そんなお前が好きだった

chatetlune

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そんなお前が好きだった 12

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 そう言いながら、この街に戻ってきた途端、流されるように講師になったり、ピアノを教えたりしている。
 そんなことで、果たしてこの街で、ゼロからやり直しなんてできるんだろうか。
 漠然とした不安もないわけでもないが、膝の上に上がってくるにゃー助の顔を見ていると、そんな不安もどこかに行ってしまうから不思議だ。
「なあ、にゃー助」
 あごの下を撫でてやると、にゃあ、と返事をするように鳴いた。
 にゃー助の顔を見ていたら、寛斗の告白を思い出した。
「ったく、十年ものの初恋なんかもう腐ってるだと?! 余計なお世話だ」
 俺じゃなくて瀬戸川のことを考えろよ!
 何で気づかないんだよ!
 俺が彼女に恨まれるとか、それこそ十年前の二の舞とか、ごめんだぞ。
 井原を好きだったあの子は、どうしたんだろう?
 井原からの手紙には何も書いてなかったが。
 そろそろ四月か。
 俺にもみんなにも新しい風が吹くといいな。
 響はにゃー助を遊ばせながらそんなことを思った。




 四月に入ると、響はピアノのレッスンがない日には、車や自転車であちこち出かけていた。
 十年ぶりの郷里は妙に新鮮に思われた。
 多分、それは響がいつからかピアノを弾くだけの日々を送り、街も山も川も何も目に入っていなかったせいでもあると、響にもわかっていた。
 こんなにも空も空気も澄んでいたのだろうか。
 まるで吟遊詩人もどきで、樹々の色や匂いや手触りを楽しんだ。
 講師になって高校の教壇に立ったのは秋のことだったが、何もかもが慌ただしく、いつの間にか冬が来て春が訪れた。
 尾上に感化されたわけではないが、全てが新しくなる四月からは、心機一転、響は地に足をつける努力をしようと決めた。
 講師も始業式から出席するように学校側からは言われていた。
 スーツも新調した。
 変人と言われるのは構わないが、学校にいる時くらいは、教師らしくしようと、シックに決めてきたつもりだった。
「キョーちゃん、可愛いね、そのスーツ」
 早速響を見つけて、ふざけたヤジを飛ばしてきたのは例によって寛斗だ。
 やつに踊らされるな! 無視だ、無視!
 午後からは入学式もあるから、せめて新入生には極力バカにされないようにしないと。
 クールに、クールに。
 だが、そんな響にとって突発的なあり得ない出来事が待っていた。
 入学式をなんとか無事やり過ごした響が、校舎をあとにして足早に飛び込んだのは伽藍だ。
 勢いよく開いたドアに、元気が顔を上げた。
「いらっしゃい。今日は早いんですね」
 元気がオーナー兼マスターを務める、土蔵を改造した喫茶店は割と空いていた。
 気もそぞろにカウンターに陣取った響に、「似合ってますね、今日入学式だったんだ」と元気がほほ笑んだ。
「あ、ああ。えっとブレンド」
 結構冷静だと思っていた自分が、こんなにパニクるとか、思ってもみなかった。
「どうかしたんですか?」
 珈琲を一口飲んだ響が、思い詰めた顔でふう、と大きく息をついたところで、元気が尋ねた。
「井原が………」
「え?」
「井原が現れたんだ、目の前に。俺とうとう幻覚を見たのかと……」
 まるであの日の続きのように、「あ、響さん、いい天気でよかったですね」などと言いながら、新任式が終わった講堂で、井原が声をかけてきたのだ。
 一体全体何がどうなっているんだ?
「やだな、響さん」
 元気が声をあげて笑った。
「この春から、井原、物理の教師になったんですよ。副担も持たされるとかって」
「へ?!」
 元気の説明に、響は思わず立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
 心配されて、響はまた椅子に座り直した。
 そんな現実は全く想定外だ。
 なんで………
 起こりえない偶然が起こるんだ。
 いや、尾上だって戻ってきてガラス屋継いでいたりするわけで、起こり得ないということもないのか。
「しかし……こないだ、井原はイエール大にいるって……」
 元気に文句を言ったところで何も変わらないことはわかっていた。
「俺もつい二日ほど前、聞いたんですよ、本人に。この店に急に現れて」
 休みのうちにと響はあちこちにホイホイ出かけていたので、この店に来るのも少しばかり間があいた。
 その間に井原はこっちに戻ってきたというわけか。
 いや、教員ということならもうかなり前から決まっていたはずだ。
「親もいるからとか言ってましたけど。プラネタリウムの館長とは古い付き合いでずっと連絡とってたみたいなんですよね」
 確か井原は二人姉弟で、父親は計理士とか固い仕事だったと聞いたことがある。
 だが響の家とは違って家族みんな仲がいい、と言っていた。
 そういう家庭に育つとあんな陽気な少年が育つんだな。
 プラネタリウムか。
 昔、急に連れていかれたことがあった。
 星々のことを語る井原は夢見る天文少年そのものだった。
 だがもうそれははるか昔の話だ。
 響の知っている星が好きで音楽が好きで陽気な少年は、さっき目の前に現れた天文学者の井原先生ではないのだ。
「週末、ここで、井原の歓迎会やるんですよ。響さんももちろん来ますよね?」
「え?………いや、俺はほら、お前らとは学年が違うし」
 さらなる動揺を見抜かれまいと、響は密かに息を整える。
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