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姫と忍
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人足とのやり取りの間に、夏を馬から降ろしてやる。
「一度に降りると足裏に響きます。一度、私にお掴まりになって」
腕を伸ばして夏を支える支度を整える。
「すまぬ。……あっ」
手を取って重みを支える心積もりであったのに、夏は上半身ごと落ちて来た。
「お夏様、何をしていらっしゃる」
腰から下が駒の鞍に引っかかって、何と滑稽な有様か。
咄嗟に胸を抱き留めた花月は、何とか体勢を立て直そうと縋り付く夏の頭に目を移す。
安芸の言い草ではないが、そこはかとない甘い香が漂って、心ノ臓が痺れる心地がする。
「花月……儂は、どうしたら良いか?」
「では、かように致しましょう」
鞍の上から真直に、夏の足は花月へ渡された橋のように固まっている。
左腕を肩の後ろへ回して支えながら、右腕を膝の裏に差し入れた。
軽々抱き上げてがら、足をゆっくり下ろして地へ着ける。
「さあ、これでいかがです」
花月はふっと笑んだ。
夏は、あっという間に体勢が変わって、ぼけーっとした顔をしている。年齢の割にあどけない表情だ。
「其方、見かけによらず強力じゃの」
「見かけによらず、ですか」
ずれ落ちた被衣を掛け直してやる。
花月は女性のような面から、力を侮られることが多い。
都合が良い風趣も少なくなかったが、気分の良いものではない。
しかし、今は不思議と不快でない。
「空に浮いたかと思うたぞ。かたじけない。安芸の元へ行こう」
にっこりと、日輪のごとき、はっきりした微笑みを花月へ向けてから、夏は駒にも声を掛ける。
「駒よ。これからそなたも水浴びじゃぞ。汗ばんでおった故、ちょうど良いな」
安芸は人足に駄賃を渡していた。
一番背の高い男の肩に、夏が乗る手筈となった。できる限り夏を水に濡らさぬための配慮だろう。
女子の形をして、実際には青年期の壮健男児を乗せた初老の男は、立ち上がる時に苦労した。
立とうとして、屈み、を幾度か繰り返し、目を白黒させた。
肩に座した安芸は、素知らぬ顔で、おしとやかぶっている。
花月が観察していると、夏は諸肌を脱いで褌一丁になった若い人足を前に、一瞬だけ躊躇した。
しかし安芸を見やってから、男の肩に跨る。
裾がはだけて零れた夏の脛に、人足の頬があからさまに気色ばんだ。ほとんどが脚絆に覆われているものの、とびきりの白さと清澄さは明らかだ。
無関心でいられない心中が、わからない花月ではない。
しかし当然ながら見る以上の狼藉は働かず、水に入っていった。
自ら水に入るのではなく、人に担がれて川を渡るとは、妙な体験だ。
三人を乗せた人足は、難なく川を渡り切った。花月は降ろして貰って、後から来た駒と荷を受け取る。
礼を述べ、岸を離れる。
「お夏様、駒は御覧の通り濡れ鼠でございます。乾くまでしばし散策なさいますか」
駒は顎の下から全身を川に浸かったため、濡れ鼠だ。
鞍は背中だから被害は少なかろうが、荷籠は多少しぶきを浴びて濡れている。
「気遣いは無用じゃ。儂はそこまで軟ではない。歩く」
「それは、かたじけのうございます。徒歩の乗り心地はいかがでしたか」
「なかなか興深かったぞ。時折、流されて水に投げ出されるやもと思うたが、生業としているだけあるの。儂の杞憂であった」
「あはは。人足が水に流されては仕事になりませぬ」
手綱を持ち、先導に返り咲いた安芸はからからと笑い声を上げた。
だが、安芸を乗せた初老の男は、松の木の根元に座り込んでいる。
安芸の元気さとは裏腹に疲労困憊したようだ。
安芸はさほど大柄な男ではないが、存外、重量漢なのかもしれない。
「男子とは頼もしいの。儂には真似できぬのも道理じゃ」
酒匂川を背に松並木を縫って進んだ。
旅足は順潮だが、夏の体を考えるなら今日は高座郡辺りで宿を取るのが正解だろう。
打ち合わせてはいないが、安芸もそのつもりらしい。足を止める気配を見せず森に分け入った。
ところが、残念ながら邪魔が入りそうである。
隠しもしない、荒い呼気が四つ、五つ。
木々の切れ間からこちらを窺っている。
「一度に降りると足裏に響きます。一度、私にお掴まりになって」
腕を伸ばして夏を支える支度を整える。
「すまぬ。……あっ」
手を取って重みを支える心積もりであったのに、夏は上半身ごと落ちて来た。
「お夏様、何をしていらっしゃる」
腰から下が駒の鞍に引っかかって、何と滑稽な有様か。
咄嗟に胸を抱き留めた花月は、何とか体勢を立て直そうと縋り付く夏の頭に目を移す。
安芸の言い草ではないが、そこはかとない甘い香が漂って、心ノ臓が痺れる心地がする。
「花月……儂は、どうしたら良いか?」
「では、かように致しましょう」
鞍の上から真直に、夏の足は花月へ渡された橋のように固まっている。
左腕を肩の後ろへ回して支えながら、右腕を膝の裏に差し入れた。
軽々抱き上げてがら、足をゆっくり下ろして地へ着ける。
「さあ、これでいかがです」
花月はふっと笑んだ。
夏は、あっという間に体勢が変わって、ぼけーっとした顔をしている。年齢の割にあどけない表情だ。
「其方、見かけによらず強力じゃの」
「見かけによらず、ですか」
ずれ落ちた被衣を掛け直してやる。
花月は女性のような面から、力を侮られることが多い。
都合が良い風趣も少なくなかったが、気分の良いものではない。
しかし、今は不思議と不快でない。
「空に浮いたかと思うたぞ。かたじけない。安芸の元へ行こう」
にっこりと、日輪のごとき、はっきりした微笑みを花月へ向けてから、夏は駒にも声を掛ける。
「駒よ。これからそなたも水浴びじゃぞ。汗ばんでおった故、ちょうど良いな」
安芸は人足に駄賃を渡していた。
一番背の高い男の肩に、夏が乗る手筈となった。できる限り夏を水に濡らさぬための配慮だろう。
女子の形をして、実際には青年期の壮健男児を乗せた初老の男は、立ち上がる時に苦労した。
立とうとして、屈み、を幾度か繰り返し、目を白黒させた。
肩に座した安芸は、素知らぬ顔で、おしとやかぶっている。
花月が観察していると、夏は諸肌を脱いで褌一丁になった若い人足を前に、一瞬だけ躊躇した。
しかし安芸を見やってから、男の肩に跨る。
裾がはだけて零れた夏の脛に、人足の頬があからさまに気色ばんだ。ほとんどが脚絆に覆われているものの、とびきりの白さと清澄さは明らかだ。
無関心でいられない心中が、わからない花月ではない。
しかし当然ながら見る以上の狼藉は働かず、水に入っていった。
自ら水に入るのではなく、人に担がれて川を渡るとは、妙な体験だ。
三人を乗せた人足は、難なく川を渡り切った。花月は降ろして貰って、後から来た駒と荷を受け取る。
礼を述べ、岸を離れる。
「お夏様、駒は御覧の通り濡れ鼠でございます。乾くまでしばし散策なさいますか」
駒は顎の下から全身を川に浸かったため、濡れ鼠だ。
鞍は背中だから被害は少なかろうが、荷籠は多少しぶきを浴びて濡れている。
「気遣いは無用じゃ。儂はそこまで軟ではない。歩く」
「それは、かたじけのうございます。徒歩の乗り心地はいかがでしたか」
「なかなか興深かったぞ。時折、流されて水に投げ出されるやもと思うたが、生業としているだけあるの。儂の杞憂であった」
「あはは。人足が水に流されては仕事になりませぬ」
手綱を持ち、先導に返り咲いた安芸はからからと笑い声を上げた。
だが、安芸を乗せた初老の男は、松の木の根元に座り込んでいる。
安芸の元気さとは裏腹に疲労困憊したようだ。
安芸はさほど大柄な男ではないが、存外、重量漢なのかもしれない。
「男子とは頼もしいの。儂には真似できぬのも道理じゃ」
酒匂川を背に松並木を縫って進んだ。
旅足は順潮だが、夏の体を考えるなら今日は高座郡辺りで宿を取るのが正解だろう。
打ち合わせてはいないが、安芸もそのつもりらしい。足を止める気配を見せず森に分け入った。
ところが、残念ながら邪魔が入りそうである。
隠しもしない、荒い呼気が四つ、五つ。
木々の切れ間からこちらを窺っている。
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