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オサム

可哀想なのは誰なのか(7)

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 のろのろと身体を起こし、重い足を引きずる様に食堂を後にした。

 頭の中ではさっきまでの出来事が、ぐるぐると流れている。

『あんたは私の所有物モノなんだから。私のモノをどうしようが私の勝手でしょ』

 そうはっきりと言い放った神成さんは、ものすごく格好良かった。
 意思の強い瞳はキラキラと輝いていて、その堂々とした立ち振る舞いにその場の皆が圧倒された。
 いや、安田くん以外の皆、か。
 自信を全身に纏った神成さんの肩を平然と抱く安田くんを見ても、もはや嫉妬心は湧いてこなかった。
 完全なる敗北。ううん、勝負にすらなっていないのだから、敗北でもない。
 ただ一方的に、完膚なきまでに打ちのめされただけじゃないか。

 落ち込んで弱気になっている神成さんを見て、またしても僕は勘違いしてしまったんだ。
 こんな僕でも神成さんの支えになれると。神成さんの隣に立てると。
 でも吹っ切れた神成さんは、以前の神成さんよりもさらに眩しくって、とてもじゃないけど手なんか伸ばせなかった。
 悔しいとも惨めだとも思わず、ただただ、納得した。

 悲しくもない。虚しくもない。もちろん嬉しくもない。
 マイナスでもプラスでもなく、ゼロ。心の中がぽっかりと抜け落ちて、感情というものが何にもなくなったようだった。

 とぼとぼと目的もなく、ひたすらに、闇雲に、ただ歩いた。
 どれくらい歩いただろうか。

「オサムくん」

 名前を呼ばれ、足を止める。確認しなくても、誰かなんてすぐにわかった。

「どうしたの?そっちは何もないよー、オサムくんの家はこっちだよ?」

 重い頭をのっそり上げると、そこには予想通りナミちゃんがいた。いつもの可愛い笑みを浮かべている。鼻の奥がツンとした。

 辺りを見渡すと、確かに見覚えのない場所だった。五年もこの大学に通って多分初めて来た、誰も来ないような大学の敷地の端の端。このまま進めば、鬱蒼と生い茂る雑木林に足を踏み入れるだろう。
 今のこの状況が、僕の心の内とやけにリンクして、まるでデジャヴだ。
 誰の目にも入らない、誰にも必要とされない僕を、唯一見つけてくれた人。
 視界に映るナミちゃんが、涙でぼやける。

 未だ優しく微笑んでるだろう彼女に衝動的に甘えたくなる。縋って、抱きしめて、抱きしめ返されて、傷を癒してほしい。いつものように、いい子いい子と頭を撫でてほしい。

 次々に湧き上がるナミちゃんへの想いがうっかりこぼれ出ないよう、僕はきつく口を引き結んだ。
 ここでそれをしたら、それこそ僕は最低だ。キモくて冴えなくて地味で、しかも最低最悪のクズ野郎になり下がってしまう。
 そんな奴になりたくなかった。


 ーーそして、一刻も早くこんな最低な僕から、ナミちゃんを解放してあげたかった。

「……ナミちゃん、話があるんだけど」苦い気持ちを堪え重々しく口を開くと、間を空けず「なあに?」と笑顔で返された。僕とは反対にナミちゃんの声は、今にも歌い出しそうなほどに弾んでいる。多分、いや絶対。これから僕が切り出す話の内容なんて、これっぽっちも予想してない。
 突然別れ話を切り出されたら、彼女はどう思うだろうか。
 それを考えると、罪悪感で胸が押し潰されそうになる。

「いい話?悪い話?重い話?長い話?何でも聞くよー、でも、とりあえずおうち行こ。すっかり寒くなってやんなるよね。これからもっと寒くなるとか信じらんない。あ、そーだ!こたつ買っちゃう?やっぱ冬はこたつとお鍋だよね。それに、猫とみかんも加えれば完璧」

「いや、家は、ちょっと」

「早くー早くー。寒いから手つなご!」

「ほら」と無邪気に伸ばされた手を、「ナミちゃん!」と声を荒げて咄嗟に拒んだ。

 さすがに僕の様子が普段と違うことに気付いたのだろう。ナミちゃんがびくりと肩を震わせた。
 二人の間を、すっかり冷たくなった風が通り抜けていく。ナミちゃんの目を真正面から見つめ返すことができず、宙に浮いたままの手に視線を移した。
 僕よりも小さくて細い、可愛いナミちゃんの手。だけど僕を丸ごと包んでくれる、温かくて大きな手。

「……ごめん。もう、終わりにしたいんだ」

「ん?何を?」

「……実はさっき、神成さんに告白した」

「…………そうなの?」

 弾むような声から一転、ナミちゃんの声が明らかに低く、咎めるようなものに変わった。
 一気に空気が張り詰め、息苦しさを覚える。そして、鈍い胸の痛みも。
 ナミちゃんを傷つけたのは自分なのに、僕が傷つくなんてこと、絶対だめだ。覚悟を決め、ぎゅっと力一杯手を握りしめた。

「うん、ごめん。だからもうー」
「で?神成さんはなんだって?」

「……それは」

「オサムくんと付き合うって言った?」

 ナミちゃんの問いかけに、緩く首を横に振る。

「……いや。多分、安田くんと付き合うんだと思う。明確に言ってはなかったけー」「そう!!」

「あーよかった!!神成さんがオサムくんを選んだらどうしようかと思ってたんだ!もう、安田さんがしっかり捕まえてないから、私までハラハラしたよ。でも間に合ったみたいで安心した。じゃあ、帰ろっか」

 さっきまでの深刻な面持ちから一転、ナミちゃんが大きな溜息と共に破顔した。

「え、いや。だから……僕は神成さんにー」
「知ってたよ」

「……え?」

「神成さんのこと、好きなんだよね?」

 責めるわけでもなく、悲しむわけでもなく、そう『確認』された。

 オムライスにはケチャップよりもデミグラスソースが好きだよね?
 部屋の鍵って玄関に置いてあるよね?

 そうアフレコしても違和感ない言い方だった。むしろ、そっちの方が余程しっくりくる。さっきの言葉だけが異質で、それ以外はどこからどこまでも普段のナミちゃんそのものだ。
 そのことがさらに僕を混乱させた。

「初めて見た時から知ってたよ。ていうか、知らないのって当人同士だけで、オサムくんが誰を好きかなんて見ててバレバレだったし。神成さんもオサムくんも鈍すぎるにも程があるでしょ。こっちとしては助かったんだけどね。でも、ようやく自分の気持ちに気付いたんだ。良かったね、オサムくん!」

「……ナミちゃん、何言って……」

「だからね、何も問題はないの。さ、早く帰ろ!暗くなってきたよー」

 今度は拒む前にしっかりと手を取られ、すかさず指と指を絡められる。

「ーちょ、ちょっと待って!……ナミちゃん、自分が何を言ったか、意味分かってる?僕が神成さんを好きでいて、問題がない訳ないでしょ。さっき言った通り、僕はもうナミちゃんとは一緒にはいられないんだ。そんな資格、僕にはない。急にこんなこと言われて、ナミちゃんも混乱するよね。でも……本当に、ごめん」

「……オサムくん、私と別れたいの?」

 別れたくはない。別れたいはずがない!--だけど別れなくてはいけない。
 振り絞るように「……うん」と肯定すると、繋いだ手をきつく握られた。ナミちゃんの綺麗に伸ばされた爪が食い込んで、ちょっと痛い。

「オサムくん、私のこと、嫌い?」

「そんな訳、ないよ」

「じゃあ、好き?」

 そう聞かれて「……うん」と答えた。嘘をつくことで、これ以上彼女を裏切りたくなかった。

「私も好き!ね、問題ないでしょ!」

 子供の様に声を弾ませて、彼女がまたニコッと笑う。
 開いた口が塞がらない。
 少しだけ頬を染め可愛い笑みを浮かべるナミちゃんが、全くの別人に見える。ナミちゃんの様で、僕の知っているナミちゃんでは決してない。

 問題ありまくりじゃないか。付き合ってる彼氏が他の女の子に好意を寄せて、告白したのだ。どうして問題なく付き合い続けることができるというのか。
 ナミちゃんの言ってる意味が、考えてることが全然分からなくて、軽い頭痛と目眩に襲われた。

「まあ、私のこと嫌いっていっても、もう遅いから」

「……え?」

「オサムくんが神成さんを好きでいても、私のことを嫌いだとしても、それはいいの。人の気持ちは縛れないから。でもね、別れるのだけは絶対だめ」

 ナミちゃんは笑みを浮かべながら、それでいて笑っていなかった。目が、怖い。まるで猛禽類の目だ。僕のことを真っすぐに射抜く視線の冷ややかさに、思わず身震いした。

「心の中で思ってるだけなら全然いいの。そもそも、神成さんを好きなオサムくんを好きになった訳だし。でもね、オサムくんが私以外の女と付き合って、手を繋いで、キスをして、セックスしてとか。絶対だめ、断固拒否。許さない。末代まで祟ってやる。ていうか切り落とす」

「……でも」

「神成さんのこと好きだから私と別れたいの?私と別れて神成さんと付き合いたいの?安田さんから神成さんを奪いたいの?」

「そういう訳じゃ、ないよ。ただ、神成さんのことを好きで、ナミちゃんのことも好きでなんて。そんなの良くないよ」

 それは浮気と何も違わない。とてもじゃないけど、そんな男を誠実だなんて言えない。

「だから、いいんだって!私がいいって言ってるんだから、それでいいじゃん。何が問題なの?何が嫌なの?」

「反対に、どうしてナミちゃんはそれでいいって言えるの?僕が他の人を好きでいて、嫌じゃないの!?」

 嫌じゃないということは、つまりナミちゃんは僕のこと、好きじゃないってことじゃないか。
 泣く資格なんて僕にはないのに、思わず泣きたくなった。

「神成さんと、ううん他のどの子とも、オサムくんが付き合うのは嫌。しゃべってほしくもないし触るなんてもっての他。オサムくんの身体はね、もう私のモノなの。誰にもあげない。ちなみに、オサムくんの未来もね。でもさ、束縛が強すぎて逃げられちゃ困るから、オサムくんの気持ちまでは強制しないの。ほら、私って優しいでしょ?だから、オサムくんが私に対して罪悪感を抱くことなんて何もないんだよ。私の方がよっぽど酷いことしてる自覚あるから」

「でも……やっぱり」

 それでも渋る僕に、ナミちゃんはとうとう大きな溜息を吐いた。

「……はあ、面倒くさ。ねえ、まだ別れたいとかいうの?何がそんなに納得いかないの?オサムくんが私を好きで、私もオサムくんが好きで。それでよくない?そういうオサムくんの真面目で頑なで童貞臭い考え方嫌いじゃないけど。むしろ超好きで、好きすぎて私の性癖ぐりぐり刺激してくるけど。でも、いい加減折れてくんないかな?オサムくんがどう思おうと、どんなに嫌がろうと、絶対別れない。これは願望でも妥協でもなく、不変的事実なの!分かった?」

 早口で捲し立てられたナミちゃんの言葉が、全然脳みそに吸収されていかない。消化不良を起こして耳の中で停滞しているような、そんな胃もたれに近い不快感を覚える。
 ナミちゃんの言葉の全ては理解できなかったけど、とりあえず怒っていることは分かった。そしてとてつもなくイライラしている。ついにはナミちゃんの代名詞ともいえる可愛らしい笑みを消し、咎めるように長く息を吐いた。

「そこまで言うなら仕方ないよね。やっぱり身体に教え込むしかないのかあ」

「……え?今、何て」

 混乱したままの僕と目を合わせて、ナミちゃんがまたニコリと笑う。
 その笑みは、いつも行為の最中に見せるものとよく似ていた。ナミちゃんがフェラをする時、そして僕の上に跨って腰を振る時に見せる、どうしようもなく挑発的で妖艶な笑みに。それを想像した瞬間、反射で全身がカッと火照った。

「ほら、帰ろ」とナミちゃんが僕の手を嬉しそうに引く。僕はそんなナミちゃんに、とてもじゃないけど、抵抗することなんてできなかった。

 今僕の手を握っているのは、本当にナミちゃん……?
 目に映る現実が信じられなくて、さらに頭が混乱した。ぐるぐるのぐちゃぐちゃだ。
 そもそも、これは現実か?僕は限りなくリアルな夢でもみているんじゃないのか?

 ーーだって。

 ナミちゃんの背中に、あるはずのない黒い羽がはっきりと見えたんだ。


【次話はナミちゃんによるお仕置きエッチとなります。拘束、アナル、腐女子を連想させる部分がありますので、苦手な方は飛ばしてください。】

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