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空は遠く 58
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それからどれだけ時間が経過したか、佑人は気の遠くなるような思いでじっと待ち続けた。佑人の肩を抱いた郁磨も、壁に凭れて腕を組んだままの力も、言葉はなかった。
手術室のドアが開いて院長の河喜多と助手を務めた女性が出てくると、よろけながら佑人は立ち上がった。
「とりあえずできることはやった」
「何だよ、ジジイ、その言い方! 大丈夫なんだろ?!」
徐に口を開いた老医師に食って掛かったのは力だった。
「手術はこれ以上にない上出来だ。だが、勝負はこれからだ。かろうじて内臓損傷は免れたものの、腹部、頭部打撲、大腿骨骨折、前足裂傷、おそらく車にはねられたんだろうが、よくうちの庭まで歩いて戻ったものだ。五歳か。まあ打撲の方は腫れが引けば問題ないだろう」
「そばに…ついてていいですか?」
老医師は佑人を見た。
「勝手にせい」
老医師がドアを開けると、佑人は酸素マスクをつけられ、痛々しげなようすで横たわる大型犬の傍に立ち竦んだ。
「ラッキー……」
身動きしない前足に触れると、佑人の目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。
後ろから入ってきた郁磨と力はしばらくそのようすを見ていたが、郁磨は老医師の元に戻ると忘れていた礼を言った。
「ほんとにありがとうございました。夜分にもかかわらず」
「わしはちょっと休む。何かあったら知らせてくれ」
「おい、待てよ! ジジイ! ほんとのとこ、大丈夫なんだろうな!?」
自宅へと続くドアを開けようとした老医師を手術室から出てきた力が呼び止めた。
「手術は上出来だと言ったろうが! 第一、何でここにお前がいるんだ、山本のクソガキが!」
術衣を取りながら、老医師はすぐに「ああ、そうか、タローの兄弟か」と納得したような顔をした。
「どこかで見た犬だと思ったが、フン、なるほどな、あのタローの兄弟ならちょっとやそっとじゃくたばらないだろ」
老医師は力を睨みつけるとドアを閉めた。
「クッソジジイ!」
ドアに向かって毒づくと、手術室の方へ目をやってから、力は大きく息を吐いた。
「ありがとう。君がいてくれて助かったよ。ひょっとして、佑人が小学校の時、ラッキーをくれたのは君なのかな?」
穏やかだが思いがけない質問に、力は一瞬、戸惑いを隠せなかった。
「くれたっていうか、公園に仔犬が捨てられてて、ちょうど成瀬が通りかかったんで」
「捨てたり保健所にやったりしたら承知しない、って」
郁磨は笑みを浮かべていた。
「親にだって口を出させないって断言したって、確か夏休みに入る前だったかな、まるでスーパーマンか何かみたいに、あの時の佑人にとって君はヒーローだったみたいだよ。新学期が始まったら、いろいろ君に報告しなくちゃって夏休み中、あの夏はうち中がラッキー中心だったな」
「え…………」
力は郁磨を見つめた。
郁磨が語る佑人は力にとって想定外だった。
「俺は結構世の中うまく渡っていくタイプなんだけど、佑人ってちょっと真っ直ぐ過ぎてね、こっち、日本に戻ってきてから周りに馴染めなくて心配していたんだ。ようやく馴染めたかなと思うと、中学の時も何か色々あってね。家族にも心を閉ざしてしまったりで、佑人にとってはラッキーだけがずっと心を許せる相手なんだ」
小学校のあの夏休み明け、おずおずと自分に声をかけてきた佑人のことを、力ははっきり覚えていた。
それなのにあの時、つい裏腹な言葉を口にしてしまっていた、そのことも。
「今日は飲み会を予定していた教授が風邪でダウンして日を改めることになって、早々にうちに帰ったんだ。そしたらラッキーが蹲っててね。慌てて車に乗せて行きつけの病院に行ったんだが、七時過ぎてたし、電話にも誰も出ないし、携帯で他の病院探してここを見つけて電話したら運よく先生がいて、連れて来いって言ってもらって。タローってラッキーの兄弟、ここがかかりつけだって?」
「あ、ええ、まあ。昔、この近所に住んでたんで」
「しょっちゅう怪我だ何だって連れてくるが、血だらけになりながら走り回って躾がなってないって、先生が」
郁磨は笑った。
「あいつはまあ、一度躾教室とか入れたけど、てんでダメで。一応、俺の言うことは聞くんだが」
「あれ、でもそういえば、確か、山本力くんじゃなかったかな、仔犬をくれた子の名前」
改めて郁磨に問われ、力はうっと言葉に詰まる。
まさかこんなところでこんな状況になるとは思ってもいなかったのだが。
「あ、いや、あの、わりぃ……、あの、ほんとは山本です。ってか、あの、俺、素行が悪いって評判らしいんで、ちょっと成績いい奴の名前をつい………」
ぼそぼそと尻すぼみに言い訳する力を見て、郁磨は噴き出した。
「評判らしいって、面白い子だねぇ。すると柳沢が家庭教師やってる子ってのは」
「あ、そっちは本物の坂本です」
「なるほど。いずれにしてもありがとう。一度佑人を呼び出したけど出なかったから、検査をして状況がわかってからの方がいいかと思って、手術に入ってから連絡したんだ」
郁磨はドアを隔てた向うにいる佑人とラッキーを見ているようだった。
「俺は楽観的なんだけどね、佑人は状況に同調しがちだから」
そう言いながらも郁磨が色々と力に話をしたのは、ラッキーと佑人をひどく心配して、話をしないではいられなかったのではないかと、力はいかにも聡明そうな郁磨の表情を見つめた。
ポケットで携帯が鳴った。
力は待合室から外に出た。
手術室のドアが開いて院長の河喜多と助手を務めた女性が出てくると、よろけながら佑人は立ち上がった。
「とりあえずできることはやった」
「何だよ、ジジイ、その言い方! 大丈夫なんだろ?!」
徐に口を開いた老医師に食って掛かったのは力だった。
「手術はこれ以上にない上出来だ。だが、勝負はこれからだ。かろうじて内臓損傷は免れたものの、腹部、頭部打撲、大腿骨骨折、前足裂傷、おそらく車にはねられたんだろうが、よくうちの庭まで歩いて戻ったものだ。五歳か。まあ打撲の方は腫れが引けば問題ないだろう」
「そばに…ついてていいですか?」
老医師は佑人を見た。
「勝手にせい」
老医師がドアを開けると、佑人は酸素マスクをつけられ、痛々しげなようすで横たわる大型犬の傍に立ち竦んだ。
「ラッキー……」
身動きしない前足に触れると、佑人の目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。
後ろから入ってきた郁磨と力はしばらくそのようすを見ていたが、郁磨は老医師の元に戻ると忘れていた礼を言った。
「ほんとにありがとうございました。夜分にもかかわらず」
「わしはちょっと休む。何かあったら知らせてくれ」
「おい、待てよ! ジジイ! ほんとのとこ、大丈夫なんだろうな!?」
自宅へと続くドアを開けようとした老医師を手術室から出てきた力が呼び止めた。
「手術は上出来だと言ったろうが! 第一、何でここにお前がいるんだ、山本のクソガキが!」
術衣を取りながら、老医師はすぐに「ああ、そうか、タローの兄弟か」と納得したような顔をした。
「どこかで見た犬だと思ったが、フン、なるほどな、あのタローの兄弟ならちょっとやそっとじゃくたばらないだろ」
老医師は力を睨みつけるとドアを閉めた。
「クッソジジイ!」
ドアに向かって毒づくと、手術室の方へ目をやってから、力は大きく息を吐いた。
「ありがとう。君がいてくれて助かったよ。ひょっとして、佑人が小学校の時、ラッキーをくれたのは君なのかな?」
穏やかだが思いがけない質問に、力は一瞬、戸惑いを隠せなかった。
「くれたっていうか、公園に仔犬が捨てられてて、ちょうど成瀬が通りかかったんで」
「捨てたり保健所にやったりしたら承知しない、って」
郁磨は笑みを浮かべていた。
「親にだって口を出させないって断言したって、確か夏休みに入る前だったかな、まるでスーパーマンか何かみたいに、あの時の佑人にとって君はヒーローだったみたいだよ。新学期が始まったら、いろいろ君に報告しなくちゃって夏休み中、あの夏はうち中がラッキー中心だったな」
「え…………」
力は郁磨を見つめた。
郁磨が語る佑人は力にとって想定外だった。
「俺は結構世の中うまく渡っていくタイプなんだけど、佑人ってちょっと真っ直ぐ過ぎてね、こっち、日本に戻ってきてから周りに馴染めなくて心配していたんだ。ようやく馴染めたかなと思うと、中学の時も何か色々あってね。家族にも心を閉ざしてしまったりで、佑人にとってはラッキーだけがずっと心を許せる相手なんだ」
小学校のあの夏休み明け、おずおずと自分に声をかけてきた佑人のことを、力ははっきり覚えていた。
それなのにあの時、つい裏腹な言葉を口にしてしまっていた、そのことも。
「今日は飲み会を予定していた教授が風邪でダウンして日を改めることになって、早々にうちに帰ったんだ。そしたらラッキーが蹲っててね。慌てて車に乗せて行きつけの病院に行ったんだが、七時過ぎてたし、電話にも誰も出ないし、携帯で他の病院探してここを見つけて電話したら運よく先生がいて、連れて来いって言ってもらって。タローってラッキーの兄弟、ここがかかりつけだって?」
「あ、ええ、まあ。昔、この近所に住んでたんで」
「しょっちゅう怪我だ何だって連れてくるが、血だらけになりながら走り回って躾がなってないって、先生が」
郁磨は笑った。
「あいつはまあ、一度躾教室とか入れたけど、てんでダメで。一応、俺の言うことは聞くんだが」
「あれ、でもそういえば、確か、山本力くんじゃなかったかな、仔犬をくれた子の名前」
改めて郁磨に問われ、力はうっと言葉に詰まる。
まさかこんなところでこんな状況になるとは思ってもいなかったのだが。
「あ、いや、あの、わりぃ……、あの、ほんとは山本です。ってか、あの、俺、素行が悪いって評判らしいんで、ちょっと成績いい奴の名前をつい………」
ぼそぼそと尻すぼみに言い訳する力を見て、郁磨は噴き出した。
「評判らしいって、面白い子だねぇ。すると柳沢が家庭教師やってる子ってのは」
「あ、そっちは本物の坂本です」
「なるほど。いずれにしてもありがとう。一度佑人を呼び出したけど出なかったから、検査をして状況がわかってからの方がいいかと思って、手術に入ってから連絡したんだ」
郁磨はドアを隔てた向うにいる佑人とラッキーを見ているようだった。
「俺は楽観的なんだけどね、佑人は状況に同調しがちだから」
そう言いながらも郁磨が色々と力に話をしたのは、ラッキーと佑人をひどく心配して、話をしないではいられなかったのではないかと、力はいかにも聡明そうな郁磨の表情を見つめた。
ポケットで携帯が鳴った。
力は待合室から外に出た。
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