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一話完結物語
からっぽな私と、求める人に会える鍋
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職場の先輩が遊びに来ると言うので、私は部屋を片付けていた。
良い日本酒を入手したので、一緒に飲もうと言われたのがことの発端だ。
酒を持ってきてもらう分、私はつまみや料理を担当することになっていた。
メインは鍋にしようと思い、しまい込んであった土鍋を引っ張り出す。
以前、何気なく骨董品屋に入った時に買った、お気に入りの鍋だ。
比較的安価なものだったので、気兼ねなく普段使い出来る。
そして使う度にいつも、買った時の思い出に浸れる鍋でもあった。
雑多に雑貨が置かれたその店は、日常から切り離された異世界のようだった。
静寂で満たされた店内。普段目にするものとは、趣の違う品物達。
時代や文化の異なる異国に迷い込んだ様なそこで、ひと際目を引いたのがこの鍋だ。
模様や色合い、取っ手の形。その形容しがたい独特の雰囲気に惹かれて見入っていたところ、店主の老人から声をかけられた。
「その鍋が気になるのかい? その鍋は、会いたい人に会える鍋と言われていてね。
良縁成就の鍋とか、福を招く鍋とか言われているよ」
木の杖をついた、魔法使い然とした老人の言葉に、私はますますその鍋に惹かれた。
当時気になっている人がいて、その人と良い仲になれることを、心のどこかで期待しなかったと言えば嘘になる。
もっとも、その効果を心から信じていたわけではなく、ちょっとした気休めの縁起担ぎのようなものだったが。
結局、その人とは何がどうなることもなく、この鍋だけが手元に残った。
それで、良かったのだと思う。
あの人が私と、特別な仲になることを望まなかったのなら、それはそれで。自分から何か特別な行動をとるほどの気持ちは、私には無かった。ただ、それだけのことなのだ。
そんな自分への自嘲も含めて、今となっては良い思い出だった。
愛着を感じると同時に、そんな思い出と共にある鍋は、使う度に懐かしい気持ちになれる。
時計を見れば、もう先輩が来るまであまり時間が無かった。思い出も良いものだが、今の時間も大切だ。
私は急いで、鍋の仕込みにかかった。
* * * *
先輩が持ってきた純米吟醸に舌鼓を打ちながら、二人で寄せ鍋をつつく。
お酒は先輩の親戚がお歳暮に貰ったものを、譲ってもらったものだそうだ。その親戚もお酒は飲むのだが、吟醸酒は好みでは無かったらしい。
「夏でも冬でも、普通酒の熱燗が至高という人でね。
この前会った時に、お前は酒なら何でも好きだったよなと言って、譲ってくれたんだよ」
「先輩は、特にこのお酒が好きっていうのは無いんですか? 日本酒に限らず、ビールとか、ウイスキーとか」
「特に何が好きってことはないかなぁ。皆それぞれ良さがあるし、違った味わいがあるし。その上で、みんな大好きだよ。
あえていうなら、その時目の前にある酒が一番好き、かな。他のあの酒の方が好きだと思いながら飲むなんて、この一杯に失礼な気がするじゃないか」
「なるほど、確かにそうかもしれませんね」
先輩らしい言葉だな、と思う。
こだわりがなく、つかみどころがない。そんな印象の人だったが、皆に好かれる人だった。
それはきっと、先輩のこだわりの無さが、何に対しても興味を持たないゆえのものではなく。
何に対しても肯定的で楽し気な姿勢を見せる、ポジティブなものであるせいだろう。
皆同じように好きと言うことは、何も好きではないのと同じ。そんな空気を、先輩の「みんな大好きだよ」からは微塵も感じなかった。
「そういう君は、何が一番好きなのさ。普段は、何を飲んでいるの?」
そう問われて。
私は少し、考え込んだ。
ウイスキーのような強い酒は、喉を焼くようなアルコールの刺激が苦手だ。
フルーティーな香りの吟醸酒は美味しいものだったが、それが一番かと言われれば、よくわからない。
お酒を美味しいと思うことはあるけれど、普段一人で飲むことは少なかった。
つまるところ私のお酒が好きだという気持ちは、その程度のものなのだ。
「好きなお酒と言われると、難しいですね。あまり強くなくて、美味しいものなら何でも。
でも、普段はあまり飲まないんですよ。どちらかといえばお酒が好きと言うより、誰かとお酒を飲んでいる時間が、好きなのかもしれません」
「そっか、誰かと一緒に過ごす時間が好きなんだね」
「そう……かもしれませんね」
思えば私の人生はいつも、私自身だけでは語れないものであったように思う。
誰かとお酒を飲む時間が好きだから、お酒が好きで。
誰かに一緒にいたいと思って貰えたなら、その人と同じ時を過ごし。
誰かに評価してもらうために、仕事や趣味に打ち込んでいて。
けれど、誰にも評価されなくても、たとえこの世に私一人しか居なくてもやりたいことはと言えば……
相手に望まれていなくても、それでも一緒にいたいと望んでしまうような、誰かがいたかと言えば……
そこには、何も無いように思えた。
誰かを意識しなければ、求める気持ちすら湧かないそれは。本当に、私の望みなのだろうか。
「先輩は、例えばこの世に自分一人だけしかいなくても、やっぱりお酒を飲むのは楽しいと思いますか?」
「そうだねぇ、っていうか、それはもう飲むしかないでしょう。他にも色々なことをするとは思うけれど、生きて楽しいことをする以外に、やることなんか何も無くなっちゃうじゃないか」
あぁ、この先輩はそうだろうな、と思う。
瞬間ごとの、自分にとって楽しいことが何かを、知っている。いつでもそれを軸に生きているのが、傍から見てもわかる。
私の軸は、何だろうか。
他の誰かを基準にしなかったら、誰かの気持ちや、評価を基準にしなかったら……
やりたいことなんて、何もなくなってしまうんじゃないだろうか。
もしもこの世に自分一人しか居なかったら、きっと私は何がしたいのかさえわからず、頭がおかしくなってしまうような。
そんな気がした。
しかも、その時一緒に居て欲しいのは、特定の誰かではなく。誰かでさえあれば、それでいいような気持ち。
そんな私の、心の軸は、いったいどこにあるのだろうか。
そして、たとえ同じ状況でも、たとえ一人でも満たされていそうな先輩が、羨ましく思えた。
自分の軸を、ちゃんと持っていそうで。誰かの気持ちや評価に振り回されることなんて、無さそうで。
そんな先輩に比べて、私は……と、どこか自虐的な気持ちになる。
「たぶん私は、空っぽな人間なんですよ。だから、人を、求めているんだと思います。
けっこう皆、そうなんじゃないかとも思うんですけどね。もちろん、先輩みたいな人も世の中には居ると思うんですけど」
普段の私なら、口にはしなかったと思う。
酔いに押されて、零れた言葉。
その言葉に先輩は、ふむ、と考え込む仕草を見せた。
「いや、評価を求めるって意味では、まぁ、思う所もあるけれど。
空っぽな人間って意味では、似たようなものだと思うよ」
「そうですか?」
「うん、なんていうのかな……もしもこの世に酒が無かったら、酒が好きだっていう気持ちは生まれなかったんだろうし。
他の楽しいことにしたって、自分だけで成り立っている気持ちなんて、何にもない。
自分以外の誰かや何かがあるから、その誰かや何かが好きだっていう気持ちが生まれるし。嫌いっていう気持ちも生まれるし。
それは人間関係だけじゃなくて、全てのものが、そうなんだと思う。
誰かの言葉が、教師になったり反面教師になったりして、自分の考え方を作っていて。
何かとの関わりが、自分の気持ちや価値観を作っていて。
もしも世界との関わりが何にも無かったら、たぶん自分の中にあるものなんて、なんにもない。
自分だけで考えたこととか、自分だけで作り出したものなんて、なんにもない。
人間なんて、もともと空っぽなものなんだと思うよ、本当に」
「……そうかもしれませんね」
酒が入ったせいか、先輩はいつもより饒舌だった。
その言葉に、親近感を覚えるような、虚しいような気持ちになる。
人間なんて、空っぽな生き物だ。
自分だけで作り出したものなんて、なんにもない。
皆そうなんだと安心すると同時に、皆そんなものなんだという空虚さを覚える。
そんな私の気持ちが、伝わったのか。
先輩は、清濁全てを肯定するような微笑みを、私に向けた。
「でもさ、それで良いんじゃないかな。空っぽで良いんだよ、きっと」
「そういうものなんでしょうね、きっと」
自嘲と、諦めの混じったような、私の相槌に。
先輩は変わらず、ただただ、明るかった。
「いや、なんていうか……空っぽだからこそ、いいのさ。
例えばこの鍋、買った時から何か中身が一杯に詰まっていて、それを取り出せなかったら、他の鍋料理なんて作れないだろう?」
「まぁ、そうですよね」
「空っぽだから、色んな食材が入れられる。色んな味付けの料理が作れる。
色々な中身を詰め込んで、色々なダシが出て、味のハーモニーを楽しめる。
その中身こそ、その人自身だと、時には誰かも自分も評価してしまうけれど……
でも本当は、そんな評価では計れない、ただの器。だからこそ寄せ鍋もキムチ鍋もカレーも作れる、その価値は、中身だけを語る視点では計り知れないと思わないか?」
なるほど、確かに。
そう思って頷きかけて、けれどやっぱり中身も大事なように思い、私は異を唱える。
「でも、中身が何も無かったら、けっきょく何鍋にもならないじゃないですか。やっぱり、中身も重要だと思いますよ」
「もちろんそれも人間社会では、大事だったりもすると思うけれどね。
でも社会的な上っ面を抜きにしてしまえば、人間の本質なんて、きっとただの空っぽな器だよ。中身が何かなんて、本質とは関係ない。
例え中身が悪い評価を受けても、それは器がダメだってことにはならない。中身の出来栄えじゃなくて、ただの器であることを、もっと大事にしてもいいんじゃないかな。
だからこそ、色々な料理を楽しめるってもんでさ。
自分が空っぽだってことを知ってるってことは……
何でもないからこそ、何にでもなれることを、知ってるってことさ。
空っぽの鍋だからこそ、どんな料理も作れるように」
言われて、気づいた。
なるほど、確かにこの人もまた、空っぽの器なのだ。
それは、私よりもさらに、空っぽで。
好きとか嫌いとか、優劣を評価するための中身さえなく。
だからこそ……目の前にあるものを、皆好きだと言えるのだろう。
目の前の食材の味が、そのまま、この人の中では活きているのだ。
「先輩のように考えられたら、楽しく生きられるんでしょうね。私には、難しそうです」
「出来るさ。何も特別なことなんかじゃないよ。同じ空っぽ同士の、仲間じゃないか」
* * * *
気がつくと、私は横になっていた。
鍋を食べ、酒を飲むうちに、酔って眠り込んでしまったらしい。
痛む頭で、私は酒を飲みながら言葉を交わした人のことを思い出す。
――“先輩”とは、一体誰だ……?
記憶をたどる。
気心の知れた仲であるように話していたが。好ましい人であると、以前から感じていたように思っていたが。
あれは、誰だったのだ。
私は……
そうだ、私は一人で鍋を食べながら、貰い物のお酒を飲んでいて、そのまま寝入ってしまったのだ。
あの先輩は、目を覚ましてみればまるで知らない、夢の中の、その場限りの人物だった。
けれど交わした言葉は確かに、私の心の中に残っていた。
ずっと、自分が空っぽな人間だと思っていた。
人から受け取ったものや受け売りの知識で生きているだけの、その場その場の状況に反応して動いているだけの、本当の自分なんて何も持たない人間だと思っていた。
それを、心のどこかで恥じていて、そんな自分が嫌いだとさえ思っていたのに。
今はそんな自分も、悪くないと思えている。
それは明らかに、夢の中で会った先輩のおかげだった。
――あぁ、今の私に必要だったのは……あの先輩のような、人だったのだ。
目の前の鍋を見つめる。
会いたい人に、会える鍋。
そういえばこの鍋で食事を済ませた後は、妙に目覚めが良く、気分良く過ごせたのを思い出す。
鍋の栄養で、疲れが取れたのだと思っていたけれど。
もしかしたら、たとえ覚えていなくても、夢の中で求める人に会えていたからこそ、求める言葉を貰えていたからこそ、気分良く過ごせていたのではなかったか。
この鍋は、そういう鍋なのかもしれない。
中身を食べ終えて空っぽになった鍋を見ながら、“先輩”の言葉を思い出し、咀嚼する。
空っぽの、価値。
思い出が一つ増えた鍋は、昨日までよりももっと、お気に入りの鍋になっていた。
END
良い日本酒を入手したので、一緒に飲もうと言われたのがことの発端だ。
酒を持ってきてもらう分、私はつまみや料理を担当することになっていた。
メインは鍋にしようと思い、しまい込んであった土鍋を引っ張り出す。
以前、何気なく骨董品屋に入った時に買った、お気に入りの鍋だ。
比較的安価なものだったので、気兼ねなく普段使い出来る。
そして使う度にいつも、買った時の思い出に浸れる鍋でもあった。
雑多に雑貨が置かれたその店は、日常から切り離された異世界のようだった。
静寂で満たされた店内。普段目にするものとは、趣の違う品物達。
時代や文化の異なる異国に迷い込んだ様なそこで、ひと際目を引いたのがこの鍋だ。
模様や色合い、取っ手の形。その形容しがたい独特の雰囲気に惹かれて見入っていたところ、店主の老人から声をかけられた。
「その鍋が気になるのかい? その鍋は、会いたい人に会える鍋と言われていてね。
良縁成就の鍋とか、福を招く鍋とか言われているよ」
木の杖をついた、魔法使い然とした老人の言葉に、私はますますその鍋に惹かれた。
当時気になっている人がいて、その人と良い仲になれることを、心のどこかで期待しなかったと言えば嘘になる。
もっとも、その効果を心から信じていたわけではなく、ちょっとした気休めの縁起担ぎのようなものだったが。
結局、その人とは何がどうなることもなく、この鍋だけが手元に残った。
それで、良かったのだと思う。
あの人が私と、特別な仲になることを望まなかったのなら、それはそれで。自分から何か特別な行動をとるほどの気持ちは、私には無かった。ただ、それだけのことなのだ。
そんな自分への自嘲も含めて、今となっては良い思い出だった。
愛着を感じると同時に、そんな思い出と共にある鍋は、使う度に懐かしい気持ちになれる。
時計を見れば、もう先輩が来るまであまり時間が無かった。思い出も良いものだが、今の時間も大切だ。
私は急いで、鍋の仕込みにかかった。
* * * *
先輩が持ってきた純米吟醸に舌鼓を打ちながら、二人で寄せ鍋をつつく。
お酒は先輩の親戚がお歳暮に貰ったものを、譲ってもらったものだそうだ。その親戚もお酒は飲むのだが、吟醸酒は好みでは無かったらしい。
「夏でも冬でも、普通酒の熱燗が至高という人でね。
この前会った時に、お前は酒なら何でも好きだったよなと言って、譲ってくれたんだよ」
「先輩は、特にこのお酒が好きっていうのは無いんですか? 日本酒に限らず、ビールとか、ウイスキーとか」
「特に何が好きってことはないかなぁ。皆それぞれ良さがあるし、違った味わいがあるし。その上で、みんな大好きだよ。
あえていうなら、その時目の前にある酒が一番好き、かな。他のあの酒の方が好きだと思いながら飲むなんて、この一杯に失礼な気がするじゃないか」
「なるほど、確かにそうかもしれませんね」
先輩らしい言葉だな、と思う。
こだわりがなく、つかみどころがない。そんな印象の人だったが、皆に好かれる人だった。
それはきっと、先輩のこだわりの無さが、何に対しても興味を持たないゆえのものではなく。
何に対しても肯定的で楽し気な姿勢を見せる、ポジティブなものであるせいだろう。
皆同じように好きと言うことは、何も好きではないのと同じ。そんな空気を、先輩の「みんな大好きだよ」からは微塵も感じなかった。
「そういう君は、何が一番好きなのさ。普段は、何を飲んでいるの?」
そう問われて。
私は少し、考え込んだ。
ウイスキーのような強い酒は、喉を焼くようなアルコールの刺激が苦手だ。
フルーティーな香りの吟醸酒は美味しいものだったが、それが一番かと言われれば、よくわからない。
お酒を美味しいと思うことはあるけれど、普段一人で飲むことは少なかった。
つまるところ私のお酒が好きだという気持ちは、その程度のものなのだ。
「好きなお酒と言われると、難しいですね。あまり強くなくて、美味しいものなら何でも。
でも、普段はあまり飲まないんですよ。どちらかといえばお酒が好きと言うより、誰かとお酒を飲んでいる時間が、好きなのかもしれません」
「そっか、誰かと一緒に過ごす時間が好きなんだね」
「そう……かもしれませんね」
思えば私の人生はいつも、私自身だけでは語れないものであったように思う。
誰かとお酒を飲む時間が好きだから、お酒が好きで。
誰かに一緒にいたいと思って貰えたなら、その人と同じ時を過ごし。
誰かに評価してもらうために、仕事や趣味に打ち込んでいて。
けれど、誰にも評価されなくても、たとえこの世に私一人しか居なくてもやりたいことはと言えば……
相手に望まれていなくても、それでも一緒にいたいと望んでしまうような、誰かがいたかと言えば……
そこには、何も無いように思えた。
誰かを意識しなければ、求める気持ちすら湧かないそれは。本当に、私の望みなのだろうか。
「先輩は、例えばこの世に自分一人だけしかいなくても、やっぱりお酒を飲むのは楽しいと思いますか?」
「そうだねぇ、っていうか、それはもう飲むしかないでしょう。他にも色々なことをするとは思うけれど、生きて楽しいことをする以外に、やることなんか何も無くなっちゃうじゃないか」
あぁ、この先輩はそうだろうな、と思う。
瞬間ごとの、自分にとって楽しいことが何かを、知っている。いつでもそれを軸に生きているのが、傍から見てもわかる。
私の軸は、何だろうか。
他の誰かを基準にしなかったら、誰かの気持ちや、評価を基準にしなかったら……
やりたいことなんて、何もなくなってしまうんじゃないだろうか。
もしもこの世に自分一人しか居なかったら、きっと私は何がしたいのかさえわからず、頭がおかしくなってしまうような。
そんな気がした。
しかも、その時一緒に居て欲しいのは、特定の誰かではなく。誰かでさえあれば、それでいいような気持ち。
そんな私の、心の軸は、いったいどこにあるのだろうか。
そして、たとえ同じ状況でも、たとえ一人でも満たされていそうな先輩が、羨ましく思えた。
自分の軸を、ちゃんと持っていそうで。誰かの気持ちや評価に振り回されることなんて、無さそうで。
そんな先輩に比べて、私は……と、どこか自虐的な気持ちになる。
「たぶん私は、空っぽな人間なんですよ。だから、人を、求めているんだと思います。
けっこう皆、そうなんじゃないかとも思うんですけどね。もちろん、先輩みたいな人も世の中には居ると思うんですけど」
普段の私なら、口にはしなかったと思う。
酔いに押されて、零れた言葉。
その言葉に先輩は、ふむ、と考え込む仕草を見せた。
「いや、評価を求めるって意味では、まぁ、思う所もあるけれど。
空っぽな人間って意味では、似たようなものだと思うよ」
「そうですか?」
「うん、なんていうのかな……もしもこの世に酒が無かったら、酒が好きだっていう気持ちは生まれなかったんだろうし。
他の楽しいことにしたって、自分だけで成り立っている気持ちなんて、何にもない。
自分以外の誰かや何かがあるから、その誰かや何かが好きだっていう気持ちが生まれるし。嫌いっていう気持ちも生まれるし。
それは人間関係だけじゃなくて、全てのものが、そうなんだと思う。
誰かの言葉が、教師になったり反面教師になったりして、自分の考え方を作っていて。
何かとの関わりが、自分の気持ちや価値観を作っていて。
もしも世界との関わりが何にも無かったら、たぶん自分の中にあるものなんて、なんにもない。
自分だけで考えたこととか、自分だけで作り出したものなんて、なんにもない。
人間なんて、もともと空っぽなものなんだと思うよ、本当に」
「……そうかもしれませんね」
酒が入ったせいか、先輩はいつもより饒舌だった。
その言葉に、親近感を覚えるような、虚しいような気持ちになる。
人間なんて、空っぽな生き物だ。
自分だけで作り出したものなんて、なんにもない。
皆そうなんだと安心すると同時に、皆そんなものなんだという空虚さを覚える。
そんな私の気持ちが、伝わったのか。
先輩は、清濁全てを肯定するような微笑みを、私に向けた。
「でもさ、それで良いんじゃないかな。空っぽで良いんだよ、きっと」
「そういうものなんでしょうね、きっと」
自嘲と、諦めの混じったような、私の相槌に。
先輩は変わらず、ただただ、明るかった。
「いや、なんていうか……空っぽだからこそ、いいのさ。
例えばこの鍋、買った時から何か中身が一杯に詰まっていて、それを取り出せなかったら、他の鍋料理なんて作れないだろう?」
「まぁ、そうですよね」
「空っぽだから、色んな食材が入れられる。色んな味付けの料理が作れる。
色々な中身を詰め込んで、色々なダシが出て、味のハーモニーを楽しめる。
その中身こそ、その人自身だと、時には誰かも自分も評価してしまうけれど……
でも本当は、そんな評価では計れない、ただの器。だからこそ寄せ鍋もキムチ鍋もカレーも作れる、その価値は、中身だけを語る視点では計り知れないと思わないか?」
なるほど、確かに。
そう思って頷きかけて、けれどやっぱり中身も大事なように思い、私は異を唱える。
「でも、中身が何も無かったら、けっきょく何鍋にもならないじゃないですか。やっぱり、中身も重要だと思いますよ」
「もちろんそれも人間社会では、大事だったりもすると思うけれどね。
でも社会的な上っ面を抜きにしてしまえば、人間の本質なんて、きっとただの空っぽな器だよ。中身が何かなんて、本質とは関係ない。
例え中身が悪い評価を受けても、それは器がダメだってことにはならない。中身の出来栄えじゃなくて、ただの器であることを、もっと大事にしてもいいんじゃないかな。
だからこそ、色々な料理を楽しめるってもんでさ。
自分が空っぽだってことを知ってるってことは……
何でもないからこそ、何にでもなれることを、知ってるってことさ。
空っぽの鍋だからこそ、どんな料理も作れるように」
言われて、気づいた。
なるほど、確かにこの人もまた、空っぽの器なのだ。
それは、私よりもさらに、空っぽで。
好きとか嫌いとか、優劣を評価するための中身さえなく。
だからこそ……目の前にあるものを、皆好きだと言えるのだろう。
目の前の食材の味が、そのまま、この人の中では活きているのだ。
「先輩のように考えられたら、楽しく生きられるんでしょうね。私には、難しそうです」
「出来るさ。何も特別なことなんかじゃないよ。同じ空っぽ同士の、仲間じゃないか」
* * * *
気がつくと、私は横になっていた。
鍋を食べ、酒を飲むうちに、酔って眠り込んでしまったらしい。
痛む頭で、私は酒を飲みながら言葉を交わした人のことを思い出す。
――“先輩”とは、一体誰だ……?
記憶をたどる。
気心の知れた仲であるように話していたが。好ましい人であると、以前から感じていたように思っていたが。
あれは、誰だったのだ。
私は……
そうだ、私は一人で鍋を食べながら、貰い物のお酒を飲んでいて、そのまま寝入ってしまったのだ。
あの先輩は、目を覚ましてみればまるで知らない、夢の中の、その場限りの人物だった。
けれど交わした言葉は確かに、私の心の中に残っていた。
ずっと、自分が空っぽな人間だと思っていた。
人から受け取ったものや受け売りの知識で生きているだけの、その場その場の状況に反応して動いているだけの、本当の自分なんて何も持たない人間だと思っていた。
それを、心のどこかで恥じていて、そんな自分が嫌いだとさえ思っていたのに。
今はそんな自分も、悪くないと思えている。
それは明らかに、夢の中で会った先輩のおかげだった。
――あぁ、今の私に必要だったのは……あの先輩のような、人だったのだ。
目の前の鍋を見つめる。
会いたい人に、会える鍋。
そういえばこの鍋で食事を済ませた後は、妙に目覚めが良く、気分良く過ごせたのを思い出す。
鍋の栄養で、疲れが取れたのだと思っていたけれど。
もしかしたら、たとえ覚えていなくても、夢の中で求める人に会えていたからこそ、求める言葉を貰えていたからこそ、気分良く過ごせていたのではなかったか。
この鍋は、そういう鍋なのかもしれない。
中身を食べ終えて空っぽになった鍋を見ながら、“先輩”の言葉を思い出し、咀嚼する。
空っぽの、価値。
思い出が一つ増えた鍋は、昨日までよりももっと、お気に入りの鍋になっていた。
END
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