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主人公、拐かされる

1話

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 文政元年の五月八日(一八二二年六月十八日)。
  本所相生町の裏長屋へ向かい、三河惣一郎みかわそういちろうは、足取りも軽く歩いていた。

 四月に十六になったばかりの惣一郎は本所の尾上町で古着屋を営む《三河屋》の一人息子である。
 逸る気持ちを極力抑え、いつも通りを装うのも、また一興だ。

 晴天に、少し遠くから聞こえる人々の諠譟。合間に鳥の囀りと、表戸の向こうを走り回る子供たちの燥ぎ声。
  耳に入るものは、全てと言っていいほど、いつも通りだった。
  
 裏木戸を潜り一つ目の稲荷を左へ曲がる。三つ先の部屋が行先だ。

「よう、風介さん。ちょうど近くへ用事があったもんでさ。これ、うちの客から貰ったんだけど」

 惣一郎は土間へ入ってから、さも、ついでという風を装って、袱紗に包んだ干菓子を取り出した。

 返事がないので、そこでようやく部屋を見回すと、四畳間の定座である左の隅に部屋の主人の風介の姿があった。

 風介は膝を抱えて自分の爪先をじっと見つめている。

「どうしたんですか、その格好は」

  滑稽な格好に惣一郎が首を捻ると、風介は黙って左手に握られた紙片を差し出す。

「先刻、部屋に戻ったら、ここに置いてあった」

(何だい、汚え字だな)
 
 差し出された紙を受け取って上から下へさっと目を走らせる。


『息子は預かった。返して欲しければ明日の夜五ツ刻(午後九時頃)石原橋へ十両、持って来い』


 一度、文章を読んだだけでは意味がわからなかった。

 惣一郎は、もう一度、頭から読み直して目を瞬く。やっと意味がわかった。

「てえへんだ!  お悠耶がかどわかされた!!」

 薄汚れた紙片に書かれた走り書きのような汚い字面は、拐かし犯人から風介に宛てられた身代要求の手紙であった。

 この、見たまんま拐かし事件だと丸わかりの文章で、惣一郎が得心に時を掛けたのには、仔細がある。

 風介は、この部屋の主人で、子供がいるのは、確かな事実。
  
 だが、それは、息子ではなく娘である。兄弟がある訳でもなく、一人娘だ。

 普通は十一にもなる息子と娘を見間違えたりしないものだが、娘の悠耶は撥ねっかえりとか、じゃじゃ馬とかいう標準を通り越して、見るからに息子だ。
  
 拐かし犯人が間違えても無理はないと惣一郎が思えるほどに。

 当の惣一郎も、出会った当初は悠耶を男だと思い込み、いつ口説こうかと企んでいたくらいだ。

 男女を偽ると罪になり、罰せられるため、人別帳には女と書録してあるらしい。

 だが、父同様の総髪を後頭部で一括りにして、仕立て直した父親の縞の着物を着て歩いている。半端でない、風変わりな女子だ。
  
 ご近所や顔見知りの連中はともかく、一見しただけでは見目の良い小坊主にしか見えない。

「お悠耶が子供小屋に売られちまう!  風介さん、座ってる場合じゃないでしょ」
 
  悠耶の場合は本当は女子なのだから、もし、売られるならば、子供小屋ではなく、遊郭が正しい。
 
 なのに男好みの惣一郎は、つい早合点してしまう。

「と言ってもなあ。どうしたらいいのか」

  小さな差異はこの際どうでもいいのか、風介は爪先を見つめたまま、ぼんやり呟いた。

「どうしたらって……御番所、は訴え出たところで、あてにならねえよな。そしたら、先ずは金を」

 犯人の目的は金である。みすみす与えてやるのは口惜しい。
 
 だが、逆を言えば、金さえ手に入れば悠耶は解き放される。

 本所は江戸で一、二を争う盛場の両国広小路からほど近くにあるが、いわゆる下町だ。

 物騒な事件は珍しくない上に、年中ずっと人手不足で、お上は下々の小さい事件には介入してくれない。

 従って、悠耶を取り戻すなら自力で解決する他ない。

「身代を用意するしかねえな。風介さん」 

 惣一郎は勢いよく申し出るが風介は一歩も動こうとはしない。

「風介さん、言われるがままじゃ癪だが、仕方ねえよ。背に腹は代えられない」

「そうだなぁ。背と腹は代えられないのに、何でうちの子を攫(さら)ったのかねえ、若旦那」

 応答したくせに、惣一郎を見ようとしない風介を暫く見ていて、ハッとなった。
  
 その金がないから、こんな風に踞っているのだ。

 十両と言えば大金には違いない。

 だが、表通りに立派な黒漆喰の建物を建て、大々的に古着屋を商っている惣一郎の家なら工面できない金額ではない。
  
 けれど裏店で口入れ屋を細々と営む風介には、ひっくり返っても出せないに違いない。

 持っていないなら、一番に思いつくのは烏金からすがねからの借金だ。しかし、返すあてもなく大金を借りれば、利息は雪達磨式に嵩んでいく。

 そうなれば結局、取り返した娘を妓楼へ売るような話になりかねない。

 当たり前の事情なのに、直ぐに察せなかった自分の幼さに、一瞬かっと頬が熱くなる。
  
 惣一郎の両親が営む《三河屋》は江戸一番とは行かない。

 けれど、奉公人の数は百を超え、本所では大店の部類に入る。
  
 惣一郎は生まれついての着物好きだった。物心ついた頃には親の見よう見まねで、客に着物を勧めていた。

《三河屋》の坊ちゃんは商売上手、との噂が広がった。

 接客する姿まで愛らしいので、客は面白がって惣一郎のいる所を狙って店に来るようになった。

 時と共に惣一郎は自信に満ちた瑞々しい若者に成長し、今に至る。

 店に並ぶ豊富な商品を、創意に富んだ独自の感で着こなす華やかな姿は、町人の憧れを生むほどになっていた。

 何不自由なく育ち、ちやほやされて育った記憶しかない。天に二物も三物も与えられている自負と慢心を、持っていた。
  
 だが、その一方で最近は妙な焦りに苛まれることがある。
 
 自分には何かが欠けているのではと。
 
 今回が良い例だ。店は番頭が切り盛りしてくれているし、主人の仕事は得意先回りがほとんど。だから惣一郎が店を継ぐのも半ば決まったようなものだ。
  
 何も不安に思う要素はないはずなのに。
  
 拐かされたのは、最近になって知り合った、ちょっと可愛くて面白いだけの娘だ。

 関心はあるが、どうこうしてやる義理はない。

 なのに、どうして心ノ臓が、こんなに騒めくのか。

「……まあ、仕様がねぇ。明日あるだけの銭を持って行ってみるさ」

 惣一郎が察した姿を見て取ると、風介は観念したように呟いた。また爪先に目を落とす。

 そんな真似をしても、悠耶は帰ってこない。
  
 有金を全部ごっそり巻き上げられて酷い目に遭わされるか、下手をすれば命も取られてしまう。

 わからない風介ではないだろうし、娘を奪われたなら死なば諸共の心境なのだろうか。

「早まるんじゃねえよ。らしくねぇ……、俺もできる限り、やってみるから!」

 風介の真意を測りかねながらも、惣一郎は慌てて部屋を飛び出した。

 普通なら、他所の家の事情だ。辺りを探す合力くらいはしても、当の父親が諦めているなら、どうにもなるまい。

 だが、惣一郎はそう単純に諦められなかった。

(くそっ、お悠耶を……売り物なんかにさせるかよ!)

  いつの間にか部屋の中の様子を窺っていた女子数名を押し分けて、足早に裏木戸を潜る。

 表通りに出れば、やっぱり、いつも通りの光景だ。

 親子連れが手を繋いで歩いたり、物見遊山の旅人があちこちを見回して、また寺子屋帰りの子供たちが燥ぎながら駆け回っている。

  いつもなら、ここに悠耶がいたはずだ。

 悠耶が長屋に帰って来て――そこへ〝偶然〟居合わせるのが惣一郎の筋書きだったのに。

「お悠耶……」
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