夏姫の忍

きぬがやあきら

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脱走

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「そうよ。そんな格好でのこのこついて行って、犯して下さいと誘っているようなものよ!」

「しかし、あの男はご内儀の、衣を譲っても良いと言っておった。ご内儀の前では、いくら何でも……」

「馬鹿!  そもそもが嘘だと言っているの。あいつが商人で、家に女房がいるなんて、どんな証拠があるの。第一、家に女房がいたって、草叢であんたを手籠めにするくらい、わけないでしょう」

「……ほほう。その通りである。そなたは賢いの。儂が迂闊であった」  

 今まで夏に向かって、このように声を荒げる者はいなかった。

 夏は側室の子とはいえ、氏康の次女だ。不断は猫を被って大人しくしている分を差し引いても、怒鳴られるような不手際は、して来ていない。

 だから大きな声で一喝されて、驚いた。だが、不快な気分にはならない。

 女の忠告はもっともである。

 あの男の家に女房がいる証は、目にしていない。

 女があまりに気を置かない口調だったので、夏の言葉遣いも自然にくだけていた。

 夏が素直に忠告を受け入れたので、女は逆に拍子抜けした。

「あんた、変な子ね。見たところ、随分とお嬢様のようだけど。そんな格好で何をしているの?」

「儂は……、出奔をして参った。と、言うても七日したら自ら戻るつもりでおる。僅かな間、身内の目を欺くための衣を探しておったのじゃ。乗りかかった船なのであろう、姉君の衣をお借りできぬか」

 明け透けに話すと、女はぷっと吹き出した。

 女を一目、見た時から、夏は完全に、女に心を許していた。

 美貌のみが成せる技ではない。夏の心の奥にある結び目を、緩ませる何かが、女にはあった。

 疑う気になれない。もし、この女が働く悪事を見抜けなければ自分で責を負う。

「つくづく正直ね。その話が本当なら、私の正体を疑わないの? 私が悪党の一味である線も、まだ残っているよ」

「先ほどは、早くと焦って、見誤ってしもうた。たが、そなたは善い人間じゃ。先ほどより儂は其方を、まじまじと観察しておった。悪党はそのように澄んだ目を持たぬ」

 夏はにこやかに応じた。じっと見つめると、女は一度、困ったように目を伏せた。

「これでも、信じられる?」

 顔を上げたと同時に、風呂敷包みを放り投げた。

 夏は慌てて受け止める。中を見よと指示をされたと受け取り、結び目を解く。

「これは、袴じゃな」

「ね。他人を簡単に信用してはいけないの。わかった?」

「わかった。まことに、儂は、うつけじゃな。めくらであった」

 藍色の布を手に取ると、小袖でないと簡単に知れる。広げるまでもなく、折り目と紐で、袴だとわかった。

 先ほど女は袴の一面だけを見せて小袖だと説明した。夏は小袖だと信じて疑わなかった。

 商人の見せた塩袋も同様だ。中身が本当に塩なのか、念を入れて調べなかった。

 夏がしょんぼりと頷くと、女は満足そうに笑んだ。
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