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一話完結物語
元独身主義者のささやかな挑戦
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人生、結婚した方が良いものだと、言われていたのはいつ頃までだったろうか。
いや、もしかしたら今でもその価値観は蔓延しているのかもしれない。
周りに既婚者が増えた今、少なくとも俺の周りでは「結婚が良いものかどうか」なんて、もはや過去の話題になっていた。
結婚生活には、苦労が多い。
若手に結婚を勧める同僚の言葉も、それが良いものだから勧めているというより、同じ悩みで盛り上がる仲間を増やしたいという魂胆が透けて見える。
「いやぁ、しかしまさか、お前が結婚するなんてなぁ」
対面に座った友人がビールを片手に、俺を見て感慨深げに笑う。
結婚してからもう七年になるが、彼は酒に酔うとよくその話題を口にした。
左右に座る友人達もまた、茶化すように言葉を重ねる。
「本当だよな、あんなに『俺は一生結婚なんかしねぇ!』と豪語してたくせに!」
「そのために彼女すら作らないっていう徹底ぶりだったからな!」
確かに若い頃の言動を思えば、揶揄されるのも当然だろう。
久方ぶりに訪れた友人宅で、俺は酒を片手に麻雀に興じていた。
昔は毎週のように集まって酒を飲んでいたものだが、それぞれ家庭があり生活がある中で、今では年に数回集まれるかどうかだ。
「本当に、まさか俺が結婚するなんてな。俺自身が一番驚いているよ」
いい配牌だ、と思いながら、俺は酒をあおる。
ゲームはまだ序盤。誰が勝つかはわからない。
金を賭けるでもないそれは酒のつまみのようなものだったが、勝ち負けを競うそこには高揚感がついてまわる。
若い頃の俺は、徹底した独身主義者だった。
独身の良いところは、数え上げればキリがない。
けれど一言で言えば、そこには何より自由があった。
元来遊び人だった俺には、しがらみの元となるような結婚など、到底考えられなかったのだ。
老後は野垂れ死に覚悟で、この身一つ養うだけの金を稼げば良いのだと思えば、馬車馬のように働く必要もない。
必要な分だけ働き、あとは好きなことをして過ごした。
本を読み、歌を歌い、仲間と共に酒を飲みながら様々なゲームに興じた。
酒好きが興じていきつけのバーのマスターに教えを乞い、バーテンダー達が集うカクテルの大会に出たこともある。
フルマラソンを完走したこともあれば、200Km以上走る自転車のサイクルイベントに出たこともあった。
絵を描いたり、詩や小説を書いてみたり。
やりたいことは、際限なくあった。
もっとも時間と財力には限りがあるので、取捨選択を迫られることもあったのだが。
女遊びに手を出さなかったのは、そこから恋愛や結婚に発展するのを疎ましく思ったからだ。
友人たちの話を聞く限り、そこにはしがらみや鬱陶しさしか感じなかった。
それも含めて良い経験になるから、一度は経験してみるべきだという人も居た。
けれど何事も経験だとは言うが、目の前に経験したいことが溢れているなら、そちらを優先するのが人情というものだろう。
経験したくないことを、経験する必要もないのにわざわざ経験するのは、暇人のすることだ。
昔の俺は、そう思っていた。
……いや、正直、今でもそう思っている。
「しかし、何年経っても結婚生活ってものには慣れないな。独りの自由が懐かしいよ」
普段あえて口には出さないが、独身の頃の楽しさが忘れられない。
やはり自分は独り身の方が向いていたのだろうという思いは、何年経っても変わらなかった。
「そんなことを言っても、別れる気はないんだろう?」
「まぁ、子供のことを思えばな」
牌を捨て、酒で口を濡らしていると、左手に座った仲間が声を上げた。
「ウチもそんなもんだ! 昔から子はかすがいって言うしな!」
「それならオマエ、子供が居なければ別れるのかよ?」
「そりゃ、まぁ……でも一人老後を迎えて孤独死ってのも寂しいしなぁ」
世間話に興じるうちに、ゲームは進んでいく。
酔いが回って凡ミスも目立つようになってきたが、それもまた味わいだ。
酒に酔い、ミスを笑いながらの勝負には、真剣勝負とは違った趣がある。
「結婚してもうずいぶん経つだろ。子供はいくつになった?」
「来月、六歳になるよ。まだまだ、手がかかりそうだ」
「終わってみれば、あっという間さ! オレはお前のとこより早かったからな。もう手はかからないが、金がかかって困る」
「わかる! 金がいくらあっても足りなくて、どうしようかと思うよな」
集まっている面子は、皆妻子持ちだ。
自然と、子供や家庭の話が話題に上がる。
妻も子供もないまま迎える老後は寂しいものだと、周りの人間は言っていた。
けれども一人の時間も好きだった俺に、孤独の寂しさは想像のつかないものだった。
むしろ週に一日や二日は一人の時間がなかったら、発狂する自信があったと言ってもいい。
人と居るのが、嫌いなわけではない。ただ、一人が好きなだけだ。
仕事をせずに半年ほど、誰とも会わずに趣味に没頭して過ごしたこともある。
あれほど楽しかったことはない。
ずっとそうして、遊んでいたいと思っていた。
二兎を追う者一兎も得ずとはよく言ったもので、色々な趣味に広く浅く手を出していた俺は、どれもたいした腕前にはなれなかったが。
それでも、兎を追いかけるのは楽しかった。
その楽しさこそ、生きる意味だった。
いつか老いて体が効かなくなれば、追える兎の数は減るだろう。
けれど体がきかなくなっても頭一つあれば、人生と世界についての思索は、たとえ答えが出なくても無限の楽しみを与えてくれる。
それもまた俺にとって、趣味の一つだ。
『わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである』
そう書いたのは、芥川龍之介だったか。
歴史に残る大文豪とは比べるべくもないが、俺もまた快不快こそ人間の行動原理だと思う者の一人だった。
快楽を求め、不快を避けようとすることこそ、人の行動の全て。
ならば“生きる”という行動の目的もまた、そこにしかないと思った。
そしてそこに全てをかけた俺は。
確かに、生きることの楽しさを味わっていた。
「ツモ! リーチ、イーペーコー」
役を揃え、酒も入って勢いづいた俺は、高らかにアガリを宣言する。
「どうしたんだよ、なんだか今日はいやに調子が良さそうじゃねぇか」
友人が驚いた様子で、酒を注いでくる。
一進一退の攻防ではあったが、俺は順調に点数を増やしていった。
「運が良いだけさ。まだ、ここからどうなるかわからない」
そう、運が良かっただけだ。
環境が、遺伝が、偶然が味方してくれただけで。
人生の全てを幸せに生きるための思索と行動に費やしたからと言って、必ずしもうまく行くとは限らない。
俺には運よく独り身を楽しむための、運命のレールが敷かれていた。
ただ、それだけのことだったのだろう。
全力で遊ぶために老後は野垂れ死に覚悟で、と思っていたが、そんな風に思う人間はそう多くないようだ。
現に仲間の一人は、老後に面倒を見てもらうためにも、子供は作るべきだと言っていた。
子供を作ることすら、一部の人間には老後の備えなのだ。
けれども老後の生活ために子供を作るべきだと言われても、俺は頷けなかった。
それならば子供を作ることは、投資をするのと同じことだ。
育ててやったんだから面倒を見ろというのは、取引と変わらない。
そんな損得勘定で育てられた子供は、人との付き合いを損得勘定で見るようになるのではないだろうか。
そうなれば親もまた子供にとって、値踏みされて当然のものになるだろう。
投資と取引による競争の果てに、得をするのは親か子供か。
そんな親子関係に、快楽があるとは思えなかった。
どうせ子供を持つならば、掛け値なしにその幸せを願う方が、きっと良い関係になるはずだ。
そして人の幸せを願う気持ちが受け継がれていけば、その方が世の中はきっと楽しいものになる。
……まぁ子供を持つ気のなかった俺がそんな綺麗ごとを言っても、説得力は皆無だったのだが。
注がれた酒が溢れそうになり、そのままグラスに口をつける。
「わりぃ、注ぎすぎた。どうよ最近、奥さんとはうまく行ってんの?」
「まあ、それなりに、な」
とは言うものの、人から見ればどれくらいのものかは怪しいものだったが。
思えば初めから、愛し合っているとは言えない程度の間柄だ。
けれど同じ食卓で飯を食い、それなりの会話があるなら、それで上出来だと俺は思っている。
「いいよなぁ。オレなんか、完全に邪魔者扱いだぜ! 亭主元気で留守が良いどころか、早く死なねーかなくらいの扱いだよ」
「ハハ、そりゃ酷いな! なんで別れないんだよ?」
「まぁそれこそ、子はかすがいってところかねぇ……ロン、チートイツ!」
「うわマジかよ、やられた……!」
ゲームは終盤に差しかかっていた。
点数は俺がトップだ。とはいえ、少しのことで簡単にひっくり返る程度の差しかない。
妻とはバイト先で出会った仲だった。
けれどその関係は仲の良い友人という程度のもので、お互い恋愛感情など皆無だった。
ただ、彼女はよく「結婚はどうでも良いけど、子供は欲しい」と口にしていた。
いつ頃からだったろう。そんな仲の良い友人の願いを叶えるのに、一肌脱ぐのも悪くないと思ったのは。
そのためには結婚という制度を利用した方が、何かと便利だと思ったのは。
あの頃の俺は日々を遊んで過ごすうちに、子供じみた万能感に侵されていたのかもしれない。
幸せに満ち溢れた、そんな生活の中で。
溢れている分の、幸せを消費して。
他の誰かの幸せを手助けするくらい。
出来るのではないかと、思ってしまったのだ。
人を幸せにするのは、あくまでその人自身の力だ。
例え周りの人間がどんなに良い環境を整えても、本人に幸せを感じる力が無ければ、人は決して幸せにはなれない。
けれどその手助けをするくらいなら、周りの人間にも出来るはずだ。
もっとも、誰かの幸せのために尽力する方法なら、他にいくらでもあっただろう。
けれど新たに生きる喜びを味わう命を生み出すことは、今のところ男と女が居なければ出来ない。
楽しさこそが目的であり、価値であるとするならば。
それを味わう人の数が増えることも、その価値を増やすことに繋がるはずだ。
自分の快楽を追求することと、より多くの人間の快楽を最大にすること。
利己主義と功利主義は、究極的には対立せず同じ行動理念にたどり着くはずだと、若き日の俺は信じていた。
俺はもし良ければと、結婚を前提に付き合うプランを提案した。
メリットとデメリットを述べ、何かの企画でも読み上げるようだったそれを、断られればそれも良かった。
けれど、彼女はそれに頷いた。
子供が欲しいという彼女の願いに俺が乗り、生まれてくる子供の幸せのために共闘する、同盟のような関係。
それが、俺達夫婦の結婚だった。
もっとも結婚するにあたって、週に一日や二日は放っておいて欲しいと、念を押すのも忘れなかったのだが。
「次で最後だな」
最後のゲームを、俺はトップのまま迎えた。
数手で役が揃う。アガリを宣言すれば、俺の勝ちだ。
約束された勝利。けれどその役は、少し崩してそのまま続ければ、役満(※麻雀における最高得点)が狙える手でもあった。
ニヤけそうになるのを堪えながら、俺はさも難しい状況だという顔をする。
単に勝つだけなら、このままあがればそれで終わりだ。
けれどより高得点を求めて役満を狙いに行ってみるのも、面白いと思った。
そこにはロマンがあり、それを追う楽しさがある。
しばらく顔をしかめて逡巡した後、俺は勝てるはずの役を崩すことにした。
ずいぶん、酒が入ったせいだろうか。
勝つことよりもロマンを追って、博打を楽しみたい気分になったのだ。
結婚し、無事子供も生まれたが、子育ては聞きしに及ぶ大変さだった。
しばらくは腰を落ち着けて飯を食う暇も無ければ、まともに眠る時間も無かった。
疲労困憊したまま、それでも以前より働かなければ生活が成り立たない。
それは妻の想像もまた超えていたようで、週に一日や二日放っておいて欲しいという約束は早々に反故にされた。
俺を遊ばせておく余裕など、彼女にも無かったのだ。
溢れている分の幸せを消費して……などと甘いことを言っていられる状況ではなかった。
自分の分の幸せを、そのままそっくり我が子に託し、自分自身は抜け殻になったかのよう。
かと言って乗り掛かった舟だ。降りるわけにもいかない。
俺が降りれば、その負担はそのまま妻子への負担となるだろうことは目に見えていた。
その寝覚めの悪さは、結局俺に楽しさをもたらすものではないだろう。
疲れ果てても前に進む以外、道などなかった。
もしも人生、楽しんだ者勝ちだとするならば。
一生独身で過ごすと豪語していた過去の自分は、全くもって正しかったのだと思う。
それは確かに俺にとって、約束された勝利の道だった。
けれど、それでも。
今の自分の選択も、間違いだとは思いたくなかった。
上手く行けばこの道は、自分一人分よりも多くの幸せを生み出す道なのだから。
もちろん、妻や子供がこの先幸せに過ごせるという保証はない。
俺に出来るのは、その手助けに尽力することだけだ。
そうして可能性に賭けながら、先の見えない未来を望むことは。
まるで、博打のようだった。
結局俺はあがることが出来ず、ゲームに負けた。
高得点の役に振り込んでしまい、一気に最下位。
夜も更けており、そのままお開きとなった。
家路につき、街灯の光の向こうに星明りを望みながら、一人静かに歩く。
また明日から、仕事と育児に明け暮れる日々だ。
人生を賭けた勝負は、どうなるだろう。
結果が出るのは、十年後か、二十年後か。
あるいは死の瞬間かもしれないし、あるいはいつか子供が死ぬ時に幸せな人生だったかどうかで勝負は決まるのかもしれない。
例え独身でも、結婚していても。子供が居ても、居なくても。
勝ち筋は、あるはずだった。
人を幸せにするのは、あくまでその人自身の力だ。
例えどんなに良い環境であっても、本人に幸せを感じる力が無ければ、人は決して幸せにはなれない。
逆に言えば。
幸せを感じる力さえあれば、泥を啜って生きるような環境でも、人は満ち足りた気持ちで過ごせるはずだ。
ただ快楽のみを価値として、幸せであろうとすることは。
それが価値であるという理由で、周りの人間の幸せも、同様に求めることは。
ささやかかもしれないが、俺にとって一つの挑戦だった。
そしてそれは俺だけでなく、全ての人の挑戦であるようにも思える。
人間の行動原理は突き詰めればきっと、そこにしかない。
そして幸せを求める限り。
それを追うことそのものを楽しむことは、決して不可能ではないはずだ。
二兎の兎を得られずとも、追うことそのものを楽しんだ、あの頃のように。
心を研ぎ澄ませと、自分自身に言い聞かせる。
全ての体験が、幸せを得るための糧となるように。
この先の人生に待ち受けるであろう艱難辛苦すら、そんな心を磨く砥石と出来るように。
今日のゲームには負けたが。
俺の……いや、俺達の戦いは、まだまだこれからだ。
END
いや、もしかしたら今でもその価値観は蔓延しているのかもしれない。
周りに既婚者が増えた今、少なくとも俺の周りでは「結婚が良いものかどうか」なんて、もはや過去の話題になっていた。
結婚生活には、苦労が多い。
若手に結婚を勧める同僚の言葉も、それが良いものだから勧めているというより、同じ悩みで盛り上がる仲間を増やしたいという魂胆が透けて見える。
「いやぁ、しかしまさか、お前が結婚するなんてなぁ」
対面に座った友人がビールを片手に、俺を見て感慨深げに笑う。
結婚してからもう七年になるが、彼は酒に酔うとよくその話題を口にした。
左右に座る友人達もまた、茶化すように言葉を重ねる。
「本当だよな、あんなに『俺は一生結婚なんかしねぇ!』と豪語してたくせに!」
「そのために彼女すら作らないっていう徹底ぶりだったからな!」
確かに若い頃の言動を思えば、揶揄されるのも当然だろう。
久方ぶりに訪れた友人宅で、俺は酒を片手に麻雀に興じていた。
昔は毎週のように集まって酒を飲んでいたものだが、それぞれ家庭があり生活がある中で、今では年に数回集まれるかどうかだ。
「本当に、まさか俺が結婚するなんてな。俺自身が一番驚いているよ」
いい配牌だ、と思いながら、俺は酒をあおる。
ゲームはまだ序盤。誰が勝つかはわからない。
金を賭けるでもないそれは酒のつまみのようなものだったが、勝ち負けを競うそこには高揚感がついてまわる。
若い頃の俺は、徹底した独身主義者だった。
独身の良いところは、数え上げればキリがない。
けれど一言で言えば、そこには何より自由があった。
元来遊び人だった俺には、しがらみの元となるような結婚など、到底考えられなかったのだ。
老後は野垂れ死に覚悟で、この身一つ養うだけの金を稼げば良いのだと思えば、馬車馬のように働く必要もない。
必要な分だけ働き、あとは好きなことをして過ごした。
本を読み、歌を歌い、仲間と共に酒を飲みながら様々なゲームに興じた。
酒好きが興じていきつけのバーのマスターに教えを乞い、バーテンダー達が集うカクテルの大会に出たこともある。
フルマラソンを完走したこともあれば、200Km以上走る自転車のサイクルイベントに出たこともあった。
絵を描いたり、詩や小説を書いてみたり。
やりたいことは、際限なくあった。
もっとも時間と財力には限りがあるので、取捨選択を迫られることもあったのだが。
女遊びに手を出さなかったのは、そこから恋愛や結婚に発展するのを疎ましく思ったからだ。
友人たちの話を聞く限り、そこにはしがらみや鬱陶しさしか感じなかった。
それも含めて良い経験になるから、一度は経験してみるべきだという人も居た。
けれど何事も経験だとは言うが、目の前に経験したいことが溢れているなら、そちらを優先するのが人情というものだろう。
経験したくないことを、経験する必要もないのにわざわざ経験するのは、暇人のすることだ。
昔の俺は、そう思っていた。
……いや、正直、今でもそう思っている。
「しかし、何年経っても結婚生活ってものには慣れないな。独りの自由が懐かしいよ」
普段あえて口には出さないが、独身の頃の楽しさが忘れられない。
やはり自分は独り身の方が向いていたのだろうという思いは、何年経っても変わらなかった。
「そんなことを言っても、別れる気はないんだろう?」
「まぁ、子供のことを思えばな」
牌を捨て、酒で口を濡らしていると、左手に座った仲間が声を上げた。
「ウチもそんなもんだ! 昔から子はかすがいって言うしな!」
「それならオマエ、子供が居なければ別れるのかよ?」
「そりゃ、まぁ……でも一人老後を迎えて孤独死ってのも寂しいしなぁ」
世間話に興じるうちに、ゲームは進んでいく。
酔いが回って凡ミスも目立つようになってきたが、それもまた味わいだ。
酒に酔い、ミスを笑いながらの勝負には、真剣勝負とは違った趣がある。
「結婚してもうずいぶん経つだろ。子供はいくつになった?」
「来月、六歳になるよ。まだまだ、手がかかりそうだ」
「終わってみれば、あっという間さ! オレはお前のとこより早かったからな。もう手はかからないが、金がかかって困る」
「わかる! 金がいくらあっても足りなくて、どうしようかと思うよな」
集まっている面子は、皆妻子持ちだ。
自然と、子供や家庭の話が話題に上がる。
妻も子供もないまま迎える老後は寂しいものだと、周りの人間は言っていた。
けれども一人の時間も好きだった俺に、孤独の寂しさは想像のつかないものだった。
むしろ週に一日や二日は一人の時間がなかったら、発狂する自信があったと言ってもいい。
人と居るのが、嫌いなわけではない。ただ、一人が好きなだけだ。
仕事をせずに半年ほど、誰とも会わずに趣味に没頭して過ごしたこともある。
あれほど楽しかったことはない。
ずっとそうして、遊んでいたいと思っていた。
二兎を追う者一兎も得ずとはよく言ったもので、色々な趣味に広く浅く手を出していた俺は、どれもたいした腕前にはなれなかったが。
それでも、兎を追いかけるのは楽しかった。
その楽しさこそ、生きる意味だった。
いつか老いて体が効かなくなれば、追える兎の数は減るだろう。
けれど体がきかなくなっても頭一つあれば、人生と世界についての思索は、たとえ答えが出なくても無限の楽しみを与えてくれる。
それもまた俺にとって、趣味の一つだ。
『わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである』
そう書いたのは、芥川龍之介だったか。
歴史に残る大文豪とは比べるべくもないが、俺もまた快不快こそ人間の行動原理だと思う者の一人だった。
快楽を求め、不快を避けようとすることこそ、人の行動の全て。
ならば“生きる”という行動の目的もまた、そこにしかないと思った。
そしてそこに全てをかけた俺は。
確かに、生きることの楽しさを味わっていた。
「ツモ! リーチ、イーペーコー」
役を揃え、酒も入って勢いづいた俺は、高らかにアガリを宣言する。
「どうしたんだよ、なんだか今日はいやに調子が良さそうじゃねぇか」
友人が驚いた様子で、酒を注いでくる。
一進一退の攻防ではあったが、俺は順調に点数を増やしていった。
「運が良いだけさ。まだ、ここからどうなるかわからない」
そう、運が良かっただけだ。
環境が、遺伝が、偶然が味方してくれただけで。
人生の全てを幸せに生きるための思索と行動に費やしたからと言って、必ずしもうまく行くとは限らない。
俺には運よく独り身を楽しむための、運命のレールが敷かれていた。
ただ、それだけのことだったのだろう。
全力で遊ぶために老後は野垂れ死に覚悟で、と思っていたが、そんな風に思う人間はそう多くないようだ。
現に仲間の一人は、老後に面倒を見てもらうためにも、子供は作るべきだと言っていた。
子供を作ることすら、一部の人間には老後の備えなのだ。
けれども老後の生活ために子供を作るべきだと言われても、俺は頷けなかった。
それならば子供を作ることは、投資をするのと同じことだ。
育ててやったんだから面倒を見ろというのは、取引と変わらない。
そんな損得勘定で育てられた子供は、人との付き合いを損得勘定で見るようになるのではないだろうか。
そうなれば親もまた子供にとって、値踏みされて当然のものになるだろう。
投資と取引による競争の果てに、得をするのは親か子供か。
そんな親子関係に、快楽があるとは思えなかった。
どうせ子供を持つならば、掛け値なしにその幸せを願う方が、きっと良い関係になるはずだ。
そして人の幸せを願う気持ちが受け継がれていけば、その方が世の中はきっと楽しいものになる。
……まぁ子供を持つ気のなかった俺がそんな綺麗ごとを言っても、説得力は皆無だったのだが。
注がれた酒が溢れそうになり、そのままグラスに口をつける。
「わりぃ、注ぎすぎた。どうよ最近、奥さんとはうまく行ってんの?」
「まあ、それなりに、な」
とは言うものの、人から見ればどれくらいのものかは怪しいものだったが。
思えば初めから、愛し合っているとは言えない程度の間柄だ。
けれど同じ食卓で飯を食い、それなりの会話があるなら、それで上出来だと俺は思っている。
「いいよなぁ。オレなんか、完全に邪魔者扱いだぜ! 亭主元気で留守が良いどころか、早く死なねーかなくらいの扱いだよ」
「ハハ、そりゃ酷いな! なんで別れないんだよ?」
「まぁそれこそ、子はかすがいってところかねぇ……ロン、チートイツ!」
「うわマジかよ、やられた……!」
ゲームは終盤に差しかかっていた。
点数は俺がトップだ。とはいえ、少しのことで簡単にひっくり返る程度の差しかない。
妻とはバイト先で出会った仲だった。
けれどその関係は仲の良い友人という程度のもので、お互い恋愛感情など皆無だった。
ただ、彼女はよく「結婚はどうでも良いけど、子供は欲しい」と口にしていた。
いつ頃からだったろう。そんな仲の良い友人の願いを叶えるのに、一肌脱ぐのも悪くないと思ったのは。
そのためには結婚という制度を利用した方が、何かと便利だと思ったのは。
あの頃の俺は日々を遊んで過ごすうちに、子供じみた万能感に侵されていたのかもしれない。
幸せに満ち溢れた、そんな生活の中で。
溢れている分の、幸せを消費して。
他の誰かの幸せを手助けするくらい。
出来るのではないかと、思ってしまったのだ。
人を幸せにするのは、あくまでその人自身の力だ。
例え周りの人間がどんなに良い環境を整えても、本人に幸せを感じる力が無ければ、人は決して幸せにはなれない。
けれどその手助けをするくらいなら、周りの人間にも出来るはずだ。
もっとも、誰かの幸せのために尽力する方法なら、他にいくらでもあっただろう。
けれど新たに生きる喜びを味わう命を生み出すことは、今のところ男と女が居なければ出来ない。
楽しさこそが目的であり、価値であるとするならば。
それを味わう人の数が増えることも、その価値を増やすことに繋がるはずだ。
自分の快楽を追求することと、より多くの人間の快楽を最大にすること。
利己主義と功利主義は、究極的には対立せず同じ行動理念にたどり着くはずだと、若き日の俺は信じていた。
俺はもし良ければと、結婚を前提に付き合うプランを提案した。
メリットとデメリットを述べ、何かの企画でも読み上げるようだったそれを、断られればそれも良かった。
けれど、彼女はそれに頷いた。
子供が欲しいという彼女の願いに俺が乗り、生まれてくる子供の幸せのために共闘する、同盟のような関係。
それが、俺達夫婦の結婚だった。
もっとも結婚するにあたって、週に一日や二日は放っておいて欲しいと、念を押すのも忘れなかったのだが。
「次で最後だな」
最後のゲームを、俺はトップのまま迎えた。
数手で役が揃う。アガリを宣言すれば、俺の勝ちだ。
約束された勝利。けれどその役は、少し崩してそのまま続ければ、役満(※麻雀における最高得点)が狙える手でもあった。
ニヤけそうになるのを堪えながら、俺はさも難しい状況だという顔をする。
単に勝つだけなら、このままあがればそれで終わりだ。
けれどより高得点を求めて役満を狙いに行ってみるのも、面白いと思った。
そこにはロマンがあり、それを追う楽しさがある。
しばらく顔をしかめて逡巡した後、俺は勝てるはずの役を崩すことにした。
ずいぶん、酒が入ったせいだろうか。
勝つことよりもロマンを追って、博打を楽しみたい気分になったのだ。
結婚し、無事子供も生まれたが、子育ては聞きしに及ぶ大変さだった。
しばらくは腰を落ち着けて飯を食う暇も無ければ、まともに眠る時間も無かった。
疲労困憊したまま、それでも以前より働かなければ生活が成り立たない。
それは妻の想像もまた超えていたようで、週に一日や二日放っておいて欲しいという約束は早々に反故にされた。
俺を遊ばせておく余裕など、彼女にも無かったのだ。
溢れている分の幸せを消費して……などと甘いことを言っていられる状況ではなかった。
自分の分の幸せを、そのままそっくり我が子に託し、自分自身は抜け殻になったかのよう。
かと言って乗り掛かった舟だ。降りるわけにもいかない。
俺が降りれば、その負担はそのまま妻子への負担となるだろうことは目に見えていた。
その寝覚めの悪さは、結局俺に楽しさをもたらすものではないだろう。
疲れ果てても前に進む以外、道などなかった。
もしも人生、楽しんだ者勝ちだとするならば。
一生独身で過ごすと豪語していた過去の自分は、全くもって正しかったのだと思う。
それは確かに俺にとって、約束された勝利の道だった。
けれど、それでも。
今の自分の選択も、間違いだとは思いたくなかった。
上手く行けばこの道は、自分一人分よりも多くの幸せを生み出す道なのだから。
もちろん、妻や子供がこの先幸せに過ごせるという保証はない。
俺に出来るのは、その手助けに尽力することだけだ。
そうして可能性に賭けながら、先の見えない未来を望むことは。
まるで、博打のようだった。
結局俺はあがることが出来ず、ゲームに負けた。
高得点の役に振り込んでしまい、一気に最下位。
夜も更けており、そのままお開きとなった。
家路につき、街灯の光の向こうに星明りを望みながら、一人静かに歩く。
また明日から、仕事と育児に明け暮れる日々だ。
人生を賭けた勝負は、どうなるだろう。
結果が出るのは、十年後か、二十年後か。
あるいは死の瞬間かもしれないし、あるいはいつか子供が死ぬ時に幸せな人生だったかどうかで勝負は決まるのかもしれない。
例え独身でも、結婚していても。子供が居ても、居なくても。
勝ち筋は、あるはずだった。
人を幸せにするのは、あくまでその人自身の力だ。
例えどんなに良い環境であっても、本人に幸せを感じる力が無ければ、人は決して幸せにはなれない。
逆に言えば。
幸せを感じる力さえあれば、泥を啜って生きるような環境でも、人は満ち足りた気持ちで過ごせるはずだ。
ただ快楽のみを価値として、幸せであろうとすることは。
それが価値であるという理由で、周りの人間の幸せも、同様に求めることは。
ささやかかもしれないが、俺にとって一つの挑戦だった。
そしてそれは俺だけでなく、全ての人の挑戦であるようにも思える。
人間の行動原理は突き詰めればきっと、そこにしかない。
そして幸せを求める限り。
それを追うことそのものを楽しむことは、決して不可能ではないはずだ。
二兎の兎を得られずとも、追うことそのものを楽しんだ、あの頃のように。
心を研ぎ澄ませと、自分自身に言い聞かせる。
全ての体験が、幸せを得るための糧となるように。
この先の人生に待ち受けるであろう艱難辛苦すら、そんな心を磨く砥石と出来るように。
今日のゲームには負けたが。
俺の……いや、俺達の戦いは、まだまだこれからだ。
END
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