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一話完結物語
この五感の全てが夢であるなら
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高校からの帰り道、私はぼんやりと窓の外を眺めながらバスに揺られていた。
見飽きた景色。
すでに日は暮れ始め、山や田んぼは薄闇に沈み始めている。
のどかな田舎の風情は時に人を和ませるのだろうけれど、毎日見ている私にはただただ退屈なばかりだ。
道路に面した川は濃紺に染まっており、彩度の落ちた景色が眠気を誘う。
市内の駅からバスに乗り、すでに三十分近く経っている。
乗り合わせた同じ学校の仲間達は先に降りてしまい、乗客は私を含めて数人だけだった。
家のそばのバス停まで、まだ十分ほどかかりそうだ。
昔から車に揺られると眠くなる癖があり、いつもこの時間は頭がぼんやりしてくる。
ほんの少し目と頭を休めるつもりで、私は目を瞑った。
* * * *
束の間の休息のつもりが、すっかり眠り込んでしまったようだ。
どのくらい、眠っていたのだろうか。
目を開けた時には宵闇が辺りを包み、車内には室内灯が灯っていた。
他の乗客は降りてしまったらしく、乗っているのは私だけだ。
……おかしい。
私の家からバスの終点まで、そう時間はかからない。
もし眠り込んでしまったとしても、終点でバスを降りればそれで済むはずだった。
ほんの少し、歩く距離が増えるだけだ。
なのに未だ、バスは走り続けている。
窓の外には見慣れない景色が広がっていた。
そういえば日に何本か、いつもの終点よりもさらに村の奥、ダムがある方へと走るバスが通っている。
それに乗ってしまったのだろうか。
フロントガラスの上に表示された、バスが次に止まる停留所の名前を見る。
そこには、私の知らない地名が書かれていた。
そんな名前の地域がこの村にあったのだろうかと、私は首を傾げる。
とはいえ山と田んぼばかりではあるが、無駄に広い村だ。
私の知らない名前の部落があったとしても、おかしくはない。
携帯で調べてみようと思ったが、あいにくこの辺りは圏外のようだ。
ぽつりぽつりと灯る民家や街灯の明かりを見ながら、私はこの後どうやって家に帰ろうかと考えていた。
まぁ、路線バスには違いないのだ。終点まで乗って引き返せば、無事家に帰れるだろう。
どこかわからない、携帯も繋がらない停留所でバスを降りるのは、さすがに不安だった。
* * * *
バスはいくつかの停留所を過ぎ、川沿いを走り、坂を上り、ダム湖を望める展望広場で止まった。
そのダムは私が知っている、村の奥にあるダムではなかった。
私の知るダムは、もっと閑散としたところだ。
昔は遊覧船などもある観光地だったようだが、今は客の少なさから廃止され、時折ドライブやサイクリングで人が訪れる程度の場所になっている。
しかし目の前に広がる光景は、まさに観光地といった趣の賑やかさだ。
焼きトウモロコシやかき氷を売る屋台が立ち並び、裸電球の温かい灯りで彩られたそれらは、まるでお祭りのようだ。
日が暮れているというのに、客の姿もそれなりに見える。
遊覧船も出ているらしく、ダム湖にはライトアップされた船体が待機していた。
今日が何かのイベントで、急に用意しましたという風ではない。
いかにも、常日頃から営業しているといった雰囲気だ。
こんな観光施設が、バス一本で行ける範囲にあったとは。
時間があれば寄っていきたいところだが、帰りのバスは何時だろうか。
今日寄る時間が無ければ、今度改めて遊びに来よう。
停留所の時刻表を確かめるが、どうやら私の乗って来たバスが最終だったようだ。
折り返しのバスはないらしい。
さて、どうやって帰ろう。
仕方がないので親に電話して事情を話し、車で迎えに来てもらおうか……
そう思って携帯を取り出すが、相変わらず電波が無く、役に立たない。
――困ったな。ここは一体、どこなんだろう……
そう思って辺りを見回すうちに、私はダムの周辺を案内する看板を見つけた。
けれどそれを見て、私はさらに困惑する。
そこに書かれたダムの名前は、私の良く知る閑散としたダムの名前であり。
その周辺地図も、私が知る村の地図そのものだったからだ。
――どういう、ことだ?
もう一度まわりを見回すが、そもそも辺りの風景がまるで違う。
私の知らないうちに、改装工事でもしたのだろうか?
いや、そんなはずはない。村の奥にあるダムには、先日友人に誘われて釣りに行ったばかりだから間違いない。
では同じ名前が表示されている、ここは一体どこなのだ?
私は混乱しながら、屋台が並ぶ展望広場を歩き回った。これといって、目新しい情報は無い。
お腹も空いたし、何か食べ物を買いながら、お店の人に聞いてみようか。
そう思い、パンやジュースを売っているらしいお店で買うものを選ぶ。
売り場の端には、新聞も置かれていた。
こんなところで新聞を買う人が居るのだろうか……
そう思いながらそれを眺めていた私だったが、妙なことに気づいた。
新聞の、日付がおかしい。
昭和18年10月7日。
昭和18年とは、どういうことだ。
何かの趣向で、昔の新聞を置いているのだろうか。
興味をそそられ、私はそれを手に取った。おかしいのは日付だけで、内容はいたって普通の新聞だ。
むしろ、昔の記事という感じがしない。
「すみません、この新聞は、どういうものなんですか?」
店の主人に聞いてみる。禿げ頭に鉢巻を絞めた、白シャツ姿の中年男性だ。
「あぁ、それは今日の新聞だよ」
――ん? 今日の新聞……?
私はもう一度、新聞の日付を見る。昭和18年10月7日。間違いない。
「あの、この日付、間違ってません? 昭和18年って」
「今年は昭和18年だから、間違いないと思うがねえ」
――え? 何これ、タイムスリップ……?
店の主人に怪訝な顔をされながら、私はもう一度新聞を見た。
昭和18年。その年、日本は戦争中だったのではなかったか。
しかし、戦争についての記事などどこにもなかった。
わけがわからない。何がどうなっているんだ。
タイムスリップした上に、戦争の起こらなかった日本というパラレルワールドに迷い込んでしまったとでもいうのだろうか。
このダムの名前や村の名前も、店の主人に確認する。
やはりここは、私の地元である村の奥にあるダムで間違いないようだ。
風景と、年代と、賑わい具合が違うことを除けば。
とりあえず揚げパンを一つ買って、私は再び辺りを見渡す。
――……これは、夢だ!!
唐突に、確信した。
明晰夢。私は今、間違いなく夢を見ている。
いつから夢だったのだろう。学校に居る時からか。いや、バスの中で眠り込んだ後だろうか。
空も、ダムを囲む山々も、現実と変わらない奥行をもってそこに見えている。
けれどこれは、夢なのだ。
私は走り出した。
紫紺の宵闇の中、この夢の世界はどんな姿をしているのかを確かめたくて。
バスが上って来た坂道を駆け下り、田んぼに囲まれた道路で疲労感を感じて、肩で息をしながら立ち止まる。
疲れて火照った体に、頬を撫でる冷たい風が気持ち良い。
その頬を叩いてみれば、軽い衝撃と共にわずかな痛みを感じる。
辺りの景色は相変わらず、遠くまで広がっていた。
私はその場にかがみ、地面に拳を打ちつけてみる。
打ちつけた拳に、確かに感じる痛み。揺るがぬ大地の質感。
そしてそこに生えた草を摘み、その青臭さと、柔らかで瑞々しい感触を感じた。
あまりにも、リアルだ。これが夢だなんて、にわかには信じられない。
私の意識は夢という形で、本当にパラレルワールドへ迷い込んでしまったのではないか。
私は手に持った揚げパンをかじってみた。
旨い。中にあんこの入ったそれは確かな甘みを感じさせ、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
けれど、これは夢なのだ。間違いなく、夢なのだ。
何の証拠もないが、私はそう確信していた。
あたりに広がる田んぼも。遠くに見える山々も。
手に持っている美味しい揚げパンも。それを売ってくれた店の店主も。
お祭りの出店が並ぶかのようなダムの展望広場も、そこに居た観光客も、今度乗ってみたいと思った遊覧船も。
全部、全部、夢なのだ。
私が目を覚ました瞬間、何もかも、何もかもが消えてしまう。
なんて、儚い世界なんだろう。
私は大地に膝をつき、涙を流した。
この美しい世界が、跡形も無く消えてしまうことを思って。
* * * *
そこで、目が覚めた。
独り暮らしの安アパートの一室。
布団の柔らかな感触に頬をうずめながら、今見た夢のことを思い返す。
面白い夢を見たものだ。
夢の中で、五感の全てを感じるなんて。
温度を感じる夢を、見たことはあった。
痛みを感じる夢も。味を感じる夢も。
けれど、その全てを一つの夢で網羅したのは初めてだった。
「さて、今日は何をしようかな……」
そろそろ、就職活動もするべきだろうか。
社会に出たものの、仕事に明け暮れる生活がすっかり嫌になってしまい、わずかな蓄えを頼りに無職になってはや一か月。
来月か、再来月には働き始めないと、貯金が底をつく。
しばらく遊んで過ごすうちに、多少気力は回復していたけれど。
次はもう少し、自分の時間が持てる職場を選びたいものだ。
例え給料が、ギリギリ生きていける程度だったとしても。
ただ働いて、眠りに帰るだけの生活では、生きているという実感がまるで湧かなかった。
既に思考は現実世界にあり、夢の世界を儚む悲しみは、すっかり消え去っていた。
世界が一つ、まるごと消えてしまうことに、夢の中では涙さえ流していたというのに。
まるでその感情さえ、夢であったかのようだ。
それにしても。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も。
感情や、学生としての一日の記憶さえ完璧に再現されたアレが、夢だったというのならば。
いったい夢と現実は、何が違うのだろうか。
今、生活のことを考えているこの瞬間は、本当に現実なのだろうか。
たぶん、何も違わない。夢も、現実も。
私がこれを、現実だと信じていること以外は。
生まれてからの記憶も、今この瞬間の体験も、夢ではないという保証はどこにもない。
そう思ったら、なんだか日々の生活のために深刻な顔をして生きて行くのが、馬鹿馬鹿しいような気分になった。
夢と違わぬ一生ならば。何をそんなに難しく、重大に考えなければならないことがあるというのか。
この世で何を成したとしても、何を思ったとしても。
人生という夢から覚める時には、全て全て消えてしまう。
いつか、この世に別れを告げることも。
いつか、親しい人が皆死んでしまうことも。
今は酷く、哀しいことのように感じるけれど。
この感情さえ、この夢が終わる時には、きっと消えてしまうのだろう。
夢の世界を儚んで流した、あの涙のように。
私は肩の力が抜けたような気になって、今日はまだ就職のことを考えず、好きなことをして過ごすことにした。
明日にも餓死するというほど、切羽詰まった状況ではないのだし。正直、もう少し休みたい。
夢幻のような一生だ。ただ心のままに生きるのも、悪くない。
けれどこの先、健全に生活することをすっかり忘れて、どうせ夢だからと投げやりに過ごすつもりもなかった。
夢のようなこの人生を、重大に扱うのは馬鹿らしい。
しかし真剣に扱わなければ、人生は容易く悪夢に変わる。
ならば良い夢を見るために、一体何をすればいいのだろうか。
夢は、心から生まれる。
夢には、心にあるものが投影されると聞いたことがある。
この瞬間の心の声に、耳を澄ませることが。この心を、整えることが。
良い夢を見るために、まず何よりも必要であるような気がした。
全ての瞬間を、ただ良き夢として過ごすために。
END
見飽きた景色。
すでに日は暮れ始め、山や田んぼは薄闇に沈み始めている。
のどかな田舎の風情は時に人を和ませるのだろうけれど、毎日見ている私にはただただ退屈なばかりだ。
道路に面した川は濃紺に染まっており、彩度の落ちた景色が眠気を誘う。
市内の駅からバスに乗り、すでに三十分近く経っている。
乗り合わせた同じ学校の仲間達は先に降りてしまい、乗客は私を含めて数人だけだった。
家のそばのバス停まで、まだ十分ほどかかりそうだ。
昔から車に揺られると眠くなる癖があり、いつもこの時間は頭がぼんやりしてくる。
ほんの少し目と頭を休めるつもりで、私は目を瞑った。
* * * *
束の間の休息のつもりが、すっかり眠り込んでしまったようだ。
どのくらい、眠っていたのだろうか。
目を開けた時には宵闇が辺りを包み、車内には室内灯が灯っていた。
他の乗客は降りてしまったらしく、乗っているのは私だけだ。
……おかしい。
私の家からバスの終点まで、そう時間はかからない。
もし眠り込んでしまったとしても、終点でバスを降りればそれで済むはずだった。
ほんの少し、歩く距離が増えるだけだ。
なのに未だ、バスは走り続けている。
窓の外には見慣れない景色が広がっていた。
そういえば日に何本か、いつもの終点よりもさらに村の奥、ダムがある方へと走るバスが通っている。
それに乗ってしまったのだろうか。
フロントガラスの上に表示された、バスが次に止まる停留所の名前を見る。
そこには、私の知らない地名が書かれていた。
そんな名前の地域がこの村にあったのだろうかと、私は首を傾げる。
とはいえ山と田んぼばかりではあるが、無駄に広い村だ。
私の知らない名前の部落があったとしても、おかしくはない。
携帯で調べてみようと思ったが、あいにくこの辺りは圏外のようだ。
ぽつりぽつりと灯る民家や街灯の明かりを見ながら、私はこの後どうやって家に帰ろうかと考えていた。
まぁ、路線バスには違いないのだ。終点まで乗って引き返せば、無事家に帰れるだろう。
どこかわからない、携帯も繋がらない停留所でバスを降りるのは、さすがに不安だった。
* * * *
バスはいくつかの停留所を過ぎ、川沿いを走り、坂を上り、ダム湖を望める展望広場で止まった。
そのダムは私が知っている、村の奥にあるダムではなかった。
私の知るダムは、もっと閑散としたところだ。
昔は遊覧船などもある観光地だったようだが、今は客の少なさから廃止され、時折ドライブやサイクリングで人が訪れる程度の場所になっている。
しかし目の前に広がる光景は、まさに観光地といった趣の賑やかさだ。
焼きトウモロコシやかき氷を売る屋台が立ち並び、裸電球の温かい灯りで彩られたそれらは、まるでお祭りのようだ。
日が暮れているというのに、客の姿もそれなりに見える。
遊覧船も出ているらしく、ダム湖にはライトアップされた船体が待機していた。
今日が何かのイベントで、急に用意しましたという風ではない。
いかにも、常日頃から営業しているといった雰囲気だ。
こんな観光施設が、バス一本で行ける範囲にあったとは。
時間があれば寄っていきたいところだが、帰りのバスは何時だろうか。
今日寄る時間が無ければ、今度改めて遊びに来よう。
停留所の時刻表を確かめるが、どうやら私の乗って来たバスが最終だったようだ。
折り返しのバスはないらしい。
さて、どうやって帰ろう。
仕方がないので親に電話して事情を話し、車で迎えに来てもらおうか……
そう思って携帯を取り出すが、相変わらず電波が無く、役に立たない。
――困ったな。ここは一体、どこなんだろう……
そう思って辺りを見回すうちに、私はダムの周辺を案内する看板を見つけた。
けれどそれを見て、私はさらに困惑する。
そこに書かれたダムの名前は、私の良く知る閑散としたダムの名前であり。
その周辺地図も、私が知る村の地図そのものだったからだ。
――どういう、ことだ?
もう一度まわりを見回すが、そもそも辺りの風景がまるで違う。
私の知らないうちに、改装工事でもしたのだろうか?
いや、そんなはずはない。村の奥にあるダムには、先日友人に誘われて釣りに行ったばかりだから間違いない。
では同じ名前が表示されている、ここは一体どこなのだ?
私は混乱しながら、屋台が並ぶ展望広場を歩き回った。これといって、目新しい情報は無い。
お腹も空いたし、何か食べ物を買いながら、お店の人に聞いてみようか。
そう思い、パンやジュースを売っているらしいお店で買うものを選ぶ。
売り場の端には、新聞も置かれていた。
こんなところで新聞を買う人が居るのだろうか……
そう思いながらそれを眺めていた私だったが、妙なことに気づいた。
新聞の、日付がおかしい。
昭和18年10月7日。
昭和18年とは、どういうことだ。
何かの趣向で、昔の新聞を置いているのだろうか。
興味をそそられ、私はそれを手に取った。おかしいのは日付だけで、内容はいたって普通の新聞だ。
むしろ、昔の記事という感じがしない。
「すみません、この新聞は、どういうものなんですか?」
店の主人に聞いてみる。禿げ頭に鉢巻を絞めた、白シャツ姿の中年男性だ。
「あぁ、それは今日の新聞だよ」
――ん? 今日の新聞……?
私はもう一度、新聞の日付を見る。昭和18年10月7日。間違いない。
「あの、この日付、間違ってません? 昭和18年って」
「今年は昭和18年だから、間違いないと思うがねえ」
――え? 何これ、タイムスリップ……?
店の主人に怪訝な顔をされながら、私はもう一度新聞を見た。
昭和18年。その年、日本は戦争中だったのではなかったか。
しかし、戦争についての記事などどこにもなかった。
わけがわからない。何がどうなっているんだ。
タイムスリップした上に、戦争の起こらなかった日本というパラレルワールドに迷い込んでしまったとでもいうのだろうか。
このダムの名前や村の名前も、店の主人に確認する。
やはりここは、私の地元である村の奥にあるダムで間違いないようだ。
風景と、年代と、賑わい具合が違うことを除けば。
とりあえず揚げパンを一つ買って、私は再び辺りを見渡す。
――……これは、夢だ!!
唐突に、確信した。
明晰夢。私は今、間違いなく夢を見ている。
いつから夢だったのだろう。学校に居る時からか。いや、バスの中で眠り込んだ後だろうか。
空も、ダムを囲む山々も、現実と変わらない奥行をもってそこに見えている。
けれどこれは、夢なのだ。
私は走り出した。
紫紺の宵闇の中、この夢の世界はどんな姿をしているのかを確かめたくて。
バスが上って来た坂道を駆け下り、田んぼに囲まれた道路で疲労感を感じて、肩で息をしながら立ち止まる。
疲れて火照った体に、頬を撫でる冷たい風が気持ち良い。
その頬を叩いてみれば、軽い衝撃と共にわずかな痛みを感じる。
辺りの景色は相変わらず、遠くまで広がっていた。
私はその場にかがみ、地面に拳を打ちつけてみる。
打ちつけた拳に、確かに感じる痛み。揺るがぬ大地の質感。
そしてそこに生えた草を摘み、その青臭さと、柔らかで瑞々しい感触を感じた。
あまりにも、リアルだ。これが夢だなんて、にわかには信じられない。
私の意識は夢という形で、本当にパラレルワールドへ迷い込んでしまったのではないか。
私は手に持った揚げパンをかじってみた。
旨い。中にあんこの入ったそれは確かな甘みを感じさせ、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
けれど、これは夢なのだ。間違いなく、夢なのだ。
何の証拠もないが、私はそう確信していた。
あたりに広がる田んぼも。遠くに見える山々も。
手に持っている美味しい揚げパンも。それを売ってくれた店の店主も。
お祭りの出店が並ぶかのようなダムの展望広場も、そこに居た観光客も、今度乗ってみたいと思った遊覧船も。
全部、全部、夢なのだ。
私が目を覚ました瞬間、何もかも、何もかもが消えてしまう。
なんて、儚い世界なんだろう。
私は大地に膝をつき、涙を流した。
この美しい世界が、跡形も無く消えてしまうことを思って。
* * * *
そこで、目が覚めた。
独り暮らしの安アパートの一室。
布団の柔らかな感触に頬をうずめながら、今見た夢のことを思い返す。
面白い夢を見たものだ。
夢の中で、五感の全てを感じるなんて。
温度を感じる夢を、見たことはあった。
痛みを感じる夢も。味を感じる夢も。
けれど、その全てを一つの夢で網羅したのは初めてだった。
「さて、今日は何をしようかな……」
そろそろ、就職活動もするべきだろうか。
社会に出たものの、仕事に明け暮れる生活がすっかり嫌になってしまい、わずかな蓄えを頼りに無職になってはや一か月。
来月か、再来月には働き始めないと、貯金が底をつく。
しばらく遊んで過ごすうちに、多少気力は回復していたけれど。
次はもう少し、自分の時間が持てる職場を選びたいものだ。
例え給料が、ギリギリ生きていける程度だったとしても。
ただ働いて、眠りに帰るだけの生活では、生きているという実感がまるで湧かなかった。
既に思考は現実世界にあり、夢の世界を儚む悲しみは、すっかり消え去っていた。
世界が一つ、まるごと消えてしまうことに、夢の中では涙さえ流していたというのに。
まるでその感情さえ、夢であったかのようだ。
それにしても。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も。
感情や、学生としての一日の記憶さえ完璧に再現されたアレが、夢だったというのならば。
いったい夢と現実は、何が違うのだろうか。
今、生活のことを考えているこの瞬間は、本当に現実なのだろうか。
たぶん、何も違わない。夢も、現実も。
私がこれを、現実だと信じていること以外は。
生まれてからの記憶も、今この瞬間の体験も、夢ではないという保証はどこにもない。
そう思ったら、なんだか日々の生活のために深刻な顔をして生きて行くのが、馬鹿馬鹿しいような気分になった。
夢と違わぬ一生ならば。何をそんなに難しく、重大に考えなければならないことがあるというのか。
この世で何を成したとしても、何を思ったとしても。
人生という夢から覚める時には、全て全て消えてしまう。
いつか、この世に別れを告げることも。
いつか、親しい人が皆死んでしまうことも。
今は酷く、哀しいことのように感じるけれど。
この感情さえ、この夢が終わる時には、きっと消えてしまうのだろう。
夢の世界を儚んで流した、あの涙のように。
私は肩の力が抜けたような気になって、今日はまだ就職のことを考えず、好きなことをして過ごすことにした。
明日にも餓死するというほど、切羽詰まった状況ではないのだし。正直、もう少し休みたい。
夢幻のような一生だ。ただ心のままに生きるのも、悪くない。
けれどこの先、健全に生活することをすっかり忘れて、どうせ夢だからと投げやりに過ごすつもりもなかった。
夢のようなこの人生を、重大に扱うのは馬鹿らしい。
しかし真剣に扱わなければ、人生は容易く悪夢に変わる。
ならば良い夢を見るために、一体何をすればいいのだろうか。
夢は、心から生まれる。
夢には、心にあるものが投影されると聞いたことがある。
この瞬間の心の声に、耳を澄ませることが。この心を、整えることが。
良い夢を見るために、まず何よりも必要であるような気がした。
全ての瞬間を、ただ良き夢として過ごすために。
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