夏姫の忍

きぬがやあきら

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脱走

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 あんた、何故泣いているの?」

「違う、これは、その……、汗じゃ。傷が痛んで……むむ」

「別に、我慢する必要はないよ。泣いても何も解決しないけど、ここには、咎める人もいないよ」

 涙を見せぬよう、夏は小雪から顔を背け、ごしごしと袖でこすった。

 だが、止まらない。

 不思議と次から次へ溢れ出してくる。

「おかしいの。しばし待たれよ……」

 喉の奥を震わせ、夏は耐えた。だが、小雪が肩に手を置いたら、堰を切ったように嗚咽が漏れた。

「うっ、儂は……泣かぬ。泣くはずがない」

 泣かないと宣言しながら、最後には声を上げて泣いていた。

 自分でも驚くほど大きな声で、途中からは諦めて、わんわん喚いた。

 廊下を通りかかった下女が不審そうに覗いて行った。

 小雪は静かに待っていた。

 昨日、脱走を諦めていたら、数日後の別の晩に同じように脱走したか、定かではない。

 それほどに、この出奔は憤激のあまりによるもの、かつ切羽詰まっていた。

 夏は、私心の破裂と同時に誇りを半分、なげうった。武将の娘としての矜持を捨てたにも等しい。

 この世では家や一族のために、わたくしを捨ててこそ一人前の人間だと認められる。

 わかった上で勝手をした。

 約束を守り、いずれは帰るという一点でのみ形を保っている風にも見える。

 けれども自分自身の心だ。本心からの得心はしていない。

 心躍る体験の度に、後ろめたさが顔をもたげる。

 昨晩、禁忌を犯して得た、充足した目に見えぬ力は、一度は体から放たれた。

 今度はそれが大きく円を描いて戻り、事あるごとに、自身に突き刺さる。

「そなたの目に、儂はさぞ愚か者と映っていよう。儂は自分の喜びがかほど罪深いとは知らなかったのだ」

「多かれ少なかれ、あるものよ」

 小雪が淡々と述べた。

 特段これといって夏を慰めている物言いでもない。

 だからこそか、余計に夏は救われた気持ちになった。

「まあ~、随分と仲良くやってるわね! 私も一味に入れて頂戴」

 少し落ち着きを取り戻した夏が洟を啜っていると、戻って来た夕霧が、片手に草履を携えて加わった。

 両手を上げて小雪と夏、諸共を抱き込んだ。

「ちょっと、やめてよ、姉さん」

「夕霧殿、ご容赦を。もう大丈夫です」

「二人とも酷い! 私は除け者ってわけ?」

 むくれた夕霧に、さらに揉みくちゃにされる。

 息苦しいのに、不快ではなかった。人の温もりに飢えていた夏は、むしろ癒された。

 その後、姉妹と歓談する中で夕餉が運ばれた。

 夕餉は麦飯と汁物、浜で上がった干し魚のみの質素な内容だ。

 民の粗食に、これで全部かと目を見張った。

 だが、お腹はぺこぺこだったので、勢いよく貪った。今まで摂ったどの食事よりも美味だった。

 腹が満たされると、眠気に誘われ、眠りに落ちた。

 思えば昨夜からろくに寝ていない。

 寝間着に着替えなくとも、咎める者はいなかった。
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