心をほぐしましょう。

キタさん

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試練の始まり

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私はシャワーを浴び、パジャマに着替えて、再びベッドに横になったが、食卓の傷については忘れることができないまま、眠りについた。

ハッ…朝、目覚めると、ぐっすり眠ったようだが、次第にまた傷のことを思い出した。

あー、嫌だ嫌だ…私はずっと頭にありつつも、何とか朝ご飯を食べたり、テレビを見たり、仕事の支度をしたりしていたが、出掛ける時間が迫ってくると、そちらのほうに気を取られ、傷を気にすることは薄れていった。

そして、外に出る直前、また食卓を見ようとしたが、それはいけないと思い、何とか不安を振り払い、無視して、仕事に向かった。

やがて、微妙な心持ちで職場に着くと、上司や同僚に挨拶したり、仕事を始めると、頭からモヤモヤしたものはかなり無くなった。

ただ、周りに必要以上に気を遣うようになってから、疲労が増したことは間違いなく、その日も物凄く肩が凝っていた。

すると、同僚に声を掛けられた。

「…前は普通に話していたのに、いつの間にか敬語になったよね…何かあったの?」

意識的にかどうか分からないまま、私は言葉遣いも変わっていた。

「…ううん、特に何も無いですよ、いや、無いよ…昔、よく同級生にも敬語を使っていたから、その名残かもね…」

私は嘘をついて、何とか理解して貰ったが、敬語だと不快に思う人はいないはずだ…だから、無難に敬語を使えばいいんだと思うようになっていた。

かなり人の顔色を伺うようになり始めたのも、この頃からだ。

とにかく不快にさせてはいけない、だから、気を遣うのは当然なのだ…私はわがままな自分から脱皮できたのだから、多少辛くても、このまま押し通さないといけないのだ。

今までの私が間違っていた、私は変わったんだ、今の私が正しいんだ。

私はそう心の中で言い聞かせると、少し気分が楽になったが、ふとデスクの上を見ると、ファイルが乱雑に置かれているのが目についた。

アッ、こんなに適当に扱っていたのか…私はやらなくてはいけない職務があったが、ファイルが凄く気になり出した。

ファイルをきちんとしなければ、仕事も失敗するに決まっている…だから、後回しにはできない。

まず逆さまになっているファイルをきちんと戻すと、いつ見てもすぐ分かるように並べた…ん?、あ、このファイル、端が随分と折れてるなぁ…。

すると、同僚から声を掛けられた…気が付くと、昼休みになっていた。

「…ねぇ、ランチに行かない?」

私は迷った…ファイルの端を直さなければならないが、同僚の誘いを断るのもいけない…どうしよう?

少しもじもじしていたが、同僚を待たせてはいけないので、笑顔で承諾した。

しかし、同僚と話していても、ごはんを食べていても、ファイルの端が折れていたことが気になって仕方無かった。

同僚が怪訝な顔をして言った。

「…何だか顔色が良くないみたいだけど、大丈夫?…気分でも悪いの?」

私はハッとなったが、否定した。

その後は表ではずっと笑顔で通し、心の中では早くファイルを直したい気持ちでいっぱいだった。

やがて食事も終わり、半分上の空でデスクに戻ると、ファイルを食い入るように見つめ、折れていた部分をきちんと直した。

あー、スッキリした…さて、仕事仕事。

私は一生懸命、取り掛かっていくうちに、食卓の傷のことは忘れていた。

そんなこんなで、何とか終わりを迎え、同僚らと職場を後にしたのだが、じわじわと再びファイルのことが気になり始めた。

確かにきちんと折り曲がっていた部分は直したが、上下間違わずに並べてきただろうか?…私のことだから、また逆さまに置いたのではなかろうか?

頭から離れなくなったファイルの向き…明日でもいいやとは思えなくなっていた。

「…ごめんね、ちょっと忘れ物しちゃったので、また明日ね!」

私は同僚らと別れると、会社に引き返し、真っ直ぐデスクに向かったが、何のことは無い、ファイルはきちんと整頓された状態になっていた。

ホッとしたが、神経の疲れでため息をつき、しばらくイスに座っていた。

すると今度はデスクの上の傷が目に入った…あ、この傷、目立つなぁ…恐る恐る擦ってみると、見事に落ちた…汚れだったのだ!

私は爽快な気持ちになり、軽やかに帰路に着いたのだが、汚れを落とした手を洗っていないことに気付き、駅のトイレで洗った…かなり長い間、こびりついていた汚れを落としたのだから、手もかなり汚くなっているに違いない。

私は汚れに触れた指を見てみたが、汚れているようには思えなかった。

そんな馬鹿な…石鹸水でごしごし洗ったが、手は綺麗だった。

あれほどの汚れだったのだから、手も凄く汚れたに違いないのだ…私は何度も何度も擦り、においも嗅いだ。

フゥー、10回は洗っただろうか、さすがに疲れたので、ハンカチで何度も拭い、トイレを去った。

私は何とか座れた電車の中で、心地良い睡眠に浸った…何もかも忘れて、何時間も寝たように思えた。

気付くと私が降りる終点の駅に着いており、車掌さんに起こされた…私は頭を下げ、急いで電車を降りようとしたが、何度か座っていた座席を見返し、忘れ物はしていないと確信し、ホームを歩いていった。

疲れた、とにかく疲れた…私の目の前には走馬灯のように様々なものが現れては消えていった…歩く気力はほとんど失せていたが、何とか帰宅した。

玄関のドアを閉め、ベッドに向かい、横になったが、ドアの鍵をかけたかどうか、気になった。

確かにかけた、かけたはずだ…しかし、気付くと、ドアの前に立っていた。

何だか頭がクラクラする…緊張から解放されたからなのか?

私はよく分からぬまま、再びベッドに寝そべり、何も考えられぬまま、眠りに落ちた。
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