夏姫の忍

きぬがやあきら

文字の大きさ
上 下
17 / 44
脱走

17

しおりを挟む
 その代わり、相手の目を見据える。

(大丈夫。恐れることは何もない)

 見知らぬ男に捕えられた。恐ろしいはずなのに、夏の心は不思議と落ち着いていた。

 ただ懐剣を宿へ残した失態だけは悔やまれる。昨夜、出奔した時には寝間着の懐へ忍ばせていた。

 小袖に帯一本では携えられず、今朝方やむなく手放した。

「生憎、姫君に申し上げるような立派な名は持ち合わせておりませなんだ。今にわかる。大人しくしていてくだされば、酷い目には遭わずに済む」

「なに? 名乗りもせず儂を捕縛しようと抜かすのか。お主の素性も、たかが知れたの。単なる賊か」

 夏が無念を紛らわすように吐き捨てると、突如、男の怒気が膨れ上がった。

「俺は、賊ではない……!」

 右手に夏の腕。月明かりを背負って、男が左腕を振り上げた。

 どの言葉にそんなに腹を立てたのだ。

 軌跡は夏に真直に向かっていて、逃げようがない。怯えてはならない。

 関東を統べる大総統の娘として、この威嚇をどう受け止めるべきか。夏は僅かな間で自分に問いかけた。

 だが、次の一刹那、凛とした響きが、月影を割いて響き渡った。続いて細いものが、空を切り裂く音がする。

「伏せよ!!」

 腕を掴まれていて、どう伏せるのか。

 わからぬまま、夏は声に従っていた。

 夏は身を伏せられた。掴まれていたはずなのに、両手が地面に着く。

 同時に「ぎゃあ~っ」と野太い悲鳴が上がり、後頭に生暖かい飛沫が降ってくる。

(何じゃ? それに、生臭い……!?)

 路傍に茂る草いきれと、土ぼこり。降り注ぐ血生臭さに、吐き気が込み上げた。

 そうだ、これは血だ。

 自分が血を流して果てるのに、何の抗衡もなかった夏だが、他人の血を浴びたとわかって、途端に身の毛がよだつ。

 何が起きたか確かめねばならぬ、けれど気味が悪い。

 息が乱れ、胸の上下がせわしくなる。短い息を繰り返しながらも、夏は腕に力を込めた。

 体を起こそうとするが、震えて力が出ない。

「目を閉じていて下され。安全な場所へお連れします」

 気配もなく、耳元で声がした。妙に落ち着く声色だ。

 しかし、何が起きているのかもわからない場所で、暖気のんきに目を閉じてはいられない。

「いかん、お主は、何者じゃ……」

 夏は地に伏しながら、目を配った。

 左には家屋、右に叢と灌木の窪み。転がる砂利に広がる星空。

 周囲の民家は騒ぎがあっても誰も出て来る気配がない。

 出てくれば自分の身が危ないのだから当然だ。

「じっとしておってくだされい。立てぬのでありましょう。ほら、運んで差し上げます故……」

「儂に触れるな! 儂はもう得体の知れぬ者は信用せぬ」

 脇と、膝に触れられて夏は足掻いた。手を払いのける。

「そんな様で、よく言うわねえ。立てないくせに」

 急に体が持ち上がり、問答無用で抱えられた。さらに身を捩ろうとしてはっとする。

 妙に記憶に新しい声だ。

「……見せたくなかったんだけどねえ」

 夏を抱えた影は、世間話でもするように呟くと、くるりと向きを変えた。夏が飛び出した宿の方角だ。

 黄色く静かに差す月明かりの中に、右腕の先を失った男が、後ろを向いて仁王立ちしていた。

 押さえた切り口から雫が滴る。何者かと対峙している。

 びくり、と大きく体を震わせると、両肩の真ん中に乗っている頭が落ちた。

 今度は一声もない。

 どさり、と草に転がった体がくぐもった音を立てた。

 降りぬいた刀の切っ先から、黒の飛沫が弧を描く。

 ひゅん――。

 耳鳴りのようだった。

(なんと――)

 夏は目に映った無残な光景に、意識が遠のくのを感じた。

 こんなところで気を失ってはならぬ。意識がなくて、命が守れるか。

 分かっていても、心のどこかに甘えがあった。

 夏を抱いているのも黒ずくめの男。

 賊と相対していたのも黒い装束の男――だと、思う。

 けれどあれは、小雪だ。

 男の姿があまりにも秀麗過ぎて、夏には〝小雪〟にしか見えなかった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉
歴史・時代
 その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。  父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。  稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。  明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。  ◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

淡き河、流るるままに

糸冬
歴史・時代
天正八年(一五八〇年)、播磨国三木城において、二年近くに及んだ羽柴秀吉率いる織田勢の厳重な包囲の末、別所家は当主・別所長治の自刃により滅んだ。 その家臣と家族の多くが居場所を失い、他国へと流浪した。 時は流れて慶長五年(一六〇〇年)。 徳川家康が会津の上杉征伐に乗り出す不穏な情勢の中、淡河次郎は、讃岐国坂出にて、小さな寺の食客として逼塞していた。 彼の父は、淡河定範。かつて別所の重臣として、淡河城にて織田の軍勢を雌馬をけしかける奇策で退けて一矢報いた武勇の士である。 肩身の狭い暮らしを余儀なくされている次郎のもとに、「別所長治の遺児」を称する僧形の若者・別所源兵衛が姿を見せる。 福島正則の元に馳せ参じるという源兵衛に説かれ、次郎は武士として世に出る覚悟を固める。 別所家、そして淡河家の再興を賭けた、世に知られざる男たちの物語が動き出す。

処理中です...