3 / 44
脱走
3
しおりを挟む
嫁げば、自由とは生きながらにして永遠のお別れだ。
浮世でかような情態に置かれる者は自分だけでないと十二分に知りながら、夏は決意し、筆を執った。
氏康に七日の暇を申し出る。
行李の内にしまってあった簪二本と、彫物のある柘植の櫛、三つを携えて、寝間着のまま寝所を後にした。
打掛など羽織っては、とても門番を躱せない。夜が明けたら城下で町人の拵えを手に入れれば良い。
(何と手薄な。……何故であろう?)
本丸の警護が一番厳しかろうと想像はしていた。ただ、ここまで大手門が隙だらけとは。
驚くほどに警備は手薄だ。
氏康が夜警の実態を知っているのか、憂慮したくなるほどだ。
閂も掛かっておらぬ門前に、見張りは一人もいない。
目を凝らせば、交代の兵は灯りを掲げたまま先の見張りと話し込んでいる様子だった。
(戻って参ったら、父上にご忠告申し上げねば)
しかし、見つからずに逃れるために、これは幸い。
夏は大手門を駆け抜けて、無事に城下町の最東へ辿り着いた。
城から離れれば、今宵、頼りになるのは星の明かりのみ。
夜目の利かぬ今、無闇に動くのは得策でない。とは言え、門の真正面にいては、いずれ見つかる。
門より出でて、西側には森があったはずだから、一時、身を隠そう。
堀に落ちぬよう慎重に進み、木の根に突き当たったところで草陰に潜り込む。
腰を下ろして一息つくと、寒くもないのに指先が震えてきた。
とんでもない我儘をしでかした。
「ふっ……。ふふふ、あははは」
朝日が昇って、夏がいないと知ったら、腰元たちは慌てて腰を抜かすだろう。
氏康は夏の処分をなんとするだろうか。
自分の仕業の事の重大さに、慄く気持ちと同時に、どうにも抑えられぬ衝動が湧いてきて、夏は笑っていた。
別段、嫁ぐ相手が気に入らないとか、氏康に対する反抗とか、そのような類の感情で家出に踏み切った訳ではない。
ただ一度の自由も、城の外も知らずに生涯を終えたくなかっただけのこと。
七日経ったなら、潔く城へ帰る。自由の報いにいかなる処罰が待っていようと、悔いはない。
震えで足腰が立たないのでちょうど良い。
夏は蹲ったまま、白み始める海の方角を見上げた。
徐々に日の光が力強さを増す様を眺めて、知らずの内に涙が零れた。
城より彼方を遠目に見守るのでなく、自分と同じ高さから日が昇って来る。
このような景色を目にする体験は生まれて初めてだった。
夏は掌を合わせて静かに拝む。
やがて、夜闇は払われ、物音一つなかった城下に、生き物の気配が湧き始める。
馬の嘶(きが、あちこちで上がる。
続いて鼻息が。人々が命を取り戻す様が、見えずとも伝わってくる。
夏同様、じきに周りの者も目が利くようになってこよう。
この辺りは武家の集まりであるらしい。夏はそっとその場を離れた。
浮世でかような情態に置かれる者は自分だけでないと十二分に知りながら、夏は決意し、筆を執った。
氏康に七日の暇を申し出る。
行李の内にしまってあった簪二本と、彫物のある柘植の櫛、三つを携えて、寝間着のまま寝所を後にした。
打掛など羽織っては、とても門番を躱せない。夜が明けたら城下で町人の拵えを手に入れれば良い。
(何と手薄な。……何故であろう?)
本丸の警護が一番厳しかろうと想像はしていた。ただ、ここまで大手門が隙だらけとは。
驚くほどに警備は手薄だ。
氏康が夜警の実態を知っているのか、憂慮したくなるほどだ。
閂も掛かっておらぬ門前に、見張りは一人もいない。
目を凝らせば、交代の兵は灯りを掲げたまま先の見張りと話し込んでいる様子だった。
(戻って参ったら、父上にご忠告申し上げねば)
しかし、見つからずに逃れるために、これは幸い。
夏は大手門を駆け抜けて、無事に城下町の最東へ辿り着いた。
城から離れれば、今宵、頼りになるのは星の明かりのみ。
夜目の利かぬ今、無闇に動くのは得策でない。とは言え、門の真正面にいては、いずれ見つかる。
門より出でて、西側には森があったはずだから、一時、身を隠そう。
堀に落ちぬよう慎重に進み、木の根に突き当たったところで草陰に潜り込む。
腰を下ろして一息つくと、寒くもないのに指先が震えてきた。
とんでもない我儘をしでかした。
「ふっ……。ふふふ、あははは」
朝日が昇って、夏がいないと知ったら、腰元たちは慌てて腰を抜かすだろう。
氏康は夏の処分をなんとするだろうか。
自分の仕業の事の重大さに、慄く気持ちと同時に、どうにも抑えられぬ衝動が湧いてきて、夏は笑っていた。
別段、嫁ぐ相手が気に入らないとか、氏康に対する反抗とか、そのような類の感情で家出に踏み切った訳ではない。
ただ一度の自由も、城の外も知らずに生涯を終えたくなかっただけのこと。
七日経ったなら、潔く城へ帰る。自由の報いにいかなる処罰が待っていようと、悔いはない。
震えで足腰が立たないのでちょうど良い。
夏は蹲ったまま、白み始める海の方角を見上げた。
徐々に日の光が力強さを増す様を眺めて、知らずの内に涙が零れた。
城より彼方を遠目に見守るのでなく、自分と同じ高さから日が昇って来る。
このような景色を目にする体験は生まれて初めてだった。
夏は掌を合わせて静かに拝む。
やがて、夜闇は払われ、物音一つなかった城下に、生き物の気配が湧き始める。
馬の嘶(きが、あちこちで上がる。
続いて鼻息が。人々が命を取り戻す様が、見えずとも伝わってくる。
夏同様、じきに周りの者も目が利くようになってこよう。
この辺りは武家の集まりであるらしい。夏はそっとその場を離れた。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説



本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。

滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
伝説の刀鍛冶が包丁を打った理由
武藤勇城
歴史・時代
戦国時代。
それは、多くの大名が日本各地で名乗りを上げ、一国一城の主となり、天下の覇権を握ろうと競い合った時代。
一介の素浪人が機に乗じ、また大名に見出され、下剋上を果たした例も多かった。
その各地の武将・大名を裏で支えた人々がいる。
鍛冶師である。
これは、戦国の世で名刀を打ち続けた一人の刀鍛冶の物語―――。
2022/5/1~5日 毎日20時更新
全5話
10000文字
小説にルビを付けると文字数が変わってしまうため、難読・特殊な読み方をするもの・固有名詞など以下一覧にしておきます。
煤 すす
兵 つわもの
有明 ありあけ
然し しかし
案山子 かかし
軈て やがて
厠 かわや
行燈 あんどん
朝餉 あさげ(あさごはん)
褌 ふんどし
為人 ひととなり
元服 (げんぷく)じゅうにさい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる