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本編

第二話 その距離、およそ七十センチ

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一瞬、何が起きたのかわからなかった。気がついたときには、享の顔がどアップで。にやりと満足げに笑った享に、チュッと二度目のキスをされて。そのときやっと、自分が享に何をされたのかを理解した。

俺、キス……された? 享に?
な、な、なんで???

「しゅ、修二、おまえ……」

混乱した頭に、俺の名前を呼ぶ声が響いた。聖夜の声だ。慌てて振り返ると、驚いた顔をしてこちらを見ている聖夜と、慶の姿がそこにあった。

まさか、慶にも見られた?
もしかして俺から享にキスを迫ったと思われたんじゃ?

享は『虐め甲斐がある』と言った。理由はわからないけれど、享は俺のことが目障りなのだろう。だから度々俺のことを意味ありげな目で見ていたのだ。でもだからって慶の目の前でこんなこと……。

悔しくて。情けなくて。居た堪れなくて。頭の中はもうごちゃごちゃで。どうしていいのかも、何を言ったらいいのかもわからなくて。その場に立ち尽くす俺に、享は笑顔を浮かべながらこう言ったのだ。

「修二、泣きそうな顔してる。そんな顔してるとさ、もっと苛めたくなるんだけど?」

それを聞いて、俺の中の何かが焼き切れた。

やられるだけで終われるかっつーの!

かっとなった俺は享の首に腕を回して引き寄せた。享にされた軽いキスではなく、舌を絡めるディープなやつを返してやる。

すぐに突き飛ばされるかと思いきや、享は全く抵抗もせずに俺のキスを受け入れた。男からの突然のディープキスにパニクっているのだろう……なんて考えは俺の勘違いだと気づいたのは途中から。更に体を密着するように享に抱きこまれ、舌を絡められ、激しく口内を貪られて、キスの主導権が完全に享に移ってからだった。

「んっ、……んん、……は、ぁ、……」

享のキスのテクは極上だった。キスの主導権争いは、完全に俺の負けだ。意地の張り合いでも俺の負けは確定だろう。嫌がらせで男にディープキスができる野郎なんてそうそういない。俺もかなりの負けず嫌いだという自覚はあるけれど、享には負ける。もういろんな意味で、俺の完敗だった。

「あ、……ゃ、っ、……ちょっ」

心の中で白旗を掲げたとき、するりとTシャツの中に入ってきた享の手に乳首を摘まれて。

「調子にのんじゃねーっ!」

俺は満身の力を込めて享を突き飛ばした。隣のテーブルまで吹っ飛び、椅子を薙ぎ倒して床に転がった享を見て、ほんの少し溜飲を下げる。いい気味だ。俺は息を吐き出して、濡れた口元を手の甲でで拭った。

「やば……」

すぐ近くで聞こえた声につられて振り向くと、そこには同じ学部のやつが立っていた。名前は確か佐々木だったか。佐々木は俺と目が合った途端、気まずそうな顔をして視線を逸らした。

そうだった。ここは……

俺ははっとして辺りを見回した。来週から夏休みを控えた大学の学食は、普段より少ないとはいえ、それなりの数の学生で埋まっていた。享への怒りで我を忘れた俺は、自分がどこにいるのかもすっかり忘れていたのだ。人前で自分が仕出かしてしまったことの大きさに、全身から血の気が引く。

好奇心丸出しで俺を観察しているやつ。
遠巻きにこちらの動向を気にしているやつ。

知ってるやつも、知らないやつも、男も、女も、周囲のやつらは皆一様に、俺が視線を向けるとわざとらしく顔を背け、視線を彷徨わせた。誰も俺と視線を合わせようとしない。けれど皆が俺の出方を窺がっているのは、不自然な静けさが証明していた。

逃げ出したい。でも足が動かない。

どうしよう。どうする?
俺、どうしたらいい?

俺は聖夜の姿を探した。聖夜なら俺をこの窮地から救ってくれると思った。けれど、振り返った先にいたのは……

慶だった。

周囲の皆が俺の視線を避ける中、慶は、慶だけは真っ直ぐに俺を見ていた。俺をじっと見つめたまま、慶がゆっくりと近づいてくる。一歩、二歩、三歩。少しずつ近づく距離。

その距離、およそ七十センチ。

手を伸ばせば届く。そう思ったとき、

「慶……」

あの夏の日以来、口にすることのなかった名前がぽろりと口から零れた。

小さな、誰にも聞き取れないくらい小さな声だったと思う。けれど慶の耳には俺の声が届いたのだろう。慶はその場でぴたりと足を止めた。そして、まるであの夏の日の再現のように、震える拳を握り締め、嫌悪と憎悪に満ちた目で俺を睨みつけた。

心臓のあたりがずきりと痛む。

結局のところ俺は、慶の隣から離れた今でも、慶にあんな顔しかさせられないのだ。

本当はわかっていた。あれからずっと、慶が俺に憎々しげな視線を寄こしていたことを。その視線の中に、ほんの少しの未練が見え隠れしていたことを。それは俺の思い過ごしでも、自分勝手な妄想でもないはずだ。昔から俺は慶以上に慶の考えていることがわかるのだから。

あの夏の日を過去にできていないのは、俺も慶も同じなのだ。

でも俺はずるいから。だから気づかない振りをしていた。憎しみだろうと何だろうと、慶の心の中に俺の居場所があることに暗い喜びを感じていた。

けれど。
あの夏の日を過去にしないことには、俺も慶も先に進めない。

だから。
俺が終わりにしてやる。今日。ここで。あの夏の日の過ちを。

「慶」

決意を胸に慶の名前を呼ぶと、慶の顔が苦しそうに歪んだ。

「なんでだよ……」

そう呟く慶の声は、激情のためか小さく震えている。

「なんで……、なんで享にキスなんかしてんだよっ!」

悲痛にも聞こえる声で叫んだ慶が拳を振り上げた。俺は殴られる覚悟をして目を閉じた。慶がしたいようにすればいい。けれど予測した衝撃の代わりに聖夜の声が聞こえて目を開けた。

「ちょっ、慶! 落ち着けって」
「聖夜っ、離せよっ!」
「わかったから。な? 場所変えよ? ここじゃまずいって」

聖夜は慶の腕を掴んで宥めようとしていた。突然現れた聖夜の存在を訝しく思ったけれど、もしかして俺の目に入っていなかっただけで聖夜はずっと慶のそばにいたのかもしれない。きっとそうだろう。いや、今は聖夜のことはどうでもいい。慶だ。

「んなの関係ねえよっ!」
「関係あるっつーのっ。ここ、学食だぞ?」
「うっせーんだよっ! 聖夜、お前には関係ねえだろ? これは俺と修二の問題なんだよっ!」

慶の目が真っ直ぐに俺を射抜く。

「聖夜、離してやれよ」
「けど修二……」
「いいから。俺も慶とちゃんと話したいし。……ありがとな、聖夜」

聖夜の気持ちはありがたいけれど、これは俺と慶の問題なのだ。慶のことばで覚悟ができた。ここが何処であろうと関係ない。

聖夜は真意を探るように俺をしばらく見つめていたけれど、観念したようにはあと息を吐き出して慶を解放した。聖夜が慶の腕を放しても、慶が俺に殴り掛かってくることはなかった。視線と視線がぶつかる。俺はゆっくりと口を開いた。

「悪かったな、慶。お前のダチにあんなことして。つい、魔が差したってか、さ」

俺から亨に仕掛けたことにしておこうと思った。どうせなら徹底的に悪役を演じてやろうと思ったのだ。仕上げに不敵な笑みを浮かべると、まんまと挑発に乗った慶が声を荒げた。

「んなこと言ってんじゃねえよ! てか魔が差したってなんだよ。享は男だぞっ!」
「……男、だからだよ」

覚悟を決めたはずなのに、声が掠れる。

「は?」

慶は困惑した顔を隠しもせず、それでも真っ直ぐに俺を見ていた。

俺は臆病だから。自分がゲイであることをひた隠しにしてきたけれど。慶の人生から俺という存在を抹殺するために。そして俺自身が慶への想いを吹っ切るために。俺は言う。ここで。言ってやろうじゃねえか。

「享が男だから、だよ。近くで見たらあいつの顔、結構好みだったから、つい」
「な、に、言って……」
「俺さ。男が好きなの。てか男しかだめなんだ。ゲイってやつ?」

しんと静まり返っていた周囲がざわりと揺らいだ。

目配せをしてニヤつくやつら。
ひそひそと囁き合うやつら。

皆の反応がずっと怖かった。けど今は、全然怖くなかった。まるで他人事のように感じた。そう。所詮、他人事なのだ。他人が俺のことをどう思うかなんて、俺に決められることじゃない。それは俺の問題ではなくて、そいつらの問題なのだから。

不思議に凪いだ心で周囲をぐるりと見渡すと、不運にも俺とばっちり目が合った男がいた。さっきの佐々木だ。佐々木は今度は目を逸らす余裕もなかったのか、俺をじっと見たまま怯えた様子で一歩後ずさった。

「んな警戒すんなよ」

俺がそう言うと、佐々木が「ひっ」と小さく息を呑んだのが聞こえた。そのあからさますぎる拒絶に自嘲の笑みが漏れる。

「佐々木、お前さあ、男とヤったことある?」
「え? や……、お、俺は……」
「ふっ、俺、結構、具合いいらしいぜ?」
「ぐ、ぐあっ?!」

奇声を発した佐々木が「あ」の口のまま固まっているすきに、俺は佐々木との距離を縮めた。

「試して……、みる?」

佐々木の耳元に唇を寄せて囁けば、佐々木の顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。

「お、お、お、俺は……、あ、あ、あ、あ、あの、そ、そ、その……」

意趣返しのつもりではなかった。ちょっとした演出のつもりだったのだ。俺が嫌なら俺には近づくなと周囲のやつらに警告したかっただけなのだけれど。運悪く俺に生贄にされた佐々木が怒りで真っ赤になってしまったのを見て、やりすぎたなと反省する。

「なーんてね。冗談だっつーの。俺もさ、男なら誰でもいいってわけじゃねえし?」

佐々木を解放し、今度は周囲のやつらをぐるりと見据えて声を張り上げた。

「安心しろよ。おめえらには近づかねえよ」

俺からは近づかない。
だから俺が嫌なら俺に近づくな。
陰でこそこそ噂話でもなんでもすればいい。
俺に直接言いたいことがあるなら言えばいい。
俺は逃げも隠れもしない。

またしんと静まり返ったその他大勢のギャラリーから慶に視線を移すと、慶はますますぎゅっと拳を握り締め、悲愴にも見える表情で俺をじっと見つめていた。

「慶、お前にも。俺は絶対に近づかねえから」

さようなら、慶。

心の中でだけそう呟いて、俺はその場を後にした。
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