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一話完結物語

カエルの独唱

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 月の明るい、夜だった。
 水田は鏡のように夜空の月を映し、水面下にも無限の空が広がっているかのよう。
 幻想的なその風景を、蛙達の歌が彩る。
 愛し合うことを求め、子孫の繁栄を願って、大合唱は賑やかに響き渡る。

 その声の中に、他の蛙の歌とは違う趣の声があった。
 ブナの木の上、仲間と交わらず、ただ喉を鳴らし続ける一匹の蛙。
 その音色は、愛を求めてはいなかった。
 子孫を残すことを求めてもいなかった。
 それ故に他の蛙達が彼に近づくことはなく、彼はただ異質な歌を歌い続ける。

 その歌の調べが表すのは、何か目的が無ければ歌ってはいけないのだろうかという、問いかけ。
 そして例えそうだとしても、誰にも歌うことを許されなくとも、自分はただ歌うことを愛して歌い続けるのだという、決意。
 その声に仲間を求める響きは無く、ただ一匹で歌うことを楽しむような趣きがあった。
 
 蛙という種にとって歌うことの快楽は、繁殖への意志として本能に刻み込まれたもの。
 何故かその意志を持たずに生まれつき、ただ歌うことの快楽だけをその身に残している自分は、おそらく異端なのだろう。
 そうと知りながら、なおその蛙は歌い続ける。

 誰かに伝わらなくてもよかった。応えを求めてもいなかった。
 それでも、抑えきれない衝動がある。
 心に突き動かされるまま、ただ喉を膨らませて歌い続ける。
 夜空に向かって、高らかに高らかに。

 その蛙にとって歌とは、それ自体で目的だった。

 その歌声は他の蛙の歌に混じりながら、月夜に響き渡った。
 田畑に、山に。
 ただ一匹の蛙の声は、他の蛙達の大合唱に比べれば細く頼りなく、しかし確かに遠くまで鳴り響いた。

 ほとんどの蛙が興味を示さない、異質な歌声。
 しかしその声を、確かに聞き止める者が居た。

 草むらの中じっと息を潜めていた、一匹の蛙。その蛙は鳴くことも仲間に歩み寄ることもなく、ひっそりと佇んでいた。

 体が動かないわけではない。他の蛙のことが嫌いなわけでもない。
 ただその蛙は、一匹で居るのが好きだったのだ。
 歌いたい衝動はあった。しかし蛙の歌は本来、種の存続のために使われるものだ。
 求愛の意志をもたず、一匹で居るのを好む自分が歌うことに、意味など無いと黙り込む。 

 そんな蛙の耳に、歌声が届く。
 ただ歌うことを愛し目的とした、一匹の蛙の歌声が。

 その声は、歌いたい気持ちを押さえ込んでいた蛙の心を、少しづつ溶かしていった。

 仲間と交わる気が無いなら、歌ってはいけないと思っていた。
 けれど、本当にそうだろうか。
 自分もただ思いのままに、歌ってもいいのではないだろうか。

 遠慮がちに歌い始めたその歌は、次第に力強さを増し、意味を持ち始める。
 それは、返歌だった。
 ただ一匹で好きな歌を歌うことにも、確かに意味がある。
 その良さを知る仲間が、ここにも居ると、伝えるための歌。
 
 歌声は響き渡り、重なり合い、こだまする。
 響き合う中に様々な意志と想いを宿しながら、蛙達の歌が夜空を満たす。

 月の明るい、夜だった。



 END
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