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平穏を愛した悪鬼

中編:鬼を狩る者

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* * * *

 刀を持った男たちを倒したことで、鬼の存在は人間達から完全に認知されることになった。
 そして今や鬼の存在は人間達にとって、邪魔者であり、危険な駆除の対象となっていた。
 幾度となく討伐隊が編成され、鬼を狩るために山へ入ってくる。
 ある時は刀や弓を持った戦士たちが。ある時は銃を持った猟師の集団が。
 鬼と出会う度に攻撃を仕掛け、鬼の元に散っていった。
 鬼が逃げ隠れすれば、討伐隊が死ぬことはなかったかもしれない。
 しかし鬼には、逃げる理由も隠れる理由もなかった。

――俺の力が、人間達にはわからないのだろうか。早く諦めてくれれば、平穏な日々が戻ってくるのだが……

 そんなことを思いながら、屍となった討伐隊の肉を食む。
 チクチク攻撃してくるのは鬱陶しいが、ご馳走であることにかわりはない。
 とても食べきれる量ではなかったが、腐敗して食べられなくなるまでは食べるようにしていた。
 何か保存する方法があればいいのだが……とくに妙案も思い浮かばぬまま、腹の満たされた鬼は木陰で横になり、物思いに耽る。

 人を殺す機会が格段に増えたが、特に印象に残っているのは鬼への復讐に燃えていたあの男だ。
 あの男は鬼を悪鬼と呼び、一匹の鬼の行いのために全ての鬼を殺そうとしていた。
 初めは狂気じみていると思えたが、そういえば人間に殺されかけたことから、人間を見ると恐怖に駆られて襲いかかってしまうようになった熊を見たことがある。
 結局その熊は人を襲ったことで人間から駆逐され、寿命を縮めることになった。
 あの男の行動も、それと似たようなものなのかもしれない。

――人間とはもう少し知性のある生き物だと思っていたが、人も獣の一種だ。本能には、逆らえないのかもしれないな……

 それにしても、悪鬼と呼ばれたのは腑に落ちなかった。
 鬼から見れば、寄ってたかって罪なき自分を攻撃してくる人間達の方がよほど悪人だ。
 もしも人間を殺して食べることが罪であるというなら、他の生き物を殺して食べている人間もまた罪深い生き物であるはずだ。
 それなのに自分の罪を棚に上げ、鬼のことを悪鬼呼ばわりするとは、一体人間は自分達を何様だと思っているのだろうか。
 もっとも、鬼と人間では種族からして違う。鬼にはわからない価値観が、心の機微が、人間にはあるのかもしれない。 
 考えてもわからないことを、考えてもしかたがない。
 鬼は木々の緑や空の青に目をやり、時折聞こえる鳥のさえずりに耳を傾けることにした。
 この瞬間に感じる安らぎに比べたら、全てが瑣事だった。

 どれくらい、そうしていただろうか。
 わずかな異音に気づいて、そばの木の枝を見る。
 そこには白装束を纏った男が、刀を携えてこちらを伺っていた。

――いつのまに……?

 ここに至るまで、全く音がしなかった。
 猫の如き聴覚をもつ鬼の耳を持ってしても、男がそこに来るまで気づくことが出来なかったのだ。
 その事実に、鬼は男をわずかに警戒する。

「あぁ、気づかれちゃったねぇ。不意打ち出来れば楽かと思ったんだが。
 どうやら先発隊も皆やられちまったようだ。俺が来るまで待てって言ったのに……」

 言いながら、男は鬼の眼前に降り立つ。
 音もなく着地するその様は、まるで人ではない物の怪のようだ。

――物の怪か? 自分以外の物の怪を見るのは、初めてだ。

 鬼が低く唸ると、男はにやりと笑う。

「いやぁ、物の怪なんかじゃないさ。ちょいと特別な先生の元で修行を積んだ、お前みたいなのを相手にする専門の人間ってわけでね」

 まるで会話が成り立ったかのようなその言葉に、鬼は首をかしげる。

――俺の言葉が、わかるのか……?

「まぁ、完全にはわからないけどねぇ。表情や声のトーンで、ちょっとした意志の疎通が出来るくらいさ」

 鬼は頷いて見せる。その様子を見て、男は鬼に語りかける。

「やはり、こっちの言葉もわかるみたいだな」
――何故わかるのかは、わからないがな。
「お前みたいな鬼は、言ってみれば魂のかけらの集合体だ。
 死んだ後、野山に溶け込み自然に帰っていくはずの魂達が、生への未練から残滓を残し、それが吹き溜まりに集まって鬼になる。
 人間だった魂の残滓も元になってるから、人の言葉がわかるんだろう。
 まぁ一人の人間の怨念から成る鬼は、お前みたいなのと違って言葉を喋れるらしいがね」

 唐突に、何気ない雑談のように語られた、鬼の出生にまつわる話。
 それは鬼にとって長年の謎を解き明かす言葉だったが……
 特に感動もなく、ただ腑に落ちたという感覚で、静かに鬼の心に染み入ってゆく。
 今の生活を守ることに比べれば自らの出生の秘密など、酷くどうでもいいことのように思えた。

――なるほど。それで、お前は俺を殺すのか?
「村の人間からは、お前を退治してくれと言われているんだが……
 なぁ、お前人間食うのやめて、どこか他のところで暮らさないか?
 そうすれば労力をかけて退治する必要もなくなる。
 つーか、ぶっちゃけ俺が勝てるという保証もないから、そうしてくれるとありがたいんだが」

 勤勉な方ではないのだろう。面倒くさそうに、けれど頼むような調子で投げらかけられた提案。
 鬼は少しの間考えたが、どちらも無理な相談だった。
 喰わないで欲しいという話なら、人間に限ったことではない。
 熊も、猿も、猪も、鬼に喰われたいと思っている動物はいないだろう。
 その中で人間の望みだけを叶えるのは、どう考えても依怙贔屓だ。それはどこか、鬼の倫理感に反するものだった。
 もっとも鬼が感じているその感情を、“倫理感”などという人間臭い言葉で呼ぶとしたらの話だが。
 もしかしたら人間の魂を元に生まれた鬼の中には、中途半端な人間臭さが残っているのかもしれない。
 そしてもう一つ。鬼はこの山が好きだった。人間の都合で他へ行くつもりはない。
 鬼が身を低くして長く唸ると、男は諦めたように肩を落とす。

「まぁ、そうだよなぁ。俺だって白菜やホウレン草からどんなに悪人呼ばわりされようが、野菜を食うのをやめる気はないし。
 出てってくれってのも、こっちの都合でしかないしなぁ。対価としてお前に差し出せるものは何もない」

 男はお手上げだというように手を掲げる。

 孤独な生活の中で。
 鬼は初めて、自分を理解してくれる者に出逢った気がして。
 いつしか男との会話に、心地よさを覚えていた。
 初めて味わう他者との交流の味は、存外に美味だ。

「正直、俺はそれほどお前を悪いやつだとは思ってねぇのよ。俺たち人間も、他の生き物を食べて生きてるわけだし。ただ、まぁ、俺も仕事でね」

 言いながら、男は刀を抜く。
 あぁ、結局こうなるのかと鬼は思う。

「自然の摂理は弱肉強食。悪いが繁栄を望む人間の欲望に……喰われてくれや」

 ゆらりと緩慢な動きで踏み出した男の姿が、一瞬で鬼の眼前に迫る。
 鬼は後ろへ飛びのきながら、その刀を防ぐために腕を前に構え守りの姿勢をとるが……
 いくつもの刃を受け止めて来たその腕を、男の刀は簡単に跳ね飛ばした。
 斬られた傷口から漆黒の煙のようなものが漏れ出し、虚空に溶ける。
 初めて味わう痛みに、うめき声が漏れた。

「言ったろう、俺はお前みたいなやつ専門だって」

 言いながら男はさらに踏み込み、刀を振るった。その風に触れるだけで、鬼の肌がチリチリと痛む。

「神仏に仕える刀鍛冶が打ち、塩と酒で清め、百日間神社に祀り祈りを捧げた特別な神刀だ。
 これに触れて無事で済む物の怪は居ない」

 男の動きは、今まで鬼の討伐に来た人間達とは段違いだった。
 けれど鬼の膂力は、人間のそれをはるかに上回る。
 刀を躱し、隙を見て繰り出された鬼の爪が男の脇腹をとらえた。
 確実に男の命を奪うであろう一撃。刹那、その爪が強い力で弾かれ、鬼は体勢を崩す。
 すかさず鬼の首めがけて振られた刀をすんでのところでかわし、鬼は切り裂いたはずの男の脇腹を見た。
 服が裂けたそこには白布が巻かれており、札のようなものがいくつも縫い込まれているのが見える。
 裂けたところを一瞥して、男が溜息を漏らした。

「危ないところだった……さすがは、先生の作った魔避けの札だな」
――なるほど、守りも万全というわけか。
「どうだい、大人しく降参しちゃくれないか。もともと自然に帰るはずの魂だ。俺がその手助けをしてやるよ」
――生憎だが、必要ない。帰りたくなったら自分で帰ろう。それに……

 鬼が低く構える。その姿は、獲物に狙いを定めた獣のようだ。

――俺が人間に、自分から喰われてやる道理もない。

 咆哮と共に、鬼の目が怪しく光を放つ。それと共に、上空へ暗雲が集まり始めた。
 斬られたはずの鬼の腕が再生する。それらは普段使う必要の無かった、鬼の能力だった。

「再生に……念力か。厄介だねぇ。だがその力も、無限に続くものではない!」

 男が距離を詰め、凄烈な連撃を放つ。
 それを躱しながら鬼は、暗雲から男を狙って雷を落とした。
 念力で呼び寄せた雷は魔避けの札に大半が弾かれるが、直接当たらずとも効果は絶大だった。
 落雷は鼓膜を破るほどの轟音と、目を眩ませる光、大気を揺さぶる衝撃波を発生させ、男の動きを止める。
 さらに鬼は周りの木々に念力を集中させ、それらを男に向かって一斉に倒した。
 不自然に折れながら、音を立てて倒れてくる木々。避けようとした男を、さらに雷が襲う。
 目が眩み、動きを止められた男に、もはや倒れてくる木々を避ける術はなかった。


 * * * *


「くそ、とんでもねぇバケモンだな……俺には荷が重かったぜ」

 男は、生きていた。
 運よく木々の間に出来た隙間で即死は免れたが、倒れくる木々の枝にその肌を裂かれ、白装束が血に染まっている。
 全身を強く打った上に片足は木に潰されており、とても動ける状態ではなかった。
 しかし鬼はそんな男を見つめたまま、止めを刺さずにいた。
 初めて意思の疎通が叶ったその男を、殺すのは惜しいような気分になったのだ。

「俺はどうやら喰われる側だったようだな。やれよ、それが自然の摂理ってもんだ」

 自嘲と諦めが混じったような力ない笑みを浮かべる男を、鬼は静かに見つめる。

――生憎、今は腹が減っていなくてな。
――もう戦えないお前に、止めを刺す必要もない。

 もっとも放っておいても、助かるかどうかはわからない状態ではあるのだが。
 別段、男を助ける気もなかった。ただ平穏な生活さえ守れれば、それで良いのだ。
 そんな鬼の様子に、男は口元に笑みを浮かべたまま、つまらなそうに鼻を鳴らす。

「気まぐれか? 情けのつもりか? 俺を放っておけば、いつかまたお前を殺しに来るかもしれねぇぜ」

 男の言葉を、鬼は鼻で笑う。その様子はどこか愉し気でもあった。

――お前如きが何度来たところで、俺を殺すことは出来ない。
「言ってくれるねぇ。その態度、いつか後悔するぜ」

 木に挟まれたままの男に、鬼はもう背を向けていた。
 さてどこで安寧の時を過ごそうかと、山の中の様々な場所に想いを巡らせる。
 他者と交流する快楽を教えてくれた男の存在も、鬼にとってはほんの気まぐれで生かしておく程度のもの。
 ただ心穏やかに過ごす時間を味わい、この世に存在し続けることだけが……
 魂達の生への未練から生まれた鬼にとって、全てだった。
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