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神成

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 もう遅い。今更もう戻れない。
 もう、オサムのことを好きだった私じゃない。罪悪感にも似た苦い思いがこみ上げてくる。

「ごめん、急にこんなこと言われても困るよね。しかもこんな場所で。何か騒がしくなってきたし、場所変えよう?神成さん帰るなら送ってくけど、この後の予定は?」

 オサムに言われ、いつの間にか周りの席が埋まっていることに気が付いた。後ろのテーブルにいる男子グループはちょっと迷惑なくらいに大きな声で騒いでいて、確かにこれ以上ここでするような会話じゃないなと思った。オサムへの答えはもうしっかりと出てしまったのに、オサムにこれ以上甘えるのは忍びない。断り文句として、このまま研究室に戻るつもりだと口を開きかけた時、後ろから聞こえてきた声に私は固まった。

「遅せーぞ安田ー。どこ行ってたんだよ。こっちこっち!!」

 後ろのテーブルに陣取った男子学生の一際大きな声に、私の身体がビクッと跳ねた。
 私越しに出入り口へと目を向けたオサムが「あ」と声を漏らしたことで、彼の言った『安田』が私の知る『安田』であることがわかった。

 ーー何でいつも、この男は最悪なタイミングで現れるのか。
 頭を抱えたくなるような、胸を押さえたくなるような。何とも言えない複雑な気持ちが胸を占める。

 この場から逃げ出したくても、私の身体は石のように固まったままピクリとも動かない。どうか見つかりませんようにと心の中で何度も繰り返し、無意識の内に背中を丸めて俯いた。

「悪い悪い、ちょっと捕まってて抜けらんなかった」

 ガラっと椅子を引く音が聞こえ、よりにもよって私のすぐ後ろに安田と思しき人物が席についた。私だと分かっていて、敢えてそこに座ったのか。それとも全く気付いていないのか。オサムがいる時点で私だとバレていそうなものだけど、とてもじゃないが後ろを見ることなんて出来そうもない。

「捕まってたって、また女かよ!」

「まあね」

 悪びれた様子のカケラもない安田の言葉に、目の前が真っ赤に染まる。
 さっき見た、生々しい光景。あの後、何でもない顔をしてあの子と行為に及んだと思うと、胸がはち切れそうだった。

「おいおい、今度は誰だよ!昨日の子はどうなったんだよ!」

「昨日?ああ、サキちゃん?」

「違う!ミナ子ちゃんだよ!誰だよサキちゃんって!ああ、なんでこんな下半身ゆるゆるの奴がモテるんだ。で、今捕まってたって言ったのは誰?」

「うーん、なんて名前だったか忘れた。おっぱい見りゃ思い出せる」

「最低だな!死ね、クズ!女の敵!」

「ハハハ、お前女じゃねーだろ」

 いつも通り軽薄で薄っぺらい安田の笑い声。多分いつも通りの、軽薄で薄っぺらい笑みを浮かべているんだろう。
 何でこいつはこんなにも普通に笑えているのか。何でこいつはこんなにも、いつも通りなのか。
 沸々と湧き上がる怒りが、私の中を静かに満たしていく。

「女の敵はすなわち男の敵だ!お前なんて全人類から嫌われてしまえ!」

「別に俺から誘ってねーし。向こうから来るんだから俺は悪くねえよ」

「そういうとこが更にムカつくんだよ!」

 誘ってなくてもそう仕向けているくせに、どの口が言うのか!
 安田のあんまりな言い分に、さらにカッと頭が沸いた。
 私も安田の仕掛けた罠に引っかかった馬鹿な女の一人なのだと、私に向かって言われているようだ。わざとらしく、厭味ったらしく、侮蔑と嘲笑をふんだんに込めて。
 確かに悪いのは誘惑に抗えなかった私であって、安田ではないのかもしれない。安田が責められる非はないのかもしれない。
 悔しさにぎりっと奥歯を噛み締める。

 だけど、だからといって。
 ーーこのままやられっぱなしで、たまるものか。

「神成さん、大丈夫?ほら、行こう?」

 オサムが顔を近付け、気まずげにそう言うも、私の耳には全然入ってこなかった。知らない内に両手をきつく握りしめるも、痛みは全く感じない。私の全神経は後ろの男に向けられていて、他には何も入り込む余地などない。

「まあまあ、その辺にして。で、安田。今日の飲み会来るよな?お前が来ると来ないとじゃ、女の子の出席率が違うんだよ。悔しいことにさ。良い子いたら適当に抜けていいからさ。最初だけでも、頼むよ」

 大きな声の男とは別の男がそう言うと、安田は特に悩む訳でもなく「ふーん。ま、暇だしいいよ」と即答した。

 つい先程大学の構内で盛っておきながら、今夜もまた別の子とするつもり?
 この男は今までも、これからも、変わらずずっと、この最低な行為を続けるというの?

 その瞬間、限界まで湧き上がった怒りが、プツンと弾けた。

「オサム、ごめん」

「え?」

 捨て台詞のように小声で言い放つと、オサムがきょとんと目を丸くした。視線が交わり、もう一度心の中で、ごめん、と呟く。ふうっと小さく息をついてから、私は勢いよく立ち上がり後ろを振り向いた。

 想像通り、私のすぐ後ろの席に安田はいた。
 安田は私と背中合わせになるように座っていて、同じテーブルには似た系統のチャラ男が四人、急に立ち上がった私に不審な眼差しを向けていた。

「今日の飲み会にこいつは行かないから」

「は?」
「え、誰?」

 私の突然の乱入に、安田の友人達はポカンと口を開いた。反対に安田は、私を一瞥することもなく、さも私が口を出してくるのを予想していたかのように、平然と座っている。その態度がまたムカつく。

「今後ずっと、永久的に、飲み会には参加しないから。もう誘ってこないで」

「いや……貴女じゃなくて安田くんを誘ってるんだけど」

「一回で理解しなさいよ、あんた馬鹿なの?だから、安田はもう飲み会には行かないっつってんの。わかった!?」

「……は、はあ!?なんなの、この人?」
「この強烈な女史、安田の知り合い?」

 腕を組み仁王立ちで踏ん反り返って、ふんっと鼻を鳴らす。そんな強気すぎる私の態度に怯んだ友人達が安田に助けを求め、そこでようやく私のすぐ下にいた安田が気怠げに頭を上げた。

「なんでお前にそんなこと言われなきゃいけないわけ?関係ねーだろ」

「関係あるわよ」

 間を置かずに、ぴしゃりと言い放つ。
 突き放すような事を言いながらも、安田の目は喜々として輝いていて、思わずちっと舌打ちをしたくなる。今の状況を楽しんでいるとしか思えないその余裕綽綽としたニヤけ面を、思いっきりぶん殴って歪ませてやりたい。安田の仮面を剥がしたい。

「あんたは私の所有物モノなんだから。私のモノをどうしようが私の勝手でしょ」

 私の言葉に、この場がしんと静まりかえる。
 安田の友人達だけでなく、他のテーブル、もしかしたら食堂中の人達の視線が私に集まってるのを、ビシビシと感じる。
 でも、そんなこともどうでもいい。
 もうこの男に振り回されるのはごめんだった。この男が考えていることなんか、気にしない。気にしたくない。
 振り回されるくらいなら、振り回す。今度は私が安田を、堕として、溺れさせて、縛り付ける番だ。

 息苦しく感じる程の沈黙の中、ひたすら安田を睨み続ける。安田は私から目を逸らさなかった。逸らされてたまるかと視線に込め、更にきつく睨みつけると、安田がおもいきり目を細め、くつくつと押し殺すように笑った。

「くっ、はははっ、すげー女王様理論だな。信じらんねえ。俺、お前のモノになったつもりなんて、ないんだけど」

「あんたの意見なんて聞いてないし、あんたがどう思おうと関係ない。私がそう決めたんだから、あんたはそれに従うだけ。たかだか所有物が持ち主に意見するんじゃないわよ」

「くっ、くくくっ、ふ、あはははっ!」

 安田がお腹を抱えて、更に笑い続ける。
 嘲笑でも演技ポーズでもなく、心の底からの爆笑。
 気が狂ったかのようにひたすら笑い続ける安田に呆気にとられ、友人達は口をポカンと開けて固まった。

「あー、笑った。くくっ、そうきたか。超面白れー」

 ひとしきり笑って満足した安田が立ち上がり、馴れ馴れしく私の肩に手を伸ばす。その手が触れる前に容赦なくバシンと叩くと、安田はまた楽しそうに目を細め、そして今度は強引に私の肩を引き寄せた。

「なあ、聞いた?俺、こいつのモノなんだって。というわけで、お前らも当分俺に声かけてくんなよ」

「当分、じゃなくて、一生よ」

 すかさず訂正すれば、また安田が楽しそうに、いや嬉しそうに声を上げて笑った。

「はははっ、最高だな!神成」

 取り繕ったものじゃない無邪気な笑みを向けられ、「私は最低な気分よ」と吐き捨てた。

 公衆の面前で、こんな醜態を晒すとか、本当あり得ない。面白可笑しく言い囃されることは目に見えてる。
 それでも、安田は私の所有物モノなんだとこの場で公言したかった。言ってしまえば、安田がどう思おうと周知の事実となる。
 形だけでもいいから、身体だけでもいいから、安田を私のモノにしたい。

 最低な気分と言いながら、私は満面の笑みを浮かべた。
 今私の胸の内は、仄暗い喜びと独占欲で満ち溢れていた。


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