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その後・番外編
理想と現実と妄想と願望(2)
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【未成年が飲酒するシーンがありますが、本作は未成年の飲酒推進の意図はありません。お酒は二十歳になってから飲みましょう。】
だから、なんであんたがここにいるのよ」
「だから、なんで俺がいないと思ってるワケ?」
当然の顔をしている男と、呆れ混じりに息を吐く姉。姉は男の存在を予期していなかったようだが、僕はいるだろうな、と思っていたので特に驚きはしなかった。というか、いないはずがないだろう。
「ちょっと、今日もダメだって」
「言われたけど了承してませーん」
「っく、この馬鹿犬」
「躾のなってない犬の飼い主の顔が見てみたいって?」
「……っ!」
「……とりあえず、入っていい?」
エスカレートするだろう二人のじゃれ合いを遮る様に、間に入って部屋に上がる。頭も身体も心も全てが疲れすぎて、二人のやり取りにつっかかる気力も体力ない。とにかく座って一息つきたかった。
二次試験が終わった。
当初の予定通り、今日も姉の家に泊まって明日の昼頃の新幹線で家に帰る予定だ。
朝姉の家を出た時は、やり遂げた達成感、解放感に包まれ、後は結果を待つのみと明るい気持ちでこの家に帰ってくるだろうと思っていた。なのに、実際に終えた今僕の中を占めているのは全く別のもの。敗北感に近いやるせなさ、それに落ちたらどうしようという焦燥感だった。
駅に迎えに来てくれる姉の顔を見たら、それが和らぐと思っていた。だけど、むしろ姉の顔を見る度にそれらは大きくなって僕の胸を圧迫し、家に着いた今では呼吸するのさえ困難に感じる程だった。
「なに、この匂い」
一歩足を踏み入れた玄関兼キッチンには、食欲をそそられる良い香りが充満していた。自然、足が止まる。ガスコンロの上には一人暮らしの大学生には不相応の、おしゃれかつ実用的だと人気のえんじ色の無水鍋。姉が作ったのだろうか。
「ビーフシチュー」
声の方を振り返り、目が合う。多分昨日と同じ、だけど昨日ほど嫌だと感じないにやけ顔の男に、「食う?」と聞かれ、本能の赴くままに頷いた。そこでようやく、お腹が空いていたことに気付く。
リビングのローテーブルには、すでに三人分のグラスと食器がセッティングされていた。これも姉が?視線で尋ねると姉も驚いたように目を瞠っていた。ということは、つまりーー
「試験ってクッソ疲れるよな。筋肉分解して脳みそにエネルギー送ってるから、運動してんのと変わんねえんだよ」
すでに用意していただろうサラダを冷蔵庫から取り出し、男がテーブルの真ん中に置く。そのまま姉の隣に腰を下ろすと、僕のグラスにペットボトルのお茶を、自分と姉のグラスには500mlの缶ビールをなみなみ注いだ。
「ほら、早く食おうぜ。俺も腹減った」
「何か言いくるめられてるような気もするけど。そうね。怜央、食べよ」
いただきます、と各々手を合わせ、まだ湯気が立ち上るビーフシチューを一口すする。ゴクリと飲み込む前にまた掬い、急かされてもいないのに間髪入れずまた口に運んだ。
「美味しい」と頬を緩める姉に「だろ?」と男が自慢げに口角を上げる。
確かに、美味しい。お店でビーフシチューを食べたことがないから比較できないけど、お店で出されても不自然じゃない位、美味しい。と思う。
もしかしなくても、姉ではなく男が作ったのだろうか。多分そうなんだろうけど、それを聞いて素直に美味しいと認めたくなくて、姉が僕の為に作ってくれたものだと言い聞かせるように、無言でひたすらかっ込んだ。
お腹が満たされると、荒んでいた心も凪いでくる。お腹の中が温かくなると、冷えて硬くなっていた身体が解されていく。
お皿をあっという間に空にし、グラスに注がれたお茶をぐびぐび飲んで一息つくと、得意げに笑う男と目が合った。認めたくはない。認めたくはないけど、ご馳走様くらいは言った方がいいだろう。常識的な人として、マナーとして。意を決して口を開こうとした時、男の言葉に遮られその先を飲み込んだ。
「やけにおとなしいじゃん。もしかして、手ごたえナシ?落ちた?」
「っ安田!!」
「あれ、その顔。もしかして図星?」
ド直球な男の言葉に慌てる姉と、カラカラと声を上げて笑う男。そんな男の態度に怒りを露わにする姉に、やはり楽しげに笑う男。目の前で繰り広げられる二人のやりとりを、僕は何も言えないまま、ぼんやりと眺めることしかできなかった。
男の言葉に怒りが湧いても不思議ではない。そんな訳ないだろと言い返してやりたいのに、何故かどんどん心が冷えていって、頭が動かない。
理由は簡単。男の言ったことは何も間違ってはいないから。
男の言う通り手ごたえなんてものは何もなく、多分、いや確実に落ちているだろうから。
冷えた心とは反対に、羞恥で顔がカーッと火照った。
「神成だってそう思ってんだろ?弟にそんなに気ぃ使って、バッカじゃねえの?見てるこっちがやりづれえよ」
「じゃあ見るな、帰れ、ていうか呼んでないし来るなって言ったじゃない!怜央、ごめん。こいつ本当に無神経で人としての心を持ってないどうしようもない奴なの。こいつの言うことは気にしちゃダメだからね。今すぐ追い出すから」
「えええ!お疲れの弟君の為に朝からコトコトビーフシチューを煮込んでやった俺にそんなこと言う!?お前こそ人としてどうな訳!?ありがとうご馳走様安田くんの作るご飯はいつも美味しくって私大好き、もちろん作ってくれる安田くんのことも♡くらい言えねえの?」
「……ばっ!バッカじゃないの!!?もう最悪!信じられない!」
急激に感情の波が込み上げて、グラスをダンとテーブルに叩きつけた。姉と男が会話を止め、驚いたように僕を見る。その視線を丸っと無視して、姉のグラスを奪い、勢いよくぐいっと呷った。ごくごくと一気にそれを飲み干し、また大きな音を立ててグラスを置く。
なんだよ、これ。全然美味くないじゃん。何でこんなものを大人は好き好んで飲んでいるんだ。
口の中に初めて経験する、何とも言えない苦味が広がり、自然と眉間に皺が寄った。
「……あんたのせいだ」
「は?」
「……あんたのせいで、ペースを乱されて。集中できなかった」
飲み込んだものが全て胃の中に入り、じんわりと浸透すると、胸から頭にかけて込み上げてくる《何か》を感じた。一瞬くらっときて、ぼやっと痺れて、じんわりと熱くなる。
そうだ。普段の僕だったら、できていたはずだった。あの問題も、あれも、どれも、これも。
なのに、できなかった。
どうしてか?
この男が姉の家にいたからだ。
姉と男の関係が気になって。男の気配が全面的に主張されている姉の部屋の居心地が悪くて。だから上手く寝れなくて、コンディションが整わなくて、試験に集中しきれなくて。その結果、僕本来の持っている実力が発揮されなかったんだ。
この男がいなければ、姉と前日を過ごすことでいつも以上の実力を発揮できるはずだった。この男がいなければ。ーー全部。全部、こいつのせいだ。
「それ本気で言ってんの?」
さっきよりも低い男の声に、反射で身体がすくんだ。恐る恐る顔を上げると、男は蔑んだ目を僕に向けていて、咄嗟にそれから逃げるようにまた視線を落とした。
「お前の実力のなさを俺のせいにして逃げんなよ」
しんと静まり返った部屋に、男の声だけが響く。
……逃げてなんか、逃げてなんかいない!!!僕は本当のことを言っただけだ、言い訳なんかじゃない!
そう、男の目を真正面から睨み返して言ってやりたかった。真っ向から男の言い分を否定してやりたかった。
でも、できなかった。できるはずかない。男の言っていることは、何一つ間違ってはいない。その通りなのだから。
だからと言ってそれを否定することも肯定することもできない。火照った顔がさらに熱を持ち、とてもじゃないが顔を上げられない。
姉は何も言わない。そのことがさらに、僕を追い立てる。
格好悪い、不甲斐ない、恥ずかしい、消えてしまいたい。
胸の底から大波が押し寄せ、嵩が増し、堪えきれずに、溢れて、流れる。
「あ!怜央!」
ヤケ糞気分でテーブルに置いてあったチューハイのプルトップを開け、グラスに注がないままグビッと呷る。ゴクリゴクリと大きく喉を上下させ、慣れない炭酸でむせそうになる一歩手前で口を離し、勢いよくテーブルに打ち付けた。
「……だって、だって!落ちたら皆に顔向けできない!」
顔を下げたまま、テーブルに向かって吐き出す。
「厳しいって言われてたのに、格好つけてワンランクどころかもっと上のランクの大学受けて。母さんには無理するなって言われたのに。父さんには滑り止めでもいいんだって言われたのに。虚勢張って、一本に絞って。大丈夫だって余裕ぶって。合格したら姉ちゃんと一緒に暮らすんだって、勝手に楽しみにして」
「……怜央」
「受かんないと、だめなんだ。散々みんなに、自信ある、絶対受かるって大口叩いておいて。これで落ちたら、いい笑い物だ。すっげえ、イタイじゃん。そんなの、恥ずかしすぎて死ねる……」
皆の期待に応えたかった。皆にすごいねって言われたかった。両親に自慢の息子だと、姉ちゃんに自慢の弟だと言われたかった。そう思って欲しかった。そういう自分を演じていた。
難関有名大学に滑り止めも受けず一本に絞って現役合格したスゴイ奴ーーそういう自分になりたかった。そう、周りに認識されたかったんだ。
重苦しい空気を一蹴するかのように、男がはあっと大きく息を吐いた。
「お前は落ちたら恥ずかしいって思われるような大学を受けたワケ?その大学に落ちた奴は、皆恥ずかしい奴な訳?恥ずかしく思う程度の努力しかしてこなかった訳?」
男の言葉にハッと顔を上げる。
「お前の言う格好いいって、何?」
笑っても怒っても呆れてもいない、温度のない男の瞳が、静かに僕を見据えていた。
僕の受けた大学は決して偏差値が低くない。むしろ偏差値も倍率も高く、受かる人数よりも落ちる割合の方が格段に多い。その大学に落ちたからと言って、後ろ指をさされることなんて絶対にない。むしろ、そこを受けてすごいねと言われるレベルだ。落ちた人が笑われるなんて、絶対ない。そんなことは、わかってる。
「……でも、僕は受かりたかった。受かって両親や姉ちゃんに喜んで欲しかった」
だからこそ、受かりたかったんだ。
「お前がいい大学に行ったら喜ぶんじゃなくて、お前が喜ぶ姿を見て、親御さんも神成も喜ぶんじゃねーの?会ったことねえから親は知らねーけど。神成はーー怜奈は、偏差値の高い大学に弟が受かったからって喜ぶようなやつじゃねえ」
「そんなのお前の方がよく知ってるだろが」そう吐き捨てるように言われ、さらに俯いた。
「……知ってる」
そうだ。そんなの、この男に言われなくても知ってる。家族なんだ。ずっと一緒に暮らしてきたんだ。こんな最近知り合ったような男よりも、僕の方が姉のことを知ってる。当たり前だ。
だからこそ、この男に言われてしまったことが、悔しい。それに、恥ずかしい。
「怜央!ちょっと、それくらいに!」
姉の制止を振り切って、二本目の缶チューハイを手にする。背中を反らせて勢いよく飲み込み、ぶはっと口を離した。
「あっはっはっはっ!いい飲みっぷりじゃん!いいぞいいぞ、もっと飲め!」
「安田!煽らないでよ!まだ未成年なのよ!」
「未成年っつったってもう十八だろ?ほぼ二十歳じゃん。つーか、俺も飲んでたし、律儀に守ってる奴なんて今時いる?」
「いるわよ、もちろん!あんたと一緒にしないで」
ぐるんぐるんと頭蓋骨の中で脳みそがゆっくり回っている。それに合わせて視界も揺れる。
「ぼ、僕は!もう子供じゃない!大学入って!勉強して!就職して!父さんや母さんに仕送りして、姉ちゃんにはプレゼントあげて!今度は僕が、皆んなにしてあげるんだ!」
「……怜央」
「おおー、優等生!息子にしたいナンバーワン!」
「なのに、スタートで躓いて。これで大学に落ちて浪人したら、一年余計に面倒かけちゃう。現役で受からなかったら、意味なんてないのに」
胸の内に抑えていたものが、勝手に溢れて流れていく。抑えられない。いや、抑えたくない。
「完璧主義者!理想が高いねえ」
「姉ちゃんみたいに、なりたくて。姉ちゃんみたいに、完璧を目指して。姉ちゃんを超えたくて、頑張ってきたのに。やっぱり僕にはできなかった。もう、やだ。全部投げ出して、初めからやり直したい」
ゲームみたいにセーブポイントがあればいいのに。そうしたらリセットしてもう一度できるのに。
そんなことできないって十分すぎるほど理解してるのに、失敗したらそんなことを考えちゃう自分が、格好悪すぎて、嫌いで、惨めすぎる。
僕はやっぱり格好悪い僕のままだ。
気付けば僕は何年振りか分からない涙を流していた。
だから、なんであんたがここにいるのよ」
「だから、なんで俺がいないと思ってるワケ?」
当然の顔をしている男と、呆れ混じりに息を吐く姉。姉は男の存在を予期していなかったようだが、僕はいるだろうな、と思っていたので特に驚きはしなかった。というか、いないはずがないだろう。
「ちょっと、今日もダメだって」
「言われたけど了承してませーん」
「っく、この馬鹿犬」
「躾のなってない犬の飼い主の顔が見てみたいって?」
「……っ!」
「……とりあえず、入っていい?」
エスカレートするだろう二人のじゃれ合いを遮る様に、間に入って部屋に上がる。頭も身体も心も全てが疲れすぎて、二人のやり取りにつっかかる気力も体力ない。とにかく座って一息つきたかった。
二次試験が終わった。
当初の予定通り、今日も姉の家に泊まって明日の昼頃の新幹線で家に帰る予定だ。
朝姉の家を出た時は、やり遂げた達成感、解放感に包まれ、後は結果を待つのみと明るい気持ちでこの家に帰ってくるだろうと思っていた。なのに、実際に終えた今僕の中を占めているのは全く別のもの。敗北感に近いやるせなさ、それに落ちたらどうしようという焦燥感だった。
駅に迎えに来てくれる姉の顔を見たら、それが和らぐと思っていた。だけど、むしろ姉の顔を見る度にそれらは大きくなって僕の胸を圧迫し、家に着いた今では呼吸するのさえ困難に感じる程だった。
「なに、この匂い」
一歩足を踏み入れた玄関兼キッチンには、食欲をそそられる良い香りが充満していた。自然、足が止まる。ガスコンロの上には一人暮らしの大学生には不相応の、おしゃれかつ実用的だと人気のえんじ色の無水鍋。姉が作ったのだろうか。
「ビーフシチュー」
声の方を振り返り、目が合う。多分昨日と同じ、だけど昨日ほど嫌だと感じないにやけ顔の男に、「食う?」と聞かれ、本能の赴くままに頷いた。そこでようやく、お腹が空いていたことに気付く。
リビングのローテーブルには、すでに三人分のグラスと食器がセッティングされていた。これも姉が?視線で尋ねると姉も驚いたように目を瞠っていた。ということは、つまりーー
「試験ってクッソ疲れるよな。筋肉分解して脳みそにエネルギー送ってるから、運動してんのと変わんねえんだよ」
すでに用意していただろうサラダを冷蔵庫から取り出し、男がテーブルの真ん中に置く。そのまま姉の隣に腰を下ろすと、僕のグラスにペットボトルのお茶を、自分と姉のグラスには500mlの缶ビールをなみなみ注いだ。
「ほら、早く食おうぜ。俺も腹減った」
「何か言いくるめられてるような気もするけど。そうね。怜央、食べよ」
いただきます、と各々手を合わせ、まだ湯気が立ち上るビーフシチューを一口すする。ゴクリと飲み込む前にまた掬い、急かされてもいないのに間髪入れずまた口に運んだ。
「美味しい」と頬を緩める姉に「だろ?」と男が自慢げに口角を上げる。
確かに、美味しい。お店でビーフシチューを食べたことがないから比較できないけど、お店で出されても不自然じゃない位、美味しい。と思う。
もしかしなくても、姉ではなく男が作ったのだろうか。多分そうなんだろうけど、それを聞いて素直に美味しいと認めたくなくて、姉が僕の為に作ってくれたものだと言い聞かせるように、無言でひたすらかっ込んだ。
お腹が満たされると、荒んでいた心も凪いでくる。お腹の中が温かくなると、冷えて硬くなっていた身体が解されていく。
お皿をあっという間に空にし、グラスに注がれたお茶をぐびぐび飲んで一息つくと、得意げに笑う男と目が合った。認めたくはない。認めたくはないけど、ご馳走様くらいは言った方がいいだろう。常識的な人として、マナーとして。意を決して口を開こうとした時、男の言葉に遮られその先を飲み込んだ。
「やけにおとなしいじゃん。もしかして、手ごたえナシ?落ちた?」
「っ安田!!」
「あれ、その顔。もしかして図星?」
ド直球な男の言葉に慌てる姉と、カラカラと声を上げて笑う男。そんな男の態度に怒りを露わにする姉に、やはり楽しげに笑う男。目の前で繰り広げられる二人のやりとりを、僕は何も言えないまま、ぼんやりと眺めることしかできなかった。
男の言葉に怒りが湧いても不思議ではない。そんな訳ないだろと言い返してやりたいのに、何故かどんどん心が冷えていって、頭が動かない。
理由は簡単。男の言ったことは何も間違ってはいないから。
男の言う通り手ごたえなんてものは何もなく、多分、いや確実に落ちているだろうから。
冷えた心とは反対に、羞恥で顔がカーッと火照った。
「神成だってそう思ってんだろ?弟にそんなに気ぃ使って、バッカじゃねえの?見てるこっちがやりづれえよ」
「じゃあ見るな、帰れ、ていうか呼んでないし来るなって言ったじゃない!怜央、ごめん。こいつ本当に無神経で人としての心を持ってないどうしようもない奴なの。こいつの言うことは気にしちゃダメだからね。今すぐ追い出すから」
「えええ!お疲れの弟君の為に朝からコトコトビーフシチューを煮込んでやった俺にそんなこと言う!?お前こそ人としてどうな訳!?ありがとうご馳走様安田くんの作るご飯はいつも美味しくって私大好き、もちろん作ってくれる安田くんのことも♡くらい言えねえの?」
「……ばっ!バッカじゃないの!!?もう最悪!信じられない!」
急激に感情の波が込み上げて、グラスをダンとテーブルに叩きつけた。姉と男が会話を止め、驚いたように僕を見る。その視線を丸っと無視して、姉のグラスを奪い、勢いよくぐいっと呷った。ごくごくと一気にそれを飲み干し、また大きな音を立ててグラスを置く。
なんだよ、これ。全然美味くないじゃん。何でこんなものを大人は好き好んで飲んでいるんだ。
口の中に初めて経験する、何とも言えない苦味が広がり、自然と眉間に皺が寄った。
「……あんたのせいだ」
「は?」
「……あんたのせいで、ペースを乱されて。集中できなかった」
飲み込んだものが全て胃の中に入り、じんわりと浸透すると、胸から頭にかけて込み上げてくる《何か》を感じた。一瞬くらっときて、ぼやっと痺れて、じんわりと熱くなる。
そうだ。普段の僕だったら、できていたはずだった。あの問題も、あれも、どれも、これも。
なのに、できなかった。
どうしてか?
この男が姉の家にいたからだ。
姉と男の関係が気になって。男の気配が全面的に主張されている姉の部屋の居心地が悪くて。だから上手く寝れなくて、コンディションが整わなくて、試験に集中しきれなくて。その結果、僕本来の持っている実力が発揮されなかったんだ。
この男がいなければ、姉と前日を過ごすことでいつも以上の実力を発揮できるはずだった。この男がいなければ。ーー全部。全部、こいつのせいだ。
「それ本気で言ってんの?」
さっきよりも低い男の声に、反射で身体がすくんだ。恐る恐る顔を上げると、男は蔑んだ目を僕に向けていて、咄嗟にそれから逃げるようにまた視線を落とした。
「お前の実力のなさを俺のせいにして逃げんなよ」
しんと静まり返った部屋に、男の声だけが響く。
……逃げてなんか、逃げてなんかいない!!!僕は本当のことを言っただけだ、言い訳なんかじゃない!
そう、男の目を真正面から睨み返して言ってやりたかった。真っ向から男の言い分を否定してやりたかった。
でも、できなかった。できるはずかない。男の言っていることは、何一つ間違ってはいない。その通りなのだから。
だからと言ってそれを否定することも肯定することもできない。火照った顔がさらに熱を持ち、とてもじゃないが顔を上げられない。
姉は何も言わない。そのことがさらに、僕を追い立てる。
格好悪い、不甲斐ない、恥ずかしい、消えてしまいたい。
胸の底から大波が押し寄せ、嵩が増し、堪えきれずに、溢れて、流れる。
「あ!怜央!」
ヤケ糞気分でテーブルに置いてあったチューハイのプルトップを開け、グラスに注がないままグビッと呷る。ゴクリゴクリと大きく喉を上下させ、慣れない炭酸でむせそうになる一歩手前で口を離し、勢いよくテーブルに打ち付けた。
「……だって、だって!落ちたら皆に顔向けできない!」
顔を下げたまま、テーブルに向かって吐き出す。
「厳しいって言われてたのに、格好つけてワンランクどころかもっと上のランクの大学受けて。母さんには無理するなって言われたのに。父さんには滑り止めでもいいんだって言われたのに。虚勢張って、一本に絞って。大丈夫だって余裕ぶって。合格したら姉ちゃんと一緒に暮らすんだって、勝手に楽しみにして」
「……怜央」
「受かんないと、だめなんだ。散々みんなに、自信ある、絶対受かるって大口叩いておいて。これで落ちたら、いい笑い物だ。すっげえ、イタイじゃん。そんなの、恥ずかしすぎて死ねる……」
皆の期待に応えたかった。皆にすごいねって言われたかった。両親に自慢の息子だと、姉ちゃんに自慢の弟だと言われたかった。そう思って欲しかった。そういう自分を演じていた。
難関有名大学に滑り止めも受けず一本に絞って現役合格したスゴイ奴ーーそういう自分になりたかった。そう、周りに認識されたかったんだ。
重苦しい空気を一蹴するかのように、男がはあっと大きく息を吐いた。
「お前は落ちたら恥ずかしいって思われるような大学を受けたワケ?その大学に落ちた奴は、皆恥ずかしい奴な訳?恥ずかしく思う程度の努力しかしてこなかった訳?」
男の言葉にハッと顔を上げる。
「お前の言う格好いいって、何?」
笑っても怒っても呆れてもいない、温度のない男の瞳が、静かに僕を見据えていた。
僕の受けた大学は決して偏差値が低くない。むしろ偏差値も倍率も高く、受かる人数よりも落ちる割合の方が格段に多い。その大学に落ちたからと言って、後ろ指をさされることなんて絶対にない。むしろ、そこを受けてすごいねと言われるレベルだ。落ちた人が笑われるなんて、絶対ない。そんなことは、わかってる。
「……でも、僕は受かりたかった。受かって両親や姉ちゃんに喜んで欲しかった」
だからこそ、受かりたかったんだ。
「お前がいい大学に行ったら喜ぶんじゃなくて、お前が喜ぶ姿を見て、親御さんも神成も喜ぶんじゃねーの?会ったことねえから親は知らねーけど。神成はーー怜奈は、偏差値の高い大学に弟が受かったからって喜ぶようなやつじゃねえ」
「そんなのお前の方がよく知ってるだろが」そう吐き捨てるように言われ、さらに俯いた。
「……知ってる」
そうだ。そんなの、この男に言われなくても知ってる。家族なんだ。ずっと一緒に暮らしてきたんだ。こんな最近知り合ったような男よりも、僕の方が姉のことを知ってる。当たり前だ。
だからこそ、この男に言われてしまったことが、悔しい。それに、恥ずかしい。
「怜央!ちょっと、それくらいに!」
姉の制止を振り切って、二本目の缶チューハイを手にする。背中を反らせて勢いよく飲み込み、ぶはっと口を離した。
「あっはっはっはっ!いい飲みっぷりじゃん!いいぞいいぞ、もっと飲め!」
「安田!煽らないでよ!まだ未成年なのよ!」
「未成年っつったってもう十八だろ?ほぼ二十歳じゃん。つーか、俺も飲んでたし、律儀に守ってる奴なんて今時いる?」
「いるわよ、もちろん!あんたと一緒にしないで」
ぐるんぐるんと頭蓋骨の中で脳みそがゆっくり回っている。それに合わせて視界も揺れる。
「ぼ、僕は!もう子供じゃない!大学入って!勉強して!就職して!父さんや母さんに仕送りして、姉ちゃんにはプレゼントあげて!今度は僕が、皆んなにしてあげるんだ!」
「……怜央」
「おおー、優等生!息子にしたいナンバーワン!」
「なのに、スタートで躓いて。これで大学に落ちて浪人したら、一年余計に面倒かけちゃう。現役で受からなかったら、意味なんてないのに」
胸の内に抑えていたものが、勝手に溢れて流れていく。抑えられない。いや、抑えたくない。
「完璧主義者!理想が高いねえ」
「姉ちゃんみたいに、なりたくて。姉ちゃんみたいに、完璧を目指して。姉ちゃんを超えたくて、頑張ってきたのに。やっぱり僕にはできなかった。もう、やだ。全部投げ出して、初めからやり直したい」
ゲームみたいにセーブポイントがあればいいのに。そうしたらリセットしてもう一度できるのに。
そんなことできないって十分すぎるほど理解してるのに、失敗したらそんなことを考えちゃう自分が、格好悪すぎて、嫌いで、惨めすぎる。
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気付けば僕は何年振りか分からない涙を流していた。
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