そんなお前が好きだった

chatetlune

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そんなお前が好きだった 5

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 離れと母屋は廊下でつながっていて、雨の日や雪の日は屋根だけなので湿気も寒さもダイレクトだが、食事が作ってもらえる環境というのは響にとってはありがたいことだった。
 何のかのいっても、俺って軟弱だよな。
 オヤジと折り合いが悪いとか言いながら、ちゃっかり実家に戻ってきてるんだから。
 食費と家賃として月五万を父親に渡しているが、地味にリサイタルや演奏会で貯えてきたものも増築や引っ越し費用で大半が消えてしまった。
 とにかく稼がないとな。
 どうせ父親はピアノ弾きなどごく潰しとか思っているのだろう。
 音大を受けたいと言った時に、もう既にそんなことを言われていた。
 父親の出たT大とは言わなくても、せめて卒業しても就職に有利な普通の大学にでも入っていれば、ここまで壁ができることもなかったかもしれない。
 もっとずっと子供の頃は、父親の笑顔も見たことがあった気がする。
 母親の手料理を囲む団欒。
 そんな穏やかな幸せが続いたのは、母親が出ていくまでのことだ。
 響は中学に入ったばかりだった。
 ピアノを教えてくれたのは音大を出た母親だった。
 母親はピアノ教室をやりたかったらしいが、父親に反対されてできなかったらしい。
 堅物の銀行員と、音楽を愛する母親の間に亀裂が入り始め、母親から笑みが消えていった。
 二世帯住宅で祖父と祖母は一階に、響ら三人は二階に住んでいたのだが、祖母は父親が東京から連れてきた母親をあまりよく思っていなかった。
 美しくて華奢でどこか女優のような華があった品のいい母親は、響にとっては優しくて明るく温かな手をしたこの世で一番大切な存在だったから、その母親にきつくあたる祖母が響は大嫌いだった。
 体裁ばかりを気にして、ことあるごとにうちの嫁は云々と口にする祖母に、思い余った響が言い返したことがあった。
「嫁じゃなくて、美晴です」
 睨み付ける響を、祖母は、嫁に似て可愛げのない子だ、などと言い捨てた。
 以来、響は祖母をほとんど憎悪した。
 持ち前の明るさですぐにご近所にも溶け込み、友人知人も多かった母親だが、銀行の支店長の妻という夫から押し付けられた位置におそらく耐えられなくなったのだろう。
 ジェンダーギャップが百位以下で、先進国などという殻を被った日本の最もくだらない歪みに押しつぶされた被害者だと、響は出て行った母親の心に今は思いをはせている。
 出て行ってからは一度も会ったこともないしどこにいるかも知らない。
 ピアノを続けることを応援してくれた祖父は好きだったが、祖母も父親も大嫌いだった。
 家にいるのも嫌で早く出ていきたいと思っていた。
 冷めた目で周りを見て、一人でいることを好んでいた響だが、高校二年の春、そんな響の人生観を一八〇度変えさせた新入生がいた。
 井原渉。
 思わずくすりと笑ってしまうような井原との出会いを、響は今も忘れたことはない。
 ちょうどこんな春めいた日の放課後のことだったなと、響は晴れた空を見上げた。
 音楽部の生徒たちが来る前に、少しピアノを弾いていた響は、ボールを追いかけるサッカー部員の大きな声に、気をそがれて窓辺に立った。
 昨日の卒業式は雪がちらついて真冬に戻ったかと思われるような一日だったが、今日は昨日の雪がウソのように空は晴れて、春の声はすぐ傍まで来ていることを感じさせた。
 走る生徒たちを見ていると、不意にあの頃に戻ったかのように思うことがある。
 戻れるものならあの頃に戻って、もう一度高校生をやりなおしたくなる。
 そしたらもっと、たくさん友達と遊んだりボールを蹴ったり、井原とももっとたくさん話したり笑ったり………。
 あーあ、何考えてるんだ俺は。
 響は自分に呆れて笑う。
 と、その時。
 ガッシャーーーーーーン!!!
 ちょうど響が外を見ていた窓の隣の窓ガラスを突き破ってサッカーボールが飛び込んだ。
 響が驚いて固まってしまったのは、ボールが飛び込んでガラスを割ったことではない。
 まるであの時と同じことが目の前で起こったからだ。
「うっわー、すみませーん!」
 走ってきて窓の外で響を見上げた生徒が大きな声で言った。
 響は一瞬、井原がそこに立っているかのように錯覚した。
「ひええええ、すみませーん、怪我なかったですか?!」
 あの時、学生服のひょろっと背の高い生徒が、真顔で響を見つめていた。
「おい、キョーちゃん! 大丈夫かよ?!」
 いつのまにか教室のドアを開けて入ってきた生徒が、でかい声で響に駆け寄った。
「お…前、寛斗! 何やってんだよ!!」
 我に返った響はがっしりとした体形の割に笑うと可愛いと評判の顔を見上げて怒鳴りつけた。
「いや、怪我したかと思って心臓バクバクだったぜ。どこも怪我ないな? よし!」
 にっこり笑う寛斗の頭を響は手ではたく。
「あ、暴力教師はいかんぜよ」
 その程度へとも思っていない顔で寛斗は言った。
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