夏姫の忍

きぬがやあきら

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脱走

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 天文二十三年九月六日(一五五五年九月二十一日)

 月は箱根の山際へ、とうに姿を消していた。だが日の出には、まだ遠い。

 微かな雨音と、湿気た香りが室内に満ちている。

「お屋形様」

 間もなく寅の刻を迎えようとする頃。花月は足音を忍ばせ、闇から気配だけを現した。

 小田原城主であり、主君である北条氏康ほうじょううじやすはほとんど寝息も立てずに目を閉じていた。

 齢四十を迎える面相は存外若々しく、寝息の乱れもない。

 足音は周囲を憚りながらも、しかし氏康の耳には届くよう、忍び独特の声音で囁いた。

「誰ぞ。まだ夜は明けておらぬ」

 氏康は眠っているようで、いつでも外の動きを察知するよう仕組まれた肉体を持っていた。

 就寝時に、突如、闇から声を掛けても、狼狽えもしない。

 夜目は効かぬだろうに、闇に真っ直ぐ目を見開いた。

「風魔党第二部隊、室生花月むろうかげつにございます。火急にお耳に入れたき用件がございます」

「何用じゃ」

「夏姫様が、二ノ丸へお逃れになりました」

「何?」氏康は小さく呻いて体を起こした。

「灯りを――」

 言い終える前に、花月は掌を口元に翳し、ふうっと息を吐く。

 燭台に火が灯った。

 花月は風魔党第二部隊にて、お城警護を担う忍びだ。
 
 出生は曖昧だが、齢十八歳と公言している。

 忍びの家に生まれたのではなく、両親を失い飢え彷徨っているところを風魔に拾われた。
 
 物心ついてからのほとんどを風魔の里で過ごし、忍術を体に叩き込み育った。

 技を極める速さは同期の群を抜いていた。

 生まれながらの忍びではないが、父母がどんな人物だったかも思い出せない。

 自分は生粋の風魔と何ら変わらぬ、と花月は自負していた。

「忍びの術とは、便利よの。そちは中々の手練れと見える」

 氏康は起き上がった姿勢のまま、しばし考えた。主君の褒め言葉に感じ入り、花月は深く頭を垂れた。

 主君の姿を、風魔として育って今まで、これほど近くで拝する機会はなかった。

 直々に言葉を頂けるとは思いもよらず、有難い。主君は噂にたがわず柔和な人柄だ。

「逃れた、とは夏一人か?  手引きした者は」

「は、おりませぬ。見たところ、お一人と存じます。見張りがおります故、三ノ丸まで逃れるには、まだしばし時が掛かりましょう」

「警護の者もおるのに、よう一人で抜け出しおったな」

 花月は、夏姫が本丸脱出に成功した第一の因を知っている。

 丑寅の刻に警備の兵が交代すること、現在、本丸警備を務める門番は、交代の際、必ず用を足すこと。

”門番はただの人。我らとは違う”

 詮なき話だと、上忍は花月たち下忍の告げ言を一蹴した。
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