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その後・番外編

理想と現実と妄想と願望(1)

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「え?」

「お前、誰?」

 開いたドアの先に立っていたのは予想していた人物ではなく、見たこともない、いやに顔の整った若い男だった。

「あ、スイマセン。間違えました」

 咄嗟に頭を下げ一歩下がると、男は面倒臭そうな顔をしたまま、バタンとドアを閉めた。
 閉められたドアの隣に掲示された部屋番号を確かめる。やっぱり『301』で間違いない。もしかしてアパート自体を間違えてしまったんだろうか。そんな致命的なミスを犯した自分が恥ずかしくなって、慌ててその場を離れようとすると、ちょうど後ろにあるエレベーターのドアが開いた。

「あ」

怜央れお、もう来てたんだ」

 そこに会いに来た目的の人物を確認し、胸をなでおろした。

「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった。待った?寒かったでしょ」

 少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せた姉が、小走りで駆け寄ってくる。そのままカバンから部屋の鍵を取り出し、さっき間違えてインターホンを押した部屋の前に立つので、「あ、そこは」と止めようとするも、姉は不思議そうな顔をしたまま鍵穴に鍵を差し込んだ。

「あれ、あいてる」

 姉がそう呟いたと同時に、ガチャリと部屋の扉が内側から開いた。

「あ、なんだ。神成か」

「……安田。あんた何でうちに」

「さっき変な男が来たから、また来たんかと思ったら、って。そいつ」

 出てきたのはやはりさっきの男。しかし、ここは姉の部屋で間違いないようだ。そして、どうやらこの男とは顔見知りらしい。
 男に訝し気な視線を向けられ、反射で頭を少しだけ下げる。そんな男の視線から隠す様に姉が僕の前に立った。

「今日は来るなって言ったでしょ。早く帰って」

「来るなとは言われたけど了承はしてない。何そいつ。知り合い?そいつ連れ込むために俺を追い出すわけ?」

「連れ込むって。変な言い方やめて。弟よ」

「……弟の怜央です」

 姉の隣に出て一言だけ自己紹介すると、男は一瞬目を瞠り、すぐに細めて「ふーん」と言った。

「まあここではなんだから、入れば?」

「なんであんたが言うのよ。ていうか帰れ」

「あ、そうやってまた俺を追い出そうとする。やっぱ怪しいな。弟とか嘘ついてんじゃねーの。とりあえず中で話そうぜ」

「だからあんたは帰れって」

 姉の辛辣な物言いに全く怯むことなく、というか話を聞くこともなく、男は姉の手を引いて部屋に入れた。お前も早く入ればと目線だけで言われ、腑に落ちないまま僕も後に続いて中に入る。

「ごめん、怜央。すぐに追い出すから。荷物そこらへんに置いて、楽にして。疲れたでしょ、何か飲む?」

「あ、うん。ありがと」

 姉に言われた通り、旅行用のボストンバッグとリュックサックを降ろし、適当に座る。確かに一人で慣れない新幹線に乗り、慣れない場所を歩いて、肉体的にも精神的にも疲れていた。姉はさっさと廊下兼キッチンへ行ってしまい、部屋に男と二人残される。自然口を閉じ、男から視線を逸らす様にガラスの向こう側を見るでもなく見た。

「弟、ねえ。確かに似てるか」

 不躾にジロジロと見られ、一気に不快になる。抗議を込めて睨み返すと、男は面白いものをみたとばかりに目を輝かせ、ニヤリと笑った。

「ああ、弟だな。間違いなく」

「あの、あなたは」

「安田さん、って呼んでいーよ」

「違くて……あんた、姉のなんなんですか?」

 安田と名乗った男は何が楽しいのか分からないが、さっきからずっと笑いを堪えているかのように目を三日月型に細めている。その、人をおちょくったような態度がなんだか無性に癇に障る。

「さあ、なんだと思う?」

 質問を質問で返された。
 顔を合わせた時から感じてはいたが、今はっきりと確信した。この男とは合わない。ていうか、嫌いなタイプだ。

 男と姉が知り合いであることは確かだろう。そして、おそらく単なる知り合いではない。姉はこの男が自分の家にいることに驚いてはいたが、何ら疑問を感じていなかったように見えた。つまり、しょっちゅうここに来ているということだ。
 それに、この男に対する姉の態度。気負ってない、むしろ気を許した相手だからこその口振りに、一つの可能性が頭をよぎる。いや、普通に考えてそれしか思いつかないのだけど、それを素直に認めたくなくて必死に他の可能性を考える。

 あの姉に限って、そんなはずはない。あの姉が、こんな男を選ぶなんてことあり得ない。
 そう言ってやりたいのに結局何も言えず、抗議の視線を送ることしかできない。男はそんな僕の心情を全て見透かしているかのように、相変わらずニヤニヤと目を細めている。あからさまに喧嘩腰の僕の視線から逃れることなく、真正面から受け止めて。その余裕綽々な態度がさらに僕の神経を逆なでする。

「おまたせ、怜央。はい、これ」

 カップを二つ手にした姉がリビングに戻ってきて、そのうちの一つを手渡された。僕の好きな、甘さ控えめだろうココアの香りがして、知らないうちに張っていた気が少しだけ緩んだ。

「えー、こいつのだけ?俺のは?」

「こいつ、じゃなくて怜央。あんたは早く帰れって言ったでしょ」

「あんた、じゃなくて俺もいつもみたいに呼べよ。てか、何この荷物。もしかしてこいつ今日ここに泊まるつもり?」

「そうだけど」

 当然、という表情の姉に、男はニヤケた笑みを消し顔をしかめた。

「はあ?本気で言ってんの?年頃の男女がこんな狭いワンルームで一晩過ごすとか、意味わかってんの?」

「狭くて悪かったわね。変な言い方止めて。兄弟なんだから一緒の部屋で寝て何が悪いのよ」

「おいおい、そっちこそ本気か?例え兄弟だろうと男と女なんだぞ?まさか一緒のベッドで寝るつもりじゃねーだろな?」

 姉が毛足の跳ねた赤茶色い頭を、バシンと叩く。

「そんなことあるわけないでしょが!ちゃんと布団敷くわよ。もう、うるさい。早く帰って」

「いや、尚更帰れねーだろ。男と二人きりとか。つーか何?こいつ何しに来たの?」

 不機嫌そうに顎でしゃくられ、腑に落ちないと思いつつ「それは」と姉の部屋を訪れた経緯を説明する。

 明日は第一志望の大学の二次試験があり、同じ都内にある姉の家に前泊することにしたのだ。大学最寄りのビジネスホテルの方が色々と都合がいいのだが、どうせ今更勉強しても変わらないのだし、だったら一人で緊張の中物寂しく過ごすよりも、久しぶりに姉と一緒に過ごしリラックスして次の日に備えたいと思ったのだ。両親も、もちろん姉も、僕の提案に二つ返事で了承してくれた。僕も久し振りに姉と会えると、試験前日ながらも楽しみにしていたのだ。
 今夜は姉と近況報告を交えつつ何でもない話をして心を落ち着け、でも適度な緊張感を保ちつつ過ごし、明日万全のコンディションで挑もうと思っていた。
 だというのにーー

 男は僕の話を聞き終えると、どこかつまらなそうに「ふーん」と言った。自分から聞いてきたくせにその程度の反応とか。やはり、この男を好きになれそうもない。

「という訳だから、あんたは帰って」

「ええー、マジ?」

 姉が隣に座る男の肩をぐいぐい押すと、男がそれに合わせて身体を大きく揺らした。男は不服そうに口を尖らせながらも、その顔にさっきほどの不快さは見られない。どちらかと言うと、楽しそうにも見える。姉も姉で、きつい言い方の割に本気で邪険にしているような様子はない。
 なんだよ、これ。目の前で二人がじゃれついているようにしか見えず、胃の中がムカムカして気持ち悪い。
 男はもちろんだが姉の仕草一つ一つが、なんだかものすごく。--すごく、嫌だ。

「なあ、さっき弟に俺はお前のなんなのか聞かれたんだけど、何て言えばいい?」

 男が肩を押していた姉の手首を掴み、反対に引き寄せた。二人はピタリと動きを止め、自然、至近距離で顔を見合わせる形となる。
 揶揄うような、試す様な男の口調に、姉は不快さを露わにするどころか若干頬を染め、パクパクと小さく口を動かした。

「な、何って!そんなの」

「そんなの?」

「だから、それは」

 モゴモゴと言いづらそうにする姉に代わって、「付き合ってるの?」と口にすると、姉は更に顔を赤くした。

「つー」

「つ?」

「……つ、付き合ってないわよ!もう!早く帰れって言ってるでしょ!バカ!」

 姉が大きな声を出して勢いよく立ち上がり、胡坐をかいていた男の腕を強引に引っ張り上げる。そのまま男の手を引いて、ズンズンと部屋の外へと連れ出していった。ドアから出る瞬間、男と目が合う。その目はもう弧を描いてはおらず、僕に向かって威嚇する様にすっと細められていた。ゾゾッと嫌な震えが腰から背中に走る。

 バタンと大きな音を立ててドアが閉められ、一人残される。ドクンドクンと、身体の内側から鳴り響く鼓動がうるさくて仕方ない。
 ドアの向こうでは姉と男の話し声が聞こえる。が、内容は聞き取れそうもない。さっきの男の顔ーー終始見せていたふざけたヘラヘラ顔じゃない、それとは正反対の、感情の一切を捨てたかのような男の顔が、頭に張り付いて離れない。
 モヤモヤ居心地悪く思っていると、しばらくして玄関戸が開閉する音がし、姉がリビングに戻ってきた。そこにいたのが姉が一人で、酷くホッとする。

「……あの人は?」

「帰った。本当、ごめんね」

「違くて。姉ちゃんの何なの?」

 男がいなくなり安堵すると、その反動かのようにイライラが込み上げてきた。それを押さえつけ隠すどころか、むしろ姉にぶつける様に問う。

「う、それは」

「彼氏?」

「彼氏じゃないけど」

「じゃあ、なんなの?」

 彼氏じゃない?さっきの光景を見せられて、彼氏じゃないって?
 初対面の弟に敵意むき出しにして、目の前でイチャイチャしている所を見せつけられて、姉のあんな顔を見せつけられて。姉の彼氏じゃないというなら、あの男は一体姉のなんだというのだ。
 イライラが止まらない。吐き気がする。
 言うまで許さないと視線に込めてじっと見つめていると、根負けしたように姉が小さく息を吐いた。
 
「……だから、私の……好きな人」

 頬をほんのりと染め、目を伏せ、唇を尖らせ。自信なさげに、恥じらいながら、それでもどこか嬉しそうに、姉がポツリとこぼした。

「……なに、それ」

 彼氏だと言われた方がまだマシだったと、言われてから気付く。
 なんだかすごく、後味が悪い。食べて飲み込んだ後もずっと口の中に居座っている、僕の苦手なハーブを食べた時のようだ。
 好きな人だけど、彼氏ではない。そんな男が姉の家に我が物顔で出入りしているという事実。そんなあやふやなことを姉が許しているという事実。僕の知らない、女の顔をする姉。姉にそんな顔をさせる男の存在。姉と男の、関係。
 どれか一つではなく、その全てが、気に食わない。口だけでなく胸の中にも、ハーブの香りが充満している。

「そ、それより!怜央、お腹空いてない?夕ご飯食べよ。で、温かいお風呂にゆっくり浸かって早く寝る。明日に備えないとね」

 姉が強引に話を打ち切り、わざとらしく声を明るくした。全然納得していないが、なんかもうこれ以上聞く気力は湧かず、いやもうこれ以上知りたくなくて、僕も何も言わなかった。

 そうだ。明日は僕にとって、絶対に失敗することのできない大一番の日だ。
 第一志望の国立大学。もう少し偏差値の低い他の大学なら、余裕で入れただろう。だけど、僕は都内の難関国立大学に現役で合格したかった。自分のため、両親のため、姉のため。
 明日次第で、これからの僕の未来が大きく決まる。明日のために、今まで必死になって頑張ってきたんだ。
 さっき初めて会っただけの男に振り回されてはいけない。男のことも、姉のことも、些末なことと割り切って、明日のことだけに集中するんだ。


 ーーそう必死に言い聞かせるも、姉の部屋の至る所に当たり前の様に存在する男の痕跡が、僕の心をいつまでも落ち着かなくさせるのだった。


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