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番外編
不機嫌な俺と上機嫌なあいつ
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啓と正式に……って言うのも変だけど……恋人になってまだ間もない、八月のある朝。
啓と俺はあることで言い争いをしていた。
「ヤだよ。絶対ヤだ。てかムリっ」
「大丈夫だって。顔は出さねえっつってたし」
「それでもムリもんはム、」
「結構稼げるぜ?」
う゛……稼げるのか……
金は欲しい……欲しいけど……
「俺、この間こんだけ貰ったぜ」
啓が掲げた指の数にビックリして目を見開く。
「まじ? それって十万単位?」
すげー、そんな貰えるのか。
俺が今やってるバイトなんて目じゃないな。
いや、でも……
「は? ちげえよ、百万単位」
「えええ?! 百万単位?! まじで?!」
「ほんとだって。それに幸が渋ってるって言ったら、金ならもっと出すからって」
「ま、まじかよ……」
「それに俺も一緒だし。な、いいだろ? 幸」
このとき金の力に負けて頷いてしまったことを、俺は死ぬほど後悔することになる。
・
・
・
「きゃー、幸ちゃん、今日も可愛いわー」
会うなり俺をむぎゅっとハグする美女はセイラさん。セイラさんにはもう何度か会ってるけど、この熱烈なハグと俺を子ども扱いするのにはまだ慣れない。
「啓にいじめられてない? 大丈夫?」
「えっと……、はい、大丈夫です」
「幸ちゃんはいつまで経ってもカタいなー。ダーリンと似てて、そんなところも可愛いけど」
チュッと音を立てて俺の頰にキスするセイラさんを引き剥がしたのは啓だ。
「幸は俺んだって言ってんだろ、セイラ。べたべたすんじゃねえよ」
「もおー、啓はほんと可愛くないんだから。年上に敬意を払うのは日本人の美徳でしょう?」
「じゃあ敬意払っておばさんって呼ぶけど、いいの?」
「あーん、啓がいじめるー。幸ちゃんだけが私の癒しよー」
「だから幸に抱きつこうとすんなって」
啓とセイラさんはいつもこんな感じ。すごく仲がいい。二人は恋人か、別れたあとも仲がいい元恋人だと勘違いする人もいるくらいだ。俺もそのうちの一人だったわけだけど、二人の関係はもちろん恋人でも元恋人でもない。
いやホントまじで驚いたんだけど、なんとセイラさんは瑠偉の母親なのだ。つまりセイラさんはフランス人の元スーパーモデルで、世界的に人気の下着ブランド・アニュの社長。瑠偉がハタチだから年齢は若くても三十代後半から四十代だと思うけど、セイラさんの見た目はせいぜい二十代後半。美魔女がすぎる。実年齢は……怖くて聞けない。
で、啓のせいで妊娠しただの、避妊しなかったのはあの時だけだの、あの夜セイラさんが意味深なことを言ってたのは、啓に貰った媚薬入りのワインを飲んだせいで盛り上がりすぎて避妊せずに妊娠してしまったからだと。相手はもちろんセイラさんがダーリンと呼ぶ瑠偉の父親で、二人ともいい年して赤ちゃんが出来るとは思っておらずかなり動揺したらしい。今では二人目の赤ちゃんの誕生を楽しみにしてて、瑠偉の父親は産休と育児休暇を申請済みだとか。
あと媚薬入りのワインは、運の悪さが重なってセイラさんの手に渡ってしまったようだ。件のワインは啓の知り合いから郵送されてきたもので、啓はもちろん媚薬入りとは知らなかった。とはいえ、さほど親しくもない相手からの贈り物だし、啓はすぐにワインを処分しようとキッチンへ持って行った。そこへ俺から電話が掛かってきて啓は電話を取ってリビングへ移動し、入れ替わりにキッチンへやって来た瑠偉がセイラさんの誕生年の希少ワインを発見した。そのワインを貰ってもいいかと尋ねた瑠偉に、俺との電話に夢中だった啓は瑠偉がどのワインの話をしているのか確認せずにどれでも持って行っていいと答えた。啓が電話を終えたときには瑠偉は帰った後で、ワインもなくなっていたが、啓は瑠偉がワインを捨ててくれたと勘違いしてしまったらしい。かくして媚薬入り希少ワインは、瑠偉の手からセイラさんに渡ってしまったというわけだ。
この話を聞いたときは俺も間接的に関わってると知って気が咎めたけど、それ以上にワインに入れられていたのが質の悪いドラッグや毒なんかじゃなくてよかったと安堵する気持ちと、もしそんなものを入れられてたらと恐怖する気持ちで軽いパニックに陥った。媚薬入りのワインなんかを送りつけてきて一体何がしたかったのかも疑問だし、啓の周辺はそんなに物騒なのかと考えると心配で心配で。啓にしつこく聞いたけど、その件はすでに処理済みだし今後の対策も万全だからと言われただけで詳しくは教えてもらえなかった。
「撮影の準備が整いましたー」
無機質なスタジオに響き渡ったスタッフさんの声に思考がぶった切られ、途端にどくんと心臓が跳ねる。
今日はいよいよCM撮影とポスター撮りの日だ。撮影は後ろ姿だけだっていうし、何より啓と一緒だし、大丈夫なんとかなるって自分に言い聞かせてきたけど……なんかトイレ行きたくなってきた。緊張マックスでヤバい。
「幸ちゃん、今日の撮影、期待してるわよ。頑張ってね」
「ハ、ハイ」
「そんな緊張しなくても大丈夫。いつも啓と一緒にいる感じでいてくれればいいから」
「ハハ……ゼンゼンダイジョブデス」
「幸ちゃん全然大丈夫そうじゃないわねー、そんなとこも可愛いけど」
「幸はいつでも可愛いから」
「はいはい惚気てないで。啓、幸ちゃんのフォローお願いね?」
「わーってるって。ほら、幸、行くぞ」
・
・
・
渋谷のスクランブル交差点。
忘れもしない、去年啓の広告を見つけたのと同じ場所に、アニュの新しい宣伝ポスターがでかでかと掲げられていた。
乱れたベッドを背景に、抱き締め合って立っている二人。
一人はもちろん、啓だ。
啓は腕に抱いた人物の耳元に唇を寄せ、何かを囁いているように見える。
こちらを真っ直ぐに射抜く視線は自らのテリトリーを主張するオスが敵を威嚇しているかのように鋭く、危険な光を纏っていた。
啓にその身を委ね、その背中を晒しているもう一人の人物は、腰のぎりぎりのラインまでシーツで覆われてはいるものの全裸であることは間違いなさそうだ。
啓が相手の腰に回した手に持っているのは一枚のボクサーパンツ。
そして、その横には
『男を変える下着 à nu』
と、今回のアニュのキャッチフレーズが書かれている。
「きゃー、何あのポスター超エロくない?」
「うっわー、ほんとだ」
「Kって久々に見たけどやっぱエロカッコいいー」
「Kもエロいけどさ、もう一人の男の人もエロくない?」
「え? あれ男? 女じゃないの?」
「男でしょ。だって今回はメンズの宣伝みたいだし」
「えー、でも、あの背中と腰のラインは男じゃないでしょ」
「言われてみればそうかも。あの腰のくびれは男じゃあり得ないか」
「てか私と比べても細いから。それに、あの肌。羨ましいくらい白いし」
「だよね、シミもないし超キレイ。けど修正じゃない?」
「確かに修正かもね。キレイ過ぎだし。でも一体、誰だろ?」
「横顔がちらっとしか見えてないのが残念」
「てか睫毛長くない? あれ自前かな?」
「あの睫毛が自前だったら、超羨ましいんだけどー」
「ね、今からアニュ行ってみようよ。あのモデルさんのこと教えくれるかも」
「いいねー、行こ行こ。あのボクサーパンツ可愛いし、レディースあったら買っちゃおー」
目の前を通り過ぎていく女の子たちを呆然と見送ってから、俺は無意識に詰めていた息を吐き出した。
「まじかよ……」
「すげーじゃん。幸、早速、売り上げに貢献してるみたいだぜ?」
俺の隣に立っている啓は、何がそんなに嬉しいのか上機嫌だ。
「顔は出さねえっつったのに……」
反して俺の機嫌は急降下だ。この間宣伝に使う写真の最案候補を見せて貰ったときに、ちょっとでも顔が写ってるのは嫌だって言ったのに。
「横顔っつっても斜め後ろからだからほとんど顔見えてねえし。誰もお前ってわかんねえよ」
「そうかもしんねえけど……」
俺がモデルだってバレるのはもちろん嫌だけど、それよりも俺が気になるのはこの宣伝ポスターが与える印象だ。さっきの子たちも言ってたけど、なんかエロいんだよ。そういう……なんていうかヤった後みたいな気だるさがあるっていうか……まあ、そういうコンセプトで撮ってるからそれで正解なんだけど、このポスターが切欠で啓と俺の関係が誤解されたら……いや誤解じゃないから余計困るっていうか……
「男か女かもわかってなかっただろ? だから大丈夫だって、心配すんな」
「俺、女じゃねえし……」
「肌綺麗すぎて修正だとか言われてたしな。全然修正なんかしてねえのに」
「それもなんか……複雑……」
「まあまあ。さっきの子たちはさ、幸が綺麗すぎっから女かもって思っただけだって」
「ふーん、啓にとったら綺麗イコール女なのか。へえー、そう」
「拗ねんなよ。俺にとっては綺麗イコール幸だから」
「ムリすんな。男は俺が初めてなんだろ? 別に啓がほんとは女が好きだからって、」
「ちょ、待てよ。俺は別に女好きってわけじゃねえし。まあ男好きでもねえけど」
「………………ごめん」
心配のあまり不機嫌になって啓に八つ当たりしてた自覚はある。自分が拗ねてるのもわかってる。決まりが悪くてぼそりと呟くと、俺の顔を覗き込んだ啓が朗らかな声で言う。
「てか俺は幸しか好きじゃねえから、幸好き?」
「ばーか、んなことばねえよ」
啓があまりにも上機嫌に笑うから、俺もつられて笑ってしまった。
* * *
後日談①
アニュの宣伝は前回を凌ぐほどの反響を呼び、Kの相手のモデルは男か? 女か? という話題で持ちきりだった。今回アニュサイドがモデルの名前どころか、一切ノーコメントを貫いたのも火に油を注いだんだろう。教えないと言われれば余計に知りたくなる、人間の心理を巧みに利用した上手い戦略が功を奏して、新作のメンズだけでなくアニュ全体がかなり売り上げを伸ばしているらしい。
「よう、お二人さん。CM見たぜ。なんか今回のはまたすげーな」
「千秋、久しぶり。すげーってなにが?」
「だって、あれ、幸也だろ?」
「えっ?!」
「あ゛?」
「なに、お前ら、バレねえとでも思ってたの?」
「え……、いや……」
「後ろ姿だけじゃん。あれのどこらへんが幸なんだよ」
「あの背中はどう見ても幸也だろ? 幸也の裸なんか嫌ってほど見てるし」
「はああああ?!」
「や、違う、啓、落ち着けって」
「落ち着けねえっつーの。なんで千秋がお前の裸見慣れてんだよ」
「だから違うって。野球やってっと暑くて脱いじゃうんだって」
「幸、お前もう野球禁止な」
「はあ? なんだよそれ」
「禁止されたくなかったらTシャツは絶対に脱がないこと。わかったか?」
「なんだよ、偉そうに」
「お前ら夫婦喧嘩なら家でやれ!」
この後よくよく話を聞いてみれば、千秋はとっくの昔に俺と啓の関係を察していたらしく、今回の宣伝を見て確信したんだとか。俺がゲイだってことにも、啓と恋人関係だってことにも、千秋は嫌悪感をもつどころか興味津々で、男同士のセックスのやり方について質問攻めにされて大いに困ったのはまた別の話。
後日談②
『ねえ、幸也。本当に誰だか知らないの?』
久しぶりに母親から電話が掛かってきたと思ったら、開口一番に聞かれた。何をって? もちろんアニュの宣伝で啓と共演してるモデルについてだ。
実はモデルの件はまだ誰にも話してない。初めは内緒にするつもりはなかったんだけど、宣伝のコンセプトが意味深だったから完成したのを確認してから話そうと思ってた。そしたら最終的に思ってた以上に意味深なのができちゃって、結局誰にも話せずじまい。あれは単なる演技だからって涼しい顔して話せればいいんだろうけど、俺にはできそうもないから、啓との関係もバレちゃう気がする。それはつまり俺がゲイだってことがバレちゃうってことで……それを考えると怖い。
「さあ」
『啓くんにも聞いてみてよ』
「やだよ。自分で聞けば?」
『やだあ。そんなミーハーなこと聞けるわけないじゃない』
電話の向こう側でたぶん頬を染めているだろう母親を想像して内心ため息を吐く。
『母さんが思うに、あのモデルさん、啓くんの恋人じゃないかしら』
「は?」
俺の母親が鋭いのか、あの広告が意味深すぎるのか。
どっちにしても、やっぱり話さなくて正解だった。
『あの啓くんの目がそう言ってるもの。「こいつは俺のもんだ。手を出すな」って』
「や、あれはただの演技だろ?」
『そうかしら?』
「そうだろ」
『ふーん。そう』
電話越しなのに、母親からの圧が凄い。
『あのモデルさんの背中綺麗よね?』
「そう、だっけ?」
『あの腰のくびれも只者じゃないわ』
「うん……」
『色も白いわよねー。ほんと、羨ましいわー』
「…………」
『幸也も色白いわよね?』
「……え?」
『腰も細いし』
「え? え?」
『背中は……あんな感じだったかしら』
「ちょ、母さん、何言って、」
『幸也って睫毛も長いわよね?』
「…………」
この会話の着地点は一体どこへ向かうのか。
ヤバい予感しかしない。
『母さんはね、これでも結構、肝は据わってるつもりよ?』
知ってるよ。
俺ら兄弟はみんなやんちゃだったから、学校に呼び出されたことは数知れず。
けど母さんは、一度たりとも俺たちを理由なく叱ったことはなかった。
『だからあのモデルが誰なのか、言いたくなったら教えてちょうだい』
遅かれ早かれ、俺はきっと母親にすべてを打ち明けるだろう。
半ばそう確信して、俺は電話を切った。
撮影のとき、啓が俺の耳に囁いたことも、もしかして実現する未来がくるのかもしれない。
幸、愛してる。
いつか、そのときがきたら……
啓と俺はあることで言い争いをしていた。
「ヤだよ。絶対ヤだ。てかムリっ」
「大丈夫だって。顔は出さねえっつってたし」
「それでもムリもんはム、」
「結構稼げるぜ?」
う゛……稼げるのか……
金は欲しい……欲しいけど……
「俺、この間こんだけ貰ったぜ」
啓が掲げた指の数にビックリして目を見開く。
「まじ? それって十万単位?」
すげー、そんな貰えるのか。
俺が今やってるバイトなんて目じゃないな。
いや、でも……
「は? ちげえよ、百万単位」
「えええ?! 百万単位?! まじで?!」
「ほんとだって。それに幸が渋ってるって言ったら、金ならもっと出すからって」
「ま、まじかよ……」
「それに俺も一緒だし。な、いいだろ? 幸」
このとき金の力に負けて頷いてしまったことを、俺は死ぬほど後悔することになる。
・
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「きゃー、幸ちゃん、今日も可愛いわー」
会うなり俺をむぎゅっとハグする美女はセイラさん。セイラさんにはもう何度か会ってるけど、この熱烈なハグと俺を子ども扱いするのにはまだ慣れない。
「啓にいじめられてない? 大丈夫?」
「えっと……、はい、大丈夫です」
「幸ちゃんはいつまで経ってもカタいなー。ダーリンと似てて、そんなところも可愛いけど」
チュッと音を立てて俺の頰にキスするセイラさんを引き剥がしたのは啓だ。
「幸は俺んだって言ってんだろ、セイラ。べたべたすんじゃねえよ」
「もおー、啓はほんと可愛くないんだから。年上に敬意を払うのは日本人の美徳でしょう?」
「じゃあ敬意払っておばさんって呼ぶけど、いいの?」
「あーん、啓がいじめるー。幸ちゃんだけが私の癒しよー」
「だから幸に抱きつこうとすんなって」
啓とセイラさんはいつもこんな感じ。すごく仲がいい。二人は恋人か、別れたあとも仲がいい元恋人だと勘違いする人もいるくらいだ。俺もそのうちの一人だったわけだけど、二人の関係はもちろん恋人でも元恋人でもない。
いやホントまじで驚いたんだけど、なんとセイラさんは瑠偉の母親なのだ。つまりセイラさんはフランス人の元スーパーモデルで、世界的に人気の下着ブランド・アニュの社長。瑠偉がハタチだから年齢は若くても三十代後半から四十代だと思うけど、セイラさんの見た目はせいぜい二十代後半。美魔女がすぎる。実年齢は……怖くて聞けない。
で、啓のせいで妊娠しただの、避妊しなかったのはあの時だけだの、あの夜セイラさんが意味深なことを言ってたのは、啓に貰った媚薬入りのワインを飲んだせいで盛り上がりすぎて避妊せずに妊娠してしまったからだと。相手はもちろんセイラさんがダーリンと呼ぶ瑠偉の父親で、二人ともいい年して赤ちゃんが出来るとは思っておらずかなり動揺したらしい。今では二人目の赤ちゃんの誕生を楽しみにしてて、瑠偉の父親は産休と育児休暇を申請済みだとか。
あと媚薬入りのワインは、運の悪さが重なってセイラさんの手に渡ってしまったようだ。件のワインは啓の知り合いから郵送されてきたもので、啓はもちろん媚薬入りとは知らなかった。とはいえ、さほど親しくもない相手からの贈り物だし、啓はすぐにワインを処分しようとキッチンへ持って行った。そこへ俺から電話が掛かってきて啓は電話を取ってリビングへ移動し、入れ替わりにキッチンへやって来た瑠偉がセイラさんの誕生年の希少ワインを発見した。そのワインを貰ってもいいかと尋ねた瑠偉に、俺との電話に夢中だった啓は瑠偉がどのワインの話をしているのか確認せずにどれでも持って行っていいと答えた。啓が電話を終えたときには瑠偉は帰った後で、ワインもなくなっていたが、啓は瑠偉がワインを捨ててくれたと勘違いしてしまったらしい。かくして媚薬入り希少ワインは、瑠偉の手からセイラさんに渡ってしまったというわけだ。
この話を聞いたときは俺も間接的に関わってると知って気が咎めたけど、それ以上にワインに入れられていたのが質の悪いドラッグや毒なんかじゃなくてよかったと安堵する気持ちと、もしそんなものを入れられてたらと恐怖する気持ちで軽いパニックに陥った。媚薬入りのワインなんかを送りつけてきて一体何がしたかったのかも疑問だし、啓の周辺はそんなに物騒なのかと考えると心配で心配で。啓にしつこく聞いたけど、その件はすでに処理済みだし今後の対策も万全だからと言われただけで詳しくは教えてもらえなかった。
「撮影の準備が整いましたー」
無機質なスタジオに響き渡ったスタッフさんの声に思考がぶった切られ、途端にどくんと心臓が跳ねる。
今日はいよいよCM撮影とポスター撮りの日だ。撮影は後ろ姿だけだっていうし、何より啓と一緒だし、大丈夫なんとかなるって自分に言い聞かせてきたけど……なんかトイレ行きたくなってきた。緊張マックスでヤバい。
「幸ちゃん、今日の撮影、期待してるわよ。頑張ってね」
「ハ、ハイ」
「そんな緊張しなくても大丈夫。いつも啓と一緒にいる感じでいてくれればいいから」
「ハハ……ゼンゼンダイジョブデス」
「幸ちゃん全然大丈夫そうじゃないわねー、そんなとこも可愛いけど」
「幸はいつでも可愛いから」
「はいはい惚気てないで。啓、幸ちゃんのフォローお願いね?」
「わーってるって。ほら、幸、行くぞ」
・
・
・
渋谷のスクランブル交差点。
忘れもしない、去年啓の広告を見つけたのと同じ場所に、アニュの新しい宣伝ポスターがでかでかと掲げられていた。
乱れたベッドを背景に、抱き締め合って立っている二人。
一人はもちろん、啓だ。
啓は腕に抱いた人物の耳元に唇を寄せ、何かを囁いているように見える。
こちらを真っ直ぐに射抜く視線は自らのテリトリーを主張するオスが敵を威嚇しているかのように鋭く、危険な光を纏っていた。
啓にその身を委ね、その背中を晒しているもう一人の人物は、腰のぎりぎりのラインまでシーツで覆われてはいるものの全裸であることは間違いなさそうだ。
啓が相手の腰に回した手に持っているのは一枚のボクサーパンツ。
そして、その横には
『男を変える下着 à nu』
と、今回のアニュのキャッチフレーズが書かれている。
「きゃー、何あのポスター超エロくない?」
「うっわー、ほんとだ」
「Kって久々に見たけどやっぱエロカッコいいー」
「Kもエロいけどさ、もう一人の男の人もエロくない?」
「え? あれ男? 女じゃないの?」
「男でしょ。だって今回はメンズの宣伝みたいだし」
「えー、でも、あの背中と腰のラインは男じゃないでしょ」
「言われてみればそうかも。あの腰のくびれは男じゃあり得ないか」
「てか私と比べても細いから。それに、あの肌。羨ましいくらい白いし」
「だよね、シミもないし超キレイ。けど修正じゃない?」
「確かに修正かもね。キレイ過ぎだし。でも一体、誰だろ?」
「横顔がちらっとしか見えてないのが残念」
「てか睫毛長くない? あれ自前かな?」
「あの睫毛が自前だったら、超羨ましいんだけどー」
「ね、今からアニュ行ってみようよ。あのモデルさんのこと教えくれるかも」
「いいねー、行こ行こ。あのボクサーパンツ可愛いし、レディースあったら買っちゃおー」
目の前を通り過ぎていく女の子たちを呆然と見送ってから、俺は無意識に詰めていた息を吐き出した。
「まじかよ……」
「すげーじゃん。幸、早速、売り上げに貢献してるみたいだぜ?」
俺の隣に立っている啓は、何がそんなに嬉しいのか上機嫌だ。
「顔は出さねえっつったのに……」
反して俺の機嫌は急降下だ。この間宣伝に使う写真の最案候補を見せて貰ったときに、ちょっとでも顔が写ってるのは嫌だって言ったのに。
「横顔っつっても斜め後ろからだからほとんど顔見えてねえし。誰もお前ってわかんねえよ」
「そうかもしんねえけど……」
俺がモデルだってバレるのはもちろん嫌だけど、それよりも俺が気になるのはこの宣伝ポスターが与える印象だ。さっきの子たちも言ってたけど、なんかエロいんだよ。そういう……なんていうかヤった後みたいな気だるさがあるっていうか……まあ、そういうコンセプトで撮ってるからそれで正解なんだけど、このポスターが切欠で啓と俺の関係が誤解されたら……いや誤解じゃないから余計困るっていうか……
「男か女かもわかってなかっただろ? だから大丈夫だって、心配すんな」
「俺、女じゃねえし……」
「肌綺麗すぎて修正だとか言われてたしな。全然修正なんかしてねえのに」
「それもなんか……複雑……」
「まあまあ。さっきの子たちはさ、幸が綺麗すぎっから女かもって思っただけだって」
「ふーん、啓にとったら綺麗イコール女なのか。へえー、そう」
「拗ねんなよ。俺にとっては綺麗イコール幸だから」
「ムリすんな。男は俺が初めてなんだろ? 別に啓がほんとは女が好きだからって、」
「ちょ、待てよ。俺は別に女好きってわけじゃねえし。まあ男好きでもねえけど」
「………………ごめん」
心配のあまり不機嫌になって啓に八つ当たりしてた自覚はある。自分が拗ねてるのもわかってる。決まりが悪くてぼそりと呟くと、俺の顔を覗き込んだ啓が朗らかな声で言う。
「てか俺は幸しか好きじゃねえから、幸好き?」
「ばーか、んなことばねえよ」
啓があまりにも上機嫌に笑うから、俺もつられて笑ってしまった。
* * *
後日談①
アニュの宣伝は前回を凌ぐほどの反響を呼び、Kの相手のモデルは男か? 女か? という話題で持ちきりだった。今回アニュサイドがモデルの名前どころか、一切ノーコメントを貫いたのも火に油を注いだんだろう。教えないと言われれば余計に知りたくなる、人間の心理を巧みに利用した上手い戦略が功を奏して、新作のメンズだけでなくアニュ全体がかなり売り上げを伸ばしているらしい。
「よう、お二人さん。CM見たぜ。なんか今回のはまたすげーな」
「千秋、久しぶり。すげーってなにが?」
「だって、あれ、幸也だろ?」
「えっ?!」
「あ゛?」
「なに、お前ら、バレねえとでも思ってたの?」
「え……、いや……」
「後ろ姿だけじゃん。あれのどこらへんが幸なんだよ」
「あの背中はどう見ても幸也だろ? 幸也の裸なんか嫌ってほど見てるし」
「はああああ?!」
「や、違う、啓、落ち着けって」
「落ち着けねえっつーの。なんで千秋がお前の裸見慣れてんだよ」
「だから違うって。野球やってっと暑くて脱いじゃうんだって」
「幸、お前もう野球禁止な」
「はあ? なんだよそれ」
「禁止されたくなかったらTシャツは絶対に脱がないこと。わかったか?」
「なんだよ、偉そうに」
「お前ら夫婦喧嘩なら家でやれ!」
この後よくよく話を聞いてみれば、千秋はとっくの昔に俺と啓の関係を察していたらしく、今回の宣伝を見て確信したんだとか。俺がゲイだってことにも、啓と恋人関係だってことにも、千秋は嫌悪感をもつどころか興味津々で、男同士のセックスのやり方について質問攻めにされて大いに困ったのはまた別の話。
後日談②
『ねえ、幸也。本当に誰だか知らないの?』
久しぶりに母親から電話が掛かってきたと思ったら、開口一番に聞かれた。何をって? もちろんアニュの宣伝で啓と共演してるモデルについてだ。
実はモデルの件はまだ誰にも話してない。初めは内緒にするつもりはなかったんだけど、宣伝のコンセプトが意味深だったから完成したのを確認してから話そうと思ってた。そしたら最終的に思ってた以上に意味深なのができちゃって、結局誰にも話せずじまい。あれは単なる演技だからって涼しい顔して話せればいいんだろうけど、俺にはできそうもないから、啓との関係もバレちゃう気がする。それはつまり俺がゲイだってことがバレちゃうってことで……それを考えると怖い。
「さあ」
『啓くんにも聞いてみてよ』
「やだよ。自分で聞けば?」
『やだあ。そんなミーハーなこと聞けるわけないじゃない』
電話の向こう側でたぶん頬を染めているだろう母親を想像して内心ため息を吐く。
『母さんが思うに、あのモデルさん、啓くんの恋人じゃないかしら』
「は?」
俺の母親が鋭いのか、あの広告が意味深すぎるのか。
どっちにしても、やっぱり話さなくて正解だった。
『あの啓くんの目がそう言ってるもの。「こいつは俺のもんだ。手を出すな」って』
「や、あれはただの演技だろ?」
『そうかしら?』
「そうだろ」
『ふーん。そう』
電話越しなのに、母親からの圧が凄い。
『あのモデルさんの背中綺麗よね?』
「そう、だっけ?」
『あの腰のくびれも只者じゃないわ』
「うん……」
『色も白いわよねー。ほんと、羨ましいわー』
「…………」
『幸也も色白いわよね?』
「……え?」
『腰も細いし』
「え? え?」
『背中は……あんな感じだったかしら』
「ちょ、母さん、何言って、」
『幸也って睫毛も長いわよね?』
「…………」
この会話の着地点は一体どこへ向かうのか。
ヤバい予感しかしない。
『母さんはね、これでも結構、肝は据わってるつもりよ?』
知ってるよ。
俺ら兄弟はみんなやんちゃだったから、学校に呼び出されたことは数知れず。
けど母さんは、一度たりとも俺たちを理由なく叱ったことはなかった。
『だからあのモデルが誰なのか、言いたくなったら教えてちょうだい』
遅かれ早かれ、俺はきっと母親にすべてを打ち明けるだろう。
半ばそう確信して、俺は電話を切った。
撮影のとき、啓が俺の耳に囁いたことも、もしかして実現する未来がくるのかもしれない。
幸、愛してる。
いつか、そのときがきたら……
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ママさん最高すぎる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
夜中なのに一気読みしちゃいました(´∀`*)
色々とハラハラしたりドキドキしたり( *´艸`)グ腐腐腐としたりめっちゃ引き込まれました!
幸をいじめた女どもへの制裁?が少し気になります!完結は嬉しいけど続きが気になる!!今後の2人の出来事が気になります((o(。>ω<。)o))
それでも今後の2人がなんやかんや喧嘩はするけど幸せに暮らして行くんだろうなぁとなんか保護者目線で幸せになって欲しいなと思っちゃいました笑
番外編含めて最高でした!!
とてもよい作品に出会えたこと嬉しく思います。
そしてなによりこの作品を描いてくださったちとせ。様に本当に感謝です。
またなにか機会がありましたら、二人のその後などの番外編も読ませていただきたいです。
本当に最高でした。
りん様、最後まで読んで下さってありがとうございます。
最高と言っていただけてとても嬉しいです。
その後の二人のお話は機会があれば書くつもりなので、その時はまた読んでやって下さい。
一気読み!
こういうキュンと出来る現実恋愛BLを探していました!良かったです。
ジレジレが後半までずっと続きますが、攻め視点があるお陰で良いクッションになっているので最後まで耐えることが出来ました。
ただ、セイラのことや啓がここまで幸に執着した理由、家族背景、本当に遊び人だったのか、幸が出ていった後で付き合っていたという女とはどうなっていたのか……などがうやむやなままなので、そこは本編中にしっかり終わらせてほしかったな……という気もします。
アナザーストーリーでまだ続くようなので、だったら完結じゃなくて第一章、第二章とかで良かったのでは?と思いました。
田沢みん様、感想ありがとうございます。気に入っていただけて嬉しいです。
今日から最終章のサイドストーリーを更新します。幸が出て行った後にあの女性と付き合っていたかどうかはサイドストーリーで明かされます。啓が幸を好きになった理由やセイラの謎はサイドストーリー完結後に更新する番外編でわかります。ぜひ読んでみてくださいね。