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一話完結物語

最後の時に、最期の歌を

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 身を裂くような、痛みを伴う鋭い寒さは、もはや不快感では無くなっていた。
 冷たさはただ冷たさで、痛みはただ痛みだった。感覚はそれに慣れ切ってしまい、いとう心など、とうに麻痺している。
 月明かりに照らされた雪原を歩きながら、地表を覆う霧の向こう、遥かにそびえる山々を望む。
 あの山を越えたら、何か変わるだろうか。
 ……何も、変わりはしないだろう。
 そこに食べ物があるとも、暖かい場所に辿りつけるとも思えなかった。
 
 いずれにせよ、あの山を越えることなど出来はしないだろうと自嘲する。 
 空腹と寒さと疲労で消耗した体は、言うことをきかない。
 歩いているつもりで、身体はほとんど前に進んでいなかった。
 立っているのが、精一杯だ。
 この調子では、少し先に見えている針葉樹の林にすら辿りつけないだろう。
  
 これまでかと思いながら、雪の上に倒れ込み、月の輝く空を仰ぎ見る。
 焼けつくような冷たさが、感情を伴わない無機質な痛みとなって伝わってきた。 
 食べ物を探そうなどと思わず、風雪ふうせつを凌げるところでじっとしていた方が良かっただろうか。
 ……いや、それでは飢えて死ぬのを待つだけだ。
 私に生き残るすべなど、はじめから無かったのだ。

 けれど、これでいい、これが命の形だと、さめた頭で思う。
 永遠に生き残る術など、初めから、どこにも無いのだから。

 体の震えは、いつしか止まっていた。
 もう、死がすぐそこに迫っているというのに。
 心は妙に、穏やかだった。風一つ吹くことなく静まり返った、この雪原のように。
 夜の静けさは心を浸食し、すべての雑音を消し去ってしまっていた。
 澄み切った心で、私は自らの生をかえりみる。

 思えば、ただただ歌って過ごし、歌うように生きた一生だった。
 喜びも悲しみも、痛みさえも、歌にのせて。
 歌うことを楽しむように、生きることを楽しんできた。

 それではいけないと、言った者達も居た。
 生き残ることを、より長く生きる事を、考えなければならないと。
 辛くとも働いて働いて、生きる糧を蓄えなければならないと。
 働かずに歌ってばかりいては、いずれ生きられなくなるだろうと。
 彼らは今頃その蓄えで、この冬を凌いでいるのだろうか。
 死ぬ時には、暖かい寝床で死んでいくのだろうか。あるいは……。
 その死は私の死と、いったい何が違うのだろうか。

 彼らは、私よりも長く生きるのかもしれない。
 けれど、必ず、死んでいく。
 生の価値とは、幸せとは、その長さで計れるものだろうか。

 どんな蓄えも、死後に持っていくことは出来ない。
 彼らは働くことで、蓄えることで、何をそうとしていたのだろう。何を遺そうとしていたのだろう。

 私が遺してきたものを、彼らが遺していくものを思う。
 地上の生命が、遺してゆくものを思う。
 いつかこの星も、宇宙も、何もかもが滅びゆく時のことを思う。
 それを見据えた上で、なおすべきことは、一体なんだろうか。

 何もかも何もかもが、淡雪のように消えゆく中で。
 命は、世界は、何のために存在するのだろうか。

 そもそもそれらは、命や世界とは一体、“何”なのだろうか。
 
 いつしか思索にふけることを心地よく感じている自分に気づいて、笑ってしまう。
 ずっと味わってきたこの心地よさは、死に際しても、何も変わらない。
 むしろ、いつ終わるともわからないこの生の中で、いかなる時も、死に際して生きてきたのだと私は思う。

 生きるとは、死とは一体、何なのだろうか。
 私は何のために、ここに在るのだろうか。
 そもそも“私”とは、世界とは、何だ。何故、こんなものがここに在るんだ。
 存在するとは、一体どういう……


 刹那。
 この世界と対峙してきた思考が、一瞬のうちに全て繋がり、閃くように答えが浮かんだ。

 あぁ、そうだ。
 全ては、ただ、『存在』だ。
 そして世界という存在そのものが、意味そのものであり、絶対価値なのだ。


 ようやく言葉になったそれを、言葉にならないうちから知っていたからこそ。
 だからこそ、私はうたって来たのではなかったか。
 存在することの喜びを。
 全ての過去と未来を含む、この現在の、存在の歓びを!

 刹那と永遠がひとところに同居する中、永遠を求める心と、刹那の愉楽を求める心が、一つに繋がる。
 そしてあらゆる言葉を、概念を超えた、不滅の存在を想う。
 存在の絶対性の前に、生と死の概念など幻想だと気づいた此処に、死などもはや存在しなかった。
 生じるという概念、滅ぶという概念さえ消えたそこに、あるのはただ、存在の不滅だった。

 畏敬の念と共に、深い高揚感と安心感に包まれる。
 この感覚を、誰にも伝えられないのがもどかしい。
 せめて謳わずには、歌わずにはいられない気分だった。
 誰にも届かずとも。誰にも、伝わらなくとも。
 存在するこの瞬間の煌めきを、鮮烈に、世界に刻み込むために。

 もう、顎が動かない。
 声が、出ない。
 それでも、意識の中に、歌を浮かべる。

 存在の中にある、喜びと哀しみを。
『存在』が、存在し続けることの、この歓びを。
 この世界に、うたわないわけにはいかなかった。


 END
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