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春の暖かい空気を楽しむことなく、あたしはその中を突っ走っている。ペダルを力強く、よどみなく回すと自転車はあたしが思っている以上のスピードで進む。それもそのはずで、一般的な自転車ではなくロードバイクだからだ。車体の独特な形態と軽さ、鮮やかな空色にあたしはすっかり惚れ込んでいる。
通学にロードバイクを使っている女子校生はあたしくらいだと思う。今までそんな人とすれ違ったことはない。
意図的に負荷をかけているからあっという間に汗が吹き出してくる。目に入ると危険だからこまめに二の腕当たりのジャージで拭う。普段セパタクローの練習で使うジャージを通学のときも着ている。このジャージは汗を吸収して空気中へ逃がしてくれる、らしい。そのお陰か汗で肌がべたつかず快適に過ごすことができる。
制服は部室のロッカーに入っている。朝早めに登校して部室で着替え、放課後の練習後ジャージのままロードバイクで帰宅する。ここ半年はそのサイクルをずっと続けている。
目の前の信号が赤に変わり、慌ててブレーキをかけた。勢いそのままに後輪が少しだけ浮き上がった。
止まると一気に汗が首筋を伝って流れていく。さっきまでは風があったから気にしなかった。
足も心臓も痛い。でも決して嫌いじゃない。むしろ好きだ。苦しみと痛みが。自分をいじめ抜く地道なトレーニングはきっとあたしに合っているのだろう。
信号が青になり、シューズをペダルにはめ込み踏み込んだ。車通りの少ない道をぐんぐん進んでいく。
この自転車は元々お姉ちゃんのだ。ラクロス日本代表だったお姉ちゃんが現役時代にトレーニングに使用していたようだ。
夏の大会後、体力をつけるためにあたしはトレーニングを自主的に増やした。具体的には、練習から帰宅後、走るようにしたのだ。セパタクローの大会は一日で最大九セット行う。試合は二セットマッチだから最大三セット。それが三試合で九セット。それを走り抜ける体力があたしにはまだないと感じたからだ。
秋が深まり少し寒くなってきた日のランニングから帰ってくると仕事帰りのお姉ちゃんと玄関で鉢合わせた。
「走ってたの?」
あたしが頷くとお姉ちゃんは眉をひそめ、あたしの足をじっと見つめた。
「走りはじめたのはいつくらいから?」
「一ヶ月くらい前かな」
「足、というより脛のあたりは痛くない?」
「とくになんともないけど」
お姉ちゃんは少し考えこんでから玄関に入った。あたしもそれに続いて家に入り、あたしはシャワーを浴びるため浴室へ直行した。
お風呂から上がると、お姉ちゃんが自室から顔だけ覗かせて手招きしていた。その顔はどこか楽しそうで、またなにか企んでいるなと感じた。
あたしはなにも言わず素直にお姉ちゃんの部屋に入った。お姉ちゃんの部屋に入るのは小学生以来だろうか。お姉ちゃんが大学進学で家を出てから一度も入っていないと思う。お姉ちゃんがいない間も勝手に入ろうとは思わなかった。お姉ちゃんのプライバシーを尊重していたのだ。一方のお姉ちゃんは勝手にあたしの部屋に入ってくるのだが。
「彩夏にはこれをあげよう」
仕事から帰ってきたときの服装のまま、お姉ちゃんは壁にかけられた水色のロードバイクを指さした。
「なに急に。てか高いんじゃないの、ロードバイクって」
「まあそれなりに。でも手入れするだけで全然使ってないし、必要そうな彩夏にあげたほうがいいかなって」
お姉ちゃんが言うように、お姉ちゃんがロードバイクに乗っているのを見たことはない。大学卒業後、家に持って帰ってきたときに見たきりだった。
「くれるならもらうけど。でも使う予定ないよ」
「トレーニングに使いなさいよ」
「ランニングしてるし、十分だと思うんだけど。トレーニングを増やせってこと?」
お姉ちゃんはさっき玄関で見せたような複雑な表情を浮かべ、またあたしの足をじっくりと見つめてきた。
「本当に足は痛くないの?」
「痛くないって」
「今はそうかもしれないけど、そのうち痛くなってくるかもしれないよ。セパタクローはよく知らないけど、跳んだりはねたりよくするんでしょ」
あたしは黙って頷いた。跳んだりはねたりは千屋さんばかりで、あたしはあまりそういう動作はしない。
「跳んだりはねたりするとね、必然的に足への負担が大きくなるの。さらにコンクリートでのランニングときたら、足腰への負担は倍増」
お姉ちゃんはいつのまにか真剣な表情をしていた。なにか大事な話をするときはいつもこんな表情をする。
「シンスプリント。平たく言っちゃうと脛を痛める怪我の一種。私の友達にもそれに苦しめられている人がいた」
ラクロス日本代表だったお姉ちゃんの友達にはスポーツに関係している人が多いはずだ。その中で怪我に苦しんだ人を思い出しているのか、表情は険しい。
「彩夏には怪我をしてほしくないからね。ランニングじゃなくて、ロードバイクで走りな」
あたしはありがたくちょうだいすることにした。ロードバイクとそれを立てかけるポールをあたしの部屋へ移し終わるとお姉ちゃんは満足そうに眺めた。
「足腰の負担は少ないといっても、全くないわけじゃないし、今度は膝を痛めるかもしれないからオーバーワークだけは気をつけな」
「オーバーワークってどれくらい?」
「毎日一〇〇キロ、二〇〇キロ走るのはだめだね」
そんな時間あるわけないじゃん、とあたしとお姉ちゃんは笑った。
その日から通学の一〇キロ程度はロードバイクへ切り替え、練習から帰宅後は二〇キロ走るようになった。ロードバイクの扱いに慣れてくるとともに帰宅後のトレーニング距離も少しずつ伸ばしていった。
冬が近づきロードバイクに乗るのが辛くなってくると、お姉ちゃんは防寒着を買ってくれた。例のごとくあたしはなにも言わなかったのに、お姉ちゃんが嬉しそうに買ってくれたのだ。
進級するためのテストもギリギリなんとかなり、あたしは今日から二年生になった。
まだ人が少ない校門をくぐり、部室で制服に着替えた。校舎へ入る玄関前に小さな人だかりができていた。進級に伴いクラス替えがある。新しいクラスが大きな紙に書かれ張り出されていた。
視力が二・〇あるあたしは遠くからでも小さな文字がしっかり見える。人だかりから少し離れ、太字で書かれた何年何組の文字のすぐ下を端から見ていった。名字が「あ」から始まるから大抵の場合一番上に書いてある。
どうやら二年四組らしい。教室へ行くと聞き慣れた二人組の声が聞こえてきた。
「彩夏! また一緒だね」
「よかったよかった」
智子と由香だ。二人とは一年生のときに仲良くなりいつも一緒に行動していた。あたしと違い二人は帰宅部だから放課後も一緒というわけではなかったが。
一年生の夏休み後から二人の身体的な距離がだいぶ近くなっていた。一緒にいるといつも肩と肩が触れそうなくらい近い。そのことを指摘すると二人とも、
「そうかな」
と首を傾げるだけだった。
仲の良い友達がいてとりあえずは安心した。自分の席を確認してから荷物を置いて、二人の輪に加わった。
しばらくとりとめもない会話を続けていると、教室の後ろの扉から千屋さんが入ってきた。しかも友達らしき人が二人いて、千屋さんは自然な笑顔を見せている。こんな千屋さんを見たことがない。あたしは呆然としてしまった。
「どうしたの、彩夏」
智子が不思議そうにあたしの顔を覗き、由香はあたしの視線の先を追い、千屋さんに辿り着いたようだ。
「あの人がどうかした?」
「同じ部活の千屋さん。……友達いるんだ」
そう言うと二人は口々に、
「そりゃいるでしょ」
「同じ部活なのに、ひどい」
とかいろいろなことを言ってくれた。
千屋さんを知らない二人にとっては当たり前かもしれないが、あたしにとってその光景は衝撃的だった。無愛想で、練習中はくすりとも笑わない、そんな千屋さんが友達と談笑しているのだから。普段の千屋さんとのギャップにあたしはしばらく口をきけなかった。
通学にロードバイクを使っている女子校生はあたしくらいだと思う。今までそんな人とすれ違ったことはない。
意図的に負荷をかけているからあっという間に汗が吹き出してくる。目に入ると危険だからこまめに二の腕当たりのジャージで拭う。普段セパタクローの練習で使うジャージを通学のときも着ている。このジャージは汗を吸収して空気中へ逃がしてくれる、らしい。そのお陰か汗で肌がべたつかず快適に過ごすことができる。
制服は部室のロッカーに入っている。朝早めに登校して部室で着替え、放課後の練習後ジャージのままロードバイクで帰宅する。ここ半年はそのサイクルをずっと続けている。
目の前の信号が赤に変わり、慌ててブレーキをかけた。勢いそのままに後輪が少しだけ浮き上がった。
止まると一気に汗が首筋を伝って流れていく。さっきまでは風があったから気にしなかった。
足も心臓も痛い。でも決して嫌いじゃない。むしろ好きだ。苦しみと痛みが。自分をいじめ抜く地道なトレーニングはきっとあたしに合っているのだろう。
信号が青になり、シューズをペダルにはめ込み踏み込んだ。車通りの少ない道をぐんぐん進んでいく。
この自転車は元々お姉ちゃんのだ。ラクロス日本代表だったお姉ちゃんが現役時代にトレーニングに使用していたようだ。
夏の大会後、体力をつけるためにあたしはトレーニングを自主的に増やした。具体的には、練習から帰宅後、走るようにしたのだ。セパタクローの大会は一日で最大九セット行う。試合は二セットマッチだから最大三セット。それが三試合で九セット。それを走り抜ける体力があたしにはまだないと感じたからだ。
秋が深まり少し寒くなってきた日のランニングから帰ってくると仕事帰りのお姉ちゃんと玄関で鉢合わせた。
「走ってたの?」
あたしが頷くとお姉ちゃんは眉をひそめ、あたしの足をじっと見つめた。
「走りはじめたのはいつくらいから?」
「一ヶ月くらい前かな」
「足、というより脛のあたりは痛くない?」
「とくになんともないけど」
お姉ちゃんは少し考えこんでから玄関に入った。あたしもそれに続いて家に入り、あたしはシャワーを浴びるため浴室へ直行した。
お風呂から上がると、お姉ちゃんが自室から顔だけ覗かせて手招きしていた。その顔はどこか楽しそうで、またなにか企んでいるなと感じた。
あたしはなにも言わず素直にお姉ちゃんの部屋に入った。お姉ちゃんの部屋に入るのは小学生以来だろうか。お姉ちゃんが大学進学で家を出てから一度も入っていないと思う。お姉ちゃんがいない間も勝手に入ろうとは思わなかった。お姉ちゃんのプライバシーを尊重していたのだ。一方のお姉ちゃんは勝手にあたしの部屋に入ってくるのだが。
「彩夏にはこれをあげよう」
仕事から帰ってきたときの服装のまま、お姉ちゃんは壁にかけられた水色のロードバイクを指さした。
「なに急に。てか高いんじゃないの、ロードバイクって」
「まあそれなりに。でも手入れするだけで全然使ってないし、必要そうな彩夏にあげたほうがいいかなって」
お姉ちゃんが言うように、お姉ちゃんがロードバイクに乗っているのを見たことはない。大学卒業後、家に持って帰ってきたときに見たきりだった。
「くれるならもらうけど。でも使う予定ないよ」
「トレーニングに使いなさいよ」
「ランニングしてるし、十分だと思うんだけど。トレーニングを増やせってこと?」
お姉ちゃんはさっき玄関で見せたような複雑な表情を浮かべ、またあたしの足をじっくりと見つめてきた。
「本当に足は痛くないの?」
「痛くないって」
「今はそうかもしれないけど、そのうち痛くなってくるかもしれないよ。セパタクローはよく知らないけど、跳んだりはねたりよくするんでしょ」
あたしは黙って頷いた。跳んだりはねたりは千屋さんばかりで、あたしはあまりそういう動作はしない。
「跳んだりはねたりするとね、必然的に足への負担が大きくなるの。さらにコンクリートでのランニングときたら、足腰への負担は倍増」
お姉ちゃんはいつのまにか真剣な表情をしていた。なにか大事な話をするときはいつもこんな表情をする。
「シンスプリント。平たく言っちゃうと脛を痛める怪我の一種。私の友達にもそれに苦しめられている人がいた」
ラクロス日本代表だったお姉ちゃんの友達にはスポーツに関係している人が多いはずだ。その中で怪我に苦しんだ人を思い出しているのか、表情は険しい。
「彩夏には怪我をしてほしくないからね。ランニングじゃなくて、ロードバイクで走りな」
あたしはありがたくちょうだいすることにした。ロードバイクとそれを立てかけるポールをあたしの部屋へ移し終わるとお姉ちゃんは満足そうに眺めた。
「足腰の負担は少ないといっても、全くないわけじゃないし、今度は膝を痛めるかもしれないからオーバーワークだけは気をつけな」
「オーバーワークってどれくらい?」
「毎日一〇〇キロ、二〇〇キロ走るのはだめだね」
そんな時間あるわけないじゃん、とあたしとお姉ちゃんは笑った。
その日から通学の一〇キロ程度はロードバイクへ切り替え、練習から帰宅後は二〇キロ走るようになった。ロードバイクの扱いに慣れてくるとともに帰宅後のトレーニング距離も少しずつ伸ばしていった。
冬が近づきロードバイクに乗るのが辛くなってくると、お姉ちゃんは防寒着を買ってくれた。例のごとくあたしはなにも言わなかったのに、お姉ちゃんが嬉しそうに買ってくれたのだ。
進級するためのテストもギリギリなんとかなり、あたしは今日から二年生になった。
まだ人が少ない校門をくぐり、部室で制服に着替えた。校舎へ入る玄関前に小さな人だかりができていた。進級に伴いクラス替えがある。新しいクラスが大きな紙に書かれ張り出されていた。
視力が二・〇あるあたしは遠くからでも小さな文字がしっかり見える。人だかりから少し離れ、太字で書かれた何年何組の文字のすぐ下を端から見ていった。名字が「あ」から始まるから大抵の場合一番上に書いてある。
どうやら二年四組らしい。教室へ行くと聞き慣れた二人組の声が聞こえてきた。
「彩夏! また一緒だね」
「よかったよかった」
智子と由香だ。二人とは一年生のときに仲良くなりいつも一緒に行動していた。あたしと違い二人は帰宅部だから放課後も一緒というわけではなかったが。
一年生の夏休み後から二人の身体的な距離がだいぶ近くなっていた。一緒にいるといつも肩と肩が触れそうなくらい近い。そのことを指摘すると二人とも、
「そうかな」
と首を傾げるだけだった。
仲の良い友達がいてとりあえずは安心した。自分の席を確認してから荷物を置いて、二人の輪に加わった。
しばらくとりとめもない会話を続けていると、教室の後ろの扉から千屋さんが入ってきた。しかも友達らしき人が二人いて、千屋さんは自然な笑顔を見せている。こんな千屋さんを見たことがない。あたしは呆然としてしまった。
「どうしたの、彩夏」
智子が不思議そうにあたしの顔を覗き、由香はあたしの視線の先を追い、千屋さんに辿り着いたようだ。
「あの人がどうかした?」
「同じ部活の千屋さん。……友達いるんだ」
そう言うと二人は口々に、
「そりゃいるでしょ」
「同じ部活なのに、ひどい」
とかいろいろなことを言ってくれた。
千屋さんを知らない二人にとっては当たり前かもしれないが、あたしにとってその光景は衝撃的だった。無愛想で、練習中はくすりとも笑わない、そんな千屋さんが友達と談笑しているのだから。普段の千屋さんとのギャップにあたしはしばらく口をきけなかった。
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