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意識転送サービス~私とは何か?

後編:私とはいったい何なのか

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 * * * *
 

「おはようございます、先輩! 今日からまた元の体ですね!」
 職場へ出勤した私に、後輩が明るく声をかけてくる。
 昨日までは機械の体で働いていたのだが、今日からはまた生身の体だ。
「おはよう。機械の精巧さはなくなっちゃったけど、これからもよろしく頼むよ」
「いや、むしろ機械の先輩、ポンコツでしたし」
「なんだって!?……いや、否定できないけどさ」
「むしろ、生身の先輩が優秀ってことですよ!」

 機械の時の私は、確かにミスが多かった。
 体の性能というよりは、精神的な問題が大きかったように思う。
 体の扱いに不自由はなくとも、生活の中で微妙な違和感は拭えなかった。

 せっかくだから機械ならではの精巧さやパワーを備えていればよかったのだが、生身の意識をそれに合わせるのはまた違った技術が居るらしい。
 言ってしまえば、有料オプションというやつだ。無料の代替品を使っていた私に、そんな機能が備わっているわけがない。
 もっとも大金を払って優秀なアンドロイドになる人間も、世の中には居るらしいが。そこまで出来るのは、今のところ一握りの富豪だけだ。

「それで、どうでした? 記憶の転送体験、わたし未だ経験したこと無いんですよ」
「なんていうのかな……自分ってのは一体、何者なのか。ちょっと考えさせられる体験だったよ」
「おぉ、先輩がロボット体験を通して哲学者に!?」
「いや、そんな大それたもんじゃないけどさ」

 他愛のない話をしながら、仕事を始める。
 私は一度、確かに死んだのだなんて、重い言葉を使うつもりは無かった。
 だいたい私自身、死んだ自分と今の私の関係について、整理がついていない。
 他の同僚と会う度に、私の記憶転送体験は挨拶がわりに話題に出たが、それが済んでしまえばいつも通りの日常だ。
 ただ私の意識だけが、以前とは違う形になっていた。


 仕事を終え、自宅で猫を撫でながら物思いに耽る。
 この愛猫も、有料のペット記憶転送サービスに加入していた。少々値は張るが、払えない額ではない。
 交通事故と病気で二度死んでおり、今の体は三代目だ。
 病気で手の施しようがない時は一度安楽死させ、有料オプションで病気の無い状態にして生まれ変わらせた。
 病気を取り除くより、病気が無い状態で作り直す方が早かったのだ。
 老衰で死んだときには、やはり若返りオプションを使ってでも蘇らせるつもりだった。
 失いたくない大切な存在だからこそ、その意識に消えてほしくなかったのだ。

 けれど、今撫でているこの猫は。
 本当に最初の体に宿っていた猫と、同じ猫なのだろうか。
 今まで抱いたことのないそんな疑問が、今の私を浸食していた。
 私の愛猫も本当は事故や病気で死んでおり、今のこの子は同じ記憶を宿した違う猫なのではないだろうか。

 そもそも自分とは、いったい何なのだ。
 自分が死ぬとは、いったいどういうことなのだ。

 そんな疑問が、ずっと頭の中で渦巻いている。
 記憶の形も体の細胞も日々変わりゆく中で、私を私たらしめているものは、何なのだろう?
 脳や遺伝子ではないはずだ。それは階段から落ちた時に、一度滅んでいる。
 しかしそれでも私は、今ここに居る。
 そして意識や記憶こそが自分だとすれば。
 いったいどの意識、どの記憶が、自分なのだろうか。

 意識の形はリアルタイムで国のコンピュータに送信される他、一定期間ごとのバックアップも取られているらしい。
 極端な話、五歳の頃の私と今の私では、記憶も意志も全然違う形になっているだろう。
 正直五歳の頃の記憶なんて曖昧だし、三歳の頃の記憶なんてほぼ皆無だ。
 経験の中で得たものがあると同時に、忘れた記憶があり、失った意思がある。
 例えば今更、三歳の頃の意識をこの体に転送されていたとしたら、それは私とは言えないのではないか。
 形が変わり続ける意識の中で、一体どの意識こそが私だと言えるのだろうか。

 その全てが私の意識であって、私の形は時と共に変わるものだと、割り切るのは一見簡単だ。
 けれど形が変わりゆく中で、決まった形を持たないそこで。
 私を私たらしめている変わらないものは、私の本質は、一体なんなのか。
 そんな疑問に囚われた私にとって、私の形は変わるものだと割り切ることは、酷く困難だった。

 極論を言えば、時の流れの中で全ての記憶と意志の形が変わったとして。
 全てを忘れ別の人格を持った私は、もはや私と言えるのだろうか。
 変わり続けるのが私の本質だとすれば、それもまた私なのかもしれない。
 けれどそれはもはや、私ではない別人だと思う自分も居た。
 私だとも、私ではないとも言い切れない。

 実際にこの先も変わりゆくであろう私は、どの時点まで私なのだろうか。
 どこまで変わったら、私ではなくなるのだろうか。

 生まれてから死ぬまで存在するのが私だと、昨日までは思っていた。
 その価値観が、足元から揺らぎ始める。
 私はキッチンへ行き、棚に置いてあった強めの酒をグラスになみなみと注ぐ。
 自問自答の堂々巡りに、酒でも飲まなければやってられない気分だった。
 いや、むしろ。
 こんな堂々巡りの夜にこそ、酔いをもたらす酒こそが良いお供になってくれるような気がした。


 * * * *
 

 翌日。酷く痛む頭を抱えながら、私は職場に向かった。
 酒を飲み始めてからは思考が加速した気もするが、その後の記憶が全くない。
 いつどうやって眠りについたのかさえ、定かではない。
 少々……いや、かなり、飲みすぎたようだ。

「おはようございます、先輩! 大丈夫ですか?」
「あぁ……まぁ、ね。調子が悪そうなの、顔に出てる?」
「いえ、昨日電話がかかってきた時の先輩、様子がおかしかったんで」
「え? 電話……?」

 全く覚えていなかった。けれど通信機器の履歴を確認すれば、確かに後輩へ電話をかけた記録が残っている。

「いやだなぁ、覚えてないんですか? 突然、君を君たらしめているものは何だとか、君は何を失くしたら君ではなくなるんだとか言い始めて、意味わからなかったんですから!」
「……ごめん、全然覚えてない」
「やっぱり。呂律も回って無かったですしね。もう、しっかりしてくださいよ!」
 言われて私は、申し訳ない気持ちで頭を下げる。
 同時に、記憶が無い時の私は私なのだろうかという疑問が頭を過った。

 私という存在が、脳や肉体では無いのならば。
 そしてもしも変わりゆく記憶を受け継ぎ続けているのが、私であるとするならば。
 同じ肉体を持っていても、記憶が無い時の私は、もはや私ではないのではないか。
 例えそれが人から見れば、紛れもない私であったとしても。
 まるで記憶の中にない私は、私自身から見ればもはや別人のようだ。

 仕事をしながらも、私の意識は上の空だった。
 自分は何者なのかという問いに、思考が支配されて離れられない。

 
 この意識こそ、何かを考えている存在こそが私だという認識は、常にあった。
 肉体が変わっても、意識の形が変わっても、私は私だ。
“我思う、故に我あり”
 古代の賢人がそう述べたように、今現在何かを思っている存在こそ私であるはずだ。
 例えこの世の全てが夢幻なのではないかと疑えるとしても、この自分が存在していることだけは、疑いようがなかった。

 けれど 確かなのは、今現在の私がここにあるというだけで。
 過去の私や未来の私が、現在の私と同一のものであるとは限らない。
 記憶の形が変わり、体を作る細胞が入れ替われば、それはもはやここに在る私とは別の存在になるのではないだろうか。

 私の意識は、常に移り変わっていく。
 昨日の私と今の私では、思っていることが違う。
 十年もすれば、時に信念すらその形を変えるだろう。
 厳密に言えば一瞬前の私と今の私でさえ、考えている内容は変わっている。
 刻一刻と形を変え続けるそれは、一瞬一瞬が別の存在なのではないか。

 まるでそれは“自分”というタイトルの、パラパラ漫画を見るようだ。
 それは一つに繋がった、一本の動画に見えるけれど。
 その実、それを構成する一枚一枚は別の絵でしかない。ただ、繋がっているように見えるだけだ。

 記憶や経験を、どこか引き継いでいるからこそ、私という存在は昔から続いているように思うけれど。
 それは“過去の私”という別人から、意識を受け継いでいるようなものではなかったか。
 機械の私から、生身の私へと、その意識が受け継がれたように。
 しかもその経験や記憶の継承は、忘れるというありふれた現象によって容易く断絶する。
 一体どの記憶こそが、私を私たらしめているというのか。

「先輩、なんだか心ここに在らずって感じですけど、大丈夫ですか?
 やっぱり、記憶転送体験で何かあったんじゃ……」

 後輩の声で、思考の檻に囚われていた私は我に返り、苦笑する。

「まぁ、階段から転げ落ちて、下手すれば死んでたような体験をしてるわけだしね……人生観も変わるってもんだよ」
「でも、先輩が変なのは昨日からですよ? もしかして、記憶が取り違えられてたり、誰かの記憶が混ざってたりして!」
 冗談めかして笑う後輩。
「いや、取り違えられてたら君のことを覚えてるのが、まずおかしいから。
 それに誰かの記憶が混じってたら、不自然な記憶がある……?」
 言いかけて私は言葉を止め、思わず顎に手を当てて考え込む。
「過去の記憶の形が、変わる可能性か……」
 
 誰かの記憶が私に混じっているとは、今のところ思えない。
 けれども例えば記憶の保管中に不備があって、その中身が変わってしまうことはあるのだろうか。
 あるいは誰かが故意に、記憶を改竄する可能性はあるだろうか。
 実際にあったら大問題だが、絶対にないとは言い切れない。

 もしも記憶の形が変わっていても、証拠が残っていなければ、今の私がそれに気づく術はないだろう。
 証拠の残らない過去は、誰にも証明できない。
 私の記憶にある過去の私が、確かにその形で存在したのだと、証明してくれるものはどこにあるのだろうか。
 
「先輩、本当にどうしちゃったんですか? そんなに何か考え込む先輩、見たこと無いですよ!
 いつも美味しいご飯か、猫の話しかしてなかったのに!」
「それじゃあ、まるで私が馬鹿みたいじゃないか!」
 軽口を叩きながらも、私の自問自答は止まない。
 本当に、私はどうしてしまったんだろうと、自分でも思う。
 ほんの数日前までの私は、今の私から見れば別人のようだ。
 実際に別人である目の前の後輩と、過去や未来の自分は、私にとって何が違うのだろう。

 目の前の後輩も、過去の自分も、未来の自分も。
 皆がおそらくは、ちゃんと意識を持っていて。
『自分は、自分だ』
 と思っている。
 その自分とは、いったいどの自分なのか。
 どの意識こそが、自分なのか。

 もしかしたら、自分も他人も。
 本当はその意識の形に、違いなんてないのかもしれない。
 もしも今この瞬間の私が世界から消え去っても、この世に「自分は、自分だ」と認識する意識がある限り。
 そこに、“私”は存在するのかもしれない。

 そんなことを思いながら。
 私は、目の前で笑う後輩を見つめていた。


 * * * *

  
 自分とは何者なのか。自分が死ぬとは、どういうことなのか。
 そんな問いに囚われて、過ごすうちに。

 気がつけば私は、死への恐怖を無くしていた。
 私という存在は、生や死というものでは語れない何かであるような気がしてきたのだ。

 明日の私、次の瞬間の私というものが、今とは別の存在ならば。
 死を恐れる必要は無い。何故なら、死ぬのは今の私ではないのだから。

 逆に肉体が変わっても、記憶の形が変わっても、やはりそれは私だと思うのならば。
 やはり死は、怖いものではなかった。だって意識を持った存在は、今も世界に生まれ続けているのだから。
 それはここに居る“私”と、何が違うのだろう。
 私が死んだ後、世界のどこかで生まれる赤子は。
 そこに、私と変わらない“変わり続ける意識”を宿している。
 それは記憶と肉体の形が変わった、“私”であると言えるのではないか。


 ある意味では、この瞬間の私は死なないし。
 ある意味では変化し続ける私の中で、その瞬間ごとに古い私が死に続け、新たな私が生まれ続けている。
 どうして今更、死を恐れる必要があるだろう。
 いつかの記事で見かけた社会現象。
 死を恐れなくなる人が増えるのも、必然の流れであるような気がした。

 死こそが価値であるとは微塵も思わないけれど。同時に死は、恐れるようなものでもない。
 それはきっと変化し続ける無限の“私”という形の、ほんの一ページに過ぎない。

 奇妙な世の中になったものだと思う。
 意識転送サービスなんていうものが出来たおかげで、死が死ではなくなってしまった。生が生でなくなってしまった。
 ただ生でも死でもない、変化だけがそこにある。

 ……いや、人は意識転送サービスが出来る前から、本当はこの問題に直面していたのかもしれない。
 私というものが形の変わるものである限り、この問題もまたずっと存在していたはずだ。
 ただ意識転送サービスによって、より顕著になっただけだ。

 この世界に、この瞬間以外に“私”は存在しないような。
 逆に全ての未来と過去に、形を変えた“私”が無限に存在しているような。
 そんな矛盾した感覚が、私の中に同居している。
 そこに矛盾がある限り、それは私にとってまだ、完璧な答えではない。

 けれど生や死とは別の、新たな視点を手に入れたようなそれは。
 私を、ひどく落ち着いた気持ちにさせるのだった。
 今まで心のどこかで感じていた生や死の不条理から、解放されたかのように。

 そして新たに生まれた、“私”とは何かという不条理への問いは。
 何の喜怒哀楽も入る余地のない、ただ知りたいという欲求だけがそこにある、静かで、穏やかな問いだった。


 END 
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