XNUMX

一貫田

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XNUMX(11)ヨゴレ

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 家に帰ると、ドアを開けた途端いい匂いがした。
「おかえりー」
 キッチンの前ではセーラが、俺が高校生の時から着ているザ・クラッシュのバンドTシャツを無造作に着て、夕食を作ってくれていた。さっきまでヤニ臭く薄暗いテレクラの部屋で、代わる代わる頭のネジが外れた連中と話していただけに、天国に辿り着いたのかと思った。
「ワタシもさっき出先から来たから、シャワーとTシャツ借りたよ。もうすぐご飯出来るから、手を洗って着替でもして待ってて」
 セーラの手料理はいつも美味くない。だが、そんな事は関係ない。後ろから抱きしめて押し倒したい衝動を抑えながら、俺はカッコをつけて「分かった」とだけ簡潔に答えた。
 このボロボロの築30年のマンションの一室でセーラ見ると、その美貌はより際立って見えた。額縁の割れた名画、紙皿に乗ったアワビステーキのように。
 飛び切り美人の元芸能人が、携帯のメール一通で夕食を作りに来てくれる。その上、食後は自分の欲望どおりにさせてくれる。先の見えかけた人生の中で、こんな状況が自分に訪れるなんて。いや、良い面でも悪い面でもマツシタの死から始まって、その後に起きていること全てが夢の中の出来事のように感じる。不安定な心地よさと居心地の悪さが混在した浮遊感。現実という実感が希薄になる瞬間の連続。人がもし雲の上を歩けるとしたら、まさにこんな感じなのだろう。

「ワタシAVに出た事があるの」と、いつものように二人の時間が済んだ甘い香りのするベッドの中で、唐突にセーラが呟いた。
 俺はその時、なんとなくテレクラの内線で話した奇妙な男の事を考えていた。―電話ジャック男、アイツは一体何者だったのだろう?声の感じから察するに40代後半で神経質な性格、痩せていて眼鏡をかけているはずだ、なぜかアイツとはもう一度話す必要がある気がする― ・・・。
 だからセーラの告白にも、最初は軽い返事しか出来なかった。
「へえ」
「2本だけなんだけど・・・事務所に所属する前に・・」
「そうなんだ」
 俺は肌寒さを感じて、さっきまでセーラが着ていた、元々俺の物だったTシャツを着た。
「・・どうして何も言わないの?」
「え?・・えーと・・それは公になっている事なの?知り合いとか、家族も知ってる?」
「そういう事じゃなくて」
 頭が上手く回らなかった。セーラはしぶしぶ的外れの俺の質問に答えた。
「・・・誰も知らないと思う。家族はもちろん知らないし、素人の頃の太っていた時に適当な名前で出たやつだから、見た人もワタシだとは気づいてないと思う。ネットでエゴサーチしても出てこなし、元々ワタシのコアなファンでもあったマツシタくんにも気づかれてなかった」
「・・・そうか。」
「・・嫌になった?」
「何が?」
「ワタシの事、嫌いになったでしょ?」
「どうして?誰にも知られてないなら、別にいいんじゃないか?」
 セーラは布団を被り、背中を向けた。どうやら泣いているようだった。
 
 女が泣くのは悲しいからではなくて、悔しいからだと誰かが言ってた。しかしこの場面では、一体何が悔しいのだろう?自分の過去の選択間違いからくる後悔だろうか?それとも俺の返事が思った物と違ったからだろうか?とにかく俺は、女に泣かれる事が何よりも苦手なので(世の中には、驚くべき事にこの対処が得意な男もいる)素直に自分の気持ちを話す事にした。
「わかった、そのままでいいから聞いてくれ。」
 ああ、こんな時、どこからかパーシー・スレッジが流れてきたらいいのに。
「自慢じゃないが、俺は生まれてから一度も女性を上手く慰められた事がない。だからキミに対しても気の利いた事は言えないだろう。かと言って安易に、気にするなとか、大丈夫だとか言う気もない。結局本人がそう思えないから泣いているんだろうし、開き直れるまでには何事もそれなりの時間を要するという事も、我々はもうわかる年齢だ。大前提として先に言っておくけど、俺はキミをそんな事では嫌いにならないし、俺自身は、本当にどうでもいい事だと思っている。」
 セーラが背を向けたまま小さく頷いた。
「その上であえて続けさせて貰うと、俺にはそれが本当に仕方のない事のように思える」
 続きを待つ沈黙。
「キミはキミが思うよりもはるかに、いや、ほとんど殺人的と言っていいほどの、恐ろしいぐらいの性的な魅力がある。それは多分、世界中の男どもがひれ伏してしまうほどだ。冷戦中の首脳会談の最中にもしキミが裸で現れたら、おそらく戦争は止まるだろう。そうでなくてもその辺を歩いているだけで、キミを見た健康な男子はまず胸をむちゃくちゃに触りたいと思うはずだ。全員、一人残らず。多分それはキミも気付いているだろう?」
 頷き。
「そしてそれは、残念ながらキミが望んだものじゃない。望んでいないどころか、その力を煩わしく思って生きてきたのかも知れない。」
 頷き。
「だけど、きっとその恐ろしいまでの性的な魅力があったから、自分のやりたかった女優という仕事に就けたのだという事も、キミはわかっているはずだ。そしてここからは俺の憶測で、もしかしたらとても失礼な事を言うかも知れないから、まず先に謝っておく、すまない。あとで四の字固めをかけてもいいから聞いてくれ」
 少しの間の後の頷き。四の字固めが伝わらなかったのかも知れない。
「もしかしたら、キミは自分の女優としての実力が、自分の持って生まれた性的な魅力をはるかに下回っている事に嫌気が刺して女優業を引退したんじゃないか?」
 沈黙。
「実を言うと俺は、子供の頃からずっと思っていたんだ。他でもなく(自分が望んでいる才能が手に入ったヤツの事を天才)と言うんじゃないかって。要するに、需要と供給が一致していて、しかも他者にも伝わる力の事を、一般的には(才能)と呼ぶんだろうってね。だけど本当は、人はみんな一人一人特別な力を持っていて、でも自分が欲しがったものじゃない場合は、それに気付かない事も多いんじゃないかな。」
 沈黙。
「例えばこういう事なんだ。料理の才能があるヤツがいたとして、それはある意味では分かりやすいから、自分でもその事に早々に気付いて料理人の道に進むかも知れない。そして、そのまま成功すれば世間の方も評価しやすい。天才シェフ、とか言われてね。だけど、もしそれが配膳の方の才能だったら?天才的な配膳の能力があったとしても、接客業のバイトでもしなければ、それには永遠に気付かないだろう。そして、もしそれがあったとしても世間からは評価されにくいはずだ。お店の内では有名かも知れないけど、外を歩いていて、よっ、天才配膳士!とは中々呼ばれないし、その才能だけで超高給取りになる事はあまりないだろう。そこの店の運営会社で表彰されたりはするかも知れないけれど・・。残念ながら、この世界は分かりやすい才能の方が、評価され易いという傾向があるんだ。平たく言えば、お金に直接繋がるものを、社会は評価する。それとは別に、本当は野球の才能が自分にあると知っていても、サッカーをやりたいという人間もいる。要するに分かりやすい才能も持っているが、違う事がしたいという例だ。これはキミに近いかもしれないけど、野球をやればメジャー・リーグでシーズン本塁打50本、50盗塁のとんでもないバッターになる可能性があって、その事に本人も周りも気付いている。でも、どうしてもサッカーをやりたい。周りの人間達は野球をやれ、野球をやれとしつこく言うが、そいつはサッカーを始める、そして案の定、大して上手くいかない。他の競技でトップを取れるほどの身体能力と、血の滲むような努力を重ねてもJ3の補欠選手ぐらいでサッカー人生を終える。けれど当の本人は大満足だ。だって極論を言えば、人生は自分の心の豊かさを育む為だけのゲームなんだから。周りに言われるがまま、そいつにとってはつまらない野球をやって大成功しても、そいつの心は豊かにならない。だって本人は汗水垂らして苦労して、大して成功しなくてもサッカーがやりたいんだから。そしてそれが出来たなら、誰にも文句を言われる筋合いはないし、そいつ自身が満足なら、多分その選択で間違っていないんだ。」
 
 俺の言いたかった事がどれぐらい伝わったかは分からないが、セーラは声を出してしばらく泣いていた。その後に、壁を向いたまま俺にこう尋ねた。
「・・貴方は自分の才能が何か知っているの?」
「セックス以外かい?」と言うと、セーラは少し笑ったようだった。
「実は知っている。今まで誰にも言った事がないけど、俺には俺にとって全く役に立たない特殊能力があるんだ」
 セーラはもぞもぞと振り返り、俺の腹の辺りを枕にして「教えて」と言った。
「驚かないでくれよ。」
「うん」
「俺は楽器も何も弾けないし、歌だって上手くないのに、絶対音感があるんだ」
「・・そうなの?」
「ああ。まともな音楽教育も受けてないから楽譜も読めないのに」
「え?じゃあ、どうして絶対音感だとわかったの?」
「正式には絶対音感とは言わないのかも知れない。でも例えば、その辺にスマホか何かを落としたとする。そしてしばらく後に誰かがドアをノックしたとする、そうした時に(ああ、このノックはさっきスマホを落とした時の音と全く同じだな)と思うんだ。そこのタイムラグはかなり長く取っても大丈夫。二つ目の音が次の日でもね。昔こんな事もあった。大学の時に、小さい頃からピアノを本格的にやっていた人間がいて、たまたまそいつと一緒にコンビニに行って入店音を聴いたんだけど、俺が(最初の音はさっきの信号と同じ音だ)と言ったらその友人が(そう、ファのフラットだよ、よく分かったね)と驚いていた」
「へぇー」とセーラは素直に感心してくれた。
「だけど、自分の体感しているのは、音ではないのかも知れない。何というか波動というか、振動というか・・・」
「どういうこと?」
「波長、波動、音階、振動、どれを感知しているのかは正直自分でも分からないんだ。ある種の周波数を脳で感知している、とでも言えばいいのかな。だから一度感じた音色は忘れないし、似た物も分かる。例えば初めて電話で話した人間が、大体どういう体形でどれぐらいの年齢で性格なのか、ほぼ間違いなくわかる。生まれて三十年以上色んな人間の周波数を感じてきたわけだから、直接見なくても声だけで、そのデータから大まかな姿を導き出せるというわけ。」
「そうなんだ!すごいね!」
 自分の話を忘れて、こっちの話でもう感動してしまっている。俺はセーラの体よりも、こういう所が好きなのかも知れない。
「ねえねえ、ワタシの周波数は?ワタシのはどんな感じ?」
「キミの波動は素晴らしいよ、俺は今まで安物のシャンパンしか飲んだ事がなかったから。キミはほとんどドンペリだ」
 と、俺はイギー・ポップが(ドイツ人モデルのニコと付き合った時はどうでしたか?)と、訊かれた時の冗談を引用した。
「・・・ん?」
「ん?」
 沈黙して顔を見合わせる二人。そして我慢できずに
「あはははははは」
 
 今思えば、俺達はこの頃にさっさと結婚しておくべきだったのかも知れない。亡くなった友人の墓を掘り返すような無意味な事などせず、セーラ似の可愛い子供を抱いて、地元に戻ってひっそりと暮らせば良かったのかも知れない。家族を持つなんて考えた事もなかった俺が、この時はそういう事が出来るのかも知れないと思ったほど、互いに特別な繋がりを感じていた。けれど俺達はそれをせず、あまりにも危険な土の中にシャベルも持たず、グローブもせず、素手のまま、手を突っ込んでしまった。そのヨゴレは、今も取れない。
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