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その後・番外編

理想と現実と妄想と願望(3)

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「……ん、ぁ」

 ーーあれ、ここはどこだ。僕、どこにいるんだっけ。真っ暗で、何も見えない。

「やめて……んん」

 違う。見えないんじゃない、僕が目を閉じているから真っ暗なのか。頭が重い。身体が重い。瞼が重い。身体のあちこちが重くてだるくて、指先一つ動かせそうにない。
 ああそうか、僕は今寝ているのか。じゃあこれは、夢?大空か、はたまた海底か。全身が心地よい浮遊感に包まれて、どこかへ飛んで行きそうだ。

「……ん、ふ」

 さっきからくぐもった女の人の声が聞こえる。どうしたのかな。苦しそうな、それでいて甘えるような。ソワソワと胸を落ち着かなくさせる、そんな声だ。

「嘘つくなよ。止めてほしくないくせに」

 今度は男の声。どこかで聞いたことのある、いや多分、ついさっきまで聞いていた声だ。名前は何ていったっけ。そうだ、確かー

「うそ、じゃない。安田、本当に駄目、だか、あん」

「ほら、びしょびしょ。いつからこうなってる?」

「ああ、やあ、ふ」
 
 会話の奥の方で、ぴちゃりぴちゃりと甲高い水音が微かに聞こえる。相変わらず瞼も指先も、身体の何一つ動かせない。それなのに、心臓の鼓動だけはドキドキと高鳴っていき、身体全体を震わせている。

「ほら、言えよ。いつから?」

 安田と呼ばれた男が、酷く甘い声色で意地悪な言葉をかける。

「弟の前なのに、こんなん濡らして」

「ん、はぁ、あっ!お願い、だから」

 控えめだった女の人の声が、今では息遣いまではっきりと聞こえるくらい大きく、荒くなった。さっきとは違う類のドキドキで胸が騒いで落ち着かない。
 弟……弟って、もしかして僕のこと?

「ああ、違うか。弟がいるから、か」

「あああっ!はあっんんん!」

 水音は激しさが増し、ぐちゅぐちゅとはしたなく部屋に響いている。
 部屋?ああ、そうだ。思い出してきた。

 ここは姉の部屋だ。姉の部屋に泊まりに来て、確かお酒を飲んで。最後の方の記憶が曖昧だが、多分そのまま寝てしまったんだろう。散り散りになった意識の欠片が少しずつ集結し、頭がクリアになってくる。

 ということは、もしかしてこれは夢ではなく、今現実に起きていることなんじゃあ。
 ドックンドックン、心臓が耳の後ろにあるんじゃないかと間違う位、うるさく収縮を繰り返す。
 さっきから聞こえるこの声は姉なのか?安田とか言ういけ好かない男と姉は、一体何をーー
 
「声、抑えねえと弟が起きちまうぞ。ああ、もしかして弟に聞かせたいとか?」

「ちがっ!ちが、う……ふぅ、は、ぁ」

「ふっ、やらしいなあ。相変わらず。怜奈は誰かに見られる方が興奮するんだもんな」

「ふ、ぅぅうう」

「違くねーだろ。いつもよりも濡れてんじゃねえの?締め付けもすげえし。ほら」

 ぐちゃ、にちゃ、ごぷ。
 未だかつて聞いたことのない、いやらしい音が絶えず鳴り響く。
 身体が熱い。部屋の空気があからさまに濃くなって、息ができない。いや、違う。勝手に荒くなる息を必死に抑えようとしているから、こんなに苦しいんだ。

「や、やめて」

「あっそ。じゃあやめるか」

 そうだ!止めろ!止めてくれ!
 懇願するような弱弱しい声音の姉に、心の中で激しく同意する。
 経験のない僕にだって、すぐ隣で今何が行われているのかなんてわかる。興味がないわけじゃない。その手の漫画も動画ももちろん見たことはある。本当はこのまま息を潜めてこの行為の行く末を聞いていたい。未知の世界を実際に体感したい。

 隣にいるのが僕の姉じゃなければ、の話だが。

「……カイ!意地悪するのは、もう……やめて」

 姉の声と共に布団がドサリとベッドから落ち、僕はひゅっと息を呑んだ。

「……気持ち良くて、もどかしくて、死んじゃいそう。カイのが欲しくて、たまらないの。お願い。もう、入れて」

 さっきまでくぐもって聞こえにくかった声がはっきりと耳に届き、下半身がぶるりと震えた。

「……ふっ、りょーかい」

 二人の声が消え、この場がしんと静まり返る。息を殺し耳に全神経を集中させると、布が擦れる音、ベッドが軋む音、何かビニール製のものを破く音がしてーー

「ああっ!はあ、んんんんー!」

「っく、う」

「あっああっ!はあ、ああ」

 ばつんばつんと力強く肌がぶつかり合う音と同時に、姉が歓喜の声をあげる。僕の聞いたことも想像したこともない女の声で、姉が喘ぎ、よがり、啼いている。

「怜奈、れーな」

「ああん、やぁん……きもち、いー、ぁん、ああっ」

「おーい、もうイッちゃってんのか?声、ちょっと抑えろ、って。弟に聞こえちまうぞ」

「あ、ああっ!はあっんんんん!もっと、ふ、うう」

 耳を塞ぎたい塞ぎたくない。もう聞きたくないもっと聞いていたい。
 すぐ隣で繰り広げられる男女の生々しすぎる性交渉に、恐ろしくも興奮が止められない。全身の血が滾り、ものすごいスピードで下半身へと集結していく。

「弟もガッカリしてんだろーな。完璧だと思ってた憧れの姉ちゃんが、実はこんなセックス大好きの淫乱女だったとか」

「あああっん!んんー、ち、ちがっあああっ」

「なあにが違うんだよ。シーツまでびしょびしょに濡らしてるくせに。ほら、弟の目の前でイケよ」

 耳に入る音全てが一層激しくなると、姉の声もまたより一層激しくなる。

「はああああん!ち、違う!ちがうの、あっああっ!」

「違く、ねーだろ、がっ」

 ペラペラと喋る男の吐く息も次第に荒くなってきて、さっきまでの余裕はさは窺えない。

 なんだ、これ。これがセックスなのか?
 一周まわって嘘くさく思えてきた。やたら大袈裟だし演技臭い。作り物感がすごい。
 やっぱりこれは夢なんじゃあないか?
 絶対そうだ、そうに違いない。だって、あの姉が。いつだって冷静沈着な姉が、こんな、こんな風になりふり構わず乱れに乱れまくるなんて。

「カイがっ、好きだから!カイとのセックスが、気持ち良くって死んじゃいそ、ああっ!」

「……ッチ」

 くちゃくちゃと、わざと音を立ててガムを噛んでいるかのような下品極まりない水音の合間合間に、どちらのものとも取れない荒い息遣いが聞こえる。

 なんだこれ、なんだこれ、なんだこれなんだこれ!
 耳から入る全ての音が頭の中でごちゃごちゃに反響し、身体の内側からはドクンドクンとどでかい太鼓が打ち鳴らされ、身体中が焼ける程に熱い。

「ああっ!やあっもうっ!イク、イッちゃう!」

「イケよ、ほら。お前の大好きな俺のチンポで、よがりまくってるだらしないその顔を弟に見せてやれよ!こんな俺とのセックスが大好きなお姉ちゃんでごめんなさいって謝りながらイッちまえ!!」

「ああっ!ごめ、ごめん怜央!こんな、お姉ちゃんでっはああん!やあ、もうイク!イクイクぅぅ!!」

「……く、う」

「ああああっ!あっあっああーー!」

 だめだ、やめろ、我慢しろ、こんな………

 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!

 何度も何度も謝罪の言葉を繰り返し、意識を放棄するかのように、僕はまた何も聞こえない真っ暗闇の世界へと沈んでいった。




「あ、おはよう。怜央、体調はどう?頭は痛くない?気持ち悪くない?」

 身体を起こしうっすらと目を開ければ、心配そうに眉を下げた姉のドアップが映りこんできた。
 ごめんなさい!と咄嗟に心の中で叫び、ふと違和感を感じた。

「姉ちゃん……ここは。あれ、僕なんで」

 右を見て、左を見て、前を見る。
 部屋は日の光で十分に明るく、その全容がはっきりと窺える。僕の知っている姉の部屋で間違いはない。ズキッと痛みが走り頭を押さえると、姉に「大丈夫?」と声をかけられた。
 今は朝、いや昼?昨日、二次試験が終わって、姉の家に帰ってきて。そうしたらあの男がいてーー

「あいつは?」

「安田?昨日のうちにとっくに帰ってるけど」

「え?」

 目を丸くして驚く僕を見て、姉が深刻そうに顔をしかめた。

「覚えてないの?」

 あの男が作ったらしいビーフシチューを食べて、あの男に図星を言い当てられて、行き場がなくなってヤケクソで酒を飲んだ。そこまでははっきりと覚えてる。その後なんか余計なことをペラペラと喋ったような気もするけど、いつの間にかプツリと記憶が途絶えて、気がついたのがついさっきだ。

「もう。未成年がお酒なんて飲んだら駄目なんだから」

「う……ごめん」

「お父さんとお母さんには内緒にしてあげるけど、成人するまではもう止めなさいよ。昨日はすぐに寝ちゃったからいいけど、アルコールで失敗する人も多いんだから」

 すぐ寝たということは、僕が覚えているのが全部っていうことで間違いないのだろうか。

 じゃあやっぱり、あれは夢だったのか……なあんだ、そうか……そうか。
 ホッと肩を撫で下ろすと同時に、僕の妄想に勝手に姉を巻き込んでしまった恥ずかしさと申し訳なさで一杯になる。

 いや、当たり前だろう。あの姉が弟のすぐ隣で男とする・・なんて、考えられない。あり得ない。誓って、ない。姉じゃなくたって普通にモラルのある常識的な大人だったら、そんなことする訳がない。
 よくよく思い返してみれば台詞だって、つい最近読んだ漫画のものと同じようなものだったし。友人の隣で声を抑えてするっていうシチュエーションの動画を見たこともあるし。……そういうのが好きだったりもするし。
 っていうか、まんま僕の性癖というか願望というか妄想が夢になって出てきただけなんじゃあーー

 …………うわあ、ごめん。姉ちゃん、ごめん!申し訳ない!

 絶対にこんなこと口に出して言えないから、心の中でひたすら謝る。誠心誠意土下座する。このまま家に帰らず山に篭って、滝に打たれて煩悩退散するべきだ。

「もしかして、姉ちゃんもお酒で失敗したことあるの?」

 逃げるように話題を姉にすり替えると、姉は一瞬気まずげに顔をしかめ、「結果的に失敗じゃなかったから」と呟いた。
 これは多分、何かしらやらかしたんだろう。姉の失敗談なんて早々聞けるものじゃないからもっと聞き出したい気もするが、自爆しそうな気配がプンプンするから、これ以上掘り下げるのはやめた。多分、僕の予想は間違ってはいない。

「何時の新幹線で帰るの?」

 少し考えて「一時くらいかな」と答えると、姉は「じゃあまだゆっくりできるね」と朗らかに笑った。その笑顔に、ドキリとする。

「なんか、姉ちゃん。楽しそうだね」

「そう?」

「うん。姉ちゃんがああいう男を好きになるなんて、意外だったな」

 さっきの笑みもそうだけど、全体的に雰囲気が柔らかくなったと思う。もちろん、いい意味で。そしてそれは多分、あの男の影響だろう。第一印象がマイナススタートだったからだろうか、今では不思議とそんなに悪い印象はない。飄々として掴みどころのないイケ好かない男なのは変わらないけど、そんなに悪い奴ではないと思う。少なくとも、姉に害を与えるような男ではないはずだ。それは確信している。

「自分でもそう思う。でも、案外悪くないものよ」

 そう言ってふわりと笑う姉は、とても女性的で、キラキラと輝いていた。

「思ってもみなかったことって、案外、良かったりするものよ」

「そういうもん?」

「そういうもん」

 二人で顔を見合わせて、同時にぷっと噴き出した。窓の外の青空のように、僕の心も晴れ晴れとしていた。


 受かっていても、落ちていても、浪人しようと、どこの大学に行こうと。重要なのはそこではないのかもしれない。自分が思い描く未来予想に収まる様な人生は、多分、ものすごく平凡でつまらないものなのだろう。自分自身が成長するためには、多少のアクシデントなり障害などにぶち当たらないとだめなんだ。
 そんなこと口に出して言われてはいないけど、何となく姉にそう言われている様な気がした。



 十日後、僕の元に届いたのは合格通知だった。

 色々と悩みはしたものの、結局僕はその大学に四月から通うことになる。そして、次の年の四月には全く別分野の学部に編入することになるのだけど。

 それは、また別の話。



【次話、安田視点で答え合わせです^ ^】
 
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