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本編
16 過ぎたものは戻らない②
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母さんは数度、口を開いて閉じてを繰り返し、ようやく覚悟を決めた顔をすると、ぽつりと語りだした。
「私ね、あなたに償いたいの。私のせいで裕也にはたくさん我慢させたし、普通の家族の暮らしをさせてあげることもできなかった」
「……」
「……ずっと疑問に思っていたでしょう。どうして私とあの人が離婚しないのかって。……自分勝手な理由なのよ。私とあの人、駆け落ち者なの。私の両親が、旅行会社の偉い人で、結婚相手は自分たちが認めた人じゃないと許さないって、結婚を反対してきて……。今思えば、親の言うことを聞いていればよかった」
「それで、駆け落ちしてまで結婚したのに離婚したら、親に向ける顔が無いから、ずっと離婚しなかったって言うの?」
「そうよ。それに、子供もできちゃったから、周囲の目が気になって離婚しにくくなっちゃって」
初めて聞かされた話にを、案外冷静に聞くことができた。あんなに気になっていた理由なのに、そっか、という感想しか浮かばない。思ったより自分勝手な理由だったことに、失望しているのかも知れない。結局、自分たちの名誉を守るためにあんな相手と同居を続けていたってことだろう。
「あんたが年齢イコール彼女いない歴が続いてるのも、私のせいなのかなって。家族の暖かさっていうものを知らないから、いい人ができないんじゃないの」
「それは関係ないよ……。というか、母さんには関係ないことだし」
「本当?あんまり下世話なこと言いたくないけどねぇ、いつまで経っても恋愛経験がないと、年齢とともに拗らせるわよ」
「夫婦仲拗らせた人に言われてもな」
「……痛いとこ突くわね」
苦笑いする母さんに、しょうがない人だなと思った。どこまでも自分勝手な人ではあるけれど、俺に感じている後ろめたさや罪悪感は本物であるようだ。人間らしいと言えば、人間らしい。あまり好ましい性質じゃないけど。
「本当に大丈夫だよ。だから、同居はやめよう」
「そこまで言うなら、わかったわよ……」
「……たまに食事にでも行こう。それでいいだろ」
「っ!ええ!行きましょう!」
俺の提案に、母さんは嬉しそうに目を輝かせた。その目に、昔の灰色の陰りはない。
……やっと開放されたんだ。そして今、自由に自分の人生を生きられるようになった。
眼の前で幼い俺が泣いている。声を堪えて、ただ床に吸い込まれていく涙と血液を見つめていた。その向こうで、母さんが俺から目を背ける。一瞬見えたその瞳は、黒く濁っている。
もう母さんのあの瞳を見なくて良いんだ。そのことに心の中でひっそり喜んでしまった俺も、きっと拗らせている。
母さんと再会して情緒が不安定になった後。母さんと次に会う約束をして分かれると、再び街を歩き出した。買い物の途中だったのだ。因みに、今日のお出かけは一人じゃない。
「もう喋ってもいいよ、クラゲさん」
持ってきた鞄の中にそう呼びかけると、「ヤーヤー」という鳴き声が聞こえてきた。人目につかないところでゆっくり鞄の中を確認すると、瓶の中で黄色い目を光らせるクラゲさんがいる。母さんと話している間ずっと閉じ込めていたので、苦しかっただろう。
ごめんね、と謝りつつ、瓶越しにクラゲさんを撫でる。相変わらず俺から目を離そうとしないクラゲさんに、笑みがこぼれた。
それにしても。
「母さんと会うと思わなかった。びっくりしたなぁ。まさかあんなことを言ってくるなんて」
同居しようなんて言われるとは、予想外だ。先程の出来事を思い出しながら、道を歩く。
「ユーヤ」
「……ん?どうしたの?」
名前を呼ばれて、鞄の中の存在と目を合わせる。言葉を自由に操れないクラゲさんは、こういうとき、自分の思いを言語化することができない。不安そうに揺れる金色を見て、なんとなくその意図を予想する。
「ああ、同居を断ったのはクラゲさんのせいじゃないよ。本当に、あの人と一緒に暮らしたくなかっただけ。一緒にいても、嫌なことばかり思い出しそうだし」
気を遣わせないように軽い調子でそう言うと、黄金の2つの穴がわなわなと揺れだした。え、なにそれ。初めて見るんだけど、なに?
「ユーヤァ」
「……え、どうしたの?泣いてるの?」
「ウーウー」
急いで路地裏に入って、薄暗い影の中で瓶を取り出した。クラゲさんが入った瓶に額をつけながら、顔を覗き込む。涙は出ていないけど、泣いているみたいだ。クラゲさんが泣くときって、こんな感じになるんだな。蓋を開けてクラゲさんを撫でると、指に触手がくっついてきた。赤子をあやすようにその頭を撫でる。本当に頭なのかはわからないけど。頭っぽいところを撫でると、クラゲさんが気持ちよさそうにしていた。
クラゲさんが落ち着いてきた頃、先程クラゲさんが泣いた理由に思い当たって、嬉しくてくすくす笑ってしまう。急に笑い出した俺を不思議そうに見ているクラゲさんに、口端が緩む。
「ありがとう、俺のために悲しんでくれたんだね」
きょろり、と目が輝く。クラゲさんを両手の中に閉じ込めると、そのまま頬ずりしたくなる気持ちを押さえて、穏やかな息を吐き出した。
「じゃあ、今夜聞いてくれるかな?俺の昔の話。友達と遊んだ時の話とか、文化祭委員に無理やり任命された話とか、バイト先で先輩と友だちになった時の話とか」
久しぶりに、酒でも飲んで昔を懐かしみたいんだ。クラゲさんには俺の楽しかった思い出を、もっと知ってほしいし。
その日の夜は、珍しく家で缶ビールを開けた。つまみを食いながら機嫌よく昔話をしている俺の側で、クラゲさんは興味深そうに聞いてくれていた。
「私ね、あなたに償いたいの。私のせいで裕也にはたくさん我慢させたし、普通の家族の暮らしをさせてあげることもできなかった」
「……」
「……ずっと疑問に思っていたでしょう。どうして私とあの人が離婚しないのかって。……自分勝手な理由なのよ。私とあの人、駆け落ち者なの。私の両親が、旅行会社の偉い人で、結婚相手は自分たちが認めた人じゃないと許さないって、結婚を反対してきて……。今思えば、親の言うことを聞いていればよかった」
「それで、駆け落ちしてまで結婚したのに離婚したら、親に向ける顔が無いから、ずっと離婚しなかったって言うの?」
「そうよ。それに、子供もできちゃったから、周囲の目が気になって離婚しにくくなっちゃって」
初めて聞かされた話にを、案外冷静に聞くことができた。あんなに気になっていた理由なのに、そっか、という感想しか浮かばない。思ったより自分勝手な理由だったことに、失望しているのかも知れない。結局、自分たちの名誉を守るためにあんな相手と同居を続けていたってことだろう。
「あんたが年齢イコール彼女いない歴が続いてるのも、私のせいなのかなって。家族の暖かさっていうものを知らないから、いい人ができないんじゃないの」
「それは関係ないよ……。というか、母さんには関係ないことだし」
「本当?あんまり下世話なこと言いたくないけどねぇ、いつまで経っても恋愛経験がないと、年齢とともに拗らせるわよ」
「夫婦仲拗らせた人に言われてもな」
「……痛いとこ突くわね」
苦笑いする母さんに、しょうがない人だなと思った。どこまでも自分勝手な人ではあるけれど、俺に感じている後ろめたさや罪悪感は本物であるようだ。人間らしいと言えば、人間らしい。あまり好ましい性質じゃないけど。
「本当に大丈夫だよ。だから、同居はやめよう」
「そこまで言うなら、わかったわよ……」
「……たまに食事にでも行こう。それでいいだろ」
「っ!ええ!行きましょう!」
俺の提案に、母さんは嬉しそうに目を輝かせた。その目に、昔の灰色の陰りはない。
……やっと開放されたんだ。そして今、自由に自分の人生を生きられるようになった。
眼の前で幼い俺が泣いている。声を堪えて、ただ床に吸い込まれていく涙と血液を見つめていた。その向こうで、母さんが俺から目を背ける。一瞬見えたその瞳は、黒く濁っている。
もう母さんのあの瞳を見なくて良いんだ。そのことに心の中でひっそり喜んでしまった俺も、きっと拗らせている。
母さんと再会して情緒が不安定になった後。母さんと次に会う約束をして分かれると、再び街を歩き出した。買い物の途中だったのだ。因みに、今日のお出かけは一人じゃない。
「もう喋ってもいいよ、クラゲさん」
持ってきた鞄の中にそう呼びかけると、「ヤーヤー」という鳴き声が聞こえてきた。人目につかないところでゆっくり鞄の中を確認すると、瓶の中で黄色い目を光らせるクラゲさんがいる。母さんと話している間ずっと閉じ込めていたので、苦しかっただろう。
ごめんね、と謝りつつ、瓶越しにクラゲさんを撫でる。相変わらず俺から目を離そうとしないクラゲさんに、笑みがこぼれた。
それにしても。
「母さんと会うと思わなかった。びっくりしたなぁ。まさかあんなことを言ってくるなんて」
同居しようなんて言われるとは、予想外だ。先程の出来事を思い出しながら、道を歩く。
「ユーヤ」
「……ん?どうしたの?」
名前を呼ばれて、鞄の中の存在と目を合わせる。言葉を自由に操れないクラゲさんは、こういうとき、自分の思いを言語化することができない。不安そうに揺れる金色を見て、なんとなくその意図を予想する。
「ああ、同居を断ったのはクラゲさんのせいじゃないよ。本当に、あの人と一緒に暮らしたくなかっただけ。一緒にいても、嫌なことばかり思い出しそうだし」
気を遣わせないように軽い調子でそう言うと、黄金の2つの穴がわなわなと揺れだした。え、なにそれ。初めて見るんだけど、なに?
「ユーヤァ」
「……え、どうしたの?泣いてるの?」
「ウーウー」
急いで路地裏に入って、薄暗い影の中で瓶を取り出した。クラゲさんが入った瓶に額をつけながら、顔を覗き込む。涙は出ていないけど、泣いているみたいだ。クラゲさんが泣くときって、こんな感じになるんだな。蓋を開けてクラゲさんを撫でると、指に触手がくっついてきた。赤子をあやすようにその頭を撫でる。本当に頭なのかはわからないけど。頭っぽいところを撫でると、クラゲさんが気持ちよさそうにしていた。
クラゲさんが落ち着いてきた頃、先程クラゲさんが泣いた理由に思い当たって、嬉しくてくすくす笑ってしまう。急に笑い出した俺を不思議そうに見ているクラゲさんに、口端が緩む。
「ありがとう、俺のために悲しんでくれたんだね」
きょろり、と目が輝く。クラゲさんを両手の中に閉じ込めると、そのまま頬ずりしたくなる気持ちを押さえて、穏やかな息を吐き出した。
「じゃあ、今夜聞いてくれるかな?俺の昔の話。友達と遊んだ時の話とか、文化祭委員に無理やり任命された話とか、バイト先で先輩と友だちになった時の話とか」
久しぶりに、酒でも飲んで昔を懐かしみたいんだ。クラゲさんには俺の楽しかった思い出を、もっと知ってほしいし。
その日の夜は、珍しく家で缶ビールを開けた。つまみを食いながら機嫌よく昔話をしている俺の側で、クラゲさんは興味深そうに聞いてくれていた。
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