61 / 65
若旦那の求婚
1話
しおりを挟む
3
夕暮れ時。日が暮れれば人々は我が家に帰るのが日々の常だ。
だが悠耶は、こんな時分なのに、茣蓙の上に鎮座していた。座ってなどいられぬ心地だった。
でも、指示をされたのでやむを得ない。
この時季、大川が紅に染まる頃の本所は、二度目の賑わいを見せる。
川の向こうへ陽が半分ほど身を隠す時を見計らい、数多の提灯に火が灯った。
水面にゆらゆらと、明かりの灯る船が揺蕩う様は、さながら湿地を漂う蛍火のようである。
陸の上も同様で、あちらこちらの町より花火と夕涼みを目当てに見物人が続々と集まって来ていた。
川辺には、早々に陣取り腰を下ろす者、一等見良い場所から見物しようと橋を目指す者、それら見物人を目当てに商いをする 商店とでごった返していた。
頭の上の両国橋を見上げながら、悠耶の乗った屋根船は川面を滑り始めた。
船着からすうっと筆で線を描いて船が進む。
船頭が櫂を差すたび滴が跳ねて、目にも涼やかな風情だ。
水面からは陸とは違う、ひんやりとした冷気が漂っている。
「おっと、立ったらいけねえよ。船が揺れる」
興奮で立ち上がりかけた悠耶を、惣一郎がたしなめる。
惣一郎は家で一休みして、体調はすっかり良くなったそうだ。
頭には悠耶の贈った手拭を被ってくれている。なかなか惣一郎にお似合だ。
我ながら、良い贈り物をしたと納得だ。
悠耶が体を起こした拍子に船が揺れた。
体勢を崩したので、床に手を突いて様子を見る。するとすぐに揺れは収まった。
「見て、惣一郎! おいらたち、本当に川に浮かんでいるよ! あははっ、ゆらゆらする。船って面白いねっ」
満腹で上機嫌な上、初の船遊びに心が躍っていた。
立つなと注意されたので船の端から端まで這った。
様々な角度から大川の風景を眺める。船が揺れるくらいで大人しくしていられない。
第一、このくらいの揺れなら船が沈むはずがない。
船は岸からぐんぐん間合いを取り、川の中腹へ進んだ。
船から身を乗り出して、悠耶は障子の向こうを覗く。
船頭は揺れなど微塵も知らぬ顔で櫂を操っていた。
「ほら、おじさんも何てことないってさ。少しくらい揺れなきゃ、陸と同じでつまらないよ」
「何だよ、その理屈は。まあ初めて乗るんじゃ無理もねえか」
惣一郎は、何だかんだと口では言うが、何事も言うほど気にした様子はなかった。
気にしていない、というより、どこか心あらずの佇まいだ。
先刻も、悠耶は屋台で散々飲み食いさせてもらった。
なのに、惣一郎は蕎麦を一杯しか食っていない。
昼ご飯も食べていないはずだし、食べ盛りの若い男がそんな量で腹が満たされるのかと憂慮してしまう。
どこか悪いところでもあるのかと気になった。
だが、悠耶は何かに気をとられる都度、その時に抱いていた疑問までそっくり忘れるから質が悪い。
だから、ちょっと気になっていても、またこのように花火が上がれば、たちどころに忘れる。
「わあっ! 上がった!! 綺麗だなあ。おいら、こんなに間近で花火を見るのは初めてだよ! 惣一郎、連れてきてくれてありがとう。三河屋の皆んなも、見ているかな」
本日の一発目が上がり、方々から「玉屋、鍵屋」の掛け声が飛ぶ。
火花が上がった後の、腹を打つ大きな轟音も大迫力だ。
辺り一面はとても賑わっているから、惣一郎に声が届いているのか、気になった。
やっぱり惣一郎には聞こえていないらしい。
提灯の明かりで定かでないが、惣一郎は悠耶を見つめ、何かを尋ねたそうな顔をしている。
悠耶は立膝で寄って行って、耳元でもう一度、大きな声で礼を述べた。
「連れてきてくれて、ありがとう!!」
すると俯きがちだった惣一郎が、カッと目を見開き、大声を上げた。
「お悠耶っ! 俺と、夫婦になってくれ!!」
「はぁ?」
叫びの意味が分からず、惣一郎の耳元から顔へ目を移す。
夫婦とも聞こえたが、急に夫婦がどうとか叫び出す意味が分からない。
「花火の途中で悪いが、聞いてくれ。言っちまわなきゃ落ち着かねえ。お悠耶。俺と祝言を挙げて、俺の嫁になってくれ!」
今度は注意していたので聞こえた。
祝言とか、嫁とか言っているから、やっぱりさっきも夫婦と言っていたんだ。
暗くてはっきりしないが、惣一郎は胡坐をかいて膝に拳を置いている。
夕暮れ時。日が暮れれば人々は我が家に帰るのが日々の常だ。
だが悠耶は、こんな時分なのに、茣蓙の上に鎮座していた。座ってなどいられぬ心地だった。
でも、指示をされたのでやむを得ない。
この時季、大川が紅に染まる頃の本所は、二度目の賑わいを見せる。
川の向こうへ陽が半分ほど身を隠す時を見計らい、数多の提灯に火が灯った。
水面にゆらゆらと、明かりの灯る船が揺蕩う様は、さながら湿地を漂う蛍火のようである。
陸の上も同様で、あちらこちらの町より花火と夕涼みを目当てに見物人が続々と集まって来ていた。
川辺には、早々に陣取り腰を下ろす者、一等見良い場所から見物しようと橋を目指す者、それら見物人を目当てに商いをする 商店とでごった返していた。
頭の上の両国橋を見上げながら、悠耶の乗った屋根船は川面を滑り始めた。
船着からすうっと筆で線を描いて船が進む。
船頭が櫂を差すたび滴が跳ねて、目にも涼やかな風情だ。
水面からは陸とは違う、ひんやりとした冷気が漂っている。
「おっと、立ったらいけねえよ。船が揺れる」
興奮で立ち上がりかけた悠耶を、惣一郎がたしなめる。
惣一郎は家で一休みして、体調はすっかり良くなったそうだ。
頭には悠耶の贈った手拭を被ってくれている。なかなか惣一郎にお似合だ。
我ながら、良い贈り物をしたと納得だ。
悠耶が体を起こした拍子に船が揺れた。
体勢を崩したので、床に手を突いて様子を見る。するとすぐに揺れは収まった。
「見て、惣一郎! おいらたち、本当に川に浮かんでいるよ! あははっ、ゆらゆらする。船って面白いねっ」
満腹で上機嫌な上、初の船遊びに心が躍っていた。
立つなと注意されたので船の端から端まで這った。
様々な角度から大川の風景を眺める。船が揺れるくらいで大人しくしていられない。
第一、このくらいの揺れなら船が沈むはずがない。
船は岸からぐんぐん間合いを取り、川の中腹へ進んだ。
船から身を乗り出して、悠耶は障子の向こうを覗く。
船頭は揺れなど微塵も知らぬ顔で櫂を操っていた。
「ほら、おじさんも何てことないってさ。少しくらい揺れなきゃ、陸と同じでつまらないよ」
「何だよ、その理屈は。まあ初めて乗るんじゃ無理もねえか」
惣一郎は、何だかんだと口では言うが、何事も言うほど気にした様子はなかった。
気にしていない、というより、どこか心あらずの佇まいだ。
先刻も、悠耶は屋台で散々飲み食いさせてもらった。
なのに、惣一郎は蕎麦を一杯しか食っていない。
昼ご飯も食べていないはずだし、食べ盛りの若い男がそんな量で腹が満たされるのかと憂慮してしまう。
どこか悪いところでもあるのかと気になった。
だが、悠耶は何かに気をとられる都度、その時に抱いていた疑問までそっくり忘れるから質が悪い。
だから、ちょっと気になっていても、またこのように花火が上がれば、たちどころに忘れる。
「わあっ! 上がった!! 綺麗だなあ。おいら、こんなに間近で花火を見るのは初めてだよ! 惣一郎、連れてきてくれてありがとう。三河屋の皆んなも、見ているかな」
本日の一発目が上がり、方々から「玉屋、鍵屋」の掛け声が飛ぶ。
火花が上がった後の、腹を打つ大きな轟音も大迫力だ。
辺り一面はとても賑わっているから、惣一郎に声が届いているのか、気になった。
やっぱり惣一郎には聞こえていないらしい。
提灯の明かりで定かでないが、惣一郎は悠耶を見つめ、何かを尋ねたそうな顔をしている。
悠耶は立膝で寄って行って、耳元でもう一度、大きな声で礼を述べた。
「連れてきてくれて、ありがとう!!」
すると俯きがちだった惣一郎が、カッと目を見開き、大声を上げた。
「お悠耶っ! 俺と、夫婦になってくれ!!」
「はぁ?」
叫びの意味が分からず、惣一郎の耳元から顔へ目を移す。
夫婦とも聞こえたが、急に夫婦がどうとか叫び出す意味が分からない。
「花火の途中で悪いが、聞いてくれ。言っちまわなきゃ落ち着かねえ。お悠耶。俺と祝言を挙げて、俺の嫁になってくれ!」
今度は注意していたので聞こえた。
祝言とか、嫁とか言っているから、やっぱりさっきも夫婦と言っていたんだ。
暗くてはっきりしないが、惣一郎は胡坐をかいて膝に拳を置いている。
0
お気に入りに追加
28
あなたにおすすめの小説
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
あなたが残した世界で
天海月
恋愛
「ロザリア様、あなたは俺が生涯をかけてお守りすると誓いましょう」王女であるロザリアに、そう約束した初恋の騎士アーロンは、ある事件の後、彼女との誓いを破り突然その姿を消してしまう。
八年後、生贄に選ばれてしまったロザリアは、最期に彼に一目会いたいとアーロンを探し、彼と再会を果たすが・・・。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。
狂乱の桜(表紙イラスト・挿絵あり)
東郷しのぶ
歴史・時代
戦国の世。十六歳の少女、万は築山御前の侍女となる。
御前は、三河の太守である徳川家康の正妻。万は、気高い貴婦人の御前を一心に慕うようになるのだが……?
※表紙イラスト・挿絵7枚を、ますこ様より頂きました! ありがとうございます!(各ページに掲載しています)
他サイトにも投稿中。

【完結】ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。
彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。
入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。
ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。
※2023.9.21 編集しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる