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空は遠く 59
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「お前か。何だよ」
たったさっき話題に上がったのが通じたかのように相手は坂本だった。
「何だかじゃねぇよ、成瀬、ちゃんと送り届けたんだろうな?」
「それどこじゃねんだよ、こっちは! 取り込み中だ、切るぞ」
「おい、取り込み中って、何だよ、お前、まさか!!!!!」
坂本が怒鳴りつけた。
「でけぇ声出すな! ラッキーが一大事なんだ。切るぞ!」
「おい………」
坂本がまだ何か言っているのをさっさと切ると、力は待合室に戻る。
「山本くん、こんな時間までつきあわせて悪かったね、家の方が心配しているだろう、お礼はまたあらためてさせてもらうよ」
「いや、俺……」
一人暮らしだから、と言おうとして、郁磨の言外にお前は帰れと言われているのかもしれないと勘ぐった力は言葉を飲み込んだ。
「それじゃ、お大事に」
踵を返して力は病院を出る。
暗い空から小雨が降りだしていた。
力は闇の中へと駈け出した。
昼近くになっても夜半から降り出した雨はまだやみそうになかった。
「この雨じゃ、客足、まばらって感じっすよねぇ」
ドアの近くに傘立てを置き、マサがモップを持ったまま外を見やった。
土曜日のこの時間、いつもなら常連さんに週末のみの常連客も混じって「ワンちゃん猫ちゃんとご一緒に カフェ・リリィ」の稼ぎ時なのだが。
ワンちゃん猫ちゃんとはあるものの、大抵はトイプードルや豆柴、ミニチュアダックスやチワワなどの小型犬をファッションアイテムのように抱いた女性客が多いのだが、大型犬では割と珍しいゴールデンドゥードル連れの夫婦や、たまに散歩に慣れたペルシャ連れの有閑マダムなども立ち寄ったりする。
店長の練やオーナーの百合江がいると長居する客がほとんどだが、中には躾の行き届いたボーダーコリーを足元に、静かに本を読んでいったりする若い女性客もいる。
「タローや力が陣取ってるから、雨も止まないんじゃないのか?」
「何だよ、それ」
奥のソファにふんぞり返っている力が、カウンターの中の練を睨みつけた。
「夕べ、ちゃんと成瀬くん、送り届けたのか?」
練に問われて、力はたちまち苦々しい顔になる。
気になっていたので今朝方河喜多動物病院に寄ってみたのだが、ラッキーは意識を取り戻し、ようやく成瀬兄弟も帰ったのだという話だった。
「一週間くらいしたら少しずつ動かすようにして、入院はまあ、二週間ってとこだな。思い切り走り回れるようになるには半年はかかるだろう」
タローの兄弟だけあって、あの子は丈夫だな、と容態を尋ねた力に老医師は言った。
それを聞いて胸につかえていたものが取れたような気がした力だが、つかえていたものはラッキーの容態のことだけではないことはよくわかっていた。
「来週、佐藤さんが休みだから、また手伝いに来い。勉強になるぞ」
半分強制的に言われて、「手が空いたらな」と返したものの、心のうちではもう行くつもりになっていた。
河喜多動物病院は院長と助手をしている奥さんの他に、受付やその他諸々を一手にやってくれている佐藤という女性がいるのだが、ちょうどタローの予防接種の際、佐藤さんが四苦八苦していた大型犬の補助など手伝わされてからというもの、力はちょこちょこ手伝いに行っていた。
院長にはやはり獣医になった一人娘がいるのだが、当然あとを継ぐものと思っていたところが、最先端医療を学びたいとアメリカに留学してしまったのだ。
しかも留学先で知り合った獣医と結婚し、どうやら日本には戻らなそうである。
好きにしろと快く娘を行かせたものの、少しばかり残念そうにしていた院長のことを、力は嫌いではなかった。
口は悪いが、今時やっていけるのかという良心的も度を超えたやり方で、特に奥さんが受付をやっていたりすると、後で持ってくるなどと言われて治療費を取りはぐれたりなんてこともままあったりするのだ。
「とろとろしてっからだ、ジジイ!」
「フン、猫を連れてきただけでもよしとするさ」
力の方がイライラと怒鳴りつけるのだが、そんな時でも河喜多医師はもはや済んだことだと笑い飛ばしていた。
「おい、力、何をぼおっとしてんだ?」
コーヒーとサンドイッチを力の前のテーブルに置きながら、練が顔を覗き込む。
「うっせぇな」
「成瀬くん、ちゃんとうちに送ったのかって」
力はちっと舌打ちする。
「あいつんちの犬が事故ったんだよ」
「ああ?」
「だから、夕べは河喜多のジジイんとこだったんだって」
一段とぶすくれた顔で力はコーヒーをすする。
「そいつはまた……それで、大丈夫なのか? 成瀬くんとこの犬」
「まあな」
その時ドアが開いて、力を除けば朝から二人目の客を見た途端、練にしてはこれ以上ないくらい愛想の良い顔を向けた。
「いらっしゃいませ……って、成瀬くんじゃないか」
力も練の声につられて振り返る。
「こんにちは。あの、夕べまた、ご迷惑おかけしたみたいで、すみませんでした」
「いやいや……」
「わざわざ礼を言われるようなことじゃねぇさ、俺らがってより、坂本のやつが騒ぐから勝手にやったことだし、お前に恩を売る気はねぇ」
練にしては優しく言葉をかけようとしたところへ力が割り込んだ。
「あのな、成瀬くんは俺に、言ってるんだ。気にしないで、何かあったらいつでも呼んでくれていいから」
強面に似合わぬ笑顔を浮かべて練がとりなそうとする。
たったさっき話題に上がったのが通じたかのように相手は坂本だった。
「何だかじゃねぇよ、成瀬、ちゃんと送り届けたんだろうな?」
「それどこじゃねんだよ、こっちは! 取り込み中だ、切るぞ」
「おい、取り込み中って、何だよ、お前、まさか!!!!!」
坂本が怒鳴りつけた。
「でけぇ声出すな! ラッキーが一大事なんだ。切るぞ!」
「おい………」
坂本がまだ何か言っているのをさっさと切ると、力は待合室に戻る。
「山本くん、こんな時間までつきあわせて悪かったね、家の方が心配しているだろう、お礼はまたあらためてさせてもらうよ」
「いや、俺……」
一人暮らしだから、と言おうとして、郁磨の言外にお前は帰れと言われているのかもしれないと勘ぐった力は言葉を飲み込んだ。
「それじゃ、お大事に」
踵を返して力は病院を出る。
暗い空から小雨が降りだしていた。
力は闇の中へと駈け出した。
昼近くになっても夜半から降り出した雨はまだやみそうになかった。
「この雨じゃ、客足、まばらって感じっすよねぇ」
ドアの近くに傘立てを置き、マサがモップを持ったまま外を見やった。
土曜日のこの時間、いつもなら常連さんに週末のみの常連客も混じって「ワンちゃん猫ちゃんとご一緒に カフェ・リリィ」の稼ぎ時なのだが。
ワンちゃん猫ちゃんとはあるものの、大抵はトイプードルや豆柴、ミニチュアダックスやチワワなどの小型犬をファッションアイテムのように抱いた女性客が多いのだが、大型犬では割と珍しいゴールデンドゥードル連れの夫婦や、たまに散歩に慣れたペルシャ連れの有閑マダムなども立ち寄ったりする。
店長の練やオーナーの百合江がいると長居する客がほとんどだが、中には躾の行き届いたボーダーコリーを足元に、静かに本を読んでいったりする若い女性客もいる。
「タローや力が陣取ってるから、雨も止まないんじゃないのか?」
「何だよ、それ」
奥のソファにふんぞり返っている力が、カウンターの中の練を睨みつけた。
「夕べ、ちゃんと成瀬くん、送り届けたのか?」
練に問われて、力はたちまち苦々しい顔になる。
気になっていたので今朝方河喜多動物病院に寄ってみたのだが、ラッキーは意識を取り戻し、ようやく成瀬兄弟も帰ったのだという話だった。
「一週間くらいしたら少しずつ動かすようにして、入院はまあ、二週間ってとこだな。思い切り走り回れるようになるには半年はかかるだろう」
タローの兄弟だけあって、あの子は丈夫だな、と容態を尋ねた力に老医師は言った。
それを聞いて胸につかえていたものが取れたような気がした力だが、つかえていたものはラッキーの容態のことだけではないことはよくわかっていた。
「来週、佐藤さんが休みだから、また手伝いに来い。勉強になるぞ」
半分強制的に言われて、「手が空いたらな」と返したものの、心のうちではもう行くつもりになっていた。
河喜多動物病院は院長と助手をしている奥さんの他に、受付やその他諸々を一手にやってくれている佐藤という女性がいるのだが、ちょうどタローの予防接種の際、佐藤さんが四苦八苦していた大型犬の補助など手伝わされてからというもの、力はちょこちょこ手伝いに行っていた。
院長にはやはり獣医になった一人娘がいるのだが、当然あとを継ぐものと思っていたところが、最先端医療を学びたいとアメリカに留学してしまったのだ。
しかも留学先で知り合った獣医と結婚し、どうやら日本には戻らなそうである。
好きにしろと快く娘を行かせたものの、少しばかり残念そうにしていた院長のことを、力は嫌いではなかった。
口は悪いが、今時やっていけるのかという良心的も度を超えたやり方で、特に奥さんが受付をやっていたりすると、後で持ってくるなどと言われて治療費を取りはぐれたりなんてこともままあったりするのだ。
「とろとろしてっからだ、ジジイ!」
「フン、猫を連れてきただけでもよしとするさ」
力の方がイライラと怒鳴りつけるのだが、そんな時でも河喜多医師はもはや済んだことだと笑い飛ばしていた。
「おい、力、何をぼおっとしてんだ?」
コーヒーとサンドイッチを力の前のテーブルに置きながら、練が顔を覗き込む。
「うっせぇな」
「成瀬くん、ちゃんとうちに送ったのかって」
力はちっと舌打ちする。
「あいつんちの犬が事故ったんだよ」
「ああ?」
「だから、夕べは河喜多のジジイんとこだったんだって」
一段とぶすくれた顔で力はコーヒーをすする。
「そいつはまた……それで、大丈夫なのか? 成瀬くんとこの犬」
「まあな」
その時ドアが開いて、力を除けば朝から二人目の客を見た途端、練にしてはこれ以上ないくらい愛想の良い顔を向けた。
「いらっしゃいませ……って、成瀬くんじゃないか」
力も練の声につられて振り返る。
「こんにちは。あの、夕べまた、ご迷惑おかけしたみたいで、すみませんでした」
「いやいや……」
「わざわざ礼を言われるようなことじゃねぇさ、俺らがってより、坂本のやつが騒ぐから勝手にやったことだし、お前に恩を売る気はねぇ」
練にしては優しく言葉をかけようとしたところへ力が割り込んだ。
「あのな、成瀬くんは俺に、言ってるんだ。気にしないで、何かあったらいつでも呼んでくれていいから」
強面に似合わぬ笑顔を浮かべて練がとりなそうとする。
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