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一話完結物語

狩りが嫌になった狼の哀歌

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 その狼は、狩りをするのがすっかり嫌になってしまっていた。
 無論、生きて行くために必要であることはわかっている。
 けれども日々を生きていくための労力は、彼の魂を疲弊させ、この世界に生きる意志さえ希薄なものにしてしまっていた。
 
 そもそも生き物を殺すのが、彼は好きではなかった。
 幼少の頃は気にもかけなかったが、心身の成長は、彼の価値観を変化させた。
 血縁を主として構成されている群れの大人達が、幼かった自分をいかに愛情深く育ててくれたか。
 それを自覚するほどに、彼は感じてしまったのだ。
 狩られる獲物にもまた、同じように愛情をかけてくれた誰かが居たのではなかったか。
 そうして育てられた命を大切に繋ぎ、生きていこうとする意志があるのではなかったか。
 それを思うと、群れの仲間と共に獲物を狩る彼の心は、酷く陰鬱とした気持ちに支配された。

 何故他の生き物を殺さなければ、自分達は生きられないのだろう。
 そんな種としての在り方を否定するような思考が、頭にこびりついて離れない。
 生きるため、繁殖するために、ここまでしなければならないのだろうかと、自問自答を繰り返す日々。

 いや、例え狩り以外の仕事が主な役割だったとしても、やはり彼の心は憂鬱なままだったかもしれない。
 生きるために、ここまでしなければならないのかという気持ちは、消えなかったかもしれない。
 つまるところ、彼は日々を生き抜くための仕事に、心から疲れ果てていたのだ。

 血縁者を主とした十匹の群れの中には、年長者も居れば、彼に年が近い者も居た。
 年長者達は皆、狩りをすることが当然だと思っている風だった。
 生きるため、繁殖するために命をかけることを、疑問視する者は居ない。
 むしろそれこそが、年長者である彼らの全てだった。
 それは決して娯楽としての狩りや繁殖ではなく、命の在り方への敬虔な哲学さえ内包したもの。
 けれど狩りをするのが嫌になってしまった狼には、受け入れがたい価値観でもあった。

 若い仲間の中には、彼の気持ちを理解する者も居た。
「皆そうだよ。誰だって一度は、生きる意味についてそうやって悩むもんさ。俺だって今でも悩んでるよ。
 でもな、狩りが嫌だと言ったって、生きるためには仕方がないじゃないか。どこかで割り切らないと、やっていけないんだよ。お互い頑張っていこうぜ」
 寄り添い励ましてくれるその気持ちは、有難かったけれど。
 その言葉の内容もまた、確かなものだと思えたけれど。
 彼の気持ちは、割り切れなかった。
 割り切れないからこそ、やっていけなくなっているのは、彼自身も自覚している。
 けれどその気持ちは、彼自身にもどうしようもないものだったのだ。

 彼の心が弱っているのを察した主導者は、彼を狩りのメンバーから外した。
 けれど彼の群れの仲間は、狩った獲物の肉を惜しみなく与えてくれた。
 群れの結束は固く、その絆は強い。
 仲間である彼を見捨てるなどという選択肢は、初めから群れに無かったのだ。
 けれどその事実は、逆に彼を追い詰めた。
 もはやお荷物でしかない自分が、ここに居てはいけないのではないかという感情は、日増しに強くなるばかりだった。

 ほどなくして、彼は群れを抜けることを決意する。
 群れの仲間のことは好きだった。狼の群れの序列は厳しかったけれど、それを疎ましいと思ったことは一度もない。
 むしろ思い返せば、愛情に満ちた、強い絆で結ばれた、素晴らしい仲間達だった。
 そこを去ることが、寂しくないといえば嘘になる。
 けれどもこの群れの中で、心を病まずに生活していく自分が、今の彼には想像出来なかった。


 * * * *


 群れを抜けた狼は、寂莫とした思いを抱え、あてもなく森や荒野を歩き続けた。
 もはや生きるための狩りをするつもりはなかった。
 水さえあれば、しばらくの間は生きられる。
 けれど月の満ち欠けが幾度か繰り返されれば、やがて自分は力尽きて死ぬだろう。
 そう遠くない死を見つめながら、彼は覚悟を持って歩き続けた。

 死して倒れた自分の肉体は、大地に住む微生物や、他の生き物の糧となり、多くの命を育むはずだ。
 それは緩やかな自殺であったかもしれないが、他者の命に対する敬意の形であり、狩りに縛られない自由への崇拝の形だとさえ思っていた。
 彼もまた、元居た群れの年長者達とは別の形で、命の在り方への哲学を確立していたのだ。
 例えそれが、若さから成る青臭いものだったとしても。

 夜の荒野を歩く彼の頭上には、美しい満月が輝いていた。
 その光は彼の生き様を祝福するようでもあったが、同時に彼が死んだ後も変わらず輝き続けるであろう冷淡さも孕んでいる。
 青白い月光に照らされながら、群れを離れた狼は、自由の味を噛みしめていた。
 生きなければならないという義務から。
 愛する群れへの執着から。
 解放された、自由の味。
 それは孤独の虚しさを含んでもいたが、清々しいほどの解放感は、酔いに似た興奮をもたらすものだ。
 
 いつしか彼は、月を見上げて吠えていた。
 細く長く響く、どこか悲し気なその遠吠えは、生きることの悲哀を歌う哀歌のようでもあった。
 その哀歌は、死を見据えた狼自身の心を癒し、元気づけた。
 生きることの辛さを、噛みしめて来た狼には。 
 明るい歌ではなく、哀しい歌こそ、その心を救うものだった。


 * * * *


 ある夜のこと。
 いつでも水が飲める湖のそばを最期の地と決め、静かに寝そべって過ごしていた狼は、自分の元へ近づいてくる獣の存在を感じた。
 匂いからして、自分を狩るような獣ではない。
――この匂いは、幼い猫だな。
 やがて目視出来る距離まで近づいてきたそれは、感じた通り、一匹の子猫だった。
 親の姿は見えないが、独り立ちするには幼すぎるように見える。
 おそらく何らかの理由で、親猫とはぐれてしまったのだろう。

 子猫は時折立ち止まりながらも、真っすぐに湖を目指していた。
 狼や他の獣と同じように、水を求めて来たのだろうか。
 それとも水場のそばには、餌になる何かが居るはずだと感じてのことだろうか。 
 子猫の真意はわからないものの、狼は別段何をする気もなかった。
 もう狩りはしないと、心に決めた身だ。子猫に対して何かする気もなかったし、放っておいたところで危害を加えられることもないはずだ。

 子猫は水辺に辿り着き、しばらく辺りを探索した後、思いがけない行動に出た。
 湖のそばに佇んでいた狼に気づくと、恐れるどころか自ら歩み寄ってくる。
 そして様子を伺うように匂いを嗅いだ後、狼の身に寄り添ってきたのだ。
 その場で座り込み、目を細め、ごろごろと甘えたように喉を鳴らし始める。

 初めは驚いた狼だったが、悪い気はしなかった。
 子猫の姿は愛くるしく、舐めてやれば狼とは違った毛並みの柔らかさを感じた。
 優しい毛並み。そしてそこに残るのは、猫の匂いの他に。
 人間の匂いと、犬の匂い。
 詳しい事情はわからない。けれど濃厚な関わりがあったのでなければ決してつかない程の匂いが、子猫の体には染みついていた。
――俺を恐れないのは、生まれた環境に犬が居たせいか。
 遠縁に当たる種族だが、子猫からすれば似たようなものなのかもしれない。
 子猫は、夜の肌寒さを避けるかのように。
 親元を離れた寂しさを、埋めるかのように。
 ぴったりと身を寄せて、離れなかった。

 次の日も、子猫は狼の傍らにいた。
 狼のことを安全な者として、すっかり信頼しきっている様子だ。
 時折虫や蜥蜴を追いかけて遊んでいるようだが、それはまだ狩りと呼べるほどのものではない。
 ろくに食べ物を口にしていないせいか、次第に子猫は元気を無くしていった。
 このままでは、その命が尽きるのも時間の問題だろう。
 おそらくそれは、狼の命が終わるよりも早く。
 子猫は、この世を去ることになる。

 その様子を見ていた狼は、居ても立ってもいられない気持ちになった。
 このか弱い生き物のために。生きようとしている、小さな命のために。
 自分がしてやれることは、何かないだろうか。
 この身を差し出して子猫が生きながらえるなら、それもいい。
 けれどか弱い子猫の身では、狼の肉を食いちぎることは出来ないだろう。
 そう思う間にも、子猫の足元はふらつき始め、その鳴き声はか細いものになっていく。

 一つだけ、あった。
 狼が子猫に、してやれることが。
 けれどそれは、自らに課した禁忌を侵すもの。

――構う、ものか。

 目の前で消えゆく命を見殺しにすることと、狩りによって他者の命を奪うことは。
 果たして、同じ殺しだろうか。
 自分の命を繋ぎたいと思うことと、自分が生きていて欲しい誰かの命を繋ぎたいと思うことは。
 果たして同じ、利己心だろうか。
 考えても、答えは出なかった。
 けれど狼は、子猫に生きていて欲しいという己の我儘のために。

 再び、狩りを決意した。


 * * * *


 一匹での狩りは群れに居た時と比べて容易ではなく、狼は自分がいかに群れの庇護を受けていたかを思い知った。
 群れにいた頃は、協力して狩りの効率を上げられた。成功率は半分ほどだったが、それでも一匹でやるよりは遥かに効率的だ。
 上手く狩りが出来ない者も、群れに居る限り飢えることはなかった。
 その社会を捨ててしまえば、頼れるものは己だけだ。

 それでも狼は、狩りを続けた。
 嫌いだった狩りを。死よりもなお厭うものだった狩りを。
 子猫に生きて欲しい、ただその一心で。
 そして子猫を生かすために、自らもまた死ぬわけにはいかなかった。
 生きて、子猫に生きる糧を与え、生きる術を教えなければならなかった。

 狼の狩りのかいあって、子猫は元気を取り戻した。
 狼がかみ砕いて柔らかくした肉を与えれば、子猫はそれを食べてすくすくと育つ。
 自分で狩りが出来るようになるまで、そう時間はかからなかった。

 けれど子猫は、成長し、自分で狩りが出来る大人の猫になっても、狼のそばを離れようとはしなかった。
 まるで狼が居る場所こそ、自分にとって安住の地だとでも言うように。
 狼に懐いた猫は、いつでも狼に寄り添っていた。
 狼が厭世的になり、食べ物を口にしないようなことがあれば、食べろと言うかのように鳥を獲ってきて差し出してくる。

 そんな猫の気持ちに応えるためにも、狼は死ぬわけにいかなくなり、狩りを続けた。
 時に疲れ果て、時に生きるのが嫌になりながら。
 生きながらえるほどに、辛い狩りの回数を増やさねばならないとしても。
 それでもなお、狩りを続けた。

 猫のために、生きる。
 けれどそれだけでは割り切れない、生きることを投げ出したくなるような気持ちが昂った時。
 彼は、吠えた。長く長く、吠え続けた。
 心の叫びであるようなその遠吠えは、彼にとっての歌だった。
 時に己を鼓舞し、時に己の心を慰め癒すための歌。
 その歌を、胸に宿して。
 狼は、生き続けた。


 * * * *


 静かな夜。
 月明かりの下で、狼はしみじみと我が身の矛盾を思う。

 狩りを嫌いながら、狩りを続け。
 誰かを生かすために、誰かを殺し。
 元居た群れの仲間達の想いには応えなかったのに、猫の想いには応え。
 生きることの苦しみから解放されたいと願いながら、今なお生きながらえている。
 その矛盾に、心は打ちひしがれるかのようだ。

 けれど、自分は未だこの世界から、生きることを許されている。

 いつしか彼は、月を見上げて吠えていた。
 細く長く響く、どこか悲し気なその遠吠えは、生きることの悲哀を歌う哀歌のようでもあった。
 その哀歌は、暗さの中でなお光明を望むような、切なる想いが込められているように響いた。
 生きることの辛さを、噛みしめて来た狼の歌には。 
 絶望の中からなお立ち上がる、一筋の光のような力強さがあった。


 END
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