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フルートと、バイオリン
しおりを挟む「……それでは、私どもはこれで失礼させていただきます。明日に向けて、何かご不明点等はございませんでしょうか?」
水が流れるような優しい声で、比呂さんが喪主様に問いかけた。
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございました」
「どうか、お疲れの出ませんように」
目尻を赤くした中年男性にもう一度微笑みかけて、軽く頭を下げて、部屋を出る。
白い幕が張られた部屋を通る時に、棺の近くで正座をして、もう一度、手を合わせて頭を下げる。線香立ての灰がこぼれていたのでさっと拭き取って、立ち上がった。
先ほど辞去した部屋からは、賑やかな笑い声が聞こえる。悲しむだけが葬儀ではない。故人の思い出を語りながら酒を飲み、笑い合って悲しみをやり過ごすのも、葬儀の過程の大切な一部分である。
玄関先で、もう一度一礼。
少し離れたコインパーキングまで歩いて、白いワゴン車に乗る。遅れて助手席に乗り込んだ僕がドアを完全に締めたのを確認してから、やっと比呂さんが大げさに溜息をついた。
「あーっ、くそ。疲れた」
「そうですね……」
僕も溜息をついた。
小さな規模の葬儀ではあった。そもそも、色部葬儀社が単独で請け負うことの出来る規模の葬儀である時点で、決して大げさなものではない。今回は自宅での家族葬ということで、自宅の一室に幕を張って、小さな花祭壇を飾り、宗教者も呼ばずに、親族だけで通夜を営んだ。花の量も決して多くはなかったし、外部の弔問は全て断り、式場の飾り付けも最低限で、というご遺族の希望だった。設営と納棺のアシスタントということで呼ばれた僕も、することがほとんどなかったくらいだ。
ただ、亡くなった人が非常に若かった。24歳の女性。自殺ではない。病気だった。
人の死が悲しみを生むものであるということは、亡くなった人の年齢に関係ない……とは言うものの、若い人が亡くなったときの、遺族の嘆き悲しみと言うのは、老人が亡くなったときの比ではない、というのも、正直なところではある。
まだ若かったのに。
たくさん楽しいことが経験出来たはずなのに。
一緒にやりたかったことがあったのに。
覚悟なんて出来るはずがない。
信じられない。
直接口にされることが、例えなかったとしても、心から溢れる叫びのような嘆きは、溢れる涙から、漏れ出る嗚咽から、故人を見つめる表情から、色濃く滲み出している。
その悲しみに身を曝し続けるというのは、仕事と言えども、かなり精神力を奪われるものなのである。
「綺麗な人、でしたね……」
「ああ」
僕が呟いたのは、故人のことだった。遺影写真に使われたスナップは、フルートの演奏会の際に撮影されたものらしく、楽器を抱えた満面の笑みは、近いうちに死を迎えることになる人のものだとは到底信じられなかった。音楽大学に在学中からいくつかのコンクールで良い成績を収めていた演奏者だったが、卒業後すぐに発病し、演奏活動はほとんど出来なかったそうだ。
「喪主様、ずっと泣いてましたね」
「自慢の娘だっただろうからな。やりきれんだろう」
むすっとした表情を崩さないまま、比呂さんが車のステアリングを握る。
目元には疲れが滲んでいて、言葉に出さなくても比呂さんも精神的なダメージを受けていることが、察せられた。
ふと、気になったことがあって、僕は尋ねた。
「そういえば」
「あん?」
「フルート、どうしても入れられないですか?」
「ああ……」
思い出したように比呂さんが唸った。
副葬品の話だった。
通夜の前に、故人の身体を棺に納める。その時に、棺にフルートを入れてやれないかと、喪主様が言い出したのだ。
遺族の気持ちとしては、痛いほど分かる。ずっフルートと共に生きて来たような人生だったのだ。最後の旅立ちのときも、大好きな楽器を持たせてやりたいだろう。
しかし、比呂さんは、火葬場のルールで金管楽器をおさめることはできないと、喪主様の申し出を断った。
「あれはなぁ……俺も入れてやりたい気持ちはあるが、決まりは決まりだからな」
「まぁ、金属ですもんね……」
副葬品で禁止されるのは、一般的に『燃えないもの』だ。金属、プラスチック、皮、ゴムなどなど。意外なところでは、分厚い冊子も燃え残るので、副葬品として禁止されている自治体が多い。どの程度まで許されるかは火葬場によって異なるが、フルートは金管楽器なので、まずどこの火葬場でも断られる。
「ま、俺たちは出来ることをやるだけだ」
「そうですね」
それきり会話は途切れて、事務所までどちらも話さなかった。
事務所に戻ると、先に帰っていると思っていた千鶴さんと美咲さんが、僕達を迎えてくれた。
「おかえりなさい」
美咲さんがお茶を入れようとしてくれたが、比呂さんはそれを手で遮って断り、最低限の事務処理を済ませると、
「わり。帰るわ」
そっけなく言って、事務所を出てしまった。
残されたメンバーは、音が出る程度には荒く閉じられたドアを、三秒ほど見つめ……そして、千鶴さんと美咲さんは、僕の方を見た。
「あんた、なにやらかしたの?」
最初から人のせいにするような言い方をするのは、勿論千鶴さんである。
「僕のせいじゃないですよ……」
濡れ衣を晴らすべく、僕は今日の出来事について、二人に話した。
「……ということで、若い方の葬儀って、辛いですね。ベテランの比呂さんがあそこまでダメージを受けていたのは、意外でしたけど」
「まぁ、今は緋乃凛華の件もあるからね。クールぶってるけど、あれで結構神経の細かい人だから、ストレスためてんのよ」
実質、今は比呂くんが社長代理みたいなもんだしね、という言葉を受けて、僕はなるほどと頷いた。美咲さんも千鶴さんも、各々しっかりしているし、基本的にメンバーは平等に意見を言っているように見えるけれど、場をしきったり、取引先との細かい交渉をしたりという部分は、比呂さんがしているようだ。夜にかかってくる葬儀依頼の電話も、基本的に、比呂さんの携帯電話に転送しているらしい。時々比呂さんは事務所で寝ていたり、午後になってから出勤してくることがあるけれど、それでも、疲れは溜まるだろう。
今は難しい案件を二つも抱えているので、比呂さんがストレスをためるのも無理はない。
それにしても、三ヶ月もアイスランドに行きっぱなしの社長というのは、果たして有りなのだろうか?
新たに浮かんだ素朴な疑問を口にしようとした時、思い切ったような様子の美咲さんが先に会話の口火を切った。
「……あの、岩崎さん。故人様のお写真って、持ってます?」
「サービス版ならありますけど」
サービス版というのは、うちの会社が遺影写真の作成を請け負った時に、サービスで渡している小さなサイズの遺影写真だ。
美咲さんの要請を受けてその写真を渡すと、美咲さんの瞳がふっと悲しげな色を帯びた。
「……やっぱり」
「……あの、美咲さん、何がやっぱりなんですか?」
端から見ていても、さっぱり分からない。美咲さんの様子を見ていた千鶴さんも、横から写真を覗き込んで、納得したように頷いている。
「……柊さん」
美咲さんが千鶴さんを見つめて、何かを問いかけるように呼びかけた。
「……そうね、この子も社員として、それなりに定着してきたことだし、そろそろ話してもいいかもしれないわね」
そう言うと、千鶴さんはおもむろに立ち上がって、資料の並んだ本棚があるスペースに向かった。
「ほら、こっち」
素直について行くと、千鶴さんは本棚のスペースの奥にある、仏壇を見つめている。
その視線が、今までに見たことがないくらい、切実で、僕は。
「これを見て」
引き出しの中から現れたのは、一枚の写真だった。
若い女性の写真だった。
すっきりとしたちょっとつり目の一重まぶた、青みがかかって見えるくらいに白い肌、ちょっとウエーブのかかった黒髪のショートカット。
その人が満面の笑みで。
バイオリンを抱えていた。
「……これは」
「私から見ると親友。比呂くんから見ると恋人。美咲ちゃんから見ると姉」
「……ここに、写真があるってことは」
「死んだわ」
そっけなく言った後で、千鶴さんがふっと寂しげな笑みを浮かべた。
冗談だと……言ってほしかった。
でも、救いを求めるように振り返った先にいた美咲さんが、壊れそうな微笑みを浮かべて頷いた。目の縁が赤い。嘘ではないのだと分かった。
「自殺したのよ」
千鶴さんの口から、ぽつり、と、鉛のように重い言葉が落とされて、その後には沈黙。
何も言えなくて、僕は仏壇の中にある位牌を見つめていた。
この仕事をするようになって、色々な人の戒名を見ることが増えたけれど、戒名と言うのは故人の人柄を表すようなものが多い。そういえば随分可愛らしい戒名だなと思っていた。
毎朝、美咲さんが仏壇に供える水を換えているのを見ていた。仏花もほとんど萎れているところを見ることがなくて。
でも、展示用のものだからと、思っていた。
そこに、一人の命に対しての、祈りがあったなんて、思ってもみなかった。
「どんな……人だったんですか?」
「薄い氷のように繊細で、炎のように情熱的……ってとこかな。あんまり詩的な表現は思いつかないけど、あの子自体は詩的な存在だったわ」
「姉は……死ぬほどバイオリンを愛してました。事故で手を……それで、弾けない自分が許せなくなって……それで……自分で」
ああ……。
そんな……。
比呂さんが見せていた、苦しそうな表情の意味が分かった。
舞台に立てないが故に、自らの命を絶とうとしている凛華さん。
フルートと共に生きてきて、夭逝した今回の故人様。
比呂さんは、恋人の姿を重ねているのだ。
「……私たちは、元々ね、三軒隣り合った家に住んでたのよ」
千鶴さんが語り出したのは、この会社の哀しい歴史だった。
比呂さん、千鶴さん、美咲さんと、あとは仏壇で祀られている蓉子さん。
彼らは元々、ご近所さんだった。
長屋のように引っ付いた、三軒の建て売り住宅に、彼らの両親はほとんど同じ時期に引っ越して来た。そして、偶然というにはあまりに美しいタイミング、同じ年に子どもが3人生まれた。
それが、比呂さん、千鶴さん、蓉子さん。
2年遅れて美咲さんが生まれた。
当たり前のように、幼い彼らは、それはもう仲良く遊んだ。春には花を摘み、夏には蝉を追いかけ、秋には落ち葉の上に寝転がり、冬に雪が降れば、子犬のように大喜びしてじゃれあった。
「家の前が田んぼだったからね、遊びには事欠かなかったわ」
やがて彼らは育ち、学校に通うようになり、中学校になった頃には蓉子さんと美咲さんが私立中学校に通うようになったこともあって、幼い頃のようには頻繁に遊ばなくなった。
「それでも仲は良かったのよ。毎年夏には、家族ぐるみでバーベキューパーティーをしてね。お正月には新年会をして、顔を合わせてた。普通年頃になると、変に異性を意識するようになって、よそよそしくなるじゃない? でも、もう、なんだか親戚みたいな感じだったから、特に意識せずに馬鹿話ばっかり。親のビールをくすねて来て、蓉子の部屋に集まってみんなでこっそり飲んだりとか……楽しかったな」
高校も3年生になれば、それぞれに興味の方向性も見えてくる。千鶴さんはお洒落に夢中。蓉子さんは幼い頃に習い始めたバイオリンに打ち込んでいて、比呂さんはフラワーアレンジメントの勉強をしたいと思っていた。
比呂さんと蓉子さんが付き合い始めたのは、高校3年生の夏だった。
専門学校に進学予定だった比呂さんとは違って、蓉子さんは音大の受験勉強で忙しかったから、実質、二人きりの時間はほとんど取れなかったはずだ、と千鶴さんは言う。でも、蓉子さんがバイオリンのレッスンから帰る時、比呂さんが自転車を押しながら横を歩いている風景は、千鶴さんから見ても幸福なものだったという。
「比呂くんはあの容姿だからさ、結構モテてたのよ。実は私も格好良いなーと思ったことが無い訳じゃないんだわ。でも、蓉子はね、見ての通り超美人ってわけじゃないけど、魂にエネルギーが満ち溢れてて。特別魅力的な子だったから。だから、全然、嫉妬とかはなくて、美咲ちゃんとクスクス笑いながら、二人のうわさ話をしてたの。蓉子から比呂くんのことで相談を受けることもあったけど、お誕生日のプレゼントに何を買ったら良いかわかんない、とか、手を繋いだら真っ赤になっちゃってどうしたらいいか分からないんだけど、どうしよう? とか、可愛い話ばっかりだった」
悲劇が起こったのは、3人が高校を卒業した、春休みだった。
蓉子さんは無事に大学に合格し、千鶴さんは理容美容の、比呂さんはフラワーデザインの専門学校に進路が決まった。
卒業旅行に行こう、という話になり、美咲さんも含めた4人で、スノーボードに出かけることになった。比呂さんと蓉子さんは、本当は2人で出かけたかったのだろうけれど、親の目もあるので4人でという話になったのだろう。
事故は、帰りのツアーバスで起こった。
対向車線を走っていたトラックが、居眠り運転で車線をはみ出して、バスに突っ込んで来たのだ。
怪我をした乗客は多数いたが、幸いにも『その時には』死者は出なかった。
しかし、4人のうち、入院を要する怪我をした人が、一人だけいた。
蓉子さんだった。
手首の粉砕骨折だった。
「それだってね、きちんとリハビリをすれば、治るものではあったらしいの」
しかし、芸術というのは難しい。
——リハビリを重ねても、前と同じような音が出せない。
蓉子さんがしきりに訴えるようになったのは、夏の終わりの頃だった。
それは、周りから見れば、分からないような違い。
だからこそ、何を言っても本人に届かないような違いだった。
タイミングも悪かった。大学に入り、音楽に一心に打ち込んできたライバル達に囲まれる中で、遅れをとったような気持ちになることは、蓉子さんにとって、耐えられないことだったのだろう。演奏者の世界は、決して優雅なものではない。常に誰かと戦い、自分と戦い、勝ち続けなければならない。勝たなければ、プロにはなれないのだ。
精神的に追いつめられていくにつれ、蓉子さんはますます、弾けなくなった。
比呂さんは常に蓉子さんの傍にいようとした。しかし、それさえも、拒否されることが多くなってきた。千鶴さんの言葉も美咲さんのいたわりも、蓉子さんの心には届かなかった。
加速度を増して、破滅へと進んで行く蓉子さんを、誰も、止められなかった。
蓉子さんが命を絶ったのは、冬の、晴れた朝のことだったという。
……亡骸を見つけたのは、美咲さんだったそうだ。
ご近所の『仲良しの4人組』は崩壊した。比呂さんは家に寄り付かなくなった。千鶴さんはストレスから買い物依存症になり、借金が膨らみ、その返済のために水商売に手を出して専門学校を中退した。美咲さんは悲しみを抑えて淡々と学校に通い続けたが、一時期、笑うことが出来なくなっていたという。
「前にも言ったかもしれないけど、社長……美咲ちゃんと蓉子の、お父さんが、私たちが変わった、きっかけだった」
元々は、美咲さんと蓉子さんの母方のおじいさんが、色部葬儀社を営んでいたそうだ。それはもちろん普通の葬儀社で、フリーランスの仕事をしていた社長(その時は普通の社員)が、時々手伝いに行っていたらしい。
蓉子さんの死後、しばらくして、社長をしていたおじいさんが死んだ。
零細の葬儀社。社員も高齢化していて、それをきっかけにやめていった。
元々潰すつもりでいた色部葬儀社だが、社長はこの会社を、愛娘の死によって傷ついた人たちの救済に使えないか、考えたそうだ。
「びっくりしたわ。睡眠薬をオーバードーズした上にウイスキーラッパ飲みして、頭ぐるんぐるんになって、ゲロにまみれて路上で寝て、起きたらさ、社長がいるんだもん。私にとっては親戚のおじさんみたいな人よ。そんでさ、私が目が覚めるなり言うの。『千鶴ちゃん。僕と一緒に葬儀屋をやらないかい?』ってね。『何馬鹿なこと言ってんのこの人』って思ったわ」
「……っていうか、一体どうして、そんな経緯があるのに、自殺サポートの葬儀社なんてしようと思ったんですか?」
「あんただってそろそろ気付いているでしょ? この会社、まともに自殺を促進する気なんてさらさらないわよ。自殺サポートを謳えば、自殺志願者が寄ってくる。自殺予防ってさ、志願者は本気で死にたいと思っている訳だから、こっちが自殺を止めるつもりで待ってても、ホイホイと寄って来てなんてくれないのよ。他の人が何考えてるかなんて、分かんないけどさ……私は、自殺者を集めて、話を聞きたかった。『あんた、なんで死のうと思ったの?』って」
千鶴さんはそう言って、哀しそうに笑った。
彼女の目は、二度と、現実には見ることの出来ない親友の顔を見ている。
胸が痛くなるほど、切実な願いが瞳にこもっていた。
「まだ、分からないの。本当に、本当に蓉子が死にたかったのかどうか。死にたかったなんて信じたくないんだよね。バカな話かもしれないんだけどさ」
「……でも、僕の自殺のサポートは、引き受けてくれましたよね?」
僕の問いかけに、千鶴さんは僕の頭を軽くはたいた。
「いい加減に気付けよ」
そうして笑う。
「最初に美咲ちゃんが自殺計画を出した時に、比呂くんが『Lライン』って言ったでしょ。あれは『live』 ……あんたを生かすための計画を話の中に組み込めっていう指示。自殺計画書に書いてた自殺プラン、あんた一人では実行出来ないでしょ? そんで法外な値段をふっかけて、今にいたる……ってわけ」
「ってことは……」
「結果的にはちゃんと、自殺を引き止めてるでしょ。あんたみたいな真面目なタイプは、約束に弱いのよ。それで、ゆっくり時間をかけて仕事を覚えさせて、落ち着いたら話を聞こうと思ってた」
「……そうだったん、ですか」
提示された方法が、やけに道具がたくさん必要そうなものだとは思っていた。
道具の入手の方法も、提示された自殺計画書では明かされていないし、一人では絶対に実行出来ないような仕様になっていた。
確かにおかしいとは思っていた。『イロベ』の仕事に同行させてもらうことはあっても、今まで、具体的に仕事を手伝わせてもらうことはなかった。他の顧客の自殺計画書を見せてもらったこともない。『イロベ』の資料はいつも、鍵のかかった引き出しに仕舞われている。
僕が覚えていくのは普通の葬儀の仕事だけ。
でも。
まさか、あの自殺計画書が、僕のことを死なせないためのものだなんて、思ってもみなかったのだ。
千鶴さんが、僕の目を覗き込んでくる。
「……ねぇ。岩崎学人くん。改めて聞くけど」
真剣な瞳だった。
「やっぱり、死にたい?」
その瞳に宿る光に気圧されて、あらためて考えた。
僕は死にたいのか。
答えを探すように事務所の景色を見渡せば、先ほどから静かに話を聞いていた美咲さんが、寂しげな表情をしてこちらを見つめていた。目の端が少し濡れている。どうやら泣いていたらしかった。
見つからない答えを探して目を瞑る。
瞼の裏に思い浮かぶのは、かつての記憶。
そして、ここに来てから出会った人たちの記憶。
目を開けて、迷いながら、僕は言葉を紡いだ。
「分からない……です。ただ、死ななければいけないという気持ちが、ずっと、あるまま生きてきて。でも、こうやって色んな人に出会って……本当に死んだ方が良いのか、とか、考えたり、とかで。ただ逃げたいだけなのかもしれない、とか」
「逃げるのは好きにしたらいいけどさ。死んだらもう逃げることも出来ないじゃん」
千鶴さんが机の上に座って、足を組んだ。
「それはそうですけど、でも、他の人を逃げ場のないところに追い込んだのも僕なんですよ」
「本当に、君が殺したと言えるの?」
僕の胸の奥がずきりと痛んだ。
こわい質問だった。
「……僕が殺しました」
囁くようにしか、答えることが出来なかった。
千鶴さんの溜息。
灰色の寒天ゼリーに閉じこめられたような沈黙が、耳を塞ぐ。
「そっか……ごめん。辛い話だったね」
「いえ、本当のことですから」
首を横に振る僕に、千鶴さんが珍しく優しい微笑みを向けた。
「もう、遅いし、帰ろっか」
そう言って、座っていた机から飛び降りる。タイトなミニスカートが、千鶴さんの腿の上でひら、と小さく揺れた。
「あ……すみません、僕、まだ料理の発注してないんで」
僕が断ると、途端にいつもの調子の千鶴さんが戻って来た。
「なーにつまんないこと言ってんのよー。明日やりゃいいじゃない」
「いえ、でも、忘れたら大変ですから」
「まったく……気をつけて帰りなさいよ!」
「それは僕の台詞では……あ、戸締まりとかは、ちゃんとしておきますから」
「あったりまえでしょー。ほら、美咲ちゃん、行くわよ」
小さなショルダーバッグを振り回しながら、千鶴さんは騒々しく事務所を出て行った。
美咲さんも千鶴さんの後をついて行こうとしたけれど、千鶴さんが事務所を出てから、ドアの前でちょっと振り返り、それから思い出したように小さな歩幅で僕の目の前まで駆け寄って来た。
「あの……」
背の低い美咲さんが至近距離から僕の顔を見つめると、自然に見上げるような姿勢になる。
「死なないでくださいね」
そう言って、慈しむようににこっと笑った。
ハルジオンみたいな、綺麗に真っ白な微笑みだった。
言いたいことを言って満足したのか、美咲さんはすぐに「じゃあ」と言って、再び小走りで事務所を出て行ってしまった。
静かな事務所に、僕一人。
でも、さっき黙り込んだときよりも、少しだけ事務所の照明が明るい気が、した。
一人になってしまった後は、特にすることもないので、淡々と仕事をこなした。
料理の発注書を作成してファックスで送った後、すぐに家に帰る気になれなくて、簡単に事務所の掃除をすることにした。床をモップで掃除して、机を拭いた。ついでに仏壇の方にも手を出して、簡単に埃を払った。
引き出しを開けると、やっぱりそこには、先ほどの写真が入っていた。
綺麗な人だった。
美人という意味ではなくて、千鶴さんが言っていたような不思議なエネルギーというか、オーラのある人だと思った。本当に慈しむように、バイオリンを抱えていた。
音楽に魅入られた人にとっては、楽器と言うのは本当に大切なものなのだろう。
「今日の故人様も……」
大切に大切にフルートを抱いていた、今日の故人様の遺影写真を思い出した。
棺に入れることの出来なかった、フルート。
きっと、命より大事だったのだろう。
「……なんとかして、入れてあげられないかな」
しかし、ルールはルールだ。特に最近は、ダイオキシンの問題や、周辺住民との関係で、副葬品に関するルールは厳格化する傾向にあるという。
比呂さんからもらった、副葬品についての注意事項リストを、読み上げる。
「副葬品として納棺可能なもの……紙製品(ただし束になっていないもの。枚数の少ない手紙、写経数枚など。本や千羽鶴などは火葬の際残るので不可)、布製品(洋服等1着程度。量が多いと灰が多量となるため、適量にとどめること)、食品(菓子類等。ただし、水分を多く含む果物はカットする等して、ごく少量にとどめること。また、骨付きのフライドチキンや、殻のついたままの甲殻類等は不可とする)……なんというか、色々、難しいなぁ」
単純に燃えるものなら大丈夫かと思っていたけれど、思っていたよりかなりルールが細かいらしい。本が駄目と言うのは意外だったけれど、意外に燃え残ると比呂さんが言ってたっけ。聞いたところによると、副葬品が全面的に禁止されている火葬場もあるそうだから、この火葬場はまだ緩いほうだそうだ。
「紙か……」
ふと、気がついたことがあって、僕は額に手を当てた。
一応、数枚なら入れてもいいらしい。
そうか……。
でも……。
つい、時計を見てしまった。夜の9時を回っていた。
今から頑張ったら、何時になるだろう。
だけど、あの、笑顔。
フルート。
そして、バイオリンを抱えていた蓉子さん。
「よし!」
僕は気合いを入れて、デスクから立ち上がった。
喜んでもらえるかも分からない。
でも、何もしないのは嫌だった。
……翌日。
葬儀式場となった故人宅では、式典が粛々と進められていた。
導師入場。参列者と共に合掌。
読経。
家族葬ということもあり、ご遺族の希望で弔電披露は省略。
焼香。
比呂さんの、優しく、しかし朗々としたアナウンスが、リビングに響き渡る。
そして、読経終了時に、再度合掌。
導師退場。
一度ご家族をはじめとした参列者にご退席いただき、出棺の準備を整える。
祭壇に供えた花を、参列者の手で、棺の中に入れてもらう。
故人を花で飾り、参列者は、故人様の間近で別れを告げる。
式場がすすり泣く声と、嗚咽で満たされた。
少しでも気を抜けば、僕達までストンと落ち込んでしまいそうな、強い強い悲しみ。
その中で僕と比呂さんは、花を切り続ける。そして、出来るだけ優しい声を出して、参列者に花を渡す。
僕達はプロだ。泣くことなど、許されていない。
……花を切りながら、僕は迷っていた。
僕の意識は祭壇の裏にこっそり置いた、小さな箱の中身に奪われていた。
何か感づいたらしい比呂さんが、怖い顔で「集中しろ」と囁いてきたけれど、はっきり言ってその言葉さえ耳に入っていなかった。その様子を見て何かおかしいと感じた比呂さんが、怪訝な顔で僕を見つめていた。
棺の中は、花でいっぱいになった。
亡くなってもまだ美しい、若い故人様の亡骸は、花を抱いて川に浮かぶ、オフィーリアのようだった。
「こちらが、最後のお花でございます」
比呂さんが、バスケットに入った花を差し出した。
色とりどりの花が、ご遺族の手に渡っていく。その中に喪主様の姿もある。目が腫れているけれど、この世から目を逸らしているかのように、その瞳には何も映っていなかった。
そこにあるのは永遠のがらんどうだった。
娘を亡くして、いったいどんな人生があるというのか。
そんな叫びが、どこからか聞こえてくるようだった。
これではいけない。そう思った。
僕は弾かれたように祭壇の裏に回り、箱を取り出した。
比呂さんが、棺の蓋を閉める前の口上を述べている。
待ってくれ!
「あの!」
思っていたよりもずっと大きな声を出していたようで、狭い部屋にひしめき合っていた人たちの目が、一斉に僕の方に注がれた。
その異様な空気に気圧されながらも、僕はおずおずと、箱の蓋を開けた。
「あの……こんなもの、で、子供だましだと思われるかもしれないんですけど。でも、フルートがお好きって伺ったので。ペ、ペーパークラフト、なんですけど」
そう。僕が昨日の晩作ったのは、フルートを象ったペーパークラフトだった。
本物は入れてもらえないから。
せめて、何か代わりのものを入れてあげたかった。
「良かったら、棺に、入れてあげられたらと思って」
「フルート……」
そう呟いた喪主様の目に、強い光がともった。
おぼつかない足取りで近付いて来た喪主様は、震える手で、ペーパークラフトが入った箱を掴んだ。
熱い手だった。
そして、ほとんど棺に抱きつくようにして、故人様に近寄り、顔を近付けて囁いた。
「良かったなぁ……さくら……フルートだよ……これでいつでも吹けるなぁ……なぁ……」
そして、優しい手つきで、棺にペーパークラフトのフルートを入れて。
棺の縁を着かんで。顔を伏せた。
そして。
絶叫。
それは、娘の名を呼ぶ、魂を全部込めたような叫びだった。
部屋の空気がびりびりと震えた。黒いスーツの背中に、鳥肌が立つのを感じた。
「さぁ」
喪主様の背中に手を添えたのは、故人様の御祖母様だった。
緩慢な動きで喪主様は立ち上がり、こちらに向かって、ぺこりと頭を下げた。
涙でぐちゃぐちゃになった顔。でも、さっきよりは人間らしい光があるような気もした。
「お名残は尽きぬかと思いますが……御出棺の時間でございます」
深い響きを感じさせる声で、比呂さんが告げた。
静かに蓋を閉じられた棺に向かって、もう一度合掌をする。
出棺。
故人様は霊柩車に乗せられて、火葬場に向かっていった。
その後、比呂さんは出棺に同行し、僕は式場の片付けのために、留守番をする親族の方とともに、故人様の自宅に残った。千鶴さんが大きな平ボディのトラックを転がしてきたことに驚きながらも(しかもハイヒールで!)、僕達は式場に張り巡らされていた幕を畳み、使用した仏具を片付け、花の台を積み込み、最後に自宅の掃除をして挨拶をして、その場を後にした。
比呂さんが帰社したのは、故人様の出棺後から、4時間近く経ってからのことだった。
「うぃっす」
昨日の辛そうな様子とは打って変わって、やけに機嫌が良さそうだった。
「おい、学人」
しかし、比呂さんは事務所のドアを開けた後、まっすぐに僕の方に向かってくると、
「勝手なことすんな。出棺遅れただろーが!」
すこん、と僕の頭を叩いた。
……そして、そのまま、もう一度僕の頭にその大きな掌を置くと、
「でも、ありがとな」
そう言って、髪の毛をかき回すように、僕の頭を撫でた。
「えっと……?」
首を傾げると、比呂さんは一気に邪魔臭そうな表情を作って、
「まぁ、あれだ。ペーパークラフトを作ると言うのは、なかなか良い発想だった」
それでも、一応理由を説明して褒めてくれた。
「喪主様が、お前に感謝してたよ。よろしくってさ」
その言葉を聞いて、胸の奥に、あったかくてじんわりしたものが染みてくるのを感じた。
こんな僕でも、誰かの役に立つことが出来た。
言葉にすれば、こんなところなんだと思う。
でも、僕の心が受け止めたのは、そんな言葉では表しきれないほどの大きな気持ちで。
近いところで言うと。
生きてていいよ。
そう、言われたような気がした。
もちろん正確には違うけれど。
生きてていいのかなんて分からないけど、でも……。
いつのまにか、涙ぐんでいたらしい。
比呂さんが呆れ顔で、「お前、何泣いてんの」と言っている。居心地が悪いのか、「俺、煙草買ってくるわ」そう呟くと、さっさと事務所を出て行ってしまった。
後に残されたのはニヤニヤしている千鶴さんと、にこにこと笑みを浮かべながら仏壇の花を取り替えている美咲さんと、呆気にとられた僕。
「あら、比呂くん。逃げたのね」
「きっと、照れくさいんだと思います。比呂さん、シャイですから」
女性二人のコメントは容赦ない。
まぁ、でも、確かにそういうことなんだと思う。
「さ、私たちも、今日は美味しいものでも食べて、帰ろ」
「あ、でも僕お金が……」
「たまにはお姉さんが奢ってやるよ。何が食べたい? うどんか? ラーメンか? そばか? それともスパゲッティか?」
「なんで麺類ばっかりなんですか……」
「だって美味しいじゃない。ねぇ、美咲ちゃんは何が良い?」
「私はおうどんが良いです」
美咲さんがうっとりと言うと、
「じゃあ、決まりで」
結局僕の意見は聞かれることすらなく、夕食のメニューが決まってしまった。
でも、うどんか。
頭の中に、あったかい讃岐うどんの映像が、リアルに浮かんできた。
黄金色の出汁に浮かぶ、白くてもちもちした麺。薄く薄くスライスされた葱。端がピンク色のかまぼこ。そうそう、出来れば月見うどんが良い。ゆらゆらと揺れる卵の塊。
そのとき、僕の身体を取り巻く空気までもが、ふんわりと温度を上げたような気がした。
事務所の戸締まりをしながら、美味しいうどん屋について情報交換する千鶴さんと美咲さんの笑顔に囲まれて。
ペーパークラフト作成のために寝不足のぼんやりした頭を抱えていても、その瞬間の僕は確かに感じていたんだ。
幸福を。
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