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第1話/河川敷にて
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この世は無情ばかりなり。
しかし世に何があろうと桜の美しさは変わらず。
……ただ、その花びらには一抹の無念が滲んでいるやもしれぬ。
◇ ◇ ◇
その日の午前中も大和は一級河川の土手の上に作られた細い道を走っていた。
いつもの事だが今日は特別張り切ってのパトロールである。
前方右手、土手の草むらの陰から赤く丸い塊のようなものが動くのが大和の目にちらりと入る。彼はスピードを緩めた。
「ふう、ヨイショ。はー、どっこいしょ」
大きな掛け声を出しながら赤い塊に見えた物―――――赤いジャージを着た貫禄のある丸っこい身体―――――を揺らし、住宅街側に作られた土手の階段をゆるゆると上がってくる女性がいる。これもいつもの光景だ。
「ロクさ~ん! おはよー!!」
大和が大声で挨拶をすると、くるくるモジャモジャの白髪頭を三角巾で包み、花柄の前掛けを腰に巻いた老女はニッコリとひとの良さそうな笑顔を見せた。
「あら! おはよう。今日も元気ね!」
二人は土手の上で立ち話を始めた。仲の良い二人は端から見るとどう見えるだろうか。
祖母と孫、親戚の伯母と甥、おせっかいおばあちゃんと近所のやんちゃ坊主……。
最後の表現はちょっと前なら事実かもしれない。以前は少しだけやんちゃだった大和はよくロクさんのお世話になったものだった。でも大和だけではない。ロクさんは皆の、そして皆に慕われている「近所のおせっかいおばあちゃん」なのだ。
「ロクさん、気をつけなよ~。ニュース見た?」
「え?……ああ、昨日の銀行強盗かい? まだ捕まってないってねぇ。物騒だわねぇ」
「他人事みたいに言ってちゃダメだよ! 犯人は車でこの辺まで来てるかもしれないんだから!」
「はいはい。気をつけるからねぇ」
緊張感の無い返事をするロクさんに大和は口を尖らせて言った。
「ホントーに気をつけてよ! ロクさんは怪しい人にもすーぐ声をかけそうだもんな~!」
「大丈夫、大丈夫。それに何かあったら人を呼ぶからねぇ」
「お願い! 気をつけてよ~」
再び走り出した大和に手を振って別れた後、土手の上に立つロクさんは手に持った新聞紙をくるりと丸める。細長い筒状のそれを目に当てて、遠めがねのように輪の中を覗き込んだ。
そのまま360度ぐるりと見渡し、顔から手を離すとニッコリとして機嫌よくこう言った。
「うん、何もなさそうだねぇ」
彼女は河川敷に向かう階段を降りた。もちろん「ヨイショ」のかけ声つきだ。階段を降りきると、そのまま河原のある水際までまっすぐ向かう。
「あら、いいもん見っけ」
ロクさんは掌にちょうど収まるくらいの大きさの丸い石を拾った。黒っぽくてつるりとした表面が東南の空から差す太陽の光をわずかに照り返す。
彼女は持参したマイバッグと、ビニール袋を広げた。マイバッグの方にそれを満足そうに入れると、続けて河原で適当な石や木の枝を拾い集めていく。時々ゴミを見つけると、そちらはビニール袋に入れていった。
そうして幾つか拾った後、曲げた腰をうーんと伸ばして辺りを見渡したロクさんの動きが止まった。
「おや」
先ほどロクさんが見た土手の上からは死角になっていた場所、川にかかる橋のそばに1本だけ植えられた桜の木。
丁度満開を迎えた桜は枝を埋め尽くしそうなほど美しい花をつけていた。時折風を受けると花びらがちらちらと僅かに数枚舞い踊る。その桜の木の傍らに若い男が立っていた。
ロクさんは素早くもう一度新聞紙を丸めて遠めがねに変えた。両手でそれを囲うように持ち、目に当てて桜と男を見る。
髪は金に近い茶髪。耳にはいくつものピアス。カーキ色のカジュアルなコート。ゆるめの長袖Tシャツにスキニータイプのぴったりとした黒のパンツ。足元は黒いスニーカーで、地面を埋め尽くす薄紅色の花びらの絨毯と強いコントラストを生んでいる。今どきの若者ならではのいで立ちだ。
連れがいれば花見かとも思うが、ひとりかつ手ぶらでこんなところに居るのは少々不思議だった。
「ふーん……?」
ロクさんはその姿のままつかつかと歩き出して距離を詰めて行ったので、新聞紙で切り取られた丸い窓から見える男はすぐにこちらに気づき、少し驚いた後あからさまに嫌な顔を見せる。
「……なんだよ」
「こんにちは! わたしはこの辺の者なんだけど、お兄さん見ない顔ね?」
遠めがねを目から外したロクさんが明るく声をかけると、男はピクリとしたが言い返す。反応の速さは流石、若いだけある。
「そんなのてめーに関係ないだろババア!」
少々キツめに言われても、老女は柳に風とばかりにするりと流し、落ち着いて返した。
「関係あるわ。この辺はわたしの縄張りなのよ」
「縄張り?」
「わたしはね、ここの河原で毎日石やゴミを拾っているのよ。 だから余計なゴミを捨てられると困るの。あなた、ここに不法投棄でゴミを捨てたり埋めたりしていないでしょうね?」
あくまでもにこやかに、穏やかに言うロクさんの言葉に男の語尾が弱まる。
「……やってねぇよ」
「そう? じゃあ何故あなたのズボンは膝や裾が汚れているの? この橋の下で何かしていたんじゃない?」
おっとりとした雰囲気の老女から思いの外鋭い質問が飛んできた事に男は少し狼狽した。
「それは……ここで一晩、夜を明かしただけだよ」
男の言葉にロクさんは目を丸くした。そのまま暫く無言で固まった後、突然大声を出した。
「……まぁ! まだ寒いのに! 風邪をひいちゃうわよ。あなた、行くところがないの!?」
「しっ、静かにしてくれよ」
「静かになんて出来ないわよ! こんな大変なこと! どうしましょう。行くところが無いならウチで一晩くらいなら泊めてあげられるけど……それとも警察に相談に行きましょうか?」
そう言いながら前掛けのポケットから慌てて携帯電話を取り出したロクさんを、それ以上に慌てて男は止める。
「いやっ、それはやめてくれ! 宿も必要ない!」
「そうなの? ……じゃあせめて、ウチで一杯お茶を飲んでらして。後の事はそれから考えましょう」
「えっ」
「ウチはすぐそこなのよ。遠慮しないで、ね」
遠慮などもちろんしていない。むしろかかわり合いになりたくない。男は胸のなかで毒づく。
(なんだこのババア。おせっかいなやつめ)
しかし男は諦めた。トコトコと歩き出したロクさんの後を追う。こういうおせっかいで妙に正義感のある女は強引に振りきると良くない。
地域の民生委員なんかをやっている場合もあるし「こんな怪しい奴がいましたよ~」と小さな事でも交番や警察の生活安全課にいちいちチクったりする。
それよりもコイツのペースに乗るフリをして、ちょっとした身の上話でも聞かせて同情を買い、味方に付ける方が得策だ……と考えたのだ。
「そうそう。私の名前は六椎干 智穂子よ。長くて言いにくいから、みんなロクさんって呼んでるわ。あなたのお名前は?」
「…………佐藤っす」
「そう。佐藤さんは紅茶とコーヒーと日本茶ならどれがお好き?」
「……や、別に」
「別に『こだわりはない』のね? 若い人って面白い省略の仕方をするのねぇ」
ロクさんは妙に楽しそうに「ヨイショヨイショ」と土手の階段を上がり、また反対側へ下っていく。佐藤もそれに従い、階段の下につながる小路を抜けた。
しかし世に何があろうと桜の美しさは変わらず。
……ただ、その花びらには一抹の無念が滲んでいるやもしれぬ。
◇ ◇ ◇
その日の午前中も大和は一級河川の土手の上に作られた細い道を走っていた。
いつもの事だが今日は特別張り切ってのパトロールである。
前方右手、土手の草むらの陰から赤く丸い塊のようなものが動くのが大和の目にちらりと入る。彼はスピードを緩めた。
「ふう、ヨイショ。はー、どっこいしょ」
大きな掛け声を出しながら赤い塊に見えた物―――――赤いジャージを着た貫禄のある丸っこい身体―――――を揺らし、住宅街側に作られた土手の階段をゆるゆると上がってくる女性がいる。これもいつもの光景だ。
「ロクさ~ん! おはよー!!」
大和が大声で挨拶をすると、くるくるモジャモジャの白髪頭を三角巾で包み、花柄の前掛けを腰に巻いた老女はニッコリとひとの良さそうな笑顔を見せた。
「あら! おはよう。今日も元気ね!」
二人は土手の上で立ち話を始めた。仲の良い二人は端から見るとどう見えるだろうか。
祖母と孫、親戚の伯母と甥、おせっかいおばあちゃんと近所のやんちゃ坊主……。
最後の表現はちょっと前なら事実かもしれない。以前は少しだけやんちゃだった大和はよくロクさんのお世話になったものだった。でも大和だけではない。ロクさんは皆の、そして皆に慕われている「近所のおせっかいおばあちゃん」なのだ。
「ロクさん、気をつけなよ~。ニュース見た?」
「え?……ああ、昨日の銀行強盗かい? まだ捕まってないってねぇ。物騒だわねぇ」
「他人事みたいに言ってちゃダメだよ! 犯人は車でこの辺まで来てるかもしれないんだから!」
「はいはい。気をつけるからねぇ」
緊張感の無い返事をするロクさんに大和は口を尖らせて言った。
「ホントーに気をつけてよ! ロクさんは怪しい人にもすーぐ声をかけそうだもんな~!」
「大丈夫、大丈夫。それに何かあったら人を呼ぶからねぇ」
「お願い! 気をつけてよ~」
再び走り出した大和に手を振って別れた後、土手の上に立つロクさんは手に持った新聞紙をくるりと丸める。細長い筒状のそれを目に当てて、遠めがねのように輪の中を覗き込んだ。
そのまま360度ぐるりと見渡し、顔から手を離すとニッコリとして機嫌よくこう言った。
「うん、何もなさそうだねぇ」
彼女は河川敷に向かう階段を降りた。もちろん「ヨイショ」のかけ声つきだ。階段を降りきると、そのまま河原のある水際までまっすぐ向かう。
「あら、いいもん見っけ」
ロクさんは掌にちょうど収まるくらいの大きさの丸い石を拾った。黒っぽくてつるりとした表面が東南の空から差す太陽の光をわずかに照り返す。
彼女は持参したマイバッグと、ビニール袋を広げた。マイバッグの方にそれを満足そうに入れると、続けて河原で適当な石や木の枝を拾い集めていく。時々ゴミを見つけると、そちらはビニール袋に入れていった。
そうして幾つか拾った後、曲げた腰をうーんと伸ばして辺りを見渡したロクさんの動きが止まった。
「おや」
先ほどロクさんが見た土手の上からは死角になっていた場所、川にかかる橋のそばに1本だけ植えられた桜の木。
丁度満開を迎えた桜は枝を埋め尽くしそうなほど美しい花をつけていた。時折風を受けると花びらがちらちらと僅かに数枚舞い踊る。その桜の木の傍らに若い男が立っていた。
ロクさんは素早くもう一度新聞紙を丸めて遠めがねに変えた。両手でそれを囲うように持ち、目に当てて桜と男を見る。
髪は金に近い茶髪。耳にはいくつものピアス。カーキ色のカジュアルなコート。ゆるめの長袖Tシャツにスキニータイプのぴったりとした黒のパンツ。足元は黒いスニーカーで、地面を埋め尽くす薄紅色の花びらの絨毯と強いコントラストを生んでいる。今どきの若者ならではのいで立ちだ。
連れがいれば花見かとも思うが、ひとりかつ手ぶらでこんなところに居るのは少々不思議だった。
「ふーん……?」
ロクさんはその姿のままつかつかと歩き出して距離を詰めて行ったので、新聞紙で切り取られた丸い窓から見える男はすぐにこちらに気づき、少し驚いた後あからさまに嫌な顔を見せる。
「……なんだよ」
「こんにちは! わたしはこの辺の者なんだけど、お兄さん見ない顔ね?」
遠めがねを目から外したロクさんが明るく声をかけると、男はピクリとしたが言い返す。反応の速さは流石、若いだけある。
「そんなのてめーに関係ないだろババア!」
少々キツめに言われても、老女は柳に風とばかりにするりと流し、落ち着いて返した。
「関係あるわ。この辺はわたしの縄張りなのよ」
「縄張り?」
「わたしはね、ここの河原で毎日石やゴミを拾っているのよ。 だから余計なゴミを捨てられると困るの。あなた、ここに不法投棄でゴミを捨てたり埋めたりしていないでしょうね?」
あくまでもにこやかに、穏やかに言うロクさんの言葉に男の語尾が弱まる。
「……やってねぇよ」
「そう? じゃあ何故あなたのズボンは膝や裾が汚れているの? この橋の下で何かしていたんじゃない?」
おっとりとした雰囲気の老女から思いの外鋭い質問が飛んできた事に男は少し狼狽した。
「それは……ここで一晩、夜を明かしただけだよ」
男の言葉にロクさんは目を丸くした。そのまま暫く無言で固まった後、突然大声を出した。
「……まぁ! まだ寒いのに! 風邪をひいちゃうわよ。あなた、行くところがないの!?」
「しっ、静かにしてくれよ」
「静かになんて出来ないわよ! こんな大変なこと! どうしましょう。行くところが無いならウチで一晩くらいなら泊めてあげられるけど……それとも警察に相談に行きましょうか?」
そう言いながら前掛けのポケットから慌てて携帯電話を取り出したロクさんを、それ以上に慌てて男は止める。
「いやっ、それはやめてくれ! 宿も必要ない!」
「そうなの? ……じゃあせめて、ウチで一杯お茶を飲んでらして。後の事はそれから考えましょう」
「えっ」
「ウチはすぐそこなのよ。遠慮しないで、ね」
遠慮などもちろんしていない。むしろかかわり合いになりたくない。男は胸のなかで毒づく。
(なんだこのババア。おせっかいなやつめ)
しかし男は諦めた。トコトコと歩き出したロクさんの後を追う。こういうおせっかいで妙に正義感のある女は強引に振りきると良くない。
地域の民生委員なんかをやっている場合もあるし「こんな怪しい奴がいましたよ~」と小さな事でも交番や警察の生活安全課にいちいちチクったりする。
それよりもコイツのペースに乗るフリをして、ちょっとした身の上話でも聞かせて同情を買い、味方に付ける方が得策だ……と考えたのだ。
「そうそう。私の名前は六椎干 智穂子よ。長くて言いにくいから、みんなロクさんって呼んでるわ。あなたのお名前は?」
「…………佐藤っす」
「そう。佐藤さんは紅茶とコーヒーと日本茶ならどれがお好き?」
「……や、別に」
「別に『こだわりはない』のね? 若い人って面白い省略の仕方をするのねぇ」
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