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平穏を愛した悪鬼
前編:人喰らう悪鬼
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そこにいたのは、異形だった。
人間に似た体形ではあるが、その腕と下半身は熊のような毛に覆われ、頭からは牛のような角が生えており、一目で人ではないことがわかる。
剥き出しの肌は漆黒の闇色。獅子を思わせる鬣は血のように赤く、口元からのぞく牙はいかにも獰猛そうな印象を見る者に与えていた。
日暮れ時の山中。異形に出会った男は息をのみ、恐怖に立ちすくむ。
――逃げなくては……!
頭ではそう思っても、目を離した瞬間に襲いかかってくるような気がして、目が離せない。
もっとも目を離さなかったからと言って、襲われない保証などどこにもないのだが。
目を合わせたまま少しづつ後じさり始めた男の前で、異形はわずかに身をかがめる。
――まずい!
獲物を狩る前の猫のような異形の動きに危険を感じ、男は本能的に背を向けて走り出す。
焦りから足がもつれそうになりながらも必死で逃げる男を、異形はただ一度の跳躍で追い抜いた。
追い越しざまに爪で掻かれた首から鮮血がほとばしり、駆けていた男は勢いよく地面に倒れこむ。
意識を失う直前、男の脳裏に後悔の念が浮かんだ。
この山には鬼が出ると、忠告されていたのに、と。
その鬼がいつからその山に住んでいたのか、知る者は居ない。
鬼自身にも始まりの記憶は無く、気が付けばその山で人や獣を喰って暮らしていた。
鬼の姿を見た者はたいてい喰われてしまうため、実際に鬼を見た者は少ない。
しかし数少ない目撃証言と、他の獣にやられたにしては明らかにおかしい人間の残骸が見つかることから、その山には鬼が住むと伝えられるようになっていた。
もっとも村と村を繋ぐ山道が通っていたことや、山菜がよく採れることもあり、足を踏み入れる者が居ないわけではない。鬼の存在など迷信だと信じている者も居るようだ。
たいていは何事もなく下山できるものの、運の悪い者だけが鬼に遭遇し、その腹を満たすことになる。
――人間を喰うことが、増えてきたな。
鬼は思う。昔よりも人に会うことが増えた。
人間たちが山の周りを畑や村として開拓しているせいかもしれない。
鬼の目から見て、明らかに近隣に住む人間が増えてきていた。
山から俯瞰していると、次第に家が増え道が作られていく様に、人間達の繁栄ぶりがうかがえる。
――住処は狭くなるし、騒音は増える。迷惑なことだ……
ご馳走が寄ってきて嬉しいなどと、思うことはなかった。
人間は美味だ。特に女子供の肉は柔らかく、舌がとろけるような旨味がある。
けれども鬼にとって食事とは美食を追求することではなく、生きるための糧を得ることだった。人と会わない時には、熊や猪を食べればよい。
それ故に必要以上に人間を喰らおうとは思わなかったし、腹の空いていない時にはのんびり過ごすのが好きだった。
小鳥のさえずりや、木々の葉が風に揺れる音。虫の声や、水のせせらぎ。
それらに耳を傾けながら空を眺めて過ごすのが、鬼はたまらなく好きだったのだ。
青空に浮かぶ、雲の陰影。夕焼けから夜に変わりゆく時のグラデーションや星々の輝きは、見ていて飽きることがなかった。
静寂の中に聴こえる種々の音は極上の音楽であり、昼夜や天候によって移り変わる空は至高の映像作品だ。
しかしそんな至福の時を、もうじき人間は壊しにくるだろう。
数を増やし、この地を自分たちの好きなように使いたがっている人間にとって、自分の存在は邪魔になる。
そんな予感を、鬼は感じていた。
そしてその時には、日々の暮らしを守るために……
自分の生活を脅かす者達と、戦わなければならないとも。
* * * *
「人を喰う悪鬼め、退治してくれる!」
ほどなくして、鬼の予感は当たった。
今までのようにたまたま遭遇してきた人間とは違う。明らかに鬼を退治するために編成された、刀を持った人の群れ。
二十人はいるだろうか。普段人が足を踏み入れぬ山奥まで踏み込み鬼を見つけた彼らは、険しい表情で向かってくる。
――悪鬼とは、心外だな。普通に生きているだけで、何も悪いことはしていないと思うのだが……
鬼は喉や口の構造から人語を話せない。しかし相手の言葉を理解することは出来た。
物心ついた時には人語を知っていたので、どこで身に着けたのかはわからない。
自らの出自に関わることのような気がして気にならないでもなかったが、考えてわかるものでもなかった。
もとより世界は、未知で満ちている。
わからないことは、わからないままで良い……そんなことよりも日々の暮らしの方が大事だと、鬼は思っていた。
そして、その暮らしを奪わんとする者達が眼前に迫る。
刀で切りかかってくる人間たちを相手に、鬼の決断は早かった。
爪を振るい、力任せに薙ぎ払い、その牙を相手の首に突き立てる。
――この程度の力で、俺を倒せると思っていたのだろうか。
そんな感想を抱くほど、人間たちは脆かった。鬼が動くたびに、動かぬ屍が増えていく。
手にした刀で鬼に斬りつけた者も居たが、厚い皮膚はほとんど刃を通さない。
「……悪鬼め! その力で、一体何人の人間を殺してきたのだ!!」
人間達が倒れ伏した中、一人残った主導者らしき男が悔し気な顔で叫ぶ。
――人を殺したということが、悪いことなのだろうか。
鬼にとっては不可解だった。自分はただ人間を食べるために殺しただけである。
人間が山の獣を狩ってその肉を食むのと、何が違うというのだろうか。
人が魚をさばいて喰うのも、自分が通りかかった人間を喰うのも、同じことではないだろうか。
鬼から見れば、人間の集落で行われている動物の扱いの方がよほど酷いものに見えた。
無論、大切にされている家畜も存在する。
けれども物同然に扱われ、拷問とも言える苦痛を受けた果てに死んでいく動物達が居るのも、鬼は見てきた。
自分が悪鬼ならば、人間の方がよほど悪人ではないのだろうか。
そんなことを考えながら主導者の男を静かに見つめる鬼に、男は刀を構えたまま口を開く。
「なぜ、襲ってこない……余裕のつもりか! お前らはいつだってそうだ……人間を見下し、いつでも食える餌程度にしか考えない!
家族を、友を、鬼に食われた者の無念が、お前などにわかるものか!」
言いながら、男は斬りつけてくる。鬼はそれをかわしながら、男の首めがけて爪を振るった。
すでに屍になった者達よりも腕が立つと見えて、男はその爪を素早く刀で受けて距離をとる。
「村が鬼に襲われ、家族を失ったあの日、私は誓ったのだ……この世から、鬼を滅ぼすために生きると!
そのために、血反吐を吐くような訓練をしてきた。お前のような化け物に、負けるわけにはいかないのだ!」
それは鬼に向けたものというより、己を鼓舞するための言葉。
しかし鬼はその言葉に、ひっかかるところがあった。
どうやらこの男は近隣の村の人間ではなく、鬼を殺すためにどこかからやって来た者であるらしい。
けれど鬼は山から出た覚えが無く、まして人の村を襲った記憶などない。この男の家族を殺したのは、おそらく別の鬼だろう。
それなのにこの男は、何故他の鬼まで滅ぼそうとしているのだろうか。
――狂っている。
鬼は端的に、そう感じた。
鬼に家族を殺されたことで、鬼を滅ぼすことにしたというのならば。
もしこの男の家族を殺したのが人間だったならば、村を襲ったのが人間だったならば……
この男は人という種への絶望から、人類を絶滅させようとするのではないか。
そんな印象を、男に抱いたからだ。
それとも同種のよしみで、人間が相手ならばそこまでの感情は抱かないのだろうか。
問うてみたい好奇心に駆られたが、鬼の言葉は人間にとって唸り声や吠え声にしか聞こえない。
男が鬼に刃を振るう。訓練したというだけあって、すでに屍になった者達とは段違いの腕だ。
しかしそれはあくまで、人間としては強い方というだけの話。
――他愛ない、な。
男の連撃を躱した鬼の爪が、刀を弾き飛ばし、男へと迫る。
その一撃は男の復讐への意志も、記憶も、命も……
全てを一瞬で消し去る威力をもって、男の体を貫いた。
人間に似た体形ではあるが、その腕と下半身は熊のような毛に覆われ、頭からは牛のような角が生えており、一目で人ではないことがわかる。
剥き出しの肌は漆黒の闇色。獅子を思わせる鬣は血のように赤く、口元からのぞく牙はいかにも獰猛そうな印象を見る者に与えていた。
日暮れ時の山中。異形に出会った男は息をのみ、恐怖に立ちすくむ。
――逃げなくては……!
頭ではそう思っても、目を離した瞬間に襲いかかってくるような気がして、目が離せない。
もっとも目を離さなかったからと言って、襲われない保証などどこにもないのだが。
目を合わせたまま少しづつ後じさり始めた男の前で、異形はわずかに身をかがめる。
――まずい!
獲物を狩る前の猫のような異形の動きに危険を感じ、男は本能的に背を向けて走り出す。
焦りから足がもつれそうになりながらも必死で逃げる男を、異形はただ一度の跳躍で追い抜いた。
追い越しざまに爪で掻かれた首から鮮血がほとばしり、駆けていた男は勢いよく地面に倒れこむ。
意識を失う直前、男の脳裏に後悔の念が浮かんだ。
この山には鬼が出ると、忠告されていたのに、と。
その鬼がいつからその山に住んでいたのか、知る者は居ない。
鬼自身にも始まりの記憶は無く、気が付けばその山で人や獣を喰って暮らしていた。
鬼の姿を見た者はたいてい喰われてしまうため、実際に鬼を見た者は少ない。
しかし数少ない目撃証言と、他の獣にやられたにしては明らかにおかしい人間の残骸が見つかることから、その山には鬼が住むと伝えられるようになっていた。
もっとも村と村を繋ぐ山道が通っていたことや、山菜がよく採れることもあり、足を踏み入れる者が居ないわけではない。鬼の存在など迷信だと信じている者も居るようだ。
たいていは何事もなく下山できるものの、運の悪い者だけが鬼に遭遇し、その腹を満たすことになる。
――人間を喰うことが、増えてきたな。
鬼は思う。昔よりも人に会うことが増えた。
人間たちが山の周りを畑や村として開拓しているせいかもしれない。
鬼の目から見て、明らかに近隣に住む人間が増えてきていた。
山から俯瞰していると、次第に家が増え道が作られていく様に、人間達の繁栄ぶりがうかがえる。
――住処は狭くなるし、騒音は増える。迷惑なことだ……
ご馳走が寄ってきて嬉しいなどと、思うことはなかった。
人間は美味だ。特に女子供の肉は柔らかく、舌がとろけるような旨味がある。
けれども鬼にとって食事とは美食を追求することではなく、生きるための糧を得ることだった。人と会わない時には、熊や猪を食べればよい。
それ故に必要以上に人間を喰らおうとは思わなかったし、腹の空いていない時にはのんびり過ごすのが好きだった。
小鳥のさえずりや、木々の葉が風に揺れる音。虫の声や、水のせせらぎ。
それらに耳を傾けながら空を眺めて過ごすのが、鬼はたまらなく好きだったのだ。
青空に浮かぶ、雲の陰影。夕焼けから夜に変わりゆく時のグラデーションや星々の輝きは、見ていて飽きることがなかった。
静寂の中に聴こえる種々の音は極上の音楽であり、昼夜や天候によって移り変わる空は至高の映像作品だ。
しかしそんな至福の時を、もうじき人間は壊しにくるだろう。
数を増やし、この地を自分たちの好きなように使いたがっている人間にとって、自分の存在は邪魔になる。
そんな予感を、鬼は感じていた。
そしてその時には、日々の暮らしを守るために……
自分の生活を脅かす者達と、戦わなければならないとも。
* * * *
「人を喰う悪鬼め、退治してくれる!」
ほどなくして、鬼の予感は当たった。
今までのようにたまたま遭遇してきた人間とは違う。明らかに鬼を退治するために編成された、刀を持った人の群れ。
二十人はいるだろうか。普段人が足を踏み入れぬ山奥まで踏み込み鬼を見つけた彼らは、険しい表情で向かってくる。
――悪鬼とは、心外だな。普通に生きているだけで、何も悪いことはしていないと思うのだが……
鬼は喉や口の構造から人語を話せない。しかし相手の言葉を理解することは出来た。
物心ついた時には人語を知っていたので、どこで身に着けたのかはわからない。
自らの出自に関わることのような気がして気にならないでもなかったが、考えてわかるものでもなかった。
もとより世界は、未知で満ちている。
わからないことは、わからないままで良い……そんなことよりも日々の暮らしの方が大事だと、鬼は思っていた。
そして、その暮らしを奪わんとする者達が眼前に迫る。
刀で切りかかってくる人間たちを相手に、鬼の決断は早かった。
爪を振るい、力任せに薙ぎ払い、その牙を相手の首に突き立てる。
――この程度の力で、俺を倒せると思っていたのだろうか。
そんな感想を抱くほど、人間たちは脆かった。鬼が動くたびに、動かぬ屍が増えていく。
手にした刀で鬼に斬りつけた者も居たが、厚い皮膚はほとんど刃を通さない。
「……悪鬼め! その力で、一体何人の人間を殺してきたのだ!!」
人間達が倒れ伏した中、一人残った主導者らしき男が悔し気な顔で叫ぶ。
――人を殺したということが、悪いことなのだろうか。
鬼にとっては不可解だった。自分はただ人間を食べるために殺しただけである。
人間が山の獣を狩ってその肉を食むのと、何が違うというのだろうか。
人が魚をさばいて喰うのも、自分が通りかかった人間を喰うのも、同じことではないだろうか。
鬼から見れば、人間の集落で行われている動物の扱いの方がよほど酷いものに見えた。
無論、大切にされている家畜も存在する。
けれども物同然に扱われ、拷問とも言える苦痛を受けた果てに死んでいく動物達が居るのも、鬼は見てきた。
自分が悪鬼ならば、人間の方がよほど悪人ではないのだろうか。
そんなことを考えながら主導者の男を静かに見つめる鬼に、男は刀を構えたまま口を開く。
「なぜ、襲ってこない……余裕のつもりか! お前らはいつだってそうだ……人間を見下し、いつでも食える餌程度にしか考えない!
家族を、友を、鬼に食われた者の無念が、お前などにわかるものか!」
言いながら、男は斬りつけてくる。鬼はそれをかわしながら、男の首めがけて爪を振るった。
すでに屍になった者達よりも腕が立つと見えて、男はその爪を素早く刀で受けて距離をとる。
「村が鬼に襲われ、家族を失ったあの日、私は誓ったのだ……この世から、鬼を滅ぼすために生きると!
そのために、血反吐を吐くような訓練をしてきた。お前のような化け物に、負けるわけにはいかないのだ!」
それは鬼に向けたものというより、己を鼓舞するための言葉。
しかし鬼はその言葉に、ひっかかるところがあった。
どうやらこの男は近隣の村の人間ではなく、鬼を殺すためにどこかからやって来た者であるらしい。
けれど鬼は山から出た覚えが無く、まして人の村を襲った記憶などない。この男の家族を殺したのは、おそらく別の鬼だろう。
それなのにこの男は、何故他の鬼まで滅ぼそうとしているのだろうか。
――狂っている。
鬼は端的に、そう感じた。
鬼に家族を殺されたことで、鬼を滅ぼすことにしたというのならば。
もしこの男の家族を殺したのが人間だったならば、村を襲ったのが人間だったならば……
この男は人という種への絶望から、人類を絶滅させようとするのではないか。
そんな印象を、男に抱いたからだ。
それとも同種のよしみで、人間が相手ならばそこまでの感情は抱かないのだろうか。
問うてみたい好奇心に駆られたが、鬼の言葉は人間にとって唸り声や吠え声にしか聞こえない。
男が鬼に刃を振るう。訓練したというだけあって、すでに屍になった者達とは段違いの腕だ。
しかしそれはあくまで、人間としては強い方というだけの話。
――他愛ない、な。
男の連撃を躱した鬼の爪が、刀を弾き飛ばし、男へと迫る。
その一撃は男の復讐への意志も、記憶も、命も……
全てを一瞬で消し去る威力をもって、男の体を貫いた。
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