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一話完結物語
二人の兵士
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戦場は、さながら地獄のようだった。
元は人だったものがただの肉塊となり、あちこちに転がっている。もはや木や石と同じ、どこでも見かける風景の一部であるかのようだ。
腸から撒き散らされた糞便や、死体から流れる血の臭い。新鮮なものから腐臭となったものまで全てが交じり合い、呼吸をするだけで吐き気を催す。
銃器から放たれる火薬の香りや、無機質な鉄の香り。人の命を奪う武器の香りが、死と隣り合わせであることを嫌でも感じさせる。
悲鳴が、銃声が、怒号が。騒音として耳を痛ませ、心から落ち着きや冷静さを奪い、不安を煽る。
怪我と疲労で身体じゅうが痛む。
疲労困憊して口で息をしているところに、砂埃が舞う。ただでさえ乾ききっていた口の中に、砂の味が広がる。
視覚が、聴覚が、嗅覚が、味覚が、痛覚が、精神が…全てが、不快を訴えていた。
僕の心身は限界に近く、前線から少し離れた塹壕に蹲って震えていた。
宗教における解釈の違いから起こった戦争。
お互いに人を救うための教えを説いているくせに、考え方の違いからお互いの兵士に苦痛を与える結果となっている。
いや、苦痛を強いられているのは民間人も例外ではない。
何が宗教だ……戦争の元となったそれに恨みさえ抱きながら、僕は震えていた。
そうしている内に、少しづつ騒音が遠ざかる。僕のいる塹壕から、戦線が離れていっているのだろう。
「……大丈夫か?」
不意に隣から声をかけられて、僕は顔を上げた。一緒に兵士として戦うことになった、昔からの友達。
いつからそこにいたのか気付かなかったが、彼は真剣な表情で僕の顔を覗き込んでいた。
「……大丈夫なわけ、ないだろう!」
僕は苛立ちを彼にぶつけた。
彼は何も悪くない。こんな状況でも落ち着いている彼に、甘えているだけだとわかってはいる。
それでも……僕は彼に甘え、苛立ちをぶつけずにはいられなかった。
「もう嫌だ、何が戦争だ! これだけの人が殺されて、自分だっていつ死ぬかわからない!
宗教戦争? 聖戦? 人を救うのが宗教だっていうなら、一体なんだってこんなことをしなきゃいけないんだ!!」
「……“全ては無駄ではない”」
感情に任せて叫んだ僕に、彼は静かに答える。
“全ては無駄ではない”。僕らの国で信じられている宗教の、根本的な教え。
では“何かを無駄であるとすること”は、無駄なのかどうか……
そんな解釈の違いから派閥が生まれ、国が分かれた。そしてお互いにそんなやり方では人を救えないと責め合い、最終的にこの戦争が始まった。
彼は熱心な信徒だ。そんな彼の言葉でさらに苛立ちと悔しさが募り、涙が溢れる。
「無駄じゃない? どこが無駄じゃないって言うんだ! 戦争が起こらなければ死ななかったはずの人が、戦争によって死んでいく!
戦争さえなければ、こんな苦しみを味わうこともなかった! コレのどこが無駄じゃないっていうんだ! どうしてそんなに落ち着いていられるんだ!」
泣きじゃくりながらまくし立てる僕を相手に、やはり彼は落ち着いていた。
「確かに多くの尊い命が失われてしまった。
けれど、この戦争に勝って自分たちの教義で世界を統一することが出来れば、より多くの人が救われるかもしれない。
あるいは全力で戦うことで早く争いを治めることが出来れば、被害は最小限で済むかもしれない。
それに例えこうして争うことが、本当に全て間違いだったとしても……
後世に戦争の悲惨さを伝え、間違いを示し、反面教師になることが出来るだろう。
全ては、無駄なんかじゃない。どんな結末になっても自分の人生が無駄だったとは思わないし、ここで死ぬことが無駄だとも思わないよ」
そう語る彼の目に、迷いは無かった。
いつもそうだった。彼は宗教の教義を盲信することなく、吟味した上で自分の信念にしていた。
ただの受け売りとは違う。それ故にどんな状況でも応用して考えることが出来たし、それに従って生きていた。迷うことなく、真っ直ぐに。
この戦争についてもそうだ。彼はこの戦争の裏に政治的な利害や思惑が働いているのではないかと主張し、最後まで迷うことなく反対していた。
宗教は皆を幸せにするためにある、教義の違いで戦争なんてバカげている、政治家に踊らされてはいけないと。
しかしもはや止められないと知ってからは、やはり迷うことなく最善の選択として戦うことを選んだ。せめて被害を最小限に抑えるための戦いを、と。
どんな時でも常に状況に応じて自分が最善だと思える選択をし、常に全てが無駄にならないと信じる……それが、彼の生き方だった。
そんな彼の生き方が間違いだとは思わない……むしろ羨ましく思うことさえあった。
けれど僕は信念や教義に従うことより、迷いを抱くことより、何より……死ぬのが怖かった。
「キミは、ここで争うのは無駄だと思っているし、死ぬのは嫌だと思っているんだろう? そう思うことも、無駄じゃない」
僕の心を見透かしたかのように、彼が言う。そして軍服のポケットから地図を出して地面に広げた。
戦場の地図。それを指しながら、状況を説明し始める。
「ボクらがいるのはこの辺り。敵軍はこちらから攻めていて、味方はこういう風に陣を展開している。
……こちらに行けば、敵にも味方にも遭わずに戦場を抜けられる」
「……!!」
「しかしそうすると自国にも敵国にも居場所はなくなるだろう。けれど、さらにこちらに行けば……」
彼は地図の端まで指を滑らせ、その外側を示した。
「どちらの国とも関係の無い集落が有る。彼らは友好的で穏やかな部族だ、きっと受け入れてもらえるだろう。そこまで行けば、君は生きられる。
もっとも、無事に山脈を越えることが出来ればだけど……例え山脈の中に倒れることになったとしても、戦場よりは静かな安らぎの中に逝けるんじゃないかな」
試してみることは無駄じゃない、そう言って彼は微笑んだ。
「何で……? 君は戦争に勝とうとしているのに、僕をあえて逃がすようなことを……?」
「友達が死にたくないと震えているんだ、叶えてあげたいと思うのが愛っていうものだろう? 愛なんて言葉、こんな時でもなければ照れくさくて使わないけどね」
そう言って彼はおどけて笑って見せる。しかし彼は分かっているのだ。これが、最後の会話になるかもしれないことを。
「……一緒に、逃げないか?」
「それは、出来ないよ。ここで未来のために戦うことが、ボクの信じる道だから」
「……ここで逃げるのだって、無駄じゃない。そうだろう?」
「確かにそうだ。その通りだ。けれど色々なことを考えた結果、ボクの心はどうしようもない程に、ここで戦えと言っている。
それもまた、無駄にはならない。例え戦争に負けるとしてもね。だからきっとそうすることが、神の御意志なんだよ」
僕は迷った。ここで逃げるのは、友を見捨てて逃げることであるような気がして。
そんなことをしたら、一生後悔することになるような気がして。
しかしそんな迷いを笑い飛ばすかのように、彼は僕に微笑みかける。
「心配は要らない。今生の別れになるかもしれないけれど、お互いに満足出来る道に進むだけだ。
人間、いつかは別れる時が来る。別れも告げずに突然居なくなるより、ずっと良い別れ方だと思う。離れ離れになってしまうけれど……
キミが無事生き延びられることを、祈っているよ」
もしも生き延びることが出来たら、また会いに行くさ。そう言って覚悟を決めて微笑む彼に、僕は頷くことしか出来なかった。
「僕も、君が戦場で生き延びることを祈っているよ」
武運を。互いにそう言って、互いに拳をぶつけ合う。
迷い無く戦場へ戻る彼を見送ってから、僕は迷いながらも戦場を後にした。
* * * *
戦場を出たからと言って、僕の戦いは終わらなかった。
そこにあったのは、山を抜けられるかどうかの戦い、そして自分自身の葛藤との戦いだった。
道に迷い、何度もこのまま死ぬのではないかと思った。
逃げることそのものに迷いを抱き、何度もやはり戦場に戻ろうかと考えた。
自分は国を、友を捨てて逃げたのだという罪悪感が津波のように押し寄せ、僕の心を翻弄する。
けれども戦場に戻ることも彼の好意を無駄にする行為である気がして、迷いながらも前へ進むよう足を動かした。
……そうして何日間、歩き続けただろう。
運よく見つけた沢で水を補給し、木の葉を毟って腹を満たしながら、いくつかの山を越えた。
ひと際高い山を登り、山頂からの景色を見下ろした時……
僕は、泣いていた。自然に口から声が漏れ、とめどなく涙が溢れる。
人の家が、異国の集落が、そこにあった。
* * * *
あれから、十年以上の月日が流れた。
僕は無事に安全な集落へとたどり着き、そこの人達から受け入れられた。
今では結婚して子供もいる身だ。娘はようやく言葉らしきものを喋るようになり、妻は子育てに、僕は仕事に追われている。忙しいながらも、平和な日々だ。
……彼は未だに、訪ねては来ない。
僕らの国は戦争に負け、軍は全滅だったらしいと聞いている。
おそらく、生きてはいないだろう。
他に逃げてきた兵士は居ない。戦争が始まる前から、僕の周りに“国を捨てる”という発想を持つ人間は居なかった。
誰もが生まれた国で過ごすことが常識だと思っている中で、そんな発想を口にしたのは彼くらいのものだ。
国を捨てて生きる可能性も考えることや、世界の地理を調べること、他の部族のことを知ること……
その全てを無駄だと思わず考え学んだ彼だからこそ、僕を逃がすことが出来たのだろう。
きっと戦争に負けることも、死ぬことさえ、彼には想定の範囲内だったに違いない。
今でも思う。これで良かったのだろうかと。
彼は迷いの無い人生を送り、恐らく一片の悔いも残さずに死んだだろう。
短いながらも、満足できる人生を歩んだことだろう。
僕は、どうだろうか。
僕の人生は物心ついた頃から、苦悩と迷いの連続だった。
彼が迷い無く進学を決めた傍らで、僕は散々迷いながら進学を諦めた。
彼が苦悩することなく戦場に向かう傍らで、僕は苦悩しながら戦場に駆り出された。
今でもそうだ。日々迷い、苦悩しながら生きている。
毎日が満ち足りた楽しいものであるかと問われれば、とても素直に頷くことは出来ない。
もしかしたら、僕も彼のように生きるべきだったのではないだろうか。
僕もあの時、死んでおくべきだったのではないだろうか。
あるいは、彼を昏倒させてでも一緒に連れて逃げるべきだったのではないだろうか。
苦悩に満ちた僕よりも、迷い無く生きた彼の方が、良い人生を送っていたのではないだろうか……
そんな迷いに満ちた自問自答を繰り返す僕の耳に、娘の声が聞こえてくる。
そちらに目を向けると、愛する妻と娘の姿が目に映った。
“全てが無駄ではない。だから、全てが間違いなんかじゃない。君の人生も、全部正解だよ”
そんな彼の声が、聞こえた気がした。
END
元は人だったものがただの肉塊となり、あちこちに転がっている。もはや木や石と同じ、どこでも見かける風景の一部であるかのようだ。
腸から撒き散らされた糞便や、死体から流れる血の臭い。新鮮なものから腐臭となったものまで全てが交じり合い、呼吸をするだけで吐き気を催す。
銃器から放たれる火薬の香りや、無機質な鉄の香り。人の命を奪う武器の香りが、死と隣り合わせであることを嫌でも感じさせる。
悲鳴が、銃声が、怒号が。騒音として耳を痛ませ、心から落ち着きや冷静さを奪い、不安を煽る。
怪我と疲労で身体じゅうが痛む。
疲労困憊して口で息をしているところに、砂埃が舞う。ただでさえ乾ききっていた口の中に、砂の味が広がる。
視覚が、聴覚が、嗅覚が、味覚が、痛覚が、精神が…全てが、不快を訴えていた。
僕の心身は限界に近く、前線から少し離れた塹壕に蹲って震えていた。
宗教における解釈の違いから起こった戦争。
お互いに人を救うための教えを説いているくせに、考え方の違いからお互いの兵士に苦痛を与える結果となっている。
いや、苦痛を強いられているのは民間人も例外ではない。
何が宗教だ……戦争の元となったそれに恨みさえ抱きながら、僕は震えていた。
そうしている内に、少しづつ騒音が遠ざかる。僕のいる塹壕から、戦線が離れていっているのだろう。
「……大丈夫か?」
不意に隣から声をかけられて、僕は顔を上げた。一緒に兵士として戦うことになった、昔からの友達。
いつからそこにいたのか気付かなかったが、彼は真剣な表情で僕の顔を覗き込んでいた。
「……大丈夫なわけ、ないだろう!」
僕は苛立ちを彼にぶつけた。
彼は何も悪くない。こんな状況でも落ち着いている彼に、甘えているだけだとわかってはいる。
それでも……僕は彼に甘え、苛立ちをぶつけずにはいられなかった。
「もう嫌だ、何が戦争だ! これだけの人が殺されて、自分だっていつ死ぬかわからない!
宗教戦争? 聖戦? 人を救うのが宗教だっていうなら、一体なんだってこんなことをしなきゃいけないんだ!!」
「……“全ては無駄ではない”」
感情に任せて叫んだ僕に、彼は静かに答える。
“全ては無駄ではない”。僕らの国で信じられている宗教の、根本的な教え。
では“何かを無駄であるとすること”は、無駄なのかどうか……
そんな解釈の違いから派閥が生まれ、国が分かれた。そしてお互いにそんなやり方では人を救えないと責め合い、最終的にこの戦争が始まった。
彼は熱心な信徒だ。そんな彼の言葉でさらに苛立ちと悔しさが募り、涙が溢れる。
「無駄じゃない? どこが無駄じゃないって言うんだ! 戦争が起こらなければ死ななかったはずの人が、戦争によって死んでいく!
戦争さえなければ、こんな苦しみを味わうこともなかった! コレのどこが無駄じゃないっていうんだ! どうしてそんなに落ち着いていられるんだ!」
泣きじゃくりながらまくし立てる僕を相手に、やはり彼は落ち着いていた。
「確かに多くの尊い命が失われてしまった。
けれど、この戦争に勝って自分たちの教義で世界を統一することが出来れば、より多くの人が救われるかもしれない。
あるいは全力で戦うことで早く争いを治めることが出来れば、被害は最小限で済むかもしれない。
それに例えこうして争うことが、本当に全て間違いだったとしても……
後世に戦争の悲惨さを伝え、間違いを示し、反面教師になることが出来るだろう。
全ては、無駄なんかじゃない。どんな結末になっても自分の人生が無駄だったとは思わないし、ここで死ぬことが無駄だとも思わないよ」
そう語る彼の目に、迷いは無かった。
いつもそうだった。彼は宗教の教義を盲信することなく、吟味した上で自分の信念にしていた。
ただの受け売りとは違う。それ故にどんな状況でも応用して考えることが出来たし、それに従って生きていた。迷うことなく、真っ直ぐに。
この戦争についてもそうだ。彼はこの戦争の裏に政治的な利害や思惑が働いているのではないかと主張し、最後まで迷うことなく反対していた。
宗教は皆を幸せにするためにある、教義の違いで戦争なんてバカげている、政治家に踊らされてはいけないと。
しかしもはや止められないと知ってからは、やはり迷うことなく最善の選択として戦うことを選んだ。せめて被害を最小限に抑えるための戦いを、と。
どんな時でも常に状況に応じて自分が最善だと思える選択をし、常に全てが無駄にならないと信じる……それが、彼の生き方だった。
そんな彼の生き方が間違いだとは思わない……むしろ羨ましく思うことさえあった。
けれど僕は信念や教義に従うことより、迷いを抱くことより、何より……死ぬのが怖かった。
「キミは、ここで争うのは無駄だと思っているし、死ぬのは嫌だと思っているんだろう? そう思うことも、無駄じゃない」
僕の心を見透かしたかのように、彼が言う。そして軍服のポケットから地図を出して地面に広げた。
戦場の地図。それを指しながら、状況を説明し始める。
「ボクらがいるのはこの辺り。敵軍はこちらから攻めていて、味方はこういう風に陣を展開している。
……こちらに行けば、敵にも味方にも遭わずに戦場を抜けられる」
「……!!」
「しかしそうすると自国にも敵国にも居場所はなくなるだろう。けれど、さらにこちらに行けば……」
彼は地図の端まで指を滑らせ、その外側を示した。
「どちらの国とも関係の無い集落が有る。彼らは友好的で穏やかな部族だ、きっと受け入れてもらえるだろう。そこまで行けば、君は生きられる。
もっとも、無事に山脈を越えることが出来ればだけど……例え山脈の中に倒れることになったとしても、戦場よりは静かな安らぎの中に逝けるんじゃないかな」
試してみることは無駄じゃない、そう言って彼は微笑んだ。
「何で……? 君は戦争に勝とうとしているのに、僕をあえて逃がすようなことを……?」
「友達が死にたくないと震えているんだ、叶えてあげたいと思うのが愛っていうものだろう? 愛なんて言葉、こんな時でもなければ照れくさくて使わないけどね」
そう言って彼はおどけて笑って見せる。しかし彼は分かっているのだ。これが、最後の会話になるかもしれないことを。
「……一緒に、逃げないか?」
「それは、出来ないよ。ここで未来のために戦うことが、ボクの信じる道だから」
「……ここで逃げるのだって、無駄じゃない。そうだろう?」
「確かにそうだ。その通りだ。けれど色々なことを考えた結果、ボクの心はどうしようもない程に、ここで戦えと言っている。
それもまた、無駄にはならない。例え戦争に負けるとしてもね。だからきっとそうすることが、神の御意志なんだよ」
僕は迷った。ここで逃げるのは、友を見捨てて逃げることであるような気がして。
そんなことをしたら、一生後悔することになるような気がして。
しかしそんな迷いを笑い飛ばすかのように、彼は僕に微笑みかける。
「心配は要らない。今生の別れになるかもしれないけれど、お互いに満足出来る道に進むだけだ。
人間、いつかは別れる時が来る。別れも告げずに突然居なくなるより、ずっと良い別れ方だと思う。離れ離れになってしまうけれど……
キミが無事生き延びられることを、祈っているよ」
もしも生き延びることが出来たら、また会いに行くさ。そう言って覚悟を決めて微笑む彼に、僕は頷くことしか出来なかった。
「僕も、君が戦場で生き延びることを祈っているよ」
武運を。互いにそう言って、互いに拳をぶつけ合う。
迷い無く戦場へ戻る彼を見送ってから、僕は迷いながらも戦場を後にした。
* * * *
戦場を出たからと言って、僕の戦いは終わらなかった。
そこにあったのは、山を抜けられるかどうかの戦い、そして自分自身の葛藤との戦いだった。
道に迷い、何度もこのまま死ぬのではないかと思った。
逃げることそのものに迷いを抱き、何度もやはり戦場に戻ろうかと考えた。
自分は国を、友を捨てて逃げたのだという罪悪感が津波のように押し寄せ、僕の心を翻弄する。
けれども戦場に戻ることも彼の好意を無駄にする行為である気がして、迷いながらも前へ進むよう足を動かした。
……そうして何日間、歩き続けただろう。
運よく見つけた沢で水を補給し、木の葉を毟って腹を満たしながら、いくつかの山を越えた。
ひと際高い山を登り、山頂からの景色を見下ろした時……
僕は、泣いていた。自然に口から声が漏れ、とめどなく涙が溢れる。
人の家が、異国の集落が、そこにあった。
* * * *
あれから、十年以上の月日が流れた。
僕は無事に安全な集落へとたどり着き、そこの人達から受け入れられた。
今では結婚して子供もいる身だ。娘はようやく言葉らしきものを喋るようになり、妻は子育てに、僕は仕事に追われている。忙しいながらも、平和な日々だ。
……彼は未だに、訪ねては来ない。
僕らの国は戦争に負け、軍は全滅だったらしいと聞いている。
おそらく、生きてはいないだろう。
他に逃げてきた兵士は居ない。戦争が始まる前から、僕の周りに“国を捨てる”という発想を持つ人間は居なかった。
誰もが生まれた国で過ごすことが常識だと思っている中で、そんな発想を口にしたのは彼くらいのものだ。
国を捨てて生きる可能性も考えることや、世界の地理を調べること、他の部族のことを知ること……
その全てを無駄だと思わず考え学んだ彼だからこそ、僕を逃がすことが出来たのだろう。
きっと戦争に負けることも、死ぬことさえ、彼には想定の範囲内だったに違いない。
今でも思う。これで良かったのだろうかと。
彼は迷いの無い人生を送り、恐らく一片の悔いも残さずに死んだだろう。
短いながらも、満足できる人生を歩んだことだろう。
僕は、どうだろうか。
僕の人生は物心ついた頃から、苦悩と迷いの連続だった。
彼が迷い無く進学を決めた傍らで、僕は散々迷いながら進学を諦めた。
彼が苦悩することなく戦場に向かう傍らで、僕は苦悩しながら戦場に駆り出された。
今でもそうだ。日々迷い、苦悩しながら生きている。
毎日が満ち足りた楽しいものであるかと問われれば、とても素直に頷くことは出来ない。
もしかしたら、僕も彼のように生きるべきだったのではないだろうか。
僕もあの時、死んでおくべきだったのではないだろうか。
あるいは、彼を昏倒させてでも一緒に連れて逃げるべきだったのではないだろうか。
苦悩に満ちた僕よりも、迷い無く生きた彼の方が、良い人生を送っていたのではないだろうか……
そんな迷いに満ちた自問自答を繰り返す僕の耳に、娘の声が聞こえてくる。
そちらに目を向けると、愛する妻と娘の姿が目に映った。
“全てが無駄ではない。だから、全てが間違いなんかじゃない。君の人生も、全部正解だよ”
そんな彼の声が、聞こえた気がした。
END
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