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一話完結物語

気まぐれ時間走

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 見上げた空は優しい水色で世界を覆い、白い雲がのんびりと漂っていた。
 昼下がりの、学校のグラウンド。
 昼食を取った後の満腹感に加え、穏やかな陽気と心地良いそよ風が眠気を誘う。
 周りで準備体操をするクラスメイト達も、皆どこか気だるげだ。
 皆の前に立つ体育教師だけが、ハツラツとした調子で体操の号令をかけていた。

――ご飯を食べた後の運動は、脇腹が痛くなることがあるんだよなぁ……

 そんなことをぼんやりと考えながら体操を終えて整列していると、体育教師が暑苦しいくらい元気良く声を上げた。

「今日の体育は、先生の気まぐれ時間走をやりまーす!」

 特に異論を唱える生徒は居ない。
 しかしその頭上には、何だそれはとクエスチョンマークが浮かんでいる者が半分。
 あとの半分は、また何かおかしなことを言いだしたぞ、と半ば呆れ顔で苦笑していた。

 この教師が少し変わった運動の内容を唱えるのは、これが初めてではない。
 過去にはバドミントンの羽根とラケットを使って、ホッケーをしたこともある。
 ある時はバスケットボールの練習と称して、ドリブルしながらじゃんけん列車をやったこともあった。あっち向いてホイまでつけて。
 その場の思いつきで言いだすので、ルールに穴があることもしばしばだった。
 本人は楽しいレクリエーションを提供しているつもりらしいが、楽しんでいるのは体を動かせれば何でも楽しいという層で、普通にバドミントンやバスケがしたいという人が居たのも確かだ。
 そして体を動かすのが嫌いな層にとっては、内容が何であれ面倒な時間でしかない。

 私はと言えばとにかく“五教科”と言われる科目が苦手な上に嫌いだったので、机に座って勉強しているよりは良いと思っていた。
 それに、走るのは嫌いではない。
 時間走ということは、きっと走るのには違いないだろう。

「時間走と言うのは、普通は時間を決めて走るものですが、今日は時間を決めません!
 五分で終わるかもしれないし、十五分かもしれないし、授業が終わるまでかもしれない!
 先生が気まぐれで走り終わる時間に笛を吹くので、それまで走り続けてください!」

 今まで突然やってきたことに比べれば、かなりまともなトレーニングだ。
 えー、面倒くさい、だるい、かったるい……と、あちこちから野次が飛ぶ。

「ハイ、静かに! もしも先生の気まぐれで五分で終わったら、残りの時間は好きに遊んでて良し!
 いつ終わるかは、皆の頑張りを見ながら決めるので、手を抜かないように!」

 その一言で野次は無くなり、「頼むよ、先生っ!」「先生、優しい!」という媚びるような歓声に変わった。

「皆の走りっぷりはちゃんとチェックして評価に入れておくので、時間内にたくさん走れるよう、頑張ってチャレンジしてください!
 それでは皆、位置について……」

 皆が校庭周回コースのスタートラインにつき、体育教師の笛を合図に走り出した。
 勢いよく走り出したのは、クラスの中でも目立ちたがりやだったり、元気を持て余しているやんちゃな人達だ。
 ふざけ半分に雄たけびを上げながら、短距離走さながらに全力疾走している。
 あれではきっと、五分ももたないだろう。
 
 私はマイペースに走り出した。
 カーブに差しかかり、横目で後ろを見れば、開始早々歩きながら友達とおしゃべりをしている人達もいる。
 その数人のために全員が時間一杯走らされるなんてことはない……と、思いたい。

 走り出したら、眠かった頭がスッキリして来た。風を切って走る感触が、気持ちいい。
 元々、走るのは嫌いではないのだ。部活で、陸上部の長距離を選択するくらいには。
 長く走るためのペース配分も、少しは身についている。

 とはいえ、終わりの時間が分からないのはやっかいだった。
 五分で終わるのと三十分以上走るのでは、ペース配分が変わってくる。
 一体、どれくらい走らせるつもりなんだろうか。

 猛ダッシュしていた先頭集団のスピードが、みるみるうちに落ちていった。
 第二集団との距離がどんどん詰まっていく。
「あー、もうダメだぁ!」
 そんな叫びと共に走るのを諦め、歩き出す人も居た。
 ぜえぜえと肩で息をしており、ずいぶんと苦しそうだ。
 その背を追い越しながら、私はこの時間走がどれくらい続くのかを予想する。

 あの教師の性格から言って、時間一杯走らせることはない。
 早く終わったら遊んでもいいと言った以上、必ず早めに終わらせてくる。
 五分で終わるということも、さすがにないだろう。ある程度は走らせてくるはずだ。
 授業終了の十分前くらいが、目安だろうか。

 そう思った私は考えられる限り長い時間、ペースを落とさずに済むくらいのスピードで走ることにした。
 終わる時間がわからない以上、ラストスパートもかけようがない。

 自分の呼吸の音に、ただ走るこの瞬間に、集中し始める。
 もう少し、ペースを上げてみようか。
 いや、あまり上げては、最後までもたないかもしれない。
 このペースで、最後までバテずに行けるだろうか。
 おそらく、行けるはずだ。

 終わりを告げるホイッスルは、思っていたよりも早く鳴り響いた。
 グラウンドを走っていた面々が、やっと走ることから解放されたと言うように歩き始める。
 授業終了まで、まだ二十分以上あった。
 
 こんなに早く終わるなら、もう少しペースを上げておけば良かったとも思った。
 しかしそれは、仕方のないことだ。
 走っている時には、いつ終わるかなんてわからなかったんだから。
 きっとこのペースが、最善だったはずだ。


 * * * *


 そんなこともあったなぁと思い出しながら、夜風を切って走る。
 社会人になってからしばらくは走ることから離れていたものの、この頃再び走り始め、フルマラソンを目指して週に三回は走ることにしていた。

 街灯の光や、街の明かり。星明りや、月明かり。
 夜道を照らす明かりも多いとはいえ、やはり夜の主役は闇だった。
 空は夜の表情に染まり、物陰にはひっそりと闇が佇んでいる。
 視覚からの情報が少ないせいか、自分の内側に意識が向かいやすい。

 人の少ない夜道を走っていると、色々なことが頭に浮かんだ。
 それは例えば、過去の思い出だったり。他愛のない妄想だったり。
 人生いかに生きるべきか、なんていう答えのない物思いだったりもした。

 時間の決まっていない、時間走。
 もしかしたら人生も、そんなものかもしれない。
 長ければ百歳まで生きるかもしれない。しかし事故や病気で、唐突にその生涯を終える可能性だってある。
 それがいつかは、誰にもわからないのだ。

 終わりが見えれば、それに向かって計画を立てることも出来るけれど。
 百歳まで生きるつもりでいて、五十歳で終わりましたでは、計画が台無しになるし。
 五十歳で終えるつもりで死力を尽くし、結局百歳まで生きましたでは、老後のことが心配だ。
 というか、たぶん色々ともたない。主に、老後の蓄えとか。
 それでも自分で終わらせるよりは、なんとか細々とでも生きた方が、出来ることもあるとは思うけれど。

 開始早々猛ダッシュした挙句、力尽きて最後までトボトボと歩いていたクラスメイトの姿は。
 生き急ぐあまり、自分を追い詰め、心身の調子を崩してしまった仲間に似ていた。
 最初から最後まで走ることなく、かったるそうに歩いていた人の姿は。
 何事にもやる気を出さずにダラダラと過ごしていた、若い頃の自分に似ていた。
 それを悪いこととも思わないが、どこか虚無感を感じていたのも確かだ。

 明日以降生きられなくなるような無茶はせず。
 何もせずに終わってしまったと思うほどの、歩みの緩め方もせず。
 いつ終わってもある程度走行距離を伸ばせるよう、走り続けられるペースで最善をつくす。
 無茶をしてはいけないし、焦ってはいけないし、怠けすぎてもいけない。
 それが、良い走りというものであり、良く生きるということなのではないだろうか。

 もっとも、このペース配分というやつが、難しいところでもあるのだが。 

 今の自分は、良いペースで走れているだろうか。
 自分の生活や、やりたいこと、やるべきことを振り返る。
 しなくて良い無理はしていないか、もっとやれるところはないかと、自分自身に問いかけて。
 ランニングハイに浮かされた頭で、今が最善のペースだと微笑みながら、帰路につく。


 家に帰り着いた私は、クールダウンを終えて浴室に向かった。
 汗を流したかったのもあるが、冷たい水を浴びて体を冷やしたかった。
 運動後に冷水を浴びると疲労の回復に繋がるという話や、冷水とお湯を交互に浴びると良いという話を聞いたことがある。
 それを聞いてからというもの、ランニングの後は必ず水浴びし、ある程度体を冷やしたらお湯も交互に浴びるようにしていた。

 それでなくても、熱を帯びた体に冷たい水を浴びるのは気持ちが良い。
 頭もスッキリして、一日の疲れが吹っ飛ぶような覚醒感があった。

 冷たいシャワーを出し、手足に浴びてから、頭や体にかけていく。
 身を縮めたくなるような冷たさと、目の覚めるような爽快感を感じて……

「……!!」
 
 次の瞬間、急激な胸の痛みを覚えた。
 思わず胸を押さえ、その場にうずくまる。
 背中まで突き抜けるような激痛に、動くこともままならない。

――これは、多分マズイ痛みだ……! 動けるようになったら、医者に……いや、救急車か……!?

 一刻も早く逃れたいと思うような、吐き気すら感じる程の痛み。
 うずくまったまま、症状が治まることを切に願うが、痛みが止む気配はなかった。
 目の前が暗くなる。耳鳴りが酷い。

 高い音で響く、その耳鳴りは。
 終わりを告げる、ホイッスルに似ていた。


 END
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