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月で逢おうよ 3
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九月も半ばを過ぎたにもかかわらず、続く猛暑は半端ではなく、通り雨もたいした清涼剤にはならなかったようだ。
クラブハウスを出た途端、むせるような木々の匂いが熱気を伴ってまとわりついてくる。
でも充実しているよな、と勝浩は心の中で呟く。
犬や猫たちも、会のみんなもいい関係だし、ホームや施設に入居している人たちが喜んでくれているのを見るのはとても嬉しいし。
大学に進学してから親元を離れ、都内で一人暮らしを始めた勝浩だが、大家は庭にくる野良猫たちにご飯をあげたりする動物好きの優しい老婦人で、離れを借りている勝浩が犬を飼いたいといっても、快く許してくれた。
検見崎の紹介で始めた編集部のバイトも時々忙しいが、何の不満もない。
何もかもが、うまくいっているはずだ。
けれど、何をもっても満たすことのできない、心の中の空洞を時折感じることがある。
どこかでかなうはずのない期待をしている自分がいるからだ。
―― お前にやるよ。その代わり、風邪治せ ――
おそらくほんのきまぐれだったのだろう、幸也からもらったマフラーは、あの日の、たった数十分の時間と一緒に引き出しの中にしまってある。
学園を卒業するまで、勝浩にとってはずっと昔から苛めっ子でしかなかった幸也だ。
だけどいつの間にか、長谷川幸也という存在は、それこそバレンタインデーに渡せるものならチョコでも何でも渡したいただ一人の相手になっていた。
もし、幸也の心の中に想い人がいなければ。
高校の卒業式、生徒会長として、在校生代表として送辞を読み上げながら、輝かしい未来に向かって歩いていってほしい、とそう願ったのは幸也のことだった。
あの人のことしか考えていなかった。
俺なんて本当は自分勝手な人間だ。
それはよくわかっている。
誰かが言った。
ボランティアなんて偽善で、自己満足だけなんじゃないかと。
実はそうかもしれないと勝浩は思う。
自分の自己満足のためにやってるだけだって。
しゃかりきになっているのは、心の空洞を埋めたいからだけなのかもしれない。
あの日、学園を去るあの人の背中を見つめながら思ったこと。
いつかもし、再び出会うことがあったら、その時は自分の気持ちを言えるかも知れない、なんて。
その頃なら、きっとあの人も心の傷が癒えて、新しい誰かとともにいるかもしれない。
自分も、別の誰かを好きでいるだろうからって。
でもそんな自分は嘘っぱちだった。
あれは去年、垪和に誘われて勝浩が『動物愛護研究会』に入って数日後のことだったか。
「長谷川さん?」
キャンパスを横切った長身の後姿を思わず追いかけようとした自分に呆れた。
「んなわけないだろ。こんなところにいるわけないじゃん。バカか俺は」
やがてその男の影は校門から消え、勝浩は空しく自嘲するばかりだった。
本当は少しでも近くにいたくて、都内にあるこの慶洋大に進んだのだ。
幸也がとっととアメリカに留学してしまったと聞かされたのはそれからすぐだった。
いかに甘い期待だったかと、世の中そんなにうまくいくわけがないと思い知らされただけだ。
結局、そんなものだ。
そう思うのに、まだかなうはずのない期待を抱えている。
「堂堂巡りだな」
勝浩は呟くと、愛犬ユウの待つ自分の部屋へと向かった。
あの人のことも、いつかは遠い日の思い出になるのだろうか―――――――――――。
「勝浩、そろそろ終わる? 俺、この辺で切り上げるけど」
後ろの席で煙草をいじっていた検見崎が声をかけてきた。
最近自分の部屋以外喫煙可能な場所を探すのすら困難になってきたのだが、癖でつい手にしてしまうのだ。
時計の針は午後九時を少しまわろうとしているところだった。
「うん、もう少し。いいですよ、検見崎さん、先に帰ってください」
画面に見入ったまま答える勝浩の仕事は、ここ光榮社「the あにまる」編集部から発信されるWEBサイトの制作だ。
もともとこの編集部で既に編集の仕事に携わり、ページも持っている検見崎は、仕事が忙しすぎたお陰で一年留年しているが、その実績を見れば、フリーならプロとして十分やっていけるものだ。
当然本人は卒業後は編集の仕事に進むつもりらしい。
「卒業できなくてもね」
「この大甘ヤロウめ! お前、父親が新洋社社長だから、いつでもいくらでも社員になれると思ってるな?」
いい加減なことを言う検見崎の言葉を聞きつけて、橋爪編集長が意見する。
橋爪は十年前、光榮社に移籍した元新洋社の社員だ。
財政難に頭を抱え、時々爆発して、やたらめったら怒鳴り散らすことはあるが、割と柔軟な考え方の持ち主である。
「俺はフリーでやるの。社員なんて堅苦しいこと、できるか」
「ばーか、下積みも経験しないで、フリーなんて、えらそうなこと言うんじゃない」
口をへの字に曲げ、橋爪が丸めた雑誌で検見崎の頭をぽかりと叩く。
クラブハウスを出た途端、むせるような木々の匂いが熱気を伴ってまとわりついてくる。
でも充実しているよな、と勝浩は心の中で呟く。
犬や猫たちも、会のみんなもいい関係だし、ホームや施設に入居している人たちが喜んでくれているのを見るのはとても嬉しいし。
大学に進学してから親元を離れ、都内で一人暮らしを始めた勝浩だが、大家は庭にくる野良猫たちにご飯をあげたりする動物好きの優しい老婦人で、離れを借りている勝浩が犬を飼いたいといっても、快く許してくれた。
検見崎の紹介で始めた編集部のバイトも時々忙しいが、何の不満もない。
何もかもが、うまくいっているはずだ。
けれど、何をもっても満たすことのできない、心の中の空洞を時折感じることがある。
どこかでかなうはずのない期待をしている自分がいるからだ。
―― お前にやるよ。その代わり、風邪治せ ――
おそらくほんのきまぐれだったのだろう、幸也からもらったマフラーは、あの日の、たった数十分の時間と一緒に引き出しの中にしまってある。
学園を卒業するまで、勝浩にとってはずっと昔から苛めっ子でしかなかった幸也だ。
だけどいつの間にか、長谷川幸也という存在は、それこそバレンタインデーに渡せるものならチョコでも何でも渡したいただ一人の相手になっていた。
もし、幸也の心の中に想い人がいなければ。
高校の卒業式、生徒会長として、在校生代表として送辞を読み上げながら、輝かしい未来に向かって歩いていってほしい、とそう願ったのは幸也のことだった。
あの人のことしか考えていなかった。
俺なんて本当は自分勝手な人間だ。
それはよくわかっている。
誰かが言った。
ボランティアなんて偽善で、自己満足だけなんじゃないかと。
実はそうかもしれないと勝浩は思う。
自分の自己満足のためにやってるだけだって。
しゃかりきになっているのは、心の空洞を埋めたいからだけなのかもしれない。
あの日、学園を去るあの人の背中を見つめながら思ったこと。
いつかもし、再び出会うことがあったら、その時は自分の気持ちを言えるかも知れない、なんて。
その頃なら、きっとあの人も心の傷が癒えて、新しい誰かとともにいるかもしれない。
自分も、別の誰かを好きでいるだろうからって。
でもそんな自分は嘘っぱちだった。
あれは去年、垪和に誘われて勝浩が『動物愛護研究会』に入って数日後のことだったか。
「長谷川さん?」
キャンパスを横切った長身の後姿を思わず追いかけようとした自分に呆れた。
「んなわけないだろ。こんなところにいるわけないじゃん。バカか俺は」
やがてその男の影は校門から消え、勝浩は空しく自嘲するばかりだった。
本当は少しでも近くにいたくて、都内にあるこの慶洋大に進んだのだ。
幸也がとっととアメリカに留学してしまったと聞かされたのはそれからすぐだった。
いかに甘い期待だったかと、世の中そんなにうまくいくわけがないと思い知らされただけだ。
結局、そんなものだ。
そう思うのに、まだかなうはずのない期待を抱えている。
「堂堂巡りだな」
勝浩は呟くと、愛犬ユウの待つ自分の部屋へと向かった。
あの人のことも、いつかは遠い日の思い出になるのだろうか―――――――――――。
「勝浩、そろそろ終わる? 俺、この辺で切り上げるけど」
後ろの席で煙草をいじっていた検見崎が声をかけてきた。
最近自分の部屋以外喫煙可能な場所を探すのすら困難になってきたのだが、癖でつい手にしてしまうのだ。
時計の針は午後九時を少しまわろうとしているところだった。
「うん、もう少し。いいですよ、検見崎さん、先に帰ってください」
画面に見入ったまま答える勝浩の仕事は、ここ光榮社「the あにまる」編集部から発信されるWEBサイトの制作だ。
もともとこの編集部で既に編集の仕事に携わり、ページも持っている検見崎は、仕事が忙しすぎたお陰で一年留年しているが、その実績を見れば、フリーならプロとして十分やっていけるものだ。
当然本人は卒業後は編集の仕事に進むつもりらしい。
「卒業できなくてもね」
「この大甘ヤロウめ! お前、父親が新洋社社長だから、いつでもいくらでも社員になれると思ってるな?」
いい加減なことを言う検見崎の言葉を聞きつけて、橋爪編集長が意見する。
橋爪は十年前、光榮社に移籍した元新洋社の社員だ。
財政難に頭を抱え、時々爆発して、やたらめったら怒鳴り散らすことはあるが、割と柔軟な考え方の持ち主である。
「俺はフリーでやるの。社員なんて堅苦しいこと、できるか」
「ばーか、下積みも経験しないで、フリーなんて、えらそうなこと言うんじゃない」
口をへの字に曲げ、橋爪が丸めた雑誌で検見崎の頭をぽかりと叩く。
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