6 / 44
脱走
6
しおりを挟む
「そうよ。そんな格好でのこのこついて行って、犯して下さいと誘っているようなものよ!」
「しかし、あの男はご内儀の、衣を譲っても良いと言っておった。ご内儀の前では、いくら何でも……」
「馬鹿! そもそもが嘘だと言っているの。あいつが商人で、家に女房がいるなんて、どんな証拠があるの。第一、家に女房がいたって、草叢であんたを手籠めにするくらい、わけないでしょう」
「……ほほう。その通りである。そなたは賢いの。儂が迂闊であった」
今まで夏に向かって、このように声を荒げる者はいなかった。
夏は側室の子とはいえ、氏康の次女だ。不断は猫を被って大人しくしている分を差し引いても、怒鳴られるような不手際は、して来ていない。
だから大きな声で一喝されて、驚いた。だが、不快な気分にはならない。
女の忠告はもっともである。
あの男の家に女房がいる証は、目にしていない。
女があまりに気を置かない口調だったので、夏の言葉遣いも自然にくだけていた。
夏が素直に忠告を受け入れたので、女は逆に拍子抜けした。
「あんた、変な子ね。見たところ、随分とお嬢様のようだけど。そんな格好で何をしているの?」
「儂は……、出奔をして参った。と、言うても七日したら自ら戻るつもりでおる。僅かな間、身内の目を欺くための衣を探しておったのじゃ。乗りかかった船なのであろう、姉君の衣をお借りできぬか」
明け透けに話すと、女はぷっと吹き出した。
女を一目、見た時から、夏は完全に、女に心を許していた。
美貌のみが成せる技ではない。夏の心の奥にある結び目を、緩ませる何かが、女にはあった。
疑う気になれない。もし、この女が働く悪事を見抜けなければ自分で責を負う。
「つくづく正直ね。その話が本当なら、私の正体を疑わないの? 私が悪党の一味である線も、まだ残っているよ」
「先ほどは、早くと焦って、見誤ってしもうた。たが、そなたは善い人間じゃ。先ほどより儂は其方を、まじまじと観察しておった。悪党はそのように澄んだ目を持たぬ」
夏はにこやかに応じた。じっと見つめると、女は一度、困ったように目を伏せた。
「これでも、信じられる?」
顔を上げたと同時に、風呂敷包みを放り投げた。
夏は慌てて受け止める。中を見よと指示をされたと受け取り、結び目を解く。
「これは、袴じゃな」
「ね。他人を簡単に信用してはいけないの。わかった?」
「わかった。まことに、儂は、うつけじゃな。めくらであった」
藍色の布を手に取ると、小袖でないと簡単に知れる。広げるまでもなく、折り目と紐で、袴だとわかった。
先ほど女は袴の一面だけを見せて小袖だと説明した。夏は小袖だと信じて疑わなかった。
商人の見せた塩袋も同様だ。中身が本当に塩なのか、念を入れて調べなかった。
夏がしょんぼりと頷くと、女は満足そうに笑んだ。
「しかし、あの男はご内儀の、衣を譲っても良いと言っておった。ご内儀の前では、いくら何でも……」
「馬鹿! そもそもが嘘だと言っているの。あいつが商人で、家に女房がいるなんて、どんな証拠があるの。第一、家に女房がいたって、草叢であんたを手籠めにするくらい、わけないでしょう」
「……ほほう。その通りである。そなたは賢いの。儂が迂闊であった」
今まで夏に向かって、このように声を荒げる者はいなかった。
夏は側室の子とはいえ、氏康の次女だ。不断は猫を被って大人しくしている分を差し引いても、怒鳴られるような不手際は、して来ていない。
だから大きな声で一喝されて、驚いた。だが、不快な気分にはならない。
女の忠告はもっともである。
あの男の家に女房がいる証は、目にしていない。
女があまりに気を置かない口調だったので、夏の言葉遣いも自然にくだけていた。
夏が素直に忠告を受け入れたので、女は逆に拍子抜けした。
「あんた、変な子ね。見たところ、随分とお嬢様のようだけど。そんな格好で何をしているの?」
「儂は……、出奔をして参った。と、言うても七日したら自ら戻るつもりでおる。僅かな間、身内の目を欺くための衣を探しておったのじゃ。乗りかかった船なのであろう、姉君の衣をお借りできぬか」
明け透けに話すと、女はぷっと吹き出した。
女を一目、見た時から、夏は完全に、女に心を許していた。
美貌のみが成せる技ではない。夏の心の奥にある結び目を、緩ませる何かが、女にはあった。
疑う気になれない。もし、この女が働く悪事を見抜けなければ自分で責を負う。
「つくづく正直ね。その話が本当なら、私の正体を疑わないの? 私が悪党の一味である線も、まだ残っているよ」
「先ほどは、早くと焦って、見誤ってしもうた。たが、そなたは善い人間じゃ。先ほどより儂は其方を、まじまじと観察しておった。悪党はそのように澄んだ目を持たぬ」
夏はにこやかに応じた。じっと見つめると、女は一度、困ったように目を伏せた。
「これでも、信じられる?」
顔を上げたと同時に、風呂敷包みを放り投げた。
夏は慌てて受け止める。中を見よと指示をされたと受け取り、結び目を解く。
「これは、袴じゃな」
「ね。他人を簡単に信用してはいけないの。わかった?」
「わかった。まことに、儂は、うつけじゃな。めくらであった」
藍色の布を手に取ると、小袖でないと簡単に知れる。広げるまでもなく、折り目と紐で、袴だとわかった。
先ほど女は袴の一面だけを見せて小袖だと説明した。夏は小袖だと信じて疑わなかった。
商人の見せた塩袋も同様だ。中身が本当に塩なのか、念を入れて調べなかった。
夏がしょんぼりと頷くと、女は満足そうに笑んだ。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。
剣客居酒屋 草間の陰
松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
画仙紙に揺れる影ー幕末因幡に青梅の残香
冬樹 まさ
歴史・時代
米村誠三郎は鳥取藩お抱え絵師、小畑稲升の弟子である。
文久三年(一八六三年)八月に京で起きて鳥取の地に激震が走った本圀寺事件の後、御用絵師を目指す誠三郎は画技が伸び悩んだままで心を乱していた。大事件を起こした尊攘派の一人で、藩屈指の剣士である詫間樊六は竹馬の友であった。
幕末の鳥取藩政下、水戸出身の藩主の下で若手尊皇派が庇護される形となっていた。また鳥取では、家筋を限定せず実力のある優れた画工が御用絵師として藩に召しだされる伝統があった。
ーーその因幡の地で激動する時勢のうねりに翻弄されながら、歩むべき新たな道を模索して生きる侍たちの魂の交流を描いた幕末時代小説!
作中に出てくる因幡二十士事件周辺の出来事、鳥取藩御用絵師については史実に基づいています。
1人でも多くの読者に、幕末の鳥取藩有志たちの躍動を体感していただきたいです。

新撰組のものがたり
琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。
ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。
近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。
町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。
近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。
最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。
主人公は土方歳三。
彼の恋と戦いの日々がメインとなります。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる