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一話完結物語

赤く染まる世界に立つ、戦士のように

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 今日も、日が沈む。
 夕日を眺めながら、青年は漠然とした不安や焦燥感、やるせない思いを抱いていた。
 なぜ夕日を見ると、こうも感傷的な気持ちになるのだろうか。
 その思いに根拠を見いだせないまま、青年は家路につく。
 食べていくための仕事を終えて、一人暮らしの狭いアパートへと。

 家に帰り、眠るまでの時間を潰し、また仕事へ行く。
 そんな日々の繰り返し。
 以前の青年は、家に居る時間、小説を書いて過ごしていた。
 学生の頃に、作文を褒められたのをきっかけに、思いを文字にすることの楽しさに気づき。
 漫画や小説を読むのが好きだったことから、物語を描ける人に憧れ、自らもまたそう在りたいと願った。
 作家になる夢を追いかけて、そのために、時間の自由がきくフリーターという道を選んだ。
 少しでも、書く時間を増やせるようにと。

 しかし、賞に応募しても思うような評価を得られないまま月日が経ち。
 次第に青年にとって、書くことは苦痛になっていった。
 もはや書きたいことがなかった。何を書けばいいのかもわからなかった。
 書けないものを無理に書こうとすることは、ただ、苦痛だった。
 そんな生活の中で、青年は一つの可能性に思い至った。

――僕は、文字を綴るのが好きなのではなく、物語を書くのが好きなのではなく……
――それによって、世間から評価される結果を求めていた、だけだったのかもしれない……

 それが真実かどうかは、わからなかった。昔の青年は確かに、それが好きで始めたのかもしれない。
 けれど今の青年に、もはや書くことが好きだという気持ちは無かった。
 好きでもないそれを続ける意味が見いだせなくなり、ついには書く事をやめてしまった。

 あとに残ったのは、少しの給料を得られる仕事と、退屈な日常だけ。
 今さら転職や、仕事に打ち込むことに、やる気を出すことも出来ないまま。
 どうせこの年まで定職についたことのない自分が、たいした仕事に就く事など出来はしないと、自分は終わった人間なのだと、一人の部屋で自嘲する。
 そんな生活の中で青年は、なぜ夕日が感傷的な感情を思い起こすのかに、思い至った。

――あぁ、そうか。一日の終わりを示すそれが、全ての“終わり”を象徴しているような気がして。それで僕は、やるせなさを覚えるのだ。

 陽光に溢れた昼が終わり、暗く冷たい夜が始まる。
 その終わりに、哀しさを覚えるのではないか。いや、哀しいのはむしろ、闇の始まりなのかもしれない。 

“終わり”という言葉のイメージを辿った先にあるのは、この命の終わりだった。
 子供の頃にも夕日を見ると、切ない気持ちになったのを思い出す。
 それは子供心に、言葉に出来なくとも、“終わり”を意識するからではなかったか。

 終わりを強く意識するほどに、全てが無価値だと感じられる。
 どうせ何をしたところで、最後には平等に、死んでいく。
 何をしたところで、何になるというのだ。
 子供の頃から心のどこかに抱えていた、虚無感。
 何かに打ち込んでいる時には忘れられていたその虚無感を、退屈な日々の中で、青年は強く意識するようになっていた。

 恋人でも居ればまた違ったのだろうかと、思わないこともなかった。
 けれど青年は、すぐにその思考を否定する。
 金もなく、何も持たない自分に、誰かを幸せにすることなど、出来るはずがない。
 その関係は、結局、自分を満足させるものではないだろう。
 しかし、では自分はどうすれば幸せを感じられるのかと考えても、皆目見当がつかなかった。

 いつかわからない終わりが、刻々と、この身にも迫っている。
 この人生が終わる前に、何かしなければ、何もしないままでは終われないと焦りながらも。
 何も出来ない現状から抜け出すことが、今の青年には、出来なかった。
 何をしても虚無感しか感じない、今の青年には。


 * * * *


 青年はインターネットで様々な人の言葉や知識に触れながら、色々なことを考えた。
 自分のような人間は、社会の底辺と呼ばれるのだろうと、半ば虐げられているような気持ちになりながら。
 自分の場合には自業自得でも、自分よりもずっとどうしようもない事情で、より厳しい生活をしている人達が居ることを思う。
 なぜ世の中は、人間社会は、こんな形になってしまっているのかと、憤りさえ覚えた。

 皆が自由に生きたいと思うのは、自分の幸せを考えるのは、当たり前で。皆、自分が可愛くて。
 けれどそんな世の中で、自由を、幸せを感じられない人達は、一体どうすればいいのだ。
 境遇は違っても、生きづらさを感じる人達に、青年の心は共鳴し、何か出来ることはないかと考えた。

 政治家の無能を叩く向きも世間にはあったが、それを思うことは、青年自身の心に暗い影を落とした。
 政治家だって、人間には違いない。しょせん、人間だ。
 万能ではない、出来ないことがある、無能さを抱えた……当たり前の、人間だ。過剰に期待して、何になるというのだ。
 だが、少なくとも、自分よりは有能だろうと、思わずにはいられなかった。
 何も為せていない、自分よりは。
 苛立ち任せに拳を振り上げ、誰かを叩こうと思ったところで、その相手が自分より有能ならば、自分の無能さが際立つだけだ。
 まして相手が自分より無能な相手だったなら……自分の残虐さに、苛立つだけだ。

 己の無力を自覚しながら、それでも何か無いかと考えるうち。
 青年は再び、小説を書き始めた。

 虐げられている人を、差別にさらされている人を、救うようなものを、書けはしないかと。
 投げ捨てた自分の言葉が、まだほんの少しでも、力を持つ可能性を信じて。

 けれど出来上がったそれを、読み返してみれば。
 そこにあったのは救いなどではなく、ただただ“攻撃性”だった。

 差別する者を差別し、攻撃する者を攻撃し、誹謗する者を誹謗し、搾取している者から搾取することで平等をなしとげようとするような思想。
 けれど、そこに描かれたものが、本質的に、差別や誹謗や搾取といった、他者への攻撃や侵害ならば。
 それは現在、差別を行っている者や、搾取している者と、何が違うというのか。
 
 自分の描きたいものはこれではないと、何度書き直しても、攻撃性は抜けなかった。
 それは、青年の中の鬱屈とした思いが、自分は恵まれていないという思いが、無意識のうちにもそうさせるものだったのだが、青年自身にはどうしようもなかった。

 作家になることを諦めずに書き続けていれば、何か違ったのだろうか。
 自分の言葉は、少しでも、力を持つことが出来ただろうか。
 今からでも……遅くはないだろうか。
 けれど何度書き直しても納得いかない現実に、続けたところでどうなるのだという思いが湧き上がる。

 無力さと、わずかな希望の間で。
 最後には、どうせ何を成し遂げたところで、死んでしまえば全て終わりだという思いに帰結する。
 少年の頃から抱え続けていた、その思いの前に。
 青年が信じていた、信じようとしていた、あらゆる価値や意味は、粉々に崩れ去るかのようだった。

 街を歩く、夕日に照らされた群衆の中に、笑顔を見ながら。
 青年は平静を装いつつ、心の中で毒づく。

――なぜ皆、笑っていられるんだ。この世界の無意味さに、無価値さに、気づかないのか……?


 * * * *


 自分は一体、何をしているんだ。
 こんなはずでは無かった。人生、こんなはずでは……
 この命を、このように、消費するはずでは……
 けれど焦っても、もがいても、目の前にあるのは、ただどうしようもない現実だった。
 青年にとっては、そのどうしようもなさだけが、現実だった。

 意味も、価値も、失いながら。
 それでも、日々は続いていく。
 自問を繰り返しながら生きる青年に、答えをくれる者は無かった。
 たとえ居たとしても、青年自身がそれを拒絶する心境にあった。
「生きていれば良いことがある」などと、「もっと自分を大切に」などと。
 そんな陳腐な言葉で救われたなら、どんなに良かったか。
 しかし全てに価値を見出せなくなった青年にとって、他者の言葉は、ただ空虚に響くだけだった。

 それでも、全ての者に等しく日は昇り、そして沈んでいく。
 いつしか青年は、人や社会よりも、自然に親しみを覚えるようになっていた。
 全ての人に平等に降り注ぐ、日の光や、自然の恵みに。あるいは、自然の厳しさに。
 生も死も、その厳しさも、全てはただ、平等に平等に、降り注ぐ。

――自然の雄大さを思えば、人間社会での決め事や、ヒトが作った価値観など、なんとちっぽけなことだろうか。

 生きる事に意味を見出せなくなりながら、なぜ、自分は生きるのかと自問し。
 そもそも何故と語れるような意味など、この世界のどこにあるのか、全てはしょせん後づけなのではないかと達観し。
 心を病む富んだ者のことや、貧しくとも幸せに生きる者が居ることを思い、結局のところ、全ては平等に降り注ぐだけなのではないかと考え。
 けれど貧しいことは、孤独や、被虐ひぎゃく者であることは、やはり不幸なことにも思え、我が身を思えば再び虚無感に囚われる。
 それらの狭間はざまを巡りながら、青年は葛藤と自問自答を繰り返す。
 ぐるぐると回り続ける思考は、青年の中で螺旋を描き上昇するように、その意識を熟成させていく。

 救いを見出そうとし、それにすがるかのように、思考を繰り返す日々の中で。
 熟成された思考は、青年の感情を変え始めた。
 
 いつしか青年は、夕日をただ、美しいと感じるようになっていた。
 終わりを感じさせる夕日を、感傷を感じさせる夕日を。
 終わりも感傷も含めて、儚く消え去る可能性をはらんだ全てが、ただただ美しく感じられた。

 青年にとって“終わり”は、負の感情を伴うものではなくなっていた。

 昼の終わりは、夜の始まりだ。
 そして夜の終わりは、一日の始まりだ。
 終わりは全て、始まりをはらんでいる。
 そしてたとえ、終わりであることをいたもうとも、いとおうとも。始まりを、拒もうとしても。
 感情とは関係なく、価値観などあざ笑うように、ただ無機質に、全ては繰り返す。

 そうだ、本来、全てはただ無機質だ。
 幸も不幸もそこにはなく、ただただ、一つの色で染められている。
 全てが、夕日の赤に染められるかのように。
 政治家も、ホームレスも、ビル群も、野花も、何もかも何もかもが、全て等しく平等に。
 ちっぽけな人間の価値基準を離れてしまえば、全てがただ、一つの色で染め上げられる。
 意味や価値など、幻想だ。
 いかなる人生の意味にも、価値にも、囚われない思考で。

――唯一考えるべきは、ただ自分が今この瞬間、どう在るかだ。

 死に囚われていた時の青年は、明日死ぬかもしれないのに、なぜ人は無責任に約束を交わし、笑い合うことが出来るのかとさえ思っていたが。
 むしろその無責任さこそが、人が生きるということの現実にさえ思えた。

 夕日を見つめながら、あらゆる滅びを見つめながら。
 人の価値観や、そこにある思いの千差万別性など関係なく、全てを赤く赤く染めあげる夕日を見つめながら。
 青年は、思う。

 僕はただ、僕として生きる。
 社会人としてではなく、くだらないやつとしてでもなく、何かが出来る人としてでもなく、この国の人間としてでもなく、男としてでもなく……

 ただ、僕として。
 僕がここに在ることの意味は、誰でもない、僕自身の存在が体現する。
 何をしていても、僕が存在することが、その全てが、身をもってこの世界に示す、意味そのものだ。

 それ以上の言葉など、言葉に出来るような意味や目的など不要だとばかりに、決意を固め、真っすぐに太陽を睨む青年。
 その眼差しは沈みゆく陽を映し、燃えるように赤く。
 ただ、ありとあらゆる価値や意味を離れて、存在するこの瞬間だけを、見つめていた。
 たとえ次の瞬間に、予期せぬ死が待っていたとしても。
 その瞬間まで、自分は存在するのだという、覚悟をもって。

 その覚悟は、青年の心に、火を灯した。

 全てを焼き尽くすような夕焼けに、頬を赤く染められながら。
 あらゆる価値観や意味づけが破壊され尽くしたとしても、なお。
 青年は、生きる事を、見据えていた。
 いっそ清々しいとさえ感じながら。
 瓦礫の中からなお立ち上がる、終わりと始まりの力を備えた、戦士のような力強さをもって。

 虚無感も、弱さも、滅びも、全てを否定しないまま。
 夕日が全てを赤く染めるように、それら全てをただ一つの色で染め上げ、優劣をつけずに引き連れたまま。
 青年は生きる事と、この世界と対峙する。
 その身以外に、何も持たなくとも。
 力強く、力強く。

 赤く染まるその頬は、ただ夕日に染められたばかりではなく。
 青年の熱を、そこに映しているかのようだった。


 END
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