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風そよぐ 29
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「あら、良太ちゃん、おはようございます。今日は早いのね」
十時十分前だ。
「おはようございます。コーヒーはいってますよ」
「あらあ、どうしたの? 今日は随分張り切っちゃって」
「いえ、ちょっと、心を入れ替えようと思って」
フフフと笑って、鈴木さんはコーヒーを持ってデスクに向かう。
「そういえば、昨日、良太ちゃんが出かけたあと、工藤さんが帰ってらしたのよ。また今日は名古屋だっておっしゃってたけど」
「あ、そう、ですか」
「良太ちゃんはって聞かれたから、宇都宮さんとお約束でお出かけみたいって」
「え………?」
工藤、知ってたんだ。
「初めてお目にかかったけど、ほんと、宇都宮さんって素敵な方よね~」
女子高生のようにウキウキしている鈴木さんを見ながら、良太はまた心が急降下していくのを感じていた。
下柳が腕をぐんと伸ばして首をぐりぐり回すのを見たスタッフは、編集作業も一段落らしいと肩の力を抜いた。
下柳は集中していると、普段は翁のような害のなさそうな風貌が金剛力士像みたいな形相でモニターにかじりついているので、スタッフも下手に声をかけづらいところがあった。
そんな下柳が肩を回したりし始めればやっと一息つけるのが、このチームのサインのようになっている。
「今日のところはこれで上がりにするか」
既に夜の十一時を過ぎたところだが、スタッフにとってはまだ早い方だ。
良太も、下柳ほどではないがじっと画面に見入っていたので、ふうっと大きく息をついた。
「良太ちゃん、明日から京都だって?」
「ええ」
「明日、何時? 新幹線?」
「ええ、品川を朝九時頃には」
「ふーん、だったら、ちょっと付き合えよ」
「え、今からですか?」
これから下柳と飲みというのは、良太にとってあまり歓迎しないものだった。
猫たちの世話をして風呂に入って、とにかくしっかり寝たかった。
ここ数日睡眠時間が短くなっていて、昨夜は三時間だ。
それで朝からプラグインの藤堂やデザイナーの佐々木と一緒にCMの編集作業に立ち会ってから、こちらにまた顔を出したのだ。
「何、ちょっとだけ、な?」
「はあ……」
気が進まないものの、良太は下柳と、下柳行きつけの小料理屋に向かった。
「まあ、飲めよ」
カウンターの左隅が下柳の定位置で、下柳はとくりを傾けて良太のお猪口に酒を注いだ。
「いただきます」
良太はお猪口を口に持って行った。
「で?」
「は?」
「何かあった?」
「え、いや……」
「長い付き合いだろ、そんくらいわかるって。お前さん、すぐ顔に出ちまうからな」
「……いや、ほんと、仕事、目いっぱいぎちぎちで、疲労困憊で」
「それだけじゃねぇだろ? まあ、無理に言わなくてもいいが、口に出しちまった方が、楽になるってこともあらぁな」
下柳がそこまで言うほど、わかりやすかったのか、と良太は改めて思う。
仕事はきっちり没頭するくらいだったものの、仕事を離れると頭の中でいろいろああでもないこうでもないとなるので、仕事をしていた方がむしろ精神的にはよかったのだ。
「……いや………、ただ、その、俺もアラサーだし、そろそろちゃんとしないとって考えてただけで」
ホッケの一夜干しをつつきながら、良太はぼそぼそと口にした。
「ちゃんとって、十分ちゃんとしてるだろ」
「全然……ちゃんとなんて……、そりゃ、あれやれこれやれって言われて、パシリみたくやってますけど、別にそれに文句はないですけど、俺、何にも、いっちょ前にできるものなんてないんですよ。ヤギさんとこの制作現場でも、モニター一つ動かせるわけじゃなし、たまに、ちょっと口出させてもらうくらいで、ドラマの撮影現場顔出して、差し入れ持ってくくらいで、監督や俳優さんとちょこっと話して、でなきゃ監督と脚本家さんのいがみ合いの仲裁? でなきゃ、竹野さんみたいな難しい女優さんのああだこうだを聞いてなだめるくらい……」
話始めたらそこまで一気に吐き出していた。
「前に、CMとか、ドラマとかちょこっと出させてもらったことがあったけど、てんでものにならなくて、ダメ出しされただけで、結局、俺って何一つまともにできない。俳優さんたちもそうだし、佐々木さんやもちろんヤギさんだって、すごいプロ、じゃないですか。俺なんか、会社入ってもう何年にもなるのに、何もできなくて、このままじゃ………。俺…何やってんのかな、ってこの頃……」
そこまで言うと、良太は下を向いて口を噤む。
素面で口にすると、かなり現実味を帯びてきて、本当に足元から崩れそうな気がしてくる。
「あのなあ、ちょっと、それ、悩むとこが違わねぇ?」
「え? 何が、ですか?」
良太は顔を上げて下柳を見た。
「誰もお前さんに、制作のプロになれとかさ、クリエイターになれとかさ、んなこと言ってねぇだろ?」
「や、だから、そんなんできないって話で……」
ぼそぼそ言葉が尻すぼみになる。
十時十分前だ。
「おはようございます。コーヒーはいってますよ」
「あらあ、どうしたの? 今日は随分張り切っちゃって」
「いえ、ちょっと、心を入れ替えようと思って」
フフフと笑って、鈴木さんはコーヒーを持ってデスクに向かう。
「そういえば、昨日、良太ちゃんが出かけたあと、工藤さんが帰ってらしたのよ。また今日は名古屋だっておっしゃってたけど」
「あ、そう、ですか」
「良太ちゃんはって聞かれたから、宇都宮さんとお約束でお出かけみたいって」
「え………?」
工藤、知ってたんだ。
「初めてお目にかかったけど、ほんと、宇都宮さんって素敵な方よね~」
女子高生のようにウキウキしている鈴木さんを見ながら、良太はまた心が急降下していくのを感じていた。
下柳が腕をぐんと伸ばして首をぐりぐり回すのを見たスタッフは、編集作業も一段落らしいと肩の力を抜いた。
下柳は集中していると、普段は翁のような害のなさそうな風貌が金剛力士像みたいな形相でモニターにかじりついているので、スタッフも下手に声をかけづらいところがあった。
そんな下柳が肩を回したりし始めればやっと一息つけるのが、このチームのサインのようになっている。
「今日のところはこれで上がりにするか」
既に夜の十一時を過ぎたところだが、スタッフにとってはまだ早い方だ。
良太も、下柳ほどではないがじっと画面に見入っていたので、ふうっと大きく息をついた。
「良太ちゃん、明日から京都だって?」
「ええ」
「明日、何時? 新幹線?」
「ええ、品川を朝九時頃には」
「ふーん、だったら、ちょっと付き合えよ」
「え、今からですか?」
これから下柳と飲みというのは、良太にとってあまり歓迎しないものだった。
猫たちの世話をして風呂に入って、とにかくしっかり寝たかった。
ここ数日睡眠時間が短くなっていて、昨夜は三時間だ。
それで朝からプラグインの藤堂やデザイナーの佐々木と一緒にCMの編集作業に立ち会ってから、こちらにまた顔を出したのだ。
「何、ちょっとだけ、な?」
「はあ……」
気が進まないものの、良太は下柳と、下柳行きつけの小料理屋に向かった。
「まあ、飲めよ」
カウンターの左隅が下柳の定位置で、下柳はとくりを傾けて良太のお猪口に酒を注いだ。
「いただきます」
良太はお猪口を口に持って行った。
「で?」
「は?」
「何かあった?」
「え、いや……」
「長い付き合いだろ、そんくらいわかるって。お前さん、すぐ顔に出ちまうからな」
「……いや、ほんと、仕事、目いっぱいぎちぎちで、疲労困憊で」
「それだけじゃねぇだろ? まあ、無理に言わなくてもいいが、口に出しちまった方が、楽になるってこともあらぁな」
下柳がそこまで言うほど、わかりやすかったのか、と良太は改めて思う。
仕事はきっちり没頭するくらいだったものの、仕事を離れると頭の中でいろいろああでもないこうでもないとなるので、仕事をしていた方がむしろ精神的にはよかったのだ。
「……いや………、ただ、その、俺もアラサーだし、そろそろちゃんとしないとって考えてただけで」
ホッケの一夜干しをつつきながら、良太はぼそぼそと口にした。
「ちゃんとって、十分ちゃんとしてるだろ」
「全然……ちゃんとなんて……、そりゃ、あれやれこれやれって言われて、パシリみたくやってますけど、別にそれに文句はないですけど、俺、何にも、いっちょ前にできるものなんてないんですよ。ヤギさんとこの制作現場でも、モニター一つ動かせるわけじゃなし、たまに、ちょっと口出させてもらうくらいで、ドラマの撮影現場顔出して、差し入れ持ってくくらいで、監督や俳優さんとちょこっと話して、でなきゃ監督と脚本家さんのいがみ合いの仲裁? でなきゃ、竹野さんみたいな難しい女優さんのああだこうだを聞いてなだめるくらい……」
話始めたらそこまで一気に吐き出していた。
「前に、CMとか、ドラマとかちょこっと出させてもらったことがあったけど、てんでものにならなくて、ダメ出しされただけで、結局、俺って何一つまともにできない。俳優さんたちもそうだし、佐々木さんやもちろんヤギさんだって、すごいプロ、じゃないですか。俺なんか、会社入ってもう何年にもなるのに、何もできなくて、このままじゃ………。俺…何やってんのかな、ってこの頃……」
そこまで言うと、良太は下を向いて口を噤む。
素面で口にすると、かなり現実味を帯びてきて、本当に足元から崩れそうな気がしてくる。
「あのなあ、ちょっと、それ、悩むとこが違わねぇ?」
「え? 何が、ですか?」
良太は顔を上げて下柳を見た。
「誰もお前さんに、制作のプロになれとかさ、クリエイターになれとかさ、んなこと言ってねぇだろ?」
「や、だから、そんなんできないって話で……」
ぼそぼそ言葉が尻すぼみになる。
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