、僕と同じでこの場所で話を聞くまで犯人が誰かすら知らなかったそうだ。ただ呼び出されただけで、盗まれた絵画がどれかもピンと来ていなかったという。
いたずら好きな雲隠さんの表情を見ると、安易に嫌がらせの類なのではないかと疑ってしまう。出禁にしたはずの雲隠さんが家で好き勝手するだけで、神崎さんには見た目以上の心労がかかるはずだ。
それをこの人は、恐らくわかっていておちょくっている。
「ふん、お前のために話すつもりは無い」
「蹴り出されてぇのか?」
「あの、雲隠さん。
失礼ながら、神崎さんに少しあたりが強いような気が…」
初めは雲隠さんと神崎さんはお互いに不仲なのだと思っていたけれど、どちらかというと雲隠さんが一方的に神崎さんを毛嫌いしているような気がする。
過去に何かあったのか、それとも性格が決定的に合わないのか。
雲隠さんの思考はどこまでも冷静なのに、その性格は時々ひどく子供っぽくなる。
「少年、こいつを甘やかすな」
「どうやら日景と違って、そこの坊主は話が通じるようだ。
俺には質問をする権利があるはずだ」
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架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
天井裏の囁き姫
葉羽
ミステリー
東京の名門私立高校「帝都学園」で、天井裏の囁き姫という都市伝説が囁かれていた。ある放課後、幼なじみの望月彩由美が音楽室で不気味な声を聞き、神藤葉羽に相談する。その直後、音楽教師・五十嵐咲子が天井裏で死亡。警察は事故死と判断するが、葉羽は違和感を覚える。
ヨハネの傲慢(上) 神の処刑
真波馨
ミステリー
K県立浜市で市議会議員の連続失踪事件が発生し、県警察本部は市議会から極秘依頼を受けて議員たちの護衛を任される。公安課に所属する新宮時也もその一端を担うことになった。謎めいた失踪が、やがて汚職事件や殺人へ発展するとは知る由もなく——。
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