夏姫の忍

きぬがやあきら

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脱走

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 次に目を開けた時、部屋の中は真の闇だった。

 火の気はとうに落ちている。わずかに差し込む月明かりに目を凝らすと、姉妹はそれぞれ布を被って茣蓙の上で横たわっている。

 夏の上にも布が掛けられていて、姉妹の気遣いを有難く感じた。

(厠は、どちらであろう。起こしては忍びない)

 夏はそっと立ち上がり周囲を見渡した。

 泊り客は他にいない。

 少しじっとしていると、徐々に目が闇に慣れてくる。

 詳細には見えないが、何となく、壁のあるなしくらいは識別できるようになる。

 廊下に出ると、奥の間から薄明かりが漏れていた。

 それとも夏が思うほど夜は更けていないのだろうか。

 火に吸い寄せられる昆虫のように、夏は音もなく明かりに近寄った。

 気配を消すまでの技能も意識も働かなかった。

 だが、元来、女子は足音を立てて歩くものでないと教育されている。

 ぼそぼそと、薄暗い室内から二種の声が聞こえてくる。

 多少くぐもる声は、間延びした口調を持つ、宿の主のものだ。

 もう一つも、低い男のもので、話し相手は女将ではないらしい。

「……であったのか?」

 防備も考えずに近づくと、会話の内容が耳に入る。

「いいえぇ。先に宿泊していた姉妹が客として連れて来たんです。私は見ていませんでしたけどぉ。女房からの話で」

 夜分故、一人の男は声を潜めている風だ。

 だが、主人のほうは自分の家だからか、はばからない。

 男の話に出てきた客が、夏を示していると気づいて足を止めた。

「つまり今朝からなのだな。ここへ来た時は、どんな形をしていた?」

「さて。姿までは確かめておりませんでしたなあ。女房は見ていたでしょうが、生憎、女房は一度、休んだら、朝まで目覚めぬ質でして」

 声の合間に間の抜けた欠伸が入る。

 相手の男は、潜めているものの、生硬せいこうで張りがある声をしている。。

 主人は暖簾に腕押しの応答を繰り返したが、反して夏は迷悶した。

 しまった。早くも追手が迫ったか。

 市民に紛れれば目を躱せると踏んでいたが、甘かった。

 俄かに動悸が早まる。

 壁に背を張り付けて、肩で息を吸った。

「では姉妹の素性は?」

「さあて。私共はお客の素性など、いちいち確かめておりませんで。旅芸人と耳に挟みましたが、こちらも直接ではないので何とも……」

「……わかった。もう良い。これは駄賃だ。部屋へ参る」

「えっ、部屋へ? もう皆さん、休んでいらっしゃる。明日になさってくだせえ」

「明日などと悠長にできぬ。案内は無用にて、お主はもう休んで結構」

「はあ? いったい、あのお客は何なのです。面倒は困ります」

「知る必要はない。お主は明日も何事もなく過ごせば良い」

 衣擦れの音がする。大きく影が揺らめいたので、声の主が立ち上がったとわかる。

 如何にすべきか、夏は逡巡した。夏を探しに来た、氏康の麾下だ。

 このままでは、捕まる。

 小雪たちを如何にする。果たして、逃げ切れるか。
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