宇宙に恋する夏休み

桜井 うどん

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夏の終わりと宇宙と恋と

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 日向の倉庫に行ったら、前の道路に、薄汚れた白い軽バンが停まっていた。
 かなりいびつな停め方をしていて、タイヤが斜めならば車体も斜め、道路の端に停めているつもりなのだろうが、道路の端と車体の間には、平均して七十センチほどの隙間が空いていた。へたくそすぎる。
 最初に車を見た一瞬だけ男の姿が私の頭をちらちらとかすめて、鳩尾のあたりで煙草の火のように燻ったが、そのあり得ない駐車状態を観察するうちに、私の中の火はいつのまにか灰皿に押し付けられて消えていた。
 錆び付いた扉を開けると、そこにいたのはやっぱり日向一人だった。
「おはよー」
「おはよー。早いね、ありがとう」
「車、どうしたの?」
「この前知り合った電気屋のおばちゃんに借りた」
 まったく、致命的に不器用なくせに時々発揮する要領の良いこのコミュニケーション力はなんなのだ、と思ったけれど、今更な気がしたのでそれを言うのはやめた。
 それよりも気になったことを私は口に出す。
「よくあんな運転技術で他人から車を借りる気になったね」
「いやぁ、車って怖いね」
 日向が真面目な顔で言ったので私は吹き出した。
「その電気屋のおばちゃんっていうのも相当なチャレンジャーだね」
「うーん、私が運転しているところは見てないからね」
「恐ろしいことだ」
「ねぇ、みさきちゃん運転出来ないの?」
「免許は持ってるけど、教習所出た日から一度も運転してない」
「一緒かぁ」
 あっけらかんとこんなことを言うので、ぎょっとした。
「うわ、最悪。せめてレンタカーにすればいいのに」
「お金がなかった。サイドブレーキの解除のしかたがなかなか分からなかった時点で後悔したんだけど、車ないとゴミ、捨てに行けないし」
「まぁ、事故らないように精一杯気をつけるんだね」
 それ以上日向の運転技術をけなすと、今度は私が運転させられそうだったので、私は持ってきたコンビニの袋を降ってみせた。
「じゃあ、今日一日引っ越しの準備を頑張れるように、お土産」
 案の定日向はぱっと顔を輝かせて叫んだ。
「ポテトの匂いだ!」
「君は犬か」
 ポテトを食べてから、日向の引っ越し、もとい倉庫の立ち退きの準備を手伝った。
 夏休みはどんなに長くても、短い。
 もうすぐ十月。私と日向の夏休みも、終わろうとしていた。
 昨日聞いたことだけれど、日向は電車に一時間ほど乗って到着する街から、実家からこの近くの大学に通っているらしい。両親との仲も特別悪くはなくて、今回は友達と長期の国内旅行に行くという名目で家を出てきたという。私と会うときには一向に活躍しなかった携帯電話で、時々親と連絡をとっていたそうだ。アリバイ作りはガイドブックで得た情報をもとにした思い出話。写真がないのはデジカメをなくしたせいにするつもりらしい。
 聞けば聞くほど普通の話だった。漠然とではあるけれど、それなりにドラマチックな家庭環境を想像していた私は、その話を聞いたときに拍子抜けしたような気分になった。
 私にとって日向の存在は、日常の中に紛れ込んだ完全な非日常だったのだ。
 だからといって、がっかりするのはあまりにも筋違いなので、私は日向が日常に戻るための手伝いをするべく、せっせと日向の持ち物を必要なものと不必要なものに仕分けしていた。
「日向、これは?」
「いらない」
「そっちのコンロは?」
「捨てる!」
 日向の躊躇いの欠片もない物言いに、釈然としない思いを抱えながら。
 元々旅行という名目で出てきたので、物をほとんど持って帰れないという事情は理解している。
 しかしそれにしても、日向のものへの執着のなさは徹底していた。この生活の中で買ったものを、出来る限り排除しようとしているようにすら見えてしまう。
 それは私にとっては少しだけ悔しくて、自分でもほとんど意識していなかった小さな不安をカリカリと引っ掻く。
 極めつけは、日向が描いたポストカードだった。
 分厚い束になるほど大量のそれを、日向は最初画材もひっくるめて全部捨てると言い張った。
 それだけは阻止したい私は、日向の抗議にもかまわず敷いた新聞紙の上に、ポストカードを全部並べた。
「どれでもいいから、せめて一枚くらいは」
「えー、でも自分で描いたものって恥ずかしいし」
「いいから」
「うーん……」
 ほとんど隙間なく並べられた淡い空色のポストカードの前で、考え込んでいる日向の後ろ姿は、空の中でうずくまっている人のように見えた。
 五分ほど悩んで、日向はやっと、一枚のポストカードを選び取った。
「じゃあ、これ」
 いかにもぞんざいに選んだような動作が気に入らなかったけれど、私も理不尽なことを言い出した手前、
「よし」
 と言って、残りのポストカードをさっとまとめて燃えるごみの袋に入れた。
 元々荷物も多くはなかったので、片付けには掃除を含めて、一時間もかからなかった。
 粗大ごみになってしまった「あの」せんべい布団と、いくつかのゴミ袋と、一つのボストンバッグを軽バンに乗せて、私たちは倉庫を跡にした。最後に倉庫の床を水洗いしたのだが、うっかり靴を履いたまま水を撒いてしまったので、車内のエアコンで裸足の足がすーすーした。
 日向の運転は、非常に危なっかしかった。とだけ言っておく。
 よくもまぁ、大切な人を事故で亡くしておいて、こんなことをするものだ。
 それでもなんとかどこにもぶつからずに、ごみ処理施設までたどり着いた。
 感覚が麻痺して驚かなくなるほどクラクションを鳴らされて、指定されたコースを巡ってごみを捨てた。
 ごみ袋は、ものすごく軽いものみたいに、ぽぉんと弧をかいてから落ちていった。
 全てのごみを出し終わったあと、ごみ処理施設に併設されたプールの駐車場で、自動販売機のアイスクリームを食べた。
「考えてみたら私たちって、会うと食べてばっかりじゃない?」
 歯にしみるほど冷たくて甘いアイスを齧りながら、ふと思いついたことを言った。
「会うとセックスばっかりよりはましなんじゃない? 食べ物の趣味が合うのは良いことだと思うけど」
 返ってきたのは、妙に擦れた答えだった。
「安っぽいものばっかりだけど」
「フランス料理とか食べたい?」
「食べてみたいけど毎日はね。毎日食べるなら卵かけご飯が良い」
「そんなもんでしょ」
「しかも本当にどこででも食べるよね」
「外で食べることが多いような気はするね」
「路上で西瓜割り始めたときはどうしようかと思ったけど」
「夏らしくて、楽しかったでしょ?」
「いけしゃあしゃあと、よくそんなことを言うね」
 もう3日もすれば大学が始まるのに、そうしたら元々ライフスタイルの違う私たちは気楽に会うことも今までみたいには出来なくなるのに、交わす会話はそんなことばかりだった。    
「あ、この棒って穴があいてたんだ」
「木の棒のときには開いてないよね」
「そういえば、コンビニで売ってるアイスは棒が木なのに、自動販売機のはなんでプラスチックなんだろう?」
「さあ。腐るんじゃない?」
「アイスに賞味期限はないって聞いたんだけど」
「でもこれが、5年前のアイスとかだったらさすがに嫌だね」
「それはかなり嫌だね」
 そんなことを言っていても、私たちは二人そろってプラスチックの棒の穴の部分までアイスをなめ尽くした。喉が渇いて、もったいないもったいないと言いながら缶の緑茶を買って、二人で分け合って飲んだ。
 そしてプールにも入らず、軽くなった車でびくびくしながら日向の知り合いの電気屋へ向かった。元々停まっていたところに、車を入れてからお礼を言いに行こうとしたら、もたもたしているうちに電気屋のおじさんが出てきて、日向の運転技術のなさに呆れて運転を代わって車を停めてくれた。日向はぺこぺこ謝りながら、電気屋のおじさんとおばさんに、給油を忘れて帰ってしまったのでガソリン代と、お礼の菓子折りを差し出していた。二人は苦笑いしながら、お返しにと言って梨を持たせてくれた。
 帰りは勿論、歩きだった。最寄り駅まで、私は日向のぶんの梨を持ってあげることにした。
「ぶつからなくて良かった」
「流石に二度と貸してくれないとは思うけどね」
「次に車乗るときは、もうちょっとバイトしてレンタカー代作ることにする。で、近くの空いてる駐車場とかで、駐車の練習とかしてから出かける」
「そうしてください」
「みさきちゃんはどこに行きたい?」
「お願いだから電車で行く前提で話をしてくれないかな?」
 そう言いながらも、私は少しほっとしていた。
 日向がレンタカーを借りる気になったことではなくて、私との関係を、夏の思い出として捨ててしまうつもりではないということが分かったからだ。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、日向はくだらないことばかり、よく喋った。
 地元で一番大きい川の、橋の上にさしかかった頃だった。
 突然、日向が叫んだ。
「夕焼け!」
 視線を日向が指差した方に向けると、ちょうど川向こうの地平線に、夕陽が沈もうとしていた。
 日向が立ち止まったので、私も自然に立ち止まった。
 東側は既に薄い紺色になっている。
 頭の上が、全部空だった。
 ばかみたいに大きな自然のグラデーションは、私たちの言葉を、奪う。
 そして心を妙に映して、人を素直にさせたりする。
 そんな作用が日向に生じたのかどうかは定かではない。
 ただ、日向はぽつりと言葉を落とした。
「そういえばさ」
「ん?」
「あの土管って思い出の場所なんだよね」
「え、そうなの?」
「うん、死んじゃったって言ってた子がね、中に落書きをしたんだよ。『洗濯ばさみは今尚錆びている』って」
「ええっ! あれヤマンダが書いたの?」
「ヤマンダじゃないよ。私が好きだった女の子」
「えぇっ!」
「別に驚くところじゃないでしょ。今更」
 私の驚きが、「日向の好きだった相手の性別が女である」ということに向けられていると思ったのか、日向はそう言った。しかしもちろん私の驚きは性別に対してではない。
 だって、日向の言ってることが本当であれば、あの夜に私が抱いたヤマンダへの嫉妬心は何だったというのだ。
「女の子とかじゃなくて、先入観で、ヤマンダだとばっかり思ってたから」
 私は正直に白状した。
「ヤマンダは自棄セックスの相手です。すごく有り体にいうと」
「うわ、可哀想。ヤマンダ」
 そして密かに可哀想な私の嫉妬心。
「っていうか、どういう意味なの? あの落書きは」
「意味はないらしい」
「なぁんだ」
「ていうか見てたんだ」
「うん、しかし意味が分からない割に感傷的なフレーズだね。ヤマンダが書いたんじゃなくてよかった」
「ヤマンダ生きてるし」
「うん、名前からして死にそうにないもんね。ねぇ、日向が好きだった人ってどんな人なの?」
「秘密」
 そう言って日向は笑った。
「そういえばさ、私、メール送ったの。例の人に」
「それって、不倫の人?」
「そう。別れることにした。会社も、やめることにした。昨日辞表出してきた」
「おめでとう」
「仕事探さなきゃいけないけど」
「でも、それまではお昼間に遊べるね!」
 無邪気な彼女の言葉は、つまり、これからも一緒に遊ぼうという意思表示だ。
 それは、つまり、そういうことだ。
「そういえば、そうだね」
 私は、湧き上ってくるような幸せな気持ちを、噛み締めるようにゆっくりと言った。
「そうだよ」
 日向がきらきらと目を輝かせて私に言った。小さな横顔は夕陽に染まっている。儚くて、力強い、命の色だった。
 この夏の思い出が、頭の中でたくさん再生された。気がつけば、思い出のどこにでも日向は必ず登場していて、だからこの夏は、とても鮮やかだった。
 神社で日向が言ったように、日向が宇宙人であるならば、私は日向の故郷の星の砂粒や、日向の通ってきた航路上の暗黒物質まで、全て愛している。
 日向が地球になじめないなら、私は宇宙ごと、日向を愛そう。
 ふと、そんなことを思いついた私はいてもたってもいられなくなって、両手に持っていたビニール袋を振り回して、日向に飛びついた。勢い余った梨が日向の背中に当たって、日向が「痛っ!」と声をあげた。
「ごめんごめん」
 謝りながら、じわっと甘い幸福は、少しも総量を減らすことなく私を包み込んでいた。
 夕陽はますます鮮やかに、私たちを照らしている。
 遠くから夕陽を見たら、強烈なオレンジ色の真ん中に、私と日向の影法師が一つだけ、浮かんでいることだろう。
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