夏姫の忍

きぬがやあきら

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脱走

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 嫁げば、自由とは生きながらにして永遠のお別れだ。

 浮世でかような情態に置かれる者は自分だけでないと十二分に知りながら、夏は決意し、筆を執った。

 氏康に七日の暇を申し出る。

 行李の内にしまってあった簪二本と、彫物のある柘植の櫛、三つを携えて、寝間着のまま寝所を後にした。

 打掛など羽織っては、とても門番を躱せない。夜が明けたら城下で町人の拵えを手に入れれば良い。

(何と手薄な。……何故であろう?)

 本丸の警護が一番厳しかろうと想像はしていた。ただ、ここまで大手門が隙だらけとは。

 驚くほどに警備は手薄だ。

 氏康が夜警の実態を知っているのか、憂慮したくなるほどだ。

 閂も掛かっておらぬ門前に、見張りは一人もいない。

 目を凝らせば、交代の兵は灯りを掲げたまま先の見張りと話し込んでいる様子だった。

(戻って参ったら、父上にご忠告申し上げねば)

 しかし、見つからずに逃れるために、これは幸い。

 夏は大手門を駆け抜けて、無事に城下町の最東へ辿り着いた。

 城から離れれば、今宵、頼りになるのは星の明かりのみ。

 夜目の利かぬ今、無闇に動くのは得策でない。とは言え、門の真正面にいては、いずれ見つかる。

 門より出でて、西側には森があったはずだから、一時、身を隠そう。

 堀に落ちぬよう慎重に進み、木の根に突き当たったところで草陰に潜り込む。

 腰を下ろして一息つくと、寒くもないのに指先が震えてきた。

 とんでもない我儘をしでかした。

「ふっ……。ふふふ、あははは」

 朝日が昇って、夏がいないと知ったら、腰元たちは慌てて腰を抜かすだろう。

 氏康は夏の処分をなんとするだろうか。

 自分の仕業の事の重大さに、慄く気持ちと同時に、どうにも抑えられぬ衝動が湧いてきて、夏は笑っていた。

 別段、嫁ぐ相手が気に入らないとか、氏康に対する反抗とか、そのような類の感情で家出に踏み切った訳ではない。

 ただ一度の自由も、城の外も知らずに生涯を終えたくなかっただけのこと。

 七日経ったなら、潔く城へ帰る。自由の報いにいかなる処罰が待っていようと、悔いはない。

 震えで足腰が立たないのでちょうど良い。
 
  夏は蹲ったまま、白み始める海の方角を見上げた。

 徐々に日の光が力強さを増す様を眺めて、知らずの内に涙が零れた。

 城より彼方を遠目に見守るのでなく、自分と同じ高さから日が昇って来る。

 このような景色を目にする体験は生まれて初めてだった。

 夏は掌を合わせて静かに拝む。

 やがて、夜闇は払われ、物音一つなかった城下に、生き物の気配が湧き始める。

 馬の嘶(いななきが、あちこちで上がる。

 続いて鼻息が。人々が命を取り戻す様が、見えずとも伝わってくる。

 夏同様、じきに周りの者も目が利くようになってこよう。

 この辺りは武家の集まりであるらしい。夏はそっとその場を離れた。
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