33 / 44
姫と忍
16
しおりを挟む
川沿いにある茅ヶ崎村は、見渡す限り田畑ばかりの、静かな村だ。
民家を訪ねて宿を求め、花月たちは今夜の食事と寝床を押さえた。
日没にはまだ余裕があったが、夏の身体の加減を気にかけて早めの逗留を決めた。
まだまだ、休憩なぞ取らずとも、先へ進める――と主張した夏だったが、疲れは明らかだ。
城にこもりきりだった夏なら、馬に揺られるだけでも、かなりの負担になったに違いない。
「夕餉も済みましたことですし、いつでもお休みになれますよ」
花月が手洗いに立って戻ってくると、安芸が早くも夏に床を勧めていた。
「まだ、外は明るい。儂は遊び疲れた童ではないぞ」
「童でなくとも、疲れれば休むものです。まだ旅は始まったばかりですから、意気を上げ過ぎぬほうがお体のためですよ」
夏は渋々横になったが、瞬く間に眠りに落ちた。
花月は安芸を夏と共に残し、軒先に出る。
村には家がぽつりぽつりと建つ以外、見渡す限りが田圃だ。
収穫を間近に控えた黄金色の稲穂が、恭しく首を垂れている。
格別に怪しむべき相手も見当たらない。
本荘のすぐ傍に馬屋があり、駒が水桶に顔を突っ込んでいる姿が見える。
念を入れ、建物の周りをぐるりと一周する。
部屋に戻ると勝手に調達したらしく、安芸が一杯、傾けていた。
「お夏様を寝かしつけて、晩酌か。宿の主は、まさかお前が飲むとは思うていまい。自分で決めた役割に徹さぬか」
「良かろう、これしき。花月も飲もう」
徳利を傾けて、胡坐で猪口を呷る。丸きり男の仕草で器を花月に突き出した。
周囲に怪しい者はいないが、あまりに気力に欠ける。自分が女姿でいる事を忘れているのではないか。
「俺は要らぬ。悪いが一人でやってくれ」
脇差を横に置き、花月もごろんと横になった。仰向けになり、足を組む。
酒に弱いわけでもなく、多少、嗜んだところで、油断するほど未熟ではない。
だが、どことなく落ち着かない。
「花月が付き合ってくれぬなら、お夏様を誘えば良かった。どんな顔をしただろう」
何事にも関心を示す夏なら、喜んで晩酌に付き合っただろう。
氏康の懐で大切に育った姫だから、ほんの一口、舐めた程度でも、のぼせ上がるかもしれない。
「只でさえこの様じゃ。すぐに潰れる」
「またぞろ、つまらぬ返事をして。失敗したな、酔い姿も見たかったわ!」
「戯言はお前の十八番だ。また、よからぬ妄想を」
安芸と由なし事を繰り返し、いつの間にか花月は微睡んでいた。
次に目を開けた時には、安芸も寝落ちて転がっていた。
されど、障子の隙間から差し込む明かりもない。
花月は、つと体を起こし、目を凝らした。
音を立てぬよう立ち上がり、部屋の隅に寄せてあった荷と道具を持ち出す。
外へ出れば、月は消えかけ、東の方角に明星が瞬いている。夜明けは近い。
母屋の裏へ回り、井戸端に腰を下ろして千駄櫃を開く。
夜目は利くが、もう少し明かりが欲しいところだ。
だが、火を熾すまでもない。
そこそこ裕福な商家の下男下女に身を窶した花月たちは、持ち物もそれなりに支度した。
旅用の瘡薬に、親類に渡す煎じ薬、端切れ布に矢立に燧石。
諸々を避けて手探りで一番底に二枚に重ねた薄い砥石を取り出す。
民家を訪ねて宿を求め、花月たちは今夜の食事と寝床を押さえた。
日没にはまだ余裕があったが、夏の身体の加減を気にかけて早めの逗留を決めた。
まだまだ、休憩なぞ取らずとも、先へ進める――と主張した夏だったが、疲れは明らかだ。
城にこもりきりだった夏なら、馬に揺られるだけでも、かなりの負担になったに違いない。
「夕餉も済みましたことですし、いつでもお休みになれますよ」
花月が手洗いに立って戻ってくると、安芸が早くも夏に床を勧めていた。
「まだ、外は明るい。儂は遊び疲れた童ではないぞ」
「童でなくとも、疲れれば休むものです。まだ旅は始まったばかりですから、意気を上げ過ぎぬほうがお体のためですよ」
夏は渋々横になったが、瞬く間に眠りに落ちた。
花月は安芸を夏と共に残し、軒先に出る。
村には家がぽつりぽつりと建つ以外、見渡す限りが田圃だ。
収穫を間近に控えた黄金色の稲穂が、恭しく首を垂れている。
格別に怪しむべき相手も見当たらない。
本荘のすぐ傍に馬屋があり、駒が水桶に顔を突っ込んでいる姿が見える。
念を入れ、建物の周りをぐるりと一周する。
部屋に戻ると勝手に調達したらしく、安芸が一杯、傾けていた。
「お夏様を寝かしつけて、晩酌か。宿の主は、まさかお前が飲むとは思うていまい。自分で決めた役割に徹さぬか」
「良かろう、これしき。花月も飲もう」
徳利を傾けて、胡坐で猪口を呷る。丸きり男の仕草で器を花月に突き出した。
周囲に怪しい者はいないが、あまりに気力に欠ける。自分が女姿でいる事を忘れているのではないか。
「俺は要らぬ。悪いが一人でやってくれ」
脇差を横に置き、花月もごろんと横になった。仰向けになり、足を組む。
酒に弱いわけでもなく、多少、嗜んだところで、油断するほど未熟ではない。
だが、どことなく落ち着かない。
「花月が付き合ってくれぬなら、お夏様を誘えば良かった。どんな顔をしただろう」
何事にも関心を示す夏なら、喜んで晩酌に付き合っただろう。
氏康の懐で大切に育った姫だから、ほんの一口、舐めた程度でも、のぼせ上がるかもしれない。
「只でさえこの様じゃ。すぐに潰れる」
「またぞろ、つまらぬ返事をして。失敗したな、酔い姿も見たかったわ!」
「戯言はお前の十八番だ。また、よからぬ妄想を」
安芸と由なし事を繰り返し、いつの間にか花月は微睡んでいた。
次に目を開けた時には、安芸も寝落ちて転がっていた。
されど、障子の隙間から差し込む明かりもない。
花月は、つと体を起こし、目を凝らした。
音を立てぬよう立ち上がり、部屋の隅に寄せてあった荷と道具を持ち出す。
外へ出れば、月は消えかけ、東の方角に明星が瞬いている。夜明けは近い。
母屋の裏へ回り、井戸端に腰を下ろして千駄櫃を開く。
夜目は利くが、もう少し明かりが欲しいところだ。
だが、火を熾すまでもない。
そこそこ裕福な商家の下男下女に身を窶した花月たちは、持ち物もそれなりに支度した。
旅用の瘡薬に、親類に渡す煎じ薬、端切れ布に矢立に燧石。
諸々を避けて手探りで一番底に二枚に重ねた薄い砥石を取り出す。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~
裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか
―――
将軍?捨て子?
貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。
その暮らしは長く続かない。兄の不審死。
呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。
次第に明らかになる不審死の謎。
運命に導かれるようになりあがる吉宗。
将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。
※※
暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。
低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。
民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。
徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。
本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。
数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。
本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか……
突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。
そして御三家を模倣した御三卿を作る。
決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。
彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。
そして独自の政策や改革を断行した。
いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。
破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。
おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。
その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。
本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
関白の息子!
アイム
SF
天下一の出世人、豊臣秀吉の子―豊臣秀頼。
それが俺だ。
産まれて直ぐに父上(豊臣秀吉)が母上(茶々)に覆いかぶさり、アンアンしているのを見たショックで、なんと前世の記憶(平成の日本)を取り戻してしまった!
関白の息子である俺は、なんでもかんでもやりたい放題。
絶世の美少女・千姫とのラブラブイチャイチャや、大阪城ハーレム化計画など、全ては思い通り!
でも、忘れてはいけない。
その日は確実に近づいているのだから。
※こちらはR18作品になります。18歳未満の方は「小説家になろう」投稿中の全年齢対応版「だって天下人だもん! ー豊臣秀頼の世界征服ー」をご覧ください。
大分歴史改変が進んでおります。
苦手な方は読まれないことをお勧めします。
特に中国・韓国に思い入れのある方はご遠慮ください。
色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変
Tempp
歴史・時代
奈良の都には梅が咲き誇っていた。
藤原薬子は小さい頃、兄に会いに遊びに来る安殿親王のことが好きだった。当時の安殿親王は皇族と言えども身分は低く、薬子にとっても兄の友人という身近な存在で。けれども安殿親王が太子となり、薬子の父が暗殺されてその後ろ盾を失った時、2人の間には身分の差が大きく隔たっていた。
血筋こそが物を言う貴族の世、権謀術数と怨念が渦巻き血で血を洗う都の内で薬子と安殿親王(後の平城天皇)が再び出会い、乱を起こすまでの話。
注:権謀術数と祟りと政治とちょっと禁断の恋的配分で、壬申の乱から平安京遷都が落ち着くまでの歴史群像劇です。
//
故里となりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり
(小さな頃、故郷の平城の都で見た花は今も変わらず美しく咲いているのですね)
『古今和歌集』奈良のみかど
徳川家基、不本意!
克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる