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王様の苦悩~人々の幸せの為に~
後編:全ての人の幸せの為に
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王は賢者に礼を述べ、書物を運ぶのを手伝ってもらおうと、護衛と案内役を呼ぼうとした。
その視界が、立ち眩みのように暗転する。
眩暈を覚えて机に手をつこうとした王だったが、そこに机の手ごたえは無く……
徐々に視界が戻ってくると、王は山の中に居ることに気がついた。
賢者の洞窟の、入り口に似た風景。しかし洞窟があったはず場所には岩壁があるばかりで、洞窟など影も形もなかった。
「私は……? 一体……?」
先ほどまでの出来事は夢や幻ではなかったことを、足元に積まれた書物が示している。
案内役と護衛の者も、いつの間にかそばに立っていた。
「わたしが案内するのは王様で三人目ですけど、帰りはいつもこうですよ。
二人目の時には最初から洞窟なんてなくて、会ってすら貰えませんでしたし。
あれは賢者と言うより、なんていうか……物の怪の類ですね、確実に」
* * * *
国に帰った王は、さっそく書物に書かれていた生き方を、国民に広めようとした。
反論の余地のない、幸せに生きるための考え方を。そこから導き出される、行動を。
今度こそ上手く行くという、祈りに似た期待を込めて。
しかしその成果は、王の期待を裏切るものだった。
一定の成果が、上がらなかったわけではない。
知識人や学者たちには絶賛され、彼らもまたその価値観を広めようとした。
その教えを信仰する、何の神も拝まない新興宗教が生まれたりもした。
それを思えば何人かの幸せには、確かに繋がったのかもしれない。
けれど全ての人を幸せにするには、至らなかったのだ。
王は、きっと新たな価値観が人々に広まるには時間がかかるのだと思った。
けれど一年経っても二年経っても、状況は変わらなかった。
国内の人々の暮らしから、相変わらず悩みや苦しみの影は消えない。
それらを打ち消すはずの、あの教えの完璧な内容に異を唱えることなど、誰にも出来はしないはずなのに。
――どういう、ことだ。一体、何故なんだ……?
王は職務の間に、それとなく大臣達に相談した。
大臣達は国民の全てが幸せではないことを、さして問題とは思っていない風だった。
「人間とは、そういうものです。我々に出来るのは、ほんの少しの調整だけ。
一人一人の幸せに国が責任を持つことなど、出来ないのではないでしょうか」
「大臣は、どう思う? 私が広めようとしている法は、人々を幸せにするほどのものではないと思うか?」
「私は王様が持ち帰られたあの法に、感銘を受けました。けれど人の心とはやはり、難しいものです。
全ての人に、有効であるわけではないのでしょう」
大臣達の中で、国の仕事とはあくまで富と秩序の調整役であり。
個人の幸せにまで干渉しようとするのは、分を超えたものであるようだった。
しかし民は時に、自分以外の誰かが、優秀な指導者が、自分を幸せにしてくれるのではないかと期待をかける。
王は一国の王として……いや、世界の王としての矜持をもって。
それに応えようと、しないわけにはいかなかった。
「もっとも、王様の理念は素晴らしいものだと思います。
今後、どのように国を導かれていくのか。非常に楽しみですよ。
我々に出来ることがあれば、精一杯尽力させていただきます」
「……ありがとう」
共に働く大臣達に、愛する王妃に支えられて。
魔術師の如き賢者から、人を幸せにする法を与えられた自分は。
ここで引くわけには、いかないのだ。
例えこれ以上の妙案が、思い浮かばなかったとしても。
王は、悩みや苦しみを抱えている人々に、直接話を聞いてみることにした。
彼らの答えから、現在の問題点や解決策を、見つけるために。
何故、全ての悩みを消し去るような論理に触れながら、未だ悩みを抱えているのか。
もう一度、賢者の書物に書かれていた内容を簡潔に説明しながら、その内容に何か落ち度があるのかと問いかけた。
「王様の言うことは、正しいですよ。全くもって、人生悩みを抱える必要なんて無いんだとわかりました」
「確かに、その通りなんですよね。反論なんて、ありませんよ。私もまったく、王様の言う通りだと思います」
「王様が広めようとしている考え方は、素晴らしいものだと思いますよ。そのように考えられたら、きっと人は幸せに過ごせるのでしょうね」
王が広めようとしている教えに、不備があるわけではないようだ。
王はさらに一人一人の悩みや苦しみの内容を聞き、賢者の教えに照らし合わせながら、それを解決するための道を示した。
すると彼らは、王の言葉に頷いた後。
決まって、こう言うのだった。
「「「頭では、わかるんです。でも、実践するのは難しいですし。心は、苦しいままなんですよ」」」
その言葉を聞いた時。
王は、悟った。
どんなに論理的に正しい方法があっても、人はそのようには動かない。
理屈で人の心は、動かせないのだ。
あの賢者が言っていたのは、きっとこのことだったのだろう。
だとすれば。どんなに論理的に正しい、幸せになるための理屈を広めたとしても。
そんなものは、言葉遊びでしかない。
それによって全ての人を幸せにすることは、不可能なのではないか。
――なら、どうすれば……
――どうすれば、いいんだ……!
その出来事は、賢者の書物に賭けていた王の希望を。
粉々に、打ち砕いた。
賢者の論理を広める以上の方法など、今の王には思いつかなかったから。
それでもなお、王は諦めきれなかった。
寝食を忘れて、どうすれば全ての人を幸せに出来るのかを考え、行動に移し続ける日々。
けれど闇雲に打ち出した政策も、教育の指針も、やはり王の目的を果たすものでは無かった。
「もっと体を大事にしてください。ここのところ、ろくに寝ていないじゃありませんか。
ちゃんと栄養をつけないと、頭だって働きませんよ」
王妃は眉を寄せ、王の体を気遣った。
「ありがとう。でも、休んでいる暇なんてないよ。
私のような凡庸な人間が、人の幸せを望むなら。骨身を削って、働く他は無いんだ。
食べている時間も、寝る時間も惜しいよ」
食事にもろくに手をつけぬまま、心配そうな王妃に背を向けて、執務室や町の視察に向かう。時にはその身を労働力に変え、人々の幸せの為にと働いた。
このところ、夫婦で過ごすことも減っていた。
それでも、この道こそが結果的に王妃の幸せにも繋がるのだと、王は信じていた。
自分の目指す道は、全ての人を幸せにする道だ。
そしてこの世に生きる全ての人々が、幸せにならない限り。
個人の幸福もまた、真に実現されたとは言えない。
しかしその目的は、どんなに働いても達成出来ないまま。
次第に、王はやつれていき。
ついにある日、城の執務室で倒れこんでしまった。
* * * *
世界の中心であるが故に、人々の幸せを望むなんて。
数ある価値観の中の一つであることは、わかっていた。
他の誰かに、そうあるべきだというつもりはない。
自分自身もまた、その価値観を手放せば、楽になるのかもしれない。
それでも、自分だけは。
その価値観を、手放したくなかった。
あの日、父から世界の主役だと言われた、自分だけは。
目を覚ますと、王は寝室のベッドで横になっていた。
「……いかな、くては」
思うように、体が動かない。栄養も睡眠も、おそらく足りてはいない。
それでも、動かないわけにはいかなかった。
この身は、全ての人を幸せにするためにあるのだから。
しかし王の動きは、止められた。
寝室の扉の前に立ちふさがる、王妃によって。
「そんな体で、どこへ行こうというのですか? まずは、ゆっくりお休みになってください。今、食事をお持ちしますから」
「……そんな暇は、ないよ。私は王として、全ての人を、幸せにしなければ……」
「……うぬぼれるのも、大概にしてください。今の貴方に、そんな力はありません」
王妃の表情は、いつになく険しかった。
思えば王妃のそんな表情など、これまで見たことが無い。
威圧感さえ感じさせるその瞳は、弱った王の体を射抜くかのようだ。
けれど、それでもなお、王は前に進もうとする。
「出来るか、出来ないかでは……ない。私は、やらなければ……ならないんだ」
「無理をしないでください! その体で、一体何が出来るっていうんですか!!」
「あの賢者の書物でさえ、駄目だったのだ。あれ以上のことを、やろうと思ったら……無理をするしか……!」
「いい加減にして!!」
命さえ投げ打ちかねない、王の気迫に。それでも王妃は、ひるまなかった。
正面から真っすぐに王を見据え、その両肩を強く押さえて行かせまいとする。
「わたしの気持ちも、少しは考えて! もしも貴方が今、死んでしまったら……!!
わたしが、どれだけ悲しい思いをすると思っているんですか……!!」
目を見開いた、王の目の前で。
王妃は力強く王を押さえながら、大粒の涙を零した。
「国の皆の幸せを想い、畑で汗を流し種を撒いていた、優しい貴方が。結婚しようと言ってくれた時、どれだけ嬉しかったか!
貴方と過ごした日々が、どれだけ幸せだったか……!! 私から、その幸せを……貴方は! 奪おうと言うのですか……!!」
皆の幸せを望んでいるはずの貴方がと、震える声で呟き。
ボロボロと涙を流す王妃を見つめながら。
王は、体の力が抜けていくのを感じていた。
世界全体を幸せにすることが、彼女の幸せにも繋がると、思っていた。
全ての人の幸せに、その願いは繋がるはずだと。
そしてそれこそが自分の幸せにも繋がるのだと、信じて疑わなかった。
けれど、それは。本当に、そうだったのだろうか。
むしろ世界全体などと言う、途方もないものを相手にする前に。
目の前に居る人を幸せにすることが、ゆくゆくは世界全体の幸せに繋がっていくのではないだろうか。
そのためには、自分自身もまた、幸せでなければならないのではなかったか。
自分自身が幸せでない人が、一体誰を幸せに出来るというのか。
いつの間に自分は、世界の中から自分自身を除外して、己の幸せを忘れていたのだろう。
陽光に照らされていた、幼き日にはきっと。
それを忘れることなど、なかったというのに。
もしかしたら、全ての順番が、逆だったのかもしれない。
賢者の書物を読んで、幸せについて分かっているつもりで、一番頭でしか分かっていなかったのは。
心で分かっていなかったのは、自分だったのかもしれない。
王妃はいつしか、王を抱きしめており。
その腕の中で、王は泣き崩れた。
* * * *
王は自分が不幸にならないために、自分の心を見つめてみた。
そこには、人々の不幸を厭う自分の心があった。
その苦悩を無くすには、皆の不幸をなくしたいという願いが叶うか、あるいはその願いを捨てるか、二つに一つだ。
けれど皆の不幸を無くす試みは、全て失敗していた。
これはもう、どうしようもないことなのだ。
“全ての人の不幸を無くし、幸せにする”
その目標を諦めた王は、前よりも気楽になった。
その気楽さは、王に安らぎをもたらし、王妃の笑顔を増やした。
心なしか、城で働く人々の雰囲気も明るくなったようだ。
思えば大臣達にも、ずいぶん苦労をかけたものだと、王は思う。
今日もこの世界では、当たり前に生き物達が生まれては、死んでいく。
王とは関係のないところで誰かが笑い、王にはどうしようもない理由で誰かが泣いている。
そのどうしようもないことに、どれだけ心を砕いてきたのだろう。
それでもやはり、王は人々の幸せを求めた。
重荷から解放され、日々を過ごす王は、幸せだったから。
結局これ以上の幸せを望むなら、人々の幸せを望むしかなかったのだ。
以前と違うのは、駄目で元々と言う諦めの気持ちが、どこかにあることだった。
その諦めは後ろめたさよりも、むしろ前向きさを王にもたらした。
駄目で元々なのだから、うまく行かなくても平気だった。
王は失敗してもくじけることなく、ただ安らかな気持ちのまま、まっすぐに人々の幸せを願って行動し続けた。
まずは目の前の人の幸せを願うことが、そのための第一歩だと信じながら。
全ての人が、自分と、目の前に居る誰かを幸せに出来たなら。
きっとそれは、世界全体の幸せに繋がるのだから。
一歩一歩、自分や周りの人の幸せを願いながら進むことは。
いつになるかわからない、遥かな未来に向けて。
全ての人が幸せに過ごす未来を実現するための、種を撒くかのようだった。
END
その視界が、立ち眩みのように暗転する。
眩暈を覚えて机に手をつこうとした王だったが、そこに机の手ごたえは無く……
徐々に視界が戻ってくると、王は山の中に居ることに気がついた。
賢者の洞窟の、入り口に似た風景。しかし洞窟があったはず場所には岩壁があるばかりで、洞窟など影も形もなかった。
「私は……? 一体……?」
先ほどまでの出来事は夢や幻ではなかったことを、足元に積まれた書物が示している。
案内役と護衛の者も、いつの間にかそばに立っていた。
「わたしが案内するのは王様で三人目ですけど、帰りはいつもこうですよ。
二人目の時には最初から洞窟なんてなくて、会ってすら貰えませんでしたし。
あれは賢者と言うより、なんていうか……物の怪の類ですね、確実に」
* * * *
国に帰った王は、さっそく書物に書かれていた生き方を、国民に広めようとした。
反論の余地のない、幸せに生きるための考え方を。そこから導き出される、行動を。
今度こそ上手く行くという、祈りに似た期待を込めて。
しかしその成果は、王の期待を裏切るものだった。
一定の成果が、上がらなかったわけではない。
知識人や学者たちには絶賛され、彼らもまたその価値観を広めようとした。
その教えを信仰する、何の神も拝まない新興宗教が生まれたりもした。
それを思えば何人かの幸せには、確かに繋がったのかもしれない。
けれど全ての人を幸せにするには、至らなかったのだ。
王は、きっと新たな価値観が人々に広まるには時間がかかるのだと思った。
けれど一年経っても二年経っても、状況は変わらなかった。
国内の人々の暮らしから、相変わらず悩みや苦しみの影は消えない。
それらを打ち消すはずの、あの教えの完璧な内容に異を唱えることなど、誰にも出来はしないはずなのに。
――どういう、ことだ。一体、何故なんだ……?
王は職務の間に、それとなく大臣達に相談した。
大臣達は国民の全てが幸せではないことを、さして問題とは思っていない風だった。
「人間とは、そういうものです。我々に出来るのは、ほんの少しの調整だけ。
一人一人の幸せに国が責任を持つことなど、出来ないのではないでしょうか」
「大臣は、どう思う? 私が広めようとしている法は、人々を幸せにするほどのものではないと思うか?」
「私は王様が持ち帰られたあの法に、感銘を受けました。けれど人の心とはやはり、難しいものです。
全ての人に、有効であるわけではないのでしょう」
大臣達の中で、国の仕事とはあくまで富と秩序の調整役であり。
個人の幸せにまで干渉しようとするのは、分を超えたものであるようだった。
しかし民は時に、自分以外の誰かが、優秀な指導者が、自分を幸せにしてくれるのではないかと期待をかける。
王は一国の王として……いや、世界の王としての矜持をもって。
それに応えようと、しないわけにはいかなかった。
「もっとも、王様の理念は素晴らしいものだと思います。
今後、どのように国を導かれていくのか。非常に楽しみですよ。
我々に出来ることがあれば、精一杯尽力させていただきます」
「……ありがとう」
共に働く大臣達に、愛する王妃に支えられて。
魔術師の如き賢者から、人を幸せにする法を与えられた自分は。
ここで引くわけには、いかないのだ。
例えこれ以上の妙案が、思い浮かばなかったとしても。
王は、悩みや苦しみを抱えている人々に、直接話を聞いてみることにした。
彼らの答えから、現在の問題点や解決策を、見つけるために。
何故、全ての悩みを消し去るような論理に触れながら、未だ悩みを抱えているのか。
もう一度、賢者の書物に書かれていた内容を簡潔に説明しながら、その内容に何か落ち度があるのかと問いかけた。
「王様の言うことは、正しいですよ。全くもって、人生悩みを抱える必要なんて無いんだとわかりました」
「確かに、その通りなんですよね。反論なんて、ありませんよ。私もまったく、王様の言う通りだと思います」
「王様が広めようとしている考え方は、素晴らしいものだと思いますよ。そのように考えられたら、きっと人は幸せに過ごせるのでしょうね」
王が広めようとしている教えに、不備があるわけではないようだ。
王はさらに一人一人の悩みや苦しみの内容を聞き、賢者の教えに照らし合わせながら、それを解決するための道を示した。
すると彼らは、王の言葉に頷いた後。
決まって、こう言うのだった。
「「「頭では、わかるんです。でも、実践するのは難しいですし。心は、苦しいままなんですよ」」」
その言葉を聞いた時。
王は、悟った。
どんなに論理的に正しい方法があっても、人はそのようには動かない。
理屈で人の心は、動かせないのだ。
あの賢者が言っていたのは、きっとこのことだったのだろう。
だとすれば。どんなに論理的に正しい、幸せになるための理屈を広めたとしても。
そんなものは、言葉遊びでしかない。
それによって全ての人を幸せにすることは、不可能なのではないか。
――なら、どうすれば……
――どうすれば、いいんだ……!
その出来事は、賢者の書物に賭けていた王の希望を。
粉々に、打ち砕いた。
賢者の論理を広める以上の方法など、今の王には思いつかなかったから。
それでもなお、王は諦めきれなかった。
寝食を忘れて、どうすれば全ての人を幸せに出来るのかを考え、行動に移し続ける日々。
けれど闇雲に打ち出した政策も、教育の指針も、やはり王の目的を果たすものでは無かった。
「もっと体を大事にしてください。ここのところ、ろくに寝ていないじゃありませんか。
ちゃんと栄養をつけないと、頭だって働きませんよ」
王妃は眉を寄せ、王の体を気遣った。
「ありがとう。でも、休んでいる暇なんてないよ。
私のような凡庸な人間が、人の幸せを望むなら。骨身を削って、働く他は無いんだ。
食べている時間も、寝る時間も惜しいよ」
食事にもろくに手をつけぬまま、心配そうな王妃に背を向けて、執務室や町の視察に向かう。時にはその身を労働力に変え、人々の幸せの為にと働いた。
このところ、夫婦で過ごすことも減っていた。
それでも、この道こそが結果的に王妃の幸せにも繋がるのだと、王は信じていた。
自分の目指す道は、全ての人を幸せにする道だ。
そしてこの世に生きる全ての人々が、幸せにならない限り。
個人の幸福もまた、真に実現されたとは言えない。
しかしその目的は、どんなに働いても達成出来ないまま。
次第に、王はやつれていき。
ついにある日、城の執務室で倒れこんでしまった。
* * * *
世界の中心であるが故に、人々の幸せを望むなんて。
数ある価値観の中の一つであることは、わかっていた。
他の誰かに、そうあるべきだというつもりはない。
自分自身もまた、その価値観を手放せば、楽になるのかもしれない。
それでも、自分だけは。
その価値観を、手放したくなかった。
あの日、父から世界の主役だと言われた、自分だけは。
目を覚ますと、王は寝室のベッドで横になっていた。
「……いかな、くては」
思うように、体が動かない。栄養も睡眠も、おそらく足りてはいない。
それでも、動かないわけにはいかなかった。
この身は、全ての人を幸せにするためにあるのだから。
しかし王の動きは、止められた。
寝室の扉の前に立ちふさがる、王妃によって。
「そんな体で、どこへ行こうというのですか? まずは、ゆっくりお休みになってください。今、食事をお持ちしますから」
「……そんな暇は、ないよ。私は王として、全ての人を、幸せにしなければ……」
「……うぬぼれるのも、大概にしてください。今の貴方に、そんな力はありません」
王妃の表情は、いつになく険しかった。
思えば王妃のそんな表情など、これまで見たことが無い。
威圧感さえ感じさせるその瞳は、弱った王の体を射抜くかのようだ。
けれど、それでもなお、王は前に進もうとする。
「出来るか、出来ないかでは……ない。私は、やらなければ……ならないんだ」
「無理をしないでください! その体で、一体何が出来るっていうんですか!!」
「あの賢者の書物でさえ、駄目だったのだ。あれ以上のことを、やろうと思ったら……無理をするしか……!」
「いい加減にして!!」
命さえ投げ打ちかねない、王の気迫に。それでも王妃は、ひるまなかった。
正面から真っすぐに王を見据え、その両肩を強く押さえて行かせまいとする。
「わたしの気持ちも、少しは考えて! もしも貴方が今、死んでしまったら……!!
わたしが、どれだけ悲しい思いをすると思っているんですか……!!」
目を見開いた、王の目の前で。
王妃は力強く王を押さえながら、大粒の涙を零した。
「国の皆の幸せを想い、畑で汗を流し種を撒いていた、優しい貴方が。結婚しようと言ってくれた時、どれだけ嬉しかったか!
貴方と過ごした日々が、どれだけ幸せだったか……!! 私から、その幸せを……貴方は! 奪おうと言うのですか……!!」
皆の幸せを望んでいるはずの貴方がと、震える声で呟き。
ボロボロと涙を流す王妃を見つめながら。
王は、体の力が抜けていくのを感じていた。
世界全体を幸せにすることが、彼女の幸せにも繋がると、思っていた。
全ての人の幸せに、その願いは繋がるはずだと。
そしてそれこそが自分の幸せにも繋がるのだと、信じて疑わなかった。
けれど、それは。本当に、そうだったのだろうか。
むしろ世界全体などと言う、途方もないものを相手にする前に。
目の前に居る人を幸せにすることが、ゆくゆくは世界全体の幸せに繋がっていくのではないだろうか。
そのためには、自分自身もまた、幸せでなければならないのではなかったか。
自分自身が幸せでない人が、一体誰を幸せに出来るというのか。
いつの間に自分は、世界の中から自分自身を除外して、己の幸せを忘れていたのだろう。
陽光に照らされていた、幼き日にはきっと。
それを忘れることなど、なかったというのに。
もしかしたら、全ての順番が、逆だったのかもしれない。
賢者の書物を読んで、幸せについて分かっているつもりで、一番頭でしか分かっていなかったのは。
心で分かっていなかったのは、自分だったのかもしれない。
王妃はいつしか、王を抱きしめており。
その腕の中で、王は泣き崩れた。
* * * *
王は自分が不幸にならないために、自分の心を見つめてみた。
そこには、人々の不幸を厭う自分の心があった。
その苦悩を無くすには、皆の不幸をなくしたいという願いが叶うか、あるいはその願いを捨てるか、二つに一つだ。
けれど皆の不幸を無くす試みは、全て失敗していた。
これはもう、どうしようもないことなのだ。
“全ての人の不幸を無くし、幸せにする”
その目標を諦めた王は、前よりも気楽になった。
その気楽さは、王に安らぎをもたらし、王妃の笑顔を増やした。
心なしか、城で働く人々の雰囲気も明るくなったようだ。
思えば大臣達にも、ずいぶん苦労をかけたものだと、王は思う。
今日もこの世界では、当たり前に生き物達が生まれては、死んでいく。
王とは関係のないところで誰かが笑い、王にはどうしようもない理由で誰かが泣いている。
そのどうしようもないことに、どれだけ心を砕いてきたのだろう。
それでもやはり、王は人々の幸せを求めた。
重荷から解放され、日々を過ごす王は、幸せだったから。
結局これ以上の幸せを望むなら、人々の幸せを望むしかなかったのだ。
以前と違うのは、駄目で元々と言う諦めの気持ちが、どこかにあることだった。
その諦めは後ろめたさよりも、むしろ前向きさを王にもたらした。
駄目で元々なのだから、うまく行かなくても平気だった。
王は失敗してもくじけることなく、ただ安らかな気持ちのまま、まっすぐに人々の幸せを願って行動し続けた。
まずは目の前の人の幸せを願うことが、そのための第一歩だと信じながら。
全ての人が、自分と、目の前に居る誰かを幸せに出来たなら。
きっとそれは、世界全体の幸せに繋がるのだから。
一歩一歩、自分や周りの人の幸せを願いながら進むことは。
いつになるかわからない、遥かな未来に向けて。
全ての人が幸せに過ごす未来を実現するための、種を撒くかのようだった。
END
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